2015年11月17日。
前日の夜、ドジをやってしまいました。カーナビのデータの1日目と2日目とが残っているとウザイので消そうして、
全てのデータを消してしまいました。ガビョン~!!。明日からは、簡単に作った宿場間の地図が頼りです。トホホ。。。
それと雨が強く降りそうです。
ここからの旧中山道は、国道21号線か県道を走ることが多く、また、昔の面影の物も少なく、カーナビデータがないので
城を中心に攻めることにしました。
初めに犬山城へ向いました。
左側に次の太田宿が書かれています。
犬山城です。手前は木曽川です。犬山城は、国宝で天守閣、石垣が現存しています。
しかし、入場は9時からのことで、1時間半待たねばならないので断念しました。
2013年に大学時代の同級生と来ているので諦めました。
52番目の鵜沼宿に着きました。51番目の太田宿を抜いてしまいました。
鵜沼は、東山道時代から宿駅が置かれ、交通・経済の要衝地であった。明治24年(1891)の濃尾地震で大きな被害を
受けたため趣きのある古民家は少ないが、それでも街道沿いに数棟見られる。とのことです。
鵜沼宿本陣跡
鵜沼宿と松尾芭蕉の関わりのある句碑がありました。
鵜沼宿脇本陣。
町家です。江戸時代のものが1棟、明治時代のものが2棟、昭和初期のものが1棟でした。
間の宿新加納。
鵜沼宿と加納宿の間は4里10町(約17キロ)と長いため、立て場茶屋という少休止所がここ新加納に設けられていました。
新加納立場。
国史跡加納城跡があったので寄って見ました。野面積み石垣が現存しています。
「鵜沼宿」を出ると中山道は国道21号線と重なり、ほとんど面影を残していません。とのことです。
53番目の加納宿。
加納宿は、加納城の城下町として発展し旅籠35軒、戸数800余、人口2700人余という大きな宿場であった。とのことです。
加納宿脇本陣跡。
加納宿本陣跡。
先ほどの加納宿があった道は一方通行で進めないので、岐阜城を目指しました。
岐阜城は、金華山ロープウェイを利用します。
岐阜城は、斎藤道三、織田信長の名が浮かびます。石垣の一部が現存しています。
長良川です。
木が邪魔して表面からの撮影は出来ませんでした。
この後、54番目河渡宿(河渡宿)と55番目美江寺宿(みえじじゅく)は寄らず大垣城を目指しました。
大垣城は、石垣の一部が現存しています。
明治29年の洪水の浸水位を示す標柱が立っていました。石垣にも印がありました。
56番目の赤坂宿。
赤坂宿御使者場跡と兜塚がありました。
すぐ先に踏切跡があり線路が残っていました。これは、貨物線の廃線跡で、平成18年に廃止になった西濃鉄道昼飯線で、
約1.9Kmの石灰石輸送専用線であった。とのことです。
中山道の標。
57番目の垂井宿(たるいじゅく)。
垂井宿は、美濃一宮(南宮大社)の門前町として賑わった。また、中山道と東海道を結ぶ美濃路との追分宿としても
賑わっていた。とのことです。
この後、14時40分頃から激しい雨となりました。
ここで断念し、関ヶ原決戦地寄って見ました。凄い雨で外に出れません。
武将陣営。
この日は、ここまでとし、今晩の宿泊先、琵琶湖のそばの「道の駅近江母の郷」へ向いました。
その前に彦根城へ寄って見ましたが、見学時間が短いで、明日見学することにしました。
旧中山道は、ここで終了し、明日は、彦根城を見学した後、東海道を利用して帰ることにしました。
午前中も雨がパラツキ、そして激しい雨に見舞われました。
3日目の走りは、126kmでした。