松戸市大谷口にある小金城跡へ行って来ました。
「小金城は、標高20mほどの丘陵地帯にあり、古利根川、中川、荒川流域の低地帯を一望できる場所である。
城域は東西800m、南北600mにおよび、12もの郭を備えて、当時の下総国北西部においては最大規模を誇った
平山城である。大谷口城、開花城、とも呼ばれる。」との事です。
新坂川沿いから上流を目指しました。

名前の分からない花が。

御衣黄桜(ギョイコウサクラ)は実を付けていました。

この桜は花びらが散っても萼(がく)が残っていました。

キューイの実。


新松戸駅前で新坂川と別れました。
新松戸駅から15分ほどの所に大きな枝垂れ桜の木がありました。

花が咲く頃に来たいですね。
さらに、15分ほどで。小金城趾がある森が見えました。

小金城趾がある大谷口歴史公園に着きました。



虎口門(金杉口跡)。





対面側から。

削り跡。

広場に出ました。ここが本丸跡のようです。



小金城は、南北600m,東南800m、高低差15mあったとの事です。広いですね。

赤字が現在地です。ほとんどが宅地となっています。

土塁。



畝堀。


この後、小金城内にあっとされる「大谷口神明神社」へ向いました。
「大谷口神明神社は、天文6年(1537)に高城胤吉が小金城内に鎮守として創建、その後城内地に祀られていた熊野神社、
香取神社を合祀した」と事です。
見つけられず時間をだいぶロスしました。

石像。

宝永四年(1707年)と刻まれていました。
宝永四年は、富士山の宝永大噴火があった年です。
また、その時の将軍は徳川吉宗でした。
ここから帰る事にしました。
神社から5分ほどの所に小金城跡の看板がありました。

帰る途中。
名前の分からない花が。

ハナミズキ。

アエオニウム黒法師。

行程地図。

大谷口歴史公園内には誰もいませんでした。
今日は晴天で、気温は24℃もありましたが、風があったので助かりました。
16,000歩強の歩きでした。
「小金城は、標高20mほどの丘陵地帯にあり、古利根川、中川、荒川流域の低地帯を一望できる場所である。
城域は東西800m、南北600mにおよび、12もの郭を備えて、当時の下総国北西部においては最大規模を誇った
平山城である。大谷口城、開花城、とも呼ばれる。」との事です。
新坂川沿いから上流を目指しました。

名前の分からない花が。

御衣黄桜(ギョイコウサクラ)は実を付けていました。

この桜は花びらが散っても萼(がく)が残っていました。

キューイの実。


新松戸駅前で新坂川と別れました。
新松戸駅から15分ほどの所に大きな枝垂れ桜の木がありました。

花が咲く頃に来たいですね。
さらに、15分ほどで。小金城趾がある森が見えました。

小金城趾がある大谷口歴史公園に着きました。



虎口門(金杉口跡)。





対面側から。

削り跡。

広場に出ました。ここが本丸跡のようです。



小金城は、南北600m,東南800m、高低差15mあったとの事です。広いですね。

赤字が現在地です。ほとんどが宅地となっています。

土塁。



畝堀。


この後、小金城内にあっとされる「大谷口神明神社」へ向いました。
「大谷口神明神社は、天文6年(1537)に高城胤吉が小金城内に鎮守として創建、その後城内地に祀られていた熊野神社、
香取神社を合祀した」と事です。
見つけられず時間をだいぶロスしました。

石像。

宝永四年(1707年)と刻まれていました。
宝永四年は、富士山の宝永大噴火があった年です。
また、その時の将軍は徳川吉宗でした。
ここから帰る事にしました。
神社から5分ほどの所に小金城跡の看板がありました。

帰る途中。
名前の分からない花が。

ハナミズキ。

アエオニウム黒法師。

行程地図。

大谷口歴史公園内には誰もいませんでした。
今日は晴天で、気温は24℃もありましたが、風があったので助かりました。
16,000歩強の歩きでした。
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