ていいち日記

日々の出来事を書き込みます。

スーパームーン。。

2015年09月28日 | 日記
今日はスーパームーンでした。

スーパームーンとは、1年のうちに月の地球への最接近と満月が重なる事とのです。
今日は、久し振りに晴天でした。お陰で、この月が見えました。
大きな満月です。


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第18回小さい防塵挺身隊。。

2015年09月26日 | 清掃活動
NPO水辺基盤協会主催の小さい防塵挺身隊に参加して来ました。
ボーイスカウトの会議が重なって、今年初めての防塵挺身隊への参加です。
小さい防塵挺身隊というのは、臨時の少人数の霞ヶ浦でのゴミ拾いです。
しかし、18名が参加しました。意識が高いですね。

今回の場所は、水辺基盤協会事務所そばの霞ヶ浦護岸です。



草の中のゴミ拾い。
拾う前。

拾った後。

藪の中に入るのには、このフェースガードを付けました。

岸際の流れ着いた木や竹の処理。

綺麗になりました。これでアシを守れます。

岸辺に上げました。

先日の大雨の影響で岸辺にまでゴミが流れ着いていました。

2時間ほどのゴミ拾いの後、皆で分別です。

相変わらず多い「鷲のマークのドリンク瓶」、「ボール」、「ライター:50個以上」、「薬品の容器」。

燃えるゴミ・ペットボトル等合わせて60袋以上でした。それ以外に、掃除機・扇風機が、どんな気持ちで捨てているんで
しょうか?



筑波山が雲に隠れていました。

近くの砂利回収場。

吸い上げて砂・砂利・石とに分別しています。

事務所のフェンスには、アケビの実が。





甘くて美味しかったです。

風がなく、蒸し暑くて大汗をかいてしましました。
久し振りのゴミ拾いは、疲れましたが、楽しかったです。
昼食を食べながらのお喋りも可笑しく笑いが絶えず楽しかったです。


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旧中仙道②。。

2015年09月22日 | 旅行
2015年9月21日。
長久保宿からの続きです。
●和田宿(第28)
「上り二里半、下り 二里半という中仙道最大の難所である和田峠を控え、継ぎ立てにあたる伝馬役、歩行役の苦労は並大抵では
なかった。また、次の宿場である下諏訪宿まで五里拾八丁と遠かったことから宿泊客が多かった。文久元年(1861)十一月の
和宮通行の際には、4日間にのべ8万人が通っていたとのこと。」











和田峠そば扉峠からの雲海です。

さらに、そのそばの三峰茶屋。







この次が和田峠ですが、和田峠は車ではいけません。

旧中仙道の和田峠越えの道。

当時は、もっと整備されていたと思いますが、難所です。この道を利用して和田峠を越え江戸へ向かったんですね。


●下諏訪宿(第29)
「難所であった和田峠の西の入口として、諏訪大社下社(しもしゃ)の門前町として栄えた。また、甲州街道の
終点でもあり、45軒の旅籠があった。古くは鎌倉時代から温泉の利用が確認されており、中山道唯一の温泉の
ある宿場である。」







諏訪大社下社秋宮へ寄りました。ここは3度目になります。





御柱。


●塩尻宿(第30)
「慶長19(1614)年、松本城主・小笠原秀政が中山道洗馬宿と北国街道を結ぶため、善光寺街道(北国脇往還)を
整備したときにできた宿の一つ。中山道の中でも最も旅籠の多い宿場として、最盛期には70軒を超える旅籠が
あった。」










洗馬宿(せばしゅく)へ向かう途中に一里塚がありました。






●洗馬宿(第31)
「「右中山道、左北国脇往還善光寺道と記された道標が立ち、二つの街道の分岐点として栄えた。」













●本山宿(第32)
「木曽路の入り口、松本平の出口として栄えた。出格子の二階建ての家が立ち並び、今でも当事の面影が色濃く
残っており、蕎麦切り発祥の地として紹介された。」





右から、川口屋・池田屋・若松屋。








贄川宿(にえかわしゅく)へ向かう途中に一里塚が、国道19号線沿いにありました。


●贄川宿(第33)
「木曽福島関所の副関として幕府から指定された贄川番所が置かれ、明治2年(1869)に関所が廃止されるまで続いた。
昭和5年の大火で古い町並みの大部分が焼失したが、上町の一部の鍵の手付近が昔の面影を残している。」







これ1軒で3棟。凄い作りです。


奈良井宿へ向かう途中の「漆器の町木曽平沢」の町並みです。昔の面影が残る静かな佇まいです。


●奈良井宿(第34)
「木曽路11宿の中で北から2番目にあたり、上町・中町・下町の3つの街区から構成されている。難所の鳥居峠を
控え、杉玉を掲げた酒屋、軒灯りの旅籠、千本格子の家々が軒を連ね、そのにぎわいは「奈良井千軒」といわれ
たほどだった。」
観光スポットなだけに祭日なので駅前の駐車場は満杯。

近くにある道の駅へ行ったが、大渋滞で諦めました。
奈良井宿は10年以上前に来て古い旅館に宿泊しています。

鳥居峠へ車で行ける所まで行って見ました。

奈良井からここへ鳥居峠超えで来れます。歩いていた人に聞くと2時間弱で来れるとのことです。
微かに「中山道」と刻まれています。


「道の駅木曽川源流の里きそむら」で昼食にしました。

●薮原宿(第35)
「戦国時代に木曽義昌が木曽11宿を定めたころより宿として利用されていた。その後、慶長6年(1601)に中山道
宿駅が制定され、薮原宿も中山道の宿駅として指定され整備が進められた。また、薮原宿は高山へ向かう飛騨
街道奈川道の分岐点としても賑わった。」
今は、明治期の大火で町並みの大半が焼失し、また、建物の改修が進み当時の面影が失われつつあるが、
現在もなお防火用高塀の石垣など、往時の町並みが残されている。







これが、防火用高塀の石垣です。






13時30分。今回は、ここで終わりとしました。
浦和宿から約340km。

この後、帰宅するには渋滞が予想されるので、山梨県北杜市の「道の駅はくしゅう」に泊まることにしました。
権兵衛峠を越えて伊那・高遠を経由し国道20号線で向いました。
権兵衛トンネルが出来て権兵衛峠越えせずに行けるのですが、権兵衛峠へと向いました。
しかし、権兵衛峠近くで道が閉鎖されていました。

米の道というのがあるのですね。

権兵衛トンネルへ戻り「はくしゅう」へと向かいました。
1つ手前の「道の駅信州蔦木宿」に日帰り温泉があったので寄りました。
駐車場は満杯です。しかし何とか駐車し風呂を利用しました。

「道の駅はくしゅう」も、スーパーがあるために混雑していました。


翌日は、6時前に出発し帰って来ました。早く出たので渋滞は免れました。
「道の駅はくしゅう」に泊まった夜に雨が降りましたが、それ以外は天候に恵まれました。

旧中仙道六十九次、薮原宿の次、宮ノ越宿から京都まで。また、日本橋から板橋宿・蕨宿は何時になるかです。
日本橋から板橋宿・蕨宿までは歩こうかと思っています。

自宅から自宅まで、620km。走りました。。。


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旧中仙道①。。

2015年09月22日 | 旅行
2015年9月20日から22日。
旧中仙道をドライブで巡って来ました。
浅田次郎原作の「一路」(中仙道の終点に近い西美濃の国元から参勤行列で試練を乗り越えて中仙道を利用して江戸へ向かう)が
NHK・BSプレミアムで放送されており、それを家内が見ていて旧中仙道を巡りたいとのことで行って来ました。
出発は、東京外環自動車道に近い浦和宿(日本橋から第3宿)からとしました。(わが家から外環道が近いので。。)
9月20日。
●浦和宿(第3)
「旅籠が15軒と少ないが月に6回の市が開かれ賑わった。」
浦和宿碑を探しましたが見つからず通り過ぎました。
●大宮宿(第4)
「最盛期には本陣1軒、脇本陣9軒と賑わったが、今は史跡がほとんど残っていない。」
ここも通り過ぎました。
●上尾宿(第5)
「安政7年(1860)の大火とその後の火事で焼失し往時の面影はない。」
案内板がありました。

●桶川宿(第6)
「江戸時代に最上地方に次ぐ紅花の大生産地で多くの富と文化をもたらした。」
宿場時代の面影が残ってしました。











●鴻巣宿(第7)
「江戸中期には、ひな人形の生産地として、関東三大雛市の一つに数えられていた。」
これしか気が付きませんでした。

●熊谷(第8)
「天保年間には本陣2軒、脇本陣1軒、旅籠42軒、人口3000人を超え大きな宿場へと発展したが、昭和20年の空襲で大半が焼
けてしまい当時の面影の多くは焼失してしまった」
碑となるものを探せず通り過ぎました。

深谷宿との間にありました。



●深谷宿(第9)
「中山道で最大規模の宿場で、本陣1(飯島家)、脇本陣4、旅籠80余。商人が多く、また飯盛女も多く、遊郭もあり、江戸を
出立して2晩目の宿を求める人で大いに栄えた。」
ここも碑となるものを探せず通り過ぎました。
●本庄宿(第10)
「武蔵国最後の宿場で、利根川の水運の集積地としての経済効果もあった。天保年間には人口4500人余、本陣2、脇本陣2、
旅籠70軒余と中山道の宿場の中で一番人口と建物が多い宿場であった。」
ここも碑となるものを探せず通り過ぎました。
●新町宿(第11)
「中山道の中で最も遅くできた宿場で、享保九年(1742)に落合新町と笛木新町両方合わせて新町宿とされた。本陣2、旅籠屋43軒と
かなりの規模であった。」
ここも碑となるものを探せず通り過ぎました。
●倉賀野宿(第12)
「江戸時代に入り中山道が整備されると、例幣使街道との追分の宿場町として、利根川の支流・烏川にあった河岸(かし)が物資輸送
の中継地となり、参勤交代の武士や旅人、町人ら多くの人でにぎわった。」
昔の面影があるとのことでしたが、これしか見つけることは出来ませんでした。

●高崎宿(第13)
「井伊直弼が城を構えた城下町で、上州路最大の賑わいを見せる宿場町となったが、 諸大名が御城下での宿泊を敬遠した ことから
本陣、脇本陣は置かれていなかった。」
ここは車が多く、碑となるものを探せず通り過ぎました。
●板鼻宿(第14)
「碓氷川の川止めが多く、中山道上州七宿の中では最大級の宿場であり、光明天皇の妹・和宮も宿泊した。」







●安中宿(第15)
「安中宿は本陣1、脇本陣2、旅籠屋17軒、宿内人口は348人と小さな宿場だった。」









●松井田宿(第16)
「宿内家数は252軒、うち本陣2軒、脇本陣2軒、旅籠14軒で宿内人口は1,009人。碓氷峠越えの商品や物資の中継地点として賑わった。」
五科の茶屋本陣、碓氷関所跡があるのですが、通り過ぎました。
●坂本宿(第17)
「中山道有数の難所であった碓氷峠の東の入口にあたり、本陣と脇本陣合わせて4軒、旅籠は最盛期には40軒と比較的大きな宿場で
あった。」




この後、徒歩での碓氷峠超えとなるのですが、車では行けないため、旧18号で軽井沢へと向いました。
めがね橋です。

●軽井沢宿(第18)
「中山道有数の難所であった碓氷峠の西の入口にあたり、六十九次で最も栄えた宿場であった。本陣と脇本陣合わせて5軒、旅籠は
最盛期には100軒近くあったとされ、数百人の飯盛女が働いていたという。」
軽井沢宿は、旧軽井沢にあったので、そちらへ、向いましたが、さすがに祭日とあって軽井沢銀座の当りから渋滞で進めず、
断念しました。

この後、食堂で昼食にしました。

●沓掛宿(第19)
「沓掛」の名は、難所であり荒天時は人も荷も足止めされた碓氷峠の入口であることに由来し、両隣の軽井沢宿および追分宿と共に
浅間三宿と呼ばれて栄えた。しかし1951年の大火で町の殆どを焼失したため、往時の様子を伝えるものは殆ど残っていない。その後
は1956年に沓掛駅が中軽井沢駅と改称し、地名も中軽井沢と改称した。」
中軽井沢も渋滞で、沓掛時次郎碑を見たかったのですが通り過ぎました。
●追分宿(第20)
「北国街道(北陸道)との分岐点でもあり「追分」の名はこれに由来する。元禄時代には旅籠屋71軒、茶屋18軒、商店28軒を数え、
飯盛女も最盛期には200~270人もいたとされるほど栄えた。」



●小田井宿(第21)
「大名は追分で宿をとり、姫君は小田井宿で泊まったことから「姫の宿」と言われる。皇女和宮がご降嫁の際に休憩されたことでも
知られる。」
現在も、千本格子の旅籠がいくつか残されいました。











●岩村田宿(第22)
「岩村田宿は小諸への街道、甲州への街道、下仁田への街道の分岐点であった為、交通の要衝地として重要な役割を果たした。
元禄十六年(1703年)に内藤氏によって岩村田藩が成立しますが、城下町であったため、本陣・脇本陣が設置されず、周辺の寺院が
本陣・脇本陣の機能を果たした。」
旧宿場街は商店街となっており、面影は見られませんでした。
●塩名田宿(第23)
「中山道で唯一千曲川と合流する宿場で、近郷無類の暴れ川と呼ばれる千曲川の氾濫に苦心しており、明治期になって舟をつないで
その上に板を架けて橋とする「船橋」方式がとられた。」





●八幡宿(第24)
「千曲川の西岸にあたり、対岸の塩名田宿との距離は1里もないが、川止めになったときの待機地として、また千曲川沿いの米の集散地
として江戸時代初期の慶長年間に整備された宿場である。」
通り過ぎました。
●望月宿(第25)
「8月の満月の日、朝廷へ名馬を納めたことから望月の名がついた。本陣跡には歴史民族資料館が建ち、かつての面影を残す脇本陣の
隣には、望月最古の建物である旅籠兼問屋も残っている。」














芦田宿へ向かう途中に一里塚跡がありました。




この近くに「茂田井の間宿」がありました。
「望月宿から芦田宿へと続く旧中山道の間の宿。望月宿と芦田宿で対応できない大通行の際に休憩処として機能を果たしていた。」
昔の面影が残った雰囲気の良い町並みでした。







●芦田宿(第26)
「宿内家数は80軒、うち本陣1軒、脇本陣2軒、旅籠6軒で宿内人口は326人の小規模の宿場であったが、難所であった笠取峠の東の
入口にあたり、笠取峠を行き来する旅人で賑わっていた。」



●長久保宿(第27)
「宿場の前後に笠取峠、和田峠の難所を控えていたことや、大門道、大内道、北国街道へ接する交通の要衝に位置していたことから
寛政(1789)以降、四十軒前後の旅籠屋があり、中山道信濃二十六宿のなかでは、塩尻宿に次ぐ数を誇った。」





高札です。

うだつです。



変わったうだつです。


20日はここでまでにし、今夜の宿泊場所「道の駅マルメの駅ながと」へと向ました。
この道の駅には、日帰り温泉があります。お風呂に入って車で一杯飲んで夕食を食べ翌日に備えました。
宿泊する車が100台以上でした。さすが連休です。
車だと見落としたり、行き過ぎで戻ったりと無駄が多いです。
また旧道は徒歩でしか行けない道もあり、また車で行けても脇道を探さなければならず、走り切るのも難しいです。
このまで浦和宿から約220kmほどの行程でした。














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孫が来ました。。

2015年09月19日 | 日記
2ケ月振りに孫が来ました。
息子の嫁さんの誕生日が近いのでケーキを用意しました。

近所の公園まで散歩。



言うことがおどけたりいっちょ前に話すようになりました。

背が2ケ月前より2cmも増えていました。
相変わらず良く食べます。元気に明るく育っています。

今日は少し蒸し暑く久し振りクーラーを入れました。
まともに日が出たのも久し振りでした。

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びわ酒。。

2015年09月16日 | 日記
漬けていたびわ酒を瓶詰めしました。
昨年の9月16日、丁度1年前に漬けてたものでした。
6ケ月位漬ければOKなのですが、以前からのものがまだあったので置き場所も考えて今日になりました。





コーヒーの濾過紙を使用して不純物を除くため濾します。

2升漬けて720mlの瓶4.5本の瓶詰めでした。2合ほどが蒸発したりびわの葉に吸収されたりしていました。
殺菌作用が強く、毎朝うがいし胃にも良いとのことで、そのまま飲んでいます。また切り傷にも使用しています。
口内炎も何度か口に2分ほど含むと治りました。

9月10日の大雨による河川決壊は凄かったですね。市川に住む社員も床上浸水したとのことでした。
気温も上がら、すっかり秋模様です。



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Breaker's高滝湖戦。。

2015年09月06日 | 釣り
Breaker's最終戦でした。
今回は、11名6艇です。

朝はガスっていました。

10時頃から太陽が差し暑くなって来ました。


6時半には二人でリミット3本を揃えましたが、その後は相方が1本。全て小バスで、結果は最下位6位。残念でした。
優勝は、特別参加(ビジター)の女性チームです。女性が4本デカイのを釣り、リミット3本で3840gとブッチ切りでした。

参りました。降参です。。

5戦中4戦の参加で総合成績は8位でしょうか。残念ですね。でも楽しめました。
来年も楽しみながら参戦したいと思います。



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高校の同期会。。

2015年09月06日 | 日記
2015年9月5日。
北海道室蘭栄高校の同期会があったので行って来ました。
場所は、小田急参宮橋駅そばです。
数え歳で大台、また卒後50年のお祝いも兼ねての開催でした。

東京へ出て来て50年になるんですね。なんかあっという間という感じです。
今回は44名の出席者でした。何名か北海道からも出席してくれました。何時の顔ぶれの同期生は元気でした。

同期会は2年毎に開催しています。幹事は、2クラスづつ交代で担当します。次回の2年後は私のクラスが幹事です。
過去2度幹事を経験していますが、名簿の見直し・場所決め・出欠の葉書・開催後の集合写真の郵送等等結構大変です。

翌6日は、Breaker'sの最終戦が高滝湖で開催され、夕方から出発するので、アルコールは、乾杯のビール1杯だけで
ウーロン茶で我慢し1次会で帰って来ました。




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ロボットが。。

2015年09月01日 | 日記
会社にロボットが来ました。

これを利用して何か商売を。。。
まだ動かしていません。
来週出社した時が楽しみです。



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甥の結婚式。。

2015年09月01日 | 旅行
2015年8月29日から31日。
甥の結婚式で札幌へ行って来ました。
29日は、お寺へ用事があったので、千歳でレンタカーを借りて室蘭へ。
苫小牧と白老の間のサービスエリアで見えた樽前山。

頂上に樽を伏せたような塊が。。

用事を終え千歳に戻りレンタカーを返して千歳駅そばのホテルルートインに泊まりました。
札幌のホテルは、30日開催の札幌マラソンの影響で2ケ月以前から満室です。
近くの居酒屋で夕食。
厚岸産の生牡蠣。(一個はちょっと噛じった後)

焼き牡蠣。

時期からかプリプリ感が足りなかったです。
秋刀魚の刺し身。

これは新鮮で美味しかった。
鳥のザンギ。

北海道では、醤油等で味付けした唐揚げをザンギと言います。鳥以外にタコのザンギがあります。
ラクレット。じゃが芋をチーズと生ハムで包んでいます。ちょっとチーズの量が少なかったが、じゃが芋はやっぱり北海道、
美味しかったです。

部屋からの朝の景色。


30日は、結婚式出席のため列車と地下鉄を利用して札幌へ移動です。
式場は、円山公園そばの教会です。

花婿の姪と一緒に。



披露宴は、教会近くのレストランで。



二人は東京の病院に務める看護師ですが、花婿の家族、伯父・伯母・従兄弟のほとんどが道内で、また花嫁の父の
実家は秋田ですが、北海道へ来たことがないとのことで、式は札幌にしたとのことです。
出席者は、親族・友人が60名ほどで和気あいあいとした和やかな良い結婚式でした。
料理もフランス料理で美味しかったです。
二次会は、札幌駅そばのカラオケで、子供達が主として歌たい盛り上がりました。
この後、家内の実家にお世話になり、31日に帰って来ました。

3週続けて土日は、キャンプ、お祭り、結婚式と忙しかったですね。







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