無駄に終わらない人生の秘訣

2009-03-07 | あなたへの聖書メッセージ
説教題 「無駄に終わらない人生の秘訣」
聖 書 コリント人への手紙15章51-58節

美味しいものを食べたり、楽しいことが多い人生であったとしても、自分の人生を振り返ってみとたきに、私の人生は、無駄だった、と思えるとしたら、それは、これこそ、最も辛い人生であり、惨めな人生、と言っても、良いのではないでしょうか。 

「何ごとも 夢まぼろしと思い知る 身にはうれひも よろこびもなし」  
足利8代将軍、足利義政(1436-1490)は、相次ぐ天災、飢餓をもかえりみず、豪奢な趣味の生活に明け暮れて、ついに家督相続問題から、応仁の乱を引き起こしました。それでも、大乱には傍観者の立場をとり、妻の日野富子とも断絶し、晩年には、室町芸術の粋をつくした東山山荘の建築に没頭しました。そして、それの完成を見ずに、1490年に脳溢血の再発で死にました。この足利義政が、死が近づいた時、詠んだのがこの歌です。「何ごとも夢まぼろしと思い知る 身にはうれひも よろこびもなし」・・人生のはかなさを歌っていると思います。

また、戦国時代に天下統一を果たした、豊臣秀吉も、「つゆとをち つゆときえにしわがみかな なにわの事も 夢のまた夢」と辞世の歌を残しています。両方とも、この世の最高権力を握った人ですが、その人生が、はかなかったことを、歌っています。

私たちは、自分の人生を振り返ってみとたきに、私の人生には、無駄だった、と思えるとしたら、これこそ、最も辛い人生、最も惨めな人生だと言っても、良いのではないでしょうか

しかし、聖書には、はっきり、その労苦が無駄にならない人生、があることを明言しております。

1コリコント15:58 ですから、私の愛する兄弟たちよ。堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは自分たちの労苦が、主にあってむだでないことを知っているのですから。

ここで、聖書は、はっきり、「自分たちの労苦が、主にあってむだではない」と言っています。「主にあって」とは、キリストにあって、と言うことです。聖書はここで、キリストにある人生は、決して無駄になることはないと、明言しております。労苦が無駄になることはないので、だから、「堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。」と言っているのです。
本日は3つにしぼって、その理由を見ていきたいと思います。

(1)それは、罪が赦された人生だからです。
ローマ4:25 主イエスは、私たちの罪のために死に渡され、私たちが義と認められるために、よみがえられたからです。

私たちの人生に、不幸を招く大きな原因であるものが、私たちの内にある罪であることを聖書は言っています。

ローマ3:10 それは、次のように書いてあるとおりです。「義人はいない。ひとりもいない。3:11 悟りのある人はいない。神を求める人はいない。3:12 すべての人が迷い出て、みな、ともに無益な者となった。3:23 すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、

犯罪の原因、家庭不和の原因、そして、紛争、戦争の原因は、根本的には、人の罪にその原因があると、聖書は、言っています。
21世になっても、世界から、戦争は消えません。それどころか、アフガン戦争、イラク戦争、など、など、増えています。

昔のこと、アメリカの南北戦争のことですが
これは、アメリカ人にとって、内戦であり、市民戦争でした。奴隷解放という目的はありましたが、北と南に別れて、同じ国の人々が戦い、南北双方で62万人の戦死者を出した、悲劇でした。

南北の教会や信徒は、それぞれ同じ聖書を読み、祈り、自軍の勝利を願っていた。戦争は奴隷制度を悪とするか、善とするかの争いであったが、これもやがて変質し、南北両派の権力閲争に化していったのです。
北軍の兵士たちは、黒人のために命を捨てることを嫌い、逃亡兵も増え軍規は乱れた。そして、連邦大統領のリンカーンは愛息の死と共に、国家の危機に直面し祈りの人に変えられた。

リンカーン大統領の、神の前に祈る姿は、苦痛に満ちていた。そしてリンカーンは国民に、悔改めの日を呼びかけた。「戦うべき相手は、南北ではなく、人間の原罪であったからだ。原罪とは自分を神とすることで、人問性を否定しエゴの奴隷となっている心の状態である。」と。

人を不幸にするおおもとである、人の罪が赦されることは、人生最大の恵みです。イエス・キリストの十字架の死は、私たちの罪の身代わりとしての死です。神は罪を憎み、そのままにしておくことは出来ません。しかし、罪を裁きますが、罪人を愛しています。 そこで、神は神の御子イエス・キリストを私たちの罪の罰として、身代わりとして、十字架につけて処罰したのです。

それは、神が、私たち罪人を愛しているからです。ですから、誰でも、このキリストを信じるなら、罪が赦されるのです。そして、罪のない義なる人と、神から宣言されるのです。罪が赦された生涯を送ることが出来るのです。
エペソ1: 7 私たちは、この御子のうちにあって、御子の血による贖い、すなわち罪の赦しを受けているのです。これは神の豊かな恵みによることです。

(2)それは、死で終らない人生だからです。
すべての人に、死があるのは、人のうちにある罪、のゆえであると聖書は言っています。「罪から来る報酬は死です。」(ローマ人への手紙6章23節)とあります。死は、すべての良きものから、私たちを引き離します。住み慣れた家、生まれ育った町や村、労苦を注ぎ込んできた会社や事業、丹精込めて育ててきた花や樹木、そして、何よりも大切な、妻や夫や子や孫、兄弟姉妹など、死は、愛する人々から、私たちを引き離してしまいます。ですから、死は、人生において最大の敵であり、恐ろしいものです。
聖書も、「へブル2:15 一生涯死の恐怖につながれて奴隷となっていた」と言っています。

しかし、イエス・キリストは、死に打ち勝ってくださいました。 キリストは、その十字架と復活により、「最後の敵である死も滅ぼされま」した。(1コリント15:26)と聖書にあります。また、さらに、こうあります。

ローマ6:23 罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。

つまり、キリストを信じる人生は、死で終わるのではなく、永遠のいのちにつながっているのです。

(3)それは、復活の身体がいただける人生だからです。
キリストは十字架に付けられましたが、3日目に死から復活されました。キリストの復活は、キリストを信じる者にも、死から勝利し、復活することを約束しています。
キリストの復活は、初穂としての復活でした。私たちキリストを信じる者も、自分の死に勝利して、死から復活することを、保証しているのです。そのことを聖書は、はっきり言明しています。

2コリント4:14 それは、主イエスをよみがえらせた方が、私たちをもイエスとともによみがえらせ、あなたがたといっしょに御前に立たせてくださることを知っているからです。

そして、キリスト信仰者に与えられる、復活の身体について、こう言っています。
1コリント15:42-44 死者の復活もこれと同じです。朽ちるもので蒔かれ、朽ちないものによみがえらされ、 卑しいもので蒔かれ、栄光あるものによみがえらされ、弱いもので蒔かれ、強いものによみがえらされ、血肉のからだで蒔かれ、御霊に属するからだによみがえらされるのです。

「復活のからだ」が、どういう「からだ」なのかは、これ以上のことは、はっきわかりませんが、「卑しいもので蒔かれ、栄光あるものによみがえらされ」とあるように、その顔や姿は、栄光で、輝いていることは確かでしょう。それは「キリストの栄光の似姿」であると言えるのです。

パウロはこれを、「神の栄冠」「義の栄冠」と言っていまして、これを得ることが信仰者としての自分の目標で、「ピリピ3:14この目標を目指して一心に走っている」、と言いました。そして、その人生の最後を迎えようとしたとき、「2テモ4:7,8私は勇敢に戦い、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました。今からは、義の栄冠が私のために用意されているだけです。」と言うことができました。パウロが生涯をかけて目指していたものは、この「復活のからだ」でした。

キリストを信じる私たちは、死で終わるわけではありません。やがて、キリストの再臨の時に、復活のからだをいただいて、神のみそばで、永遠に、憩うことができるのです。

主イエスは、罪と死の力を打ち破って、復活してくださいました。そして、終わりの日には、私たち信じる者に復活のからだをお与えになえる、キリストご自身と、同じ栄光のかたちに変えてくださるのです。
「終わりのラッパとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです。」(1コリント15:52)。

さて、このように、聖書は、キリストを信じて生きるとき、この「罪の赦し」と、「永遠のいのち」、そして、「復活のからだ」をいただけるので、私たちの人生は、けっして、無駄にはならないと、明言しているのです。

「雨ニモマケズ」の秘話
宮沢賢治の代表作となった詩『雨ニモマケズ』は、病の床にあった賢治が、手帳に、書きつたものでした。

雨ニモマケズ 風ニモマケズ 雪ニモ 夏ノ暑サニモマケヌ 丈夫ナカラダヲモチ 慾ハナク 決シテ怒ラズ イツモシヅカニワラツテイル 一日ニ玄米四合ト 味噌ト少シノ野菜ヲタベ アラユルコトヲ ジブンヲカンジョウニ入レズニ ヨクミキキシ ワカリ ソシテワスレズ 野原ノ松ノ林ノ蔭ノ 小サナ萱ブキ小屋ニイテ 東ニ病気ノ子供アレバ 行ツテ看病シテヤリ 西ニ疲レタ母アレバ 行ツテ ソノ稲ノ束ヲ負ヒ 南ニ死ニソウナ人アレバ 行ツテ コハガラナクテモイヽトイヒ 北ニケンクワヤソシヨウガアレバ ツマラナイカラヤメロトイヒ ヒデリノトキハナミダヲナガシ サムサノナツハオロオロアルキ ミンナニデクノボートヨバレ ホメラレモセズ クニモサレズ サウイウモノニ ワタシハナリタイ
      
この詩は、実にクリスチャンの生き方、そのものではないか、と思います。
「サウイウモノニ ワタシハナリタイ」ということばでおわっていますが、
この詩にはモデルがいたと言われています。
それは、宮沢賢治と同じころに、花巻にいた、キリスト教徒の、斉藤宗次郎という人が、モデルになっているのではないか、というのです。

斉藤宗次郎は、岩手県の花巻に1877年(明治10年)に、曹洞宗の寺の三男として生まれました。後に、岩手師範学校を出て、花巻の小学校の教員になります。そのころ、新約聖書や内村鑑三の著書に出会い、キリストを信じる信者になり、熱心な内村鑑三の弟子になった。
1900年(明治33年)、23歳のとき、彼は信仰を告白し、宣教師からバプテスマ(洗礼)を受けました。花巻、第一号のクリスチャンでした。しかし、それからが、大きな戦いの始まりでした。

僧侶である父は、彼の行動を許さなかった。当時は、キリスト教は、「ヤソ教」「国賊」と呼ばれていました。彼は洗礼を受けた、その時から、迫害を受けるようになり、石を投げられ、親にも勘当され、教育界からも追放されて、小学校の教師を辞めさせられてしまいました。
それだけではありません。迫害の手は、家族にまで及んできました。近所で火事が起きたとき、全然、関係がないのに、嫌がらせで、放水され、家を壊されたことがありました。何度もガラスを割られることもありました。そして、さらにひどい迫害が起こりました。9歳になる、長女の愛子ちゃんが「ヤソの子供」と言われて、お腹を蹴られ、腹膜炎を起こして、亡くなってしまったのです。亡くなる時、愛子ちゃんは、讃美歌を歌って欲しいと言い、讃美歌を歌うと、「神は愛なり」と書いて、天に召されていったそうです。

斉藤宗次郎はそのような苦しみの中で、神様に祈りました。そして、彼は「御心がなりますように」とくじけることなく神様を信じ、神様に従い続けたのです。
普通なら、迫害のない違う土地へ移るところですが、宗次郎は、むしろ、その土地の人々に、神様の愛を持って仕えることを選びました。
教育の仕事はできませんから、彼は書店を開きながら、新聞配達と牛乳配達をした。1日40キロの道のりを、走っては神様に祈り、歩いては神様に感謝をささげ、木陰や小川のほとりで、祈りを捧げ、迫害する人々に、キリストを宣べ伝えたといいます。

また、斉藤宗次郎は、配達の途中、子供たちに会えば、アメ玉をやり、仕事の合間には、病気の人のお見舞いをし、励まし、祈り続けました。彼は雨の日も、風の日も、雪の日も休むことなく、町の人達のために祈り、働き続けました。

また、このころ、花巻農学校に勤めていた、宮沢賢治と交流するようになり、新聞配達を終わった後に、宮沢賢治が勤めていた農学校に立ちよったり、家に行ったり来たりして、交流したようです。

斉藤宗次郎は、「でくのぼう」と言われながらも、最後まで、迫害する郷里の人々を、愛し続けたのです。そして、1926年(49才)の時、彼は内村鑑三に招かれて、花巻を去って東京に引っ越すことになりました。

花巻の地を離れる日、誰も見送りには、来てくれないだろうと思って、駅に行くと、そこには、町長をはじめ、町の有力者、学校の教師、生徒、神主、僧侶、町の人々、物乞いにいたるまで、身動きがとれないほど集まり、駅長は、停車時間を延長し、させるという配慮をしたというのです。実はその群衆の中に若き日の宮沢賢治もいたのです。
 
この斉藤宗次郎、この人こそ、東に病気の子供あれば、行って看病してやり、西に疲れた母あれば、行ってその稲束を負い、という宮沢賢治の詩にあるようなことを、普通にやっていた人でした。そういう宗次郎の生活ぶりを見ていた、宮沢賢治が、「こういう人になりたかった」という思いを込めて、「雨ニモマケズ」という詩を書いたのではないか、と言われているのです。(確証はないが)。 その後、斉藤宗次郎は、内村鑑三の近くに、鑑三が召される最後まで、いて、お世話した人です。 

斉藤宗次郎は、彼は雨の日も、風の日も、雪の日も休むことなく、町の人達のために祈り、働き続け、キリストを伝道しました。
雨ニモマケズ 風ニモマケズ 雪ニモ 夏ノ暑サニモマケヌ・・・東ニ病気ノ子供アレバ 行ツテ看病シテヤリ 西ニ疲レタ母アレバ 行ツテ ソノ稲ノ束ヲ負ヒ 南ニ死ニソウナ人アレバ 行ツテ コハガラナクテモイヽトイヒ

その情熱はどこから、来たのでしょうか。
1コリント15:58ですから、私の愛する兄弟たちよ。堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは自分たちの労苦が、主にあってむだでないことを知っているのですから。

キリストを信じて、キリストにお従いして、生きるとき、「罪の赦し」と、「永遠のいのち」、そして、「栄光の復活のからだ」をいただけるので、私たちの人生は無駄にはならない、と、彼は、確信していたのではないでしょうか。

私たちも、キリストを信じて、その信仰の歩みを歩み通すとき、その人生は、その労苦が、無駄に終わらない人生、それどころか、最後には、義の栄冠を、いただくことができる人生となるのです。

アーメン。


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