2015年9月20日から22日。
旧中仙道をドライブで巡って来ました。
浅田次郎原作の「一路」(中仙道の終点に近い西美濃の国元から参勤行列で試練を乗り越えて中仙道を利用して江戸へ向かう)が
NHK・BSプレミアムで放送されており、それを家内が見ていて旧中仙道を巡りたいとのことで行って来ました。
出発は、東京外環自動車道に近い浦和宿(日本橋から第3宿)からとしました。(わが家から外環道が近いので。。)
9月20日。
●浦和宿(第3)
「旅籠が15軒と少ないが月に6回の市が開かれ賑わった。」
浦和宿碑を探しましたが見つからず通り過ぎました。
●大宮宿(第4)
「最盛期には本陣1軒、脇本陣9軒と賑わったが、今は史跡がほとんど残っていない。」
ここも通り過ぎました。
●上尾宿(第5)
「安政7年(1860)の大火とその後の火事で焼失し往時の面影はない。」
案内板がありました。
●桶川宿(第6)
「江戸時代に最上地方に次ぐ紅花の大生産地で多くの富と文化をもたらした。」
宿場時代の面影が残ってしました。
●鴻巣宿(第7)
「江戸中期には、ひな人形の生産地として、関東三大雛市の一つに数えられていた。」
これしか気が付きませんでした。
●熊谷(第8)
「天保年間には本陣2軒、脇本陣1軒、旅籠42軒、人口3000人を超え大きな宿場へと発展したが、昭和20年の空襲で大半が焼
けてしまい当時の面影の多くは焼失してしまった」
碑となるものを探せず通り過ぎました。
深谷宿との間にありました。
●深谷宿(第9)
「中山道で最大規模の宿場で、本陣1(飯島家)、脇本陣4、旅籠80余。商人が多く、また飯盛女も多く、遊郭もあり、江戸を
出立して2晩目の宿を求める人で大いに栄えた。」
ここも碑となるものを探せず通り過ぎました。
●本庄宿(第10)
「武蔵国最後の宿場で、利根川の水運の集積地としての経済効果もあった。天保年間には人口4500人余、本陣2、脇本陣2、
旅籠70軒余と中山道の宿場の中で一番人口と建物が多い宿場であった。」
ここも碑となるものを探せず通り過ぎました。
●新町宿(第11)
「中山道の中で最も遅くできた宿場で、享保九年(1742)に落合新町と笛木新町両方合わせて新町宿とされた。本陣2、旅籠屋43軒と
かなりの規模であった。」
ここも碑となるものを探せず通り過ぎました。
●倉賀野宿(第12)
「江戸時代に入り中山道が整備されると、例幣使街道との追分の宿場町として、利根川の支流・烏川にあった河岸(かし)が物資輸送
の中継地となり、参勤交代の武士や旅人、町人ら多くの人でにぎわった。」
昔の面影があるとのことでしたが、これしか見つけることは出来ませんでした。
●高崎宿(第13)
「井伊直弼が城を構えた城下町で、上州路最大の賑わいを見せる宿場町となったが、 諸大名が御城下での宿泊を敬遠した ことから
本陣、脇本陣は置かれていなかった。」
ここは車が多く、碑となるものを探せず通り過ぎました。
●板鼻宿(第14)
「碓氷川の川止めが多く、中山道上州七宿の中では最大級の宿場であり、光明天皇の妹・和宮も宿泊した。」
●安中宿(第15)
「安中宿は本陣1、脇本陣2、旅籠屋17軒、宿内人口は348人と小さな宿場だった。」
●松井田宿(第16)
「宿内家数は252軒、うち本陣2軒、脇本陣2軒、旅籠14軒で宿内人口は1,009人。碓氷峠越えの商品や物資の中継地点として賑わった。」
五科の茶屋本陣、碓氷関所跡があるのですが、通り過ぎました。
●坂本宿(第17)
「中山道有数の難所であった碓氷峠の東の入口にあたり、本陣と脇本陣合わせて4軒、旅籠は最盛期には40軒と比較的大きな宿場で
あった。」
この後、徒歩での碓氷峠超えとなるのですが、車では行けないため、旧18号で軽井沢へと向いました。
めがね橋です。
●軽井沢宿(第18)
「中山道有数の難所であった碓氷峠の西の入口にあたり、六十九次で最も栄えた宿場であった。本陣と脇本陣合わせて5軒、旅籠は
最盛期には100軒近くあったとされ、数百人の飯盛女が働いていたという。」
軽井沢宿は、旧軽井沢にあったので、そちらへ、向いましたが、さすがに祭日とあって軽井沢銀座の当りから渋滞で進めず、
断念しました。
この後、食堂で昼食にしました。
●沓掛宿(第19)
「沓掛」の名は、難所であり荒天時は人も荷も足止めされた碓氷峠の入口であることに由来し、両隣の軽井沢宿および追分宿と共に
浅間三宿と呼ばれて栄えた。しかし1951年の大火で町の殆どを焼失したため、往時の様子を伝えるものは殆ど残っていない。その後
は1956年に沓掛駅が中軽井沢駅と改称し、地名も中軽井沢と改称した。」
中軽井沢も渋滞で、沓掛時次郎碑を見たかったのですが通り過ぎました。
●追分宿(第20)
「北国街道(北陸道)との分岐点でもあり「追分」の名はこれに由来する。元禄時代には旅籠屋71軒、茶屋18軒、商店28軒を数え、
飯盛女も最盛期には200~270人もいたとされるほど栄えた。」
●小田井宿(第21)
「大名は追分で宿をとり、姫君は小田井宿で泊まったことから「姫の宿」と言われる。皇女和宮がご降嫁の際に休憩されたことでも
知られる。」
現在も、千本格子の旅籠がいくつか残されいました。
●岩村田宿(第22)
「岩村田宿は小諸への街道、甲州への街道、下仁田への街道の分岐点であった為、交通の要衝地として重要な役割を果たした。
元禄十六年(1703年)に内藤氏によって岩村田藩が成立しますが、城下町であったため、本陣・脇本陣が設置されず、周辺の寺院が
本陣・脇本陣の機能を果たした。」
旧宿場街は商店街となっており、面影は見られませんでした。
●塩名田宿(第23)
「中山道で唯一千曲川と合流する宿場で、近郷無類の暴れ川と呼ばれる千曲川の氾濫に苦心しており、明治期になって舟をつないで
その上に板を架けて橋とする「船橋」方式がとられた。」
●八幡宿(第24)
「千曲川の西岸にあたり、対岸の塩名田宿との距離は1里もないが、川止めになったときの待機地として、また千曲川沿いの米の集散地
として江戸時代初期の慶長年間に整備された宿場である。」
通り過ぎました。
●望月宿(第25)
「8月の満月の日、朝廷へ名馬を納めたことから望月の名がついた。本陣跡には歴史民族資料館が建ち、かつての面影を残す脇本陣の
隣には、望月最古の建物である旅籠兼問屋も残っている。」
芦田宿へ向かう途中に一里塚跡がありました。
この近くに「茂田井の間宿」がありました。
「望月宿から芦田宿へと続く旧中山道の間の宿。望月宿と芦田宿で対応できない大通行の際に休憩処として機能を果たしていた。」
昔の面影が残った雰囲気の良い町並みでした。
●芦田宿(第26)
「宿内家数は80軒、うち本陣1軒、脇本陣2軒、旅籠6軒で宿内人口は326人の小規模の宿場であったが、難所であった笠取峠の東の
入口にあたり、笠取峠を行き来する旅人で賑わっていた。」
●長久保宿(第27)
「宿場の前後に笠取峠、和田峠の難所を控えていたことや、大門道、大内道、北国街道へ接する交通の要衝に位置していたことから
寛政(1789)以降、四十軒前後の旅籠屋があり、中山道信濃二十六宿のなかでは、塩尻宿に次ぐ数を誇った。」
高札です。
うだつです。
変わったうだつです。
20日はここでまでにし、今夜の宿泊場所「道の駅マルメの駅ながと」へと向ました。
この道の駅には、日帰り温泉があります。お風呂に入って車で一杯飲んで夕食を食べ翌日に備えました。
宿泊する車が100台以上でした。さすが連休です。
車だと見落としたり、行き過ぎで戻ったりと無駄が多いです。
また旧道は徒歩でしか行けない道もあり、また車で行けても脇道を探さなければならず、走り切るのも難しいです。
このまで浦和宿から約220kmほどの行程でした。