心の貧しい者の幸福

2009-02-14 | あなたへの聖書メッセージ
              説教題 心の貧しい者の幸福
              聖 書 マタイの福音書5章1-12節

 人には様々な生き方があると思いますが、共通して言えることは、すべての人は幸福を求めて生きていることだと思います。ほんとうに幸福な人とはどういう人なのでしょうか。

日本で始めてノーベル文学賞を受賞したのは、川端康成と言う人です。彼は作家として富みも名声も手に入れた人でした。しかし、彼は74才でガス自殺をしてしまいました。その時、川端康成の友人の作家が、こんなことを言っています。
「世間並みに見れば、川端康成が死ななければならない条件は何もないように思える。……川端康成は文壇に登場し、芸術院会員になり、文化勲章を受け、日本で最初のノーベル文学賞の栄誉に輝いた。若いときから病弱の身を保って70才を越えることが出来た。
鎌倉の自宅には、素晴らしい書庫付の書斎も出来、身辺は国宝級の古美術に満ちあふれ、日本人の多くの敬愛を受け、誠実な夫人の愛情に包まれ、その少し前には、盲腸の手術も無事に済み、どこから見ても満足する状態であり、誰が見てもうらやましい人生だった。なぜ、死ななければならなかったのか。その答えは誰も出せないだろう。しかし、彼は決して幸福な境遇ではなかったようだ。」と川端康成の友人の作家が言っているのです。
 
人は、有名になったり、お金持ちになったりして、表面的には、幸福そうに見える人でもその実、悲惨な中にいることは十分考えられることです。
 また、直面する困難や問題を解決し、人に幸福をもたらすとうたっている、御利益宗教のようなものは、一時的には幸福感をもたらしても、根本的には人を、本当に幸福にしていない。うまい話は決して人を幸福にしない。

さて、イエス・キリストは、このマタイ5章~7章の「山上の説教」と言われて箇所ではっきりと、人が本当に幸福になりたいなら、ここにこそ、人の本当の幸福が有ると言っているのです。
特に、このマタイ5章1-12節には、「幸いです=幸福です」と言うことばが、9回繰り返されて出てきます。ここに9回出てきます「幸いである」(マカリオイ)とう語は、原文では、文章の最初に来ている感嘆詞、でありまして、「幸いだ!」という感嘆のことばです。
文語訳聖書では、「幸いなるかな、心の貧しい者。」というふうに、原語の響きを忠実に伝えています。新改訳聖書のように「心の貧しい者は・・幸いです。」というのはいかにも散文的な表現です。
さて、この「幸いだ」(マカリオイ)という言葉は、「外側から乱されることのない、内側からわき上がる喜び」、「人生の偶然の出来事や、変化に影響されることのない喜びをもつ幸福」を意味する言葉です。
 
英語で幸福を、Happiness と言いますが、その語幹は、HappeningのHapで、「偶然、まぐれ、運」、を意味しています。つまり、英語のことばから言えることは、人の幸福とは、人生の運や偶然に、左右されるものだ、という考えがあることが解ります。

この世にも喜びがあり、幸福があります。しかし、この世の喜びや幸福はHappeningの要素が強いのです。そして、それは過ぎ去っていくものです。運が去ってしまった、健康をそこなった、事業が失敗した、計画が失敗した、時勢が変わった時、この世の喜びはたちんまち消えてしまう、ということがあるのではないでしょうか。

しかし、イエス・キリストが言われている幸福は、イエス・キリストが与える幸福は、この世から影響されないもの、何をもってもその内面の幸福を乱されないものであるということです。イエスは「その喜びをあなたがたから奪いさる者はありません。」(ヨハネ16:22)と言いました。
 
この山上の説教で、イエスが語ったところの幸福は、たとえ苦痛の中に置かれたとしても、心に満ちる喜びであり、痛み、損失、悲しみ、嘆きも消すことが出来ない幸福なのです。そして、死でさえも、奪い取ることができない喜びの幸福なのです。

さて、今日は、その幸福の第1の使信、5章3節の「心の貧しい者の幸福」の意味を学んでみたいと思います。

マタイ5:3心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。
心の貧しい者は幸福だ!とは、意外な言葉だと思います。普通、人は、貧しい者は不幸だと言います。しかし、イエスは、心の貧しい者は幸福だと言うのです。
ここで、この「貧しい」と言う語は、「うずくまる」とか「ちじこまる」という意味を持つことばで、人を委縮させてしまうような貧しさ、を意味する言葉です。イエスは、立ち上がれないほどに貧困に打ちのめされた人、その人こそ幸いであるというのです。

すなわち、今、欠乏と困窮の中に生きている人、あるいは、悩みの中、試みの中にある人、飢餓に苦しむ人、その自分の貧しさを知っている人が、「心の貧しい人」だとイエスは言われているのです。
つまり、イエスが言う、「心の貧しい人」の意味するところは、生きていくための力、資源が自分の中には全くないことを自分で知っている人、認めている人で、そのために、生きるための必要な助けと力を、ただ神に求める人のことを言っているのです。
 
すなわち、自分が全く無力であり、無知であり、人生を生きるのに、自分には限界が有ることを知って、ただ、ひたすら神により頼む人のことです。

しかし、この世は、こういう人を嫌います。この世は、こういう人を賢くない人、として見ています。この世は、自己信頼、自己確信、自己表現への信奉を強調しています。出世したいなら自分自身に自信を持ちなさいと言います。良いセールスマンであることは、自信と確信に満ちている印象を客に与えることであると。この世は、自分を表現する、自分を信頼する、自分に生まれつき備わっている力を自覚し、信じなさい、と言います。そして、それらを世に見せ、知らせることである、と言います。これは「ヒューマニズム」とも言う。ヒューマニズムの落とし穴は、神を否定する考えです。宗教も人間が作りだした文化と考える。人間の上に神はいないとする。これは、根本的な間違いです。(進化論がその背景にあります。)

つまり、人間は自分を幸福にする力を、自分が持っていると言うのです。また、神を信じるなどと言うことは弱い人間のすることだ、人間は自分の力で生きていける、と言います。
そしてこれが、高い教育と知識、高学歴、お金持ちになることが、人を救い、人を立派にし、幸福にするはずだと言う主張になります。世界の貧しい人たちを助ける=これが救いであると言います。(確かに貧しい人を助けることは悪いことではないが。)

しかし、イエス・キリストは、「5:3心の貧しい者こそ幸福です。」と言うのです。そして、その人こそ、本当にその人こそ、幸福な人であると、イエスは言われているのです。
つまり、人がいくら努力して、高い教育を受け、高い文化を築いても、神を神としない、人には、真の幸福はない。真の幸福は、私たちの創造主なる神のもとに立ち返り、その導きた従い、神の力に頼って生きるところにあると、イエスは言っているのです。
 
そのために、人がなすべきことは、自分の我を張って生きることをやめ、自力で生きるのをやめて、謙虚になって、神にすがることなのです。そのためには、心の貧しさが必要なのです。自分が本当に貧しい者であることを、知る必要があるのです。自分の貧しさを知っている人だけが、自己主張をやめ、謙虚になって、神のあわれみに、すがることができるのです。
 
神の御子イエス・キリストは、本当に貧しさを味わったお方です。イエス・キリストは、私たちにために貧しくなられました。天の栄光の御座を捨て、貧しい馬小屋に生まれ、私たちの罪の身代わりとして、十字架について、私たちの罪の罰として死んでくださったのです。これ以上、貧しくなったお方はありません。だから、私たちがイエス・キリストを信じて救われるために必要なことは、私たちが富むことではなく、心を貧しくしてこのキリストを信じ受け入れることなのです。そのとき、私たちの過去、現在、未来のすべての罪が赦され、救われるのです。そして、決して消えることのない、死んでも消えない、幸福が与えられるのです。

だから、イエスは「5:3心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。」と言われたのです。皆さんは、心の貧しさをお持ちでしょうか。
生まれつきの自分の素質に、信頼を置いていないでしょうか。自分の体力や才能に信頼を置いていないでしょうか。自分に与えられている社会的な地位や、お金、財産を頼みとしてはいないでしょうか。自分の受けた教育、卒業した学校、学歴、などを誇りとしてはいないでしょうか。そうでないとしても、「おしん」のように、一生懸命生きてきた、その自分の努力が、自分を生かしている、と思っていないでしょうか。

心の貧しい者こそ、真の幸福になれるだとイエスは言っているのです。
なぜ、こんなに貧しい人こそが、ほんとうの幸福者なのでしょうか。
それは、彼らは、この世で何も、本当に何も持ってはいないけれども、イエス・キリストという神を持つことによって、神にあってすべてのものを、持っている人だからです。イエスは、そのことを、こう言われました。
5:3心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。
→「天国は彼らのものである。」

天の御国を持つということは、神に属するすべてのものを持っているのと同じです。だから、実をいうと、心の貧しいものは、何ももたないものではなく、すべてを持っている人なのです。これ以上富んでいる人はいないのです。イエスは、天国というものは、心の貧しい人たちのものだと言っているのです。

さて、では、どうしたら心の貧しさを持てるのでしょうか。実は、心の貧しさは、神によって神の恵みとして人に与えられるものなのです。
それは、イエスの招きにあります。イエスの招きに応えることなのです。
イエスの招きとその約束のみことばに従う者に、心の貧しさが与えられるのです。そして、そのイエスの招きは、時として、痛い思いや、困難な経験、逆境と呼ばれるような中で、与えられることがあるのです。

R.G.ビビアン氏の証し

もう随分昔の事ですが、今から百数十年前に、英国の鉱業家に、グリーン.G.ビビアンさん、という人がいました。彼は時代の波に乗って成功し、鉱山王と呼ばれるようになりました。彼は財産にものを言わせ、豪華な世界旅行をし、各地の鉱山や炭坑を視察しました。

ところがある日、霧のロンドンの西部街を歩いていると突然、視力の異常を感じました。そして、治療の甲斐もなく彼は失明し、盲人になってしまったのです。
国内はもとより、ドイツ、スイスと名医を尋ねましたが、回復の道はなく、彼は失意のあまり、身体の健康をも害してしまいました。そして、医師の勧めで転地療養することになりました。彼は自分に絶望しました。そして、その時、心が貧しくなったのです。
この時、彼は悔い改めキリストを信じました。

キリストを信じたビビアン氏は、教会堂建築の費用を全額、献金したり、自分が経営する会社の工場には、社員のための伝道館を建て、牧師を招きました。
さらに、彼は世界旅行の時に見た、フランス、ドイツ、スペイン、ロシア、日本、カナダ、南アフリカ、南アメリカの各地で、幾百万の鉱山労働者とその家族の悲惨、霊的な暗黒状態(その日その日を唯暮らしている)を思い起こしました。

そして、彼はそこに重荷を感じて、全財産を投じて、1906年(明治39年)、今から103年前に、グリーン・ビビアン・マイナーズ・ミッション(ビビアン鉱山労働者伝道団)を設立したのです。(これは国際的なもので、今でも数か国の鉱山労働者と金属労働者とその家族のためにその働きは、続けられているそうです。)

そして、このグリーン・ビビアン氏の創設したマイナーズ・ミッションの働きが、1907年に、日本の栃木県の足尾にもたらされたのです。当時足尾は、銅を産出する鉱山として、活気があり、沢山の労働者が集まっていました。鉱毒事件もありましたが、このマイナーズ・ミッションの足尾のおける伝道の働きは進展しました。1908年に鉱山伝道団・足尾教会の会堂が建設されました。(これが、今の福音伝道教教団の足尾キリスト教会)

 そして、日本の宣教のために来日していた、一人の婦人室教師が、この働きを足尾に見に来たです。この婦人宣教師がイギリス人宣教師M.A.バ∵ネット師です(福音伝道教団の創設者)。バーネット師は、足尾に来て、重荷が与えられました。このマイナーズ・ミッションの足尾の働きを引き継ぐ決心をしたのです。
 
そしてさらに、バーネット師は、足尾町、大間々町、境町、太田などに伝道の重荷が与えられたのです。そして、バーネット宣教師は当時日本伝道隊におりました、舟喜麟一牧師(舟書信先生のお父さん)らとともに、群馬、埼玉、栃木県の日本の内陸部3県の田舎町の開拓伝道のために、(1927年に)福音伝道協会を設立したのです。これが今の福音伝道教団となりました。

つまり、福音伝道教団は、グリーン・ビビアン・マイナーズ・ミッションの働きと伝道があったからこそ、生まれたと言っても良いのです。足尾でのマイナーズ・ミッションの働きとがあったからこそ、バーネット師は群馬に伝道を開始したのです。

福音伝道教団は(足利教会もそうですが)バーネット宣教師は創設者のは違いないのですが、実は、さかのぼれば、イギリスの一人の実業家が盲目になり、その心が貧しくなったことによって、すなわち、グリーン・ビビアン氏の心が貧しくなったことによって生まれたと言っても過言ではないでしょう。
このグリーン・ビビアン・マイナーズ・ミッション(ビビアン鉱山労働者伝道団)が設立されてから、4年目に彼は天に召されました。しかし、彼の日本の足尾での働きは、バーネット師に引き継がれ、福音伝道教団が生み出され、そして、多くの人々の救いにつながりました。私の信仰の源流も、ここにあると言えます。

マタイ5:3心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。
イエス・キリストは神の御子であったのに、その天の御座を捨てて、私たちの所に来て下さいました。しかも、私たちのかたくな心、罪の身代わりとして、十字架について死んでくださいました。
2コリント8:9 あなたがたは、私たちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は富んでおられたのに、あなたがたのために貧しくなられました。それは、あなたがたが、キリストの貧しさによって富む者となるためです。

 主イエスを心に信じ迎え入れるとき、人は益々心の貧しい者とされるのです。そして、その人は天国の市民としてふさわしい者とされるのです。
マタイ5:3心の貧しい寺は幸いです。天の御国はその人のものだからです。
そして、心の貧しい人こそ、神の国を持つ、豊かな人、本当に幸福な人なのです。

 アーメン。


恐れてはいけない、しっかり立って、主の救いを見なさい

2009-02-14 | あなたへの聖書メッセージ
     説教題 「恐れてはいけない、しっかり立って、主の救いを見なさい」 
     聖 書  出エジプト記14章5-21節  

 人は誰でも、その人生において最大の危機、不安を、経験するということが、あるのではなでしょうか。しかし、その時はまた、人生において最大の救いを経験するときでもあると思います。 確かに、人の人生には、言うに言われぬ、つらいことや、危機の状況というものがあると思います。本人が病気になったり、家族が病気になったり、また、受験、入社試験など、それに、職場におけるリストラや配置替えや、そういったものや、家庭の問題や、親戚の問題、等々、私たちを不安におとしいれる出来事というものが、人生にはしばしば、起こってくると思います。  

本日の出エジプト記14章ですが。このとき、イスラエルの民は、最大の危機に直面していました。 この14章の背景はと言いますと、約400年間エジプトの奴隷であった、イスラエルの民が、このとき、モーセという指導者によって、奴隷となっていたエジプトから、導きだされて約束の地カナン(現在のパレスチナ)へ出発した、出エジプトの直後のことです。

今から約、3400年ほど前のことです。 エジプトを脱出した、イスラエルの民には、昼は雲の柱、夜は火の柱があって、イスラエルの民を導いていました。そして、エジプトからカナンの地に至には、幾つかのルートがありましたが、神は遠回りの道、葦の海(紅海)にそって、荒野に向かう道を進んで行くよう導かれまました。
この時の出エジプトのイスラエルの民は、女性や子どもや、お年寄りや、また家畜を含む大集団でした。おそらく200万人以上いたと思われます。 ですから、その歩みは、宿営をしながらの、とても、ゆっくりとした歩みであったわけです。そんなに急いで行けません。

そして、最初、意気揚々と、エジプトを出てきたのですが、イスラエルの民の、目の前に、葦の海(紅海)がせまってきた時、実は、何も危害を加えないで送りだす、と言ったはずのエジプトの王パロが、その騎馬隊と全軍を連れて、イスラエルの民を追撃して来たわけであります。そのことが、宿営していた、イスラエルの民に、知らされるわけです。

エジプトの王パロは、えり抜きの戦車600とエジプトの全戦車を出して、全軍を率いて、追撃してきたのです。エジプトの軍隊が津波のように、イスラエルの民に、迫って来たのです。 →出エジプト14:10 パロは近づいていた。それで、イスラエル人が目を上げて見ると、なんと、エ    ジプト人が彼らのあとに迫っているではないか。イスラエル人は非常に恐れて、主に向かって叫んだ。 
とあります。「イスラエル人は非常に恐れた」とあります。これは、当然だったと思います。このとき、イスラエル民は、希望的な観測ではなく、現実の厳しさの正しい、認識をしていたと思います。 後ろから、迫ってくるのは、エジプトの全戦車隊であり、騎馬隊であり、全軍です。武装した軍隊が、津波のように押し寄せて来たのです。イスラエルの民には、高齢者もいれば、女性や、子どももいるのです。若者もいましたけれども、軍隊の経験もないし、とても、勝ち目がありません。しかしまた、逃げおおせれば、何とかなるかもしれませんが、年よりや子どももいて、急いで前進することもできません。

さらに、目の前には、葦の海(紅海)、海があります。それで前にも進めません。後に戻れず、前にも行けない、絶体絶命とは、このことだと思います。 この時のイスラエルの民にとって、自分たちは、人生最大の危機、最大の不安の中に置かれたと思います。「イスラエル人は非常に恐れた」とある通りです。それから、10節後半には、「イスラエル人は・・・主に向かって叫んだ。」とあります。

この叫びは、もともと、とどろきのような、泣き叫びを意味しています。つまり、彼らは、ものすごい声を上げて、神に祈ったと言うことです。こうした祈りをした上で、彼らは、何をしたかというと、彼らは自分たちの指導者、モーセに詰め寄るわけです。指導者のモーセに、文句を言います。神に祈りながら、モーセを責める訳です。 彼らは、自分たちの最大の危機を前にして、神に目を向けずに、自分たちの指導者のモーセを責めています。その指導方針の誤りを批判するわけです。

→出エジプト14:11 そしてモーセに言った。「エジプトには墓がないので、あなたは私たちを連れて来て、この荒野で、死なせるのですか。私たちをエジプトから連れ出したりして、いったい何ということを私たちにしてくれたのです。
14:12 私たちがエジプトであなたに言ったことは、こうではありませんでしたか。『私たちのことはかまわないで、私たちをエジプトに仕えさせてください。』事実、エジプトに仕えるほうがこの荒野で死ぬよりも私たちには良かったのです。」 

こう言って、モーセを責めるわけです。しかも、その中で、自分たちはもう、ここで死ぬしかないのだ、自分たちは「荒野で死ぬ」しかない、と決めつけてしまっている。 モーセに詰め寄りながら、自分たちは荒野で死ぬと、結論づけます。(12節)。

これは、考えてみますと、その時の状況から見れば、その時のイスラエルの民としては、もっともな理解だと言ってもよいかもしれません。せっかく、奴隷であったエジプトから自由の身にされて出てきた。しかし、前には、葦の海があって行けない、そして、後ろからは、エジプトの全軍が押し寄せて来た。もはやこれまで、と言いましょうか。 もし、私たちが、そのとき、そのイスラエルの民の一員だったとしたら、やはり、同じようなことを言ったのではないでしょうか。荒野で死ぬしかない。こ時のイスラエルの民にとって、これ以上の結果、展開は、望める状況ではなかったでしょう。 

ところが、モーセは違っていました。堅く信仰にたっていました。それゆえに、その絶体絶命のこの状況のなかで、確信をもって、神からのことばを告げました。
→出エジプト14:13 それでモーセは民に言った。「恐れてはいけない。しっかり立って、きょう、あなたがたのために行なわれる主の救いを見なさい。あなたがたは、きょう見るエジプト人をもはや永久に見ることはできない。14:14 主があなたがたのために戦われる。あなたがたは黙っていなければならない。」 

こう言ったわけです。そして、事態は、思いも寄らない展開を見るわけであります。少し長いのですが、21-30節まで見ていただきたいのですが。(もうエジプトの戦車隊が迫ってきた時です)。
出エジプト14:21 そのとき、モーセが手を海の上に差し伸ばすと、主は一晩中強い東風で海を退   かせ、海を陸地とされた。それで水は分かれた。(ここは、映画の十戒に出て来る紅海の海が分かれる場面です)14:22 そこで、イスラエル人は海の真中のかわいた地を、進んで行った。水は彼らのために右と左で壁となった。14:23 エジプト人は追いかけて来て、パロの馬も戦車も騎兵も、みな彼らのあとから海の中にはいって行った。14:24 朝の見張りのころ、主は火と雲の柱のうちからエジプトの陣営を見おろし、エジプトの陣営をかき乱された。14:25 その戦車の車輪をはずして、進むのを困難にされた。それでエジプト人は言った。「イスラエル人の前から逃げよう。主が彼らのために、エジプトと戦っておられるのだから。」14:26 このとき主はモーセに仰せられた。「あなたの手を海の上に差し伸べ、水がエジプト人と、その戦車、その騎兵の上に返るようにせよ。」14:27 モーセが手を海の上に差し伸べたとき、夜明け前に、海がもとの状態に戻った。エジプト人は水が迫って来るので逃げたが、主はエジプト人を海の真中に投げ込まれた。14:28 水はもとに戻り、あとを追って海にはいったパロの全軍勢の戦車と騎兵をおおった。残された者はひとりもいなかった。14:29 イスラエル人は海の真中のかわいた地を歩き、水は彼らのために、右と左で壁となったのである。14:30 こうして、主はその日イスラエルをエジプトの手から救われた。イスラエルは海辺に死んでいるエジプト人を見た。  

これが、その後の展開であります。事態は驚くべき方向に急展開したわけです。そして、イスラエルの民は、このとき、最大の危機から最大の救いへと変えられました。絶対絶命のピンチから、最大の不安の状態から、民は救い出されました。

どうして、こう言う展開が起こったのでしょうか。そこには何があったのでしょうか。 まず、12章42節を見ますと、12:42 この夜、主は彼らをエジプトの国から連れ出すために、寝ずの番をされた。 とありまして、このとき、神様は、寝ずに徹夜をされて、その民のために働かれていた、ことがわかります。勿論、神は寝たり、眠ったりしているわけではありませんが、これは、神は常に、イスラエルの民のために、働かれていた、と言うことです。

さらに、今、13節と14節を見ましたけれども、「恐れてはいけない。しっかり立って、きょう、あなたがたのために行なわれる主の救いを見なさい。」これは、13節です。14節は、「主があなたがたのために戦われる。あなたがたは黙っていなければならない。」とあります。 

人生の最大の危機が、最大の救いに変わった、そのわけは、ここにありました。すなわち、神です。 聖書の神、キリストの神は、何も出来ないでいる私たちのために、しかも、何の力もない者のために、私たちに代って一人、戦ってくださる神、救ってくださる神、であると言うことです。

人の人生最大の危機を、最大の救いに一変したのは、神が戦ってくださった、からだと言うことです。「主があなたがたのために戦われる。」。 このことがわかりますと、この神を自分の神とするときに、絶望的な暗黒の人生が、まったく予想していない、明るい方向に、開かれていくことを、私たちは、自分の人生においても体験することができるのです。 

私たちは、自分が生まれ、現に生き、そしてやがて死んでいく、ことを知っています。ほとんどの人は、このことを知っています。そして、人生は運命によって定められているんだから、「人生を切り開いていく、ことなどできないんだ。」と見る人がいます。また、現代は、コンピューターのなどを使って、自分の将来は、こうなって、こうなって、こうなると言うような、先取りする傾向があります。そうすると、未来は開けてくるかと言うと、そうではなくて、私の人生は、だいたい、こうなるんだ、こんなところに就職して、定年になって、死んでいくんだな、とか。先を予測することによって、ますます、無気力になっていまう、という人がいるのと思います。

聖書の神、まことの神、救い主イエス・キリスト、を抜きにした人生は、こう考えざるをえない、のではないでしょうか。 しかし、まことの神、キリストの神は、その運命論にしばられたり、無気力になっている人々のために、夜も寝ないで、徹夜で働く神です。また、ひとり戦って、私たちの人生を切り開いてくださる神、だと言うことです。

人からみたら絶望するしかない、暗い時を、暗い時代を、明るく救いの中に、切り開かれる神です。それがまことの神、イエス・キリストなのです。 本日のテキスト、出エジプト記の14章の出来事には、イエス・キリストは、直接出てきませんが、私たちを救ってくださるイエス・キリストの救いをよく示していると思います。 
出エジプトの際に、イスラエル民が出くわした状況、暗黒の状況、絶対絶命の追い込まれた状況、その時を、切り開いたのは、人ではなく、神でした。 人生の危機の時、不安の時を切り開き、人生の暗黒の時を、切り開かれたお方は、まことの神であると言うことです。 

さて、現代は、どういう時、時代でしょうか。2000年前にイエスさまが、地上におられた時、その時代を、イエスさまは、「悪い姦淫の時代」とか、「邪悪なこの時代」とか、「不信仰な曲がった時代」と言われました。そして、ペンテコステの聖霊降臨日に、ペテロの宣教のことばは、「この曲がった時代から救われなさい。」(使徒2:40)ということばでした。

21世紀のこの時代は、決して明るい時代ではない、神を信じない暗い時代であるとい言えると思います。 まさに、イエスさまが言われたように、今は「悪い姦淫の時代」「邪悪なこの時代」「不信仰な曲がった時代」と言えると思います。もし、人が、神を抜きにして生きるなら、こう言う時代に生きることは、生きる目的と正しい価値観とかは、持てなくなる時代です。こう言う時代を、明るく生き抜くことは、大変難しいと思います。そして、神を抜にした人生は、自分で暗い、邪悪な時代を切り開いて行かなければなりません。しかし、神を抜きにした人生には、出エジプトの民が葦の海を前にした窮地に陥ったように、こういう絶望状況にぶつかる、のではないかと思います。今起きている、いろいろな、凶悪な犯罪や事件も、このことと無関係ではないと思います。 

しかし、まことの神、イエス・キリストを人生に迎え入れるなら、私たちの予測をはるかに越えて、神が、私たちの人生を、切り開いていってくださるのです。 そのことを、この出エジプトの出来ごとは教えていると思います。イエス・キリスト、まことの神は、御自身で働いてくださり、戦ってくださり、私たちの運命を切り開いて下さる神なのです。ですから、この神を、人生に迎え入れるなら、どんな苦しいときでも、どんなつらいときでも、生きていくことができるのです。 

出エジプト14:13「恐れてはいけない。しっかり立って、きょう、あなたがたのために行なわれる主の救いを見なさい。14:14 主があなたがたのために戦われる。あなたがたは黙っていなければならない。」 と言われています。

このことばは、まさに、イエス・キリストによる、十字架の救いに通じるものがあると思います。イエス・キリストのご生涯は、孤独と苦しみと不条理をなめ尽くした生涯でありました。そして、その十字架の死は、イエスさまが、一人で、私たちの神への背きの罪のために、苦しまれ、戦われた、死であったのです。
イザヤ53:5 しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。 
イエスさまの十字架、それは、キリストが私たちに代って、私たちの罪と戦ってくださる、戦いでした。イエスさまは、十字架のその戦いの苦しみの故に、十字架上で、大声で、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」と叫ばれました。 私たちのために、イエスは、十字架でひとりで、私たちの罪のために、戦われたのです。そして、私たちに、救いをもたらされたのです。神に背いていた、根本的な罪の赦しと、神の子どもとする特権、永遠のいのち、そして天国に入る資格を、キリストを信じるものに、与えられたのです。

私たちは、この神の戦い、キリストの血みどろの戦いのゆえに、どんな罪からも救われることが出来るのです。そして、このキリストを人生に迎えれるとき、神が、私たちの人生を戦って下さるのです。キリストを受け入れるとき、この神が戦ってくださるがゆえに、絶対絶命に陥ったときでも、最後まで、人生をあきらめないで、生き抜くことができるのです。そして、人生に訪れるその危機、窮地の状況は、必ず変えられるからです。それは、神の眠らない働きのゆえに、神の血みどろの戦いのゆえに、もたらされる救いです。 

あなたも、今、このまことの神、イエス・キリストを、その心に迎え入れるなら、どんな暗い時代のなかであっても、神が、あなたの人生を切り開いてくださるのです。 絶望的などうにもならない状況を、思いもよらない、喜びの方向に、主イエスが、変えてくださるのです。

だから、「主があなたがたのために戦われる。あなたがたは黙っていなければならない。」「しっかり立って、きょう、あなたがたのために行なわれる主の救いを見なさい。」と主なる神は、言われているのです。

アーメン。  


神学とは何か(人はどうして神を知りえるか)

2009-02-03 | 牧師の窓
          神学とは何か(人はどうして神を知りえるか)                         

1.神学とは何か(広い意味で)。   

神学の学は学問の学です。つまり神学とは、神を知る学問であると言えます。神学とは、学問的な方向で真理が何であるか、そのもの自体を客観的に見ようとしているものです。  
カルブァン(宗教改革者1509-1564)は「神を知る知識とわれわれ自身を知る知識とは結びあったことがらである。」と言い、また「人間は神の御顔をまず凝視し、その次にこれを直視することから、自己自身を検討することへと、へりくだって来るのでなければ、くもりのない自己理解に達することが決してない」と言っています。  

つまり、人間を理解したければ(自分人身を知りたければ)まず、神を知ることだと言うのです。 カルブァンのこの言葉は神学とは何かをよくあらわしています。神学とは、神のわざの全体を神の視点からとらえていくことです。また、この世界のすべてのもの、すべての事柄を、神とのかかわりで、とらえていくことです。  

例えば、人の生きる意味はどこにあるのか。人は死んだらどうなるのか。火葬された骨にはどんな意味があるのか。とか様々のことを人間の思いや考えでは、それぞれ、十人十色の見解があり、真理がどれかわかりません。そこで、これらのことを、神はどうお考えになっているのかを、神の視点か考え学問するのです。

また、人間の救いについて、人間自身の必要から考えることも出来ますが、人によっては必要ないと思っている人もいるでしょう、しかし、神の視点から、人の救いの必要性を見ていくとき、すべての人に共通の理解が示されます。これが神学するということです。                      

2.神学とは何か(狭い意味で)。  

神学 theologyセオロジーという言葉は、ギリシャ語のセオスとロゴスに由来し、セオスは「神」の意、ロゴス は「言葉、話し、教え、説教」を意味しています。神学とは、神に関する学問ですが、同時に神についての知識でもあります。つまり、神に教えられた、神についての知識が神学でもあります。 そこで神学とは、狭い意味では、神についての教理で言えます。  

教理とは、聖書に記されている神の啓示の諸真理についての教えです。また、教義(ドグマ「指令・勅令・命令・規定・おきて」の意)とは、ギリシャ語のドケオーに由来します。ドケオーの意味は「期待する・と思う・と見なされる・決定する」です。教義とは、教会が教理を熟考し聖霊の導きの中で、最終的に公的な教会(会議)によって定義された、神の権威に基づいていると宣言された、教理のことです(個人的見解ではないということです)。

それは教会の信条(信仰告白)という形をとるようになりました。簡単に言えば、教義とは、教会が公認した教理のことです。ちなみに、アメリカではこの公認された教理の学的研究を「組織神学] SystematicシステマティックTheologyセオロジー ということばで言いますが、ドイツ、オランダでは「教義学(教理学)」DogumaticドグマティックTheologyセオロジー と言っています。

3.なぜ人は神学できるのか。   

では次に、人はなぜ神について考えたり学んだり、神が考えていることを学ぶことが出来るのでしょうか。
   
(1)神の啓示による  

それは、神が神御自身を人に啓示して下さったからです(神の啓示には、一般啓示と特別啓示がありますが、これは別講「神の啓示について」を参照してください)。
その神の啓示の中心は「聖書」です。神はそのわざのすべてを、聖書を通して明らかに しておられるので、私たちは聖書を通してのみ神について、論じることが出来ます。  

したがって神学とは、聖書のみことばを通して、神と神がそのことをどう考えているかを学ぶことです。またそれは、聖書から神の語りかけを聞くことでもあるのです。私たちは、聖書を通して、神が人に知らせていることを、学ぶことが出来るのです。  

また、人間の側でも神の啓示を知ろうと努力することは必要なことです。すなわち、私たちが神について知ろうとして、聖書から神の語りかけを聞くこと、 また、自分の問題を神の判断を聞くために、聖書から解決の道をさぐること、これはみな神学なのです。ですからすべてのクリスチャンは、神学をしているのです。   

神学は神についての思弁的(感想的)、観念的な議論ではなく、神が啓示されていることから、神を知ることが出来るのであって、それでも隠されていることは、神のものなのです。人間が知ることが出来ないもののあるのです。 
「隠されていることは、私たちの神、主のものである。しかし、現されたことは、永遠に、私たちと私たちの子孫のものであり、私たちがこのみおしえのすべてのことばを行うためである。」(申命記29:29)
                                     
(2)人間に与えられた能力(一般恩寵による)   

人が神学できる理由は、神の啓示とともにもう一つ、人間のもつ能力を上げることができます。しかし、この人間のもつ能力は、神の恩寵(恵み)によって、与えれたものです。  すなわち、神が人間を創造したので、私たちは今、存在しています。しかも、「人間は神のかたちに創造され」(創世記1:26.27)ているが故に、啓示された神のことばを理解することが出来るのです。  

また神は、人間は罪の堕落によって、知・情・意・すべてが堕落をしているにもかかわ  らず、ある程度神のかたちを保持し、神の啓示を理解できるようにしておられます。 また、正しいことや善を望ませ、創造的な働きをする能力が、人には与えれています。これを神の「一般恩寵」と言います。これは神学の出発点でもあります。

4.神学の必要性  

ヘンリー・シーセンは「真の信仰は知性、感情、意志を含むものであって、性格や行為の上に影響をおよぼすこと。また、人は自分の信じていることに従って行動する。」 と言っています。神学することは、その学んだことによって、自分の生き方を、神のみこころにそったものに変える動機となります。また、シーセンはこう言っています。「今日、礼拝で教理的な説教は嫌われる傾向にある。しかし、人が神のことばを徹底的に教え込まれるとき、初めて確固としたキリスト者になり、役立つ働き人になる。」

5.神学諸科の分類  

次に神学の諸科の分類をあげると、プロテスタント福音派の分類はおおよそ以下のとおりです。
(1)聖書神学  
聖書は神の啓示の書でるので、聖書は神学に必要かつ重要な中心です。     聖書はキリスト信仰のかかわるすべての出発点です。したがって、旧新約聖書そのものの研究(聖書神学)は、神学研究の最初の位置を占め、神学のベースになる部分で、非常に重要です。聖書神学は、聖書の本文および本文の復原、位置づけ、解釈に役立つ本文と関連した、諸学科の学びに直接たずさわります。この部門には以下の学びがあげられます。聖書言語(ヘブル語・ギリシャ語)・聖書考古学・聖書緒論・聖書釈義・聖書解釈学・本文研究・聖書史・聖書神学。 

(2)歴史神学          
キリスト教の根本的中心的な事柄は(例・キリストの十字架)啓示の出来事として歴史的な事実であるから、それは歴史的研究を必要とします。また、私たちの信仰生活そのものも歴史の中でなされています。そして、神学はキリストの教会の歴史の中でなされて来たゆえに、その歴史から学ぶことは、神学することになります。教会の歴史を軽視することは、その信仰が、根のない信仰となりやすいでしょう。
この部門には以下の学びがあげられます。聖書歴史・教会史・宣教史・教理史・神学史・信条史・教父学・礼典史・教会音楽史・キリスト教美術史・教会会議史。 

(3)組織神学          
聖書神学から基本的材料を受け取り、歴史神学の収穫と洞察を受け止めつつ、キリスト教信仰の真理内容(教理)を系統的、組織的に提示する学びです(P.2の2を参照)。この組織神学では、福音の真理を断片的、部分的でなく、全体像を明らかにしようとします。また、個々の教理を他の諸教理との相互関連性のなかで提示しようとしています。また、キリスト教真理の有意義性と妥当性を現代という状況を踏まえながら立証しようとしています。キリスト教倫理学・弁証学が含まれます。                
組織神学は教理を以下の部門に分類して学びます。 
                
1)聖書論・・・啓示としての聖書、霊感。        
2)神論・・・・神の本質と属性、聖定論、創造論、三位一体論        
3)聖霊論・・・聖霊の本質と働き。        
4)人間論・・・人間の起源、堕落と罪。             
5)キリスト論・キリストの人格、十字架と復活。        
6)救済論・・・選び、回心、義認と新生、聖化、堅持。        
7)教会論・・・教会の定義と設立、礼典、組織、使命と将来。        
8)終末論・・・キリストの再臨、人の復活、千年王国、新創造。
 
(4)実践神学          
神学の適用を取り扱うものです。神学の他の三部門から得た事柄を、実際の生活に適用することを学びます。この部門には以下の学びがあげられます。教職論・教会政治論・教会法・礼拝論・教会音楽論・教会建築・説教学・キリスト教教育学・牧会学・牧会カウンセリング・伝道学・宣教学・社会福祉論。

さて、このような神学校で学ぶような、神学の各科目の学びがなくても、毎日、聖書を読み聖書が語ることを、理解し、そのことに信頼して生きるとき、人は、神を知り、人を知って生きていることになるでしょう。そして、自分の生き方に確信を持つことができると思います。ぜひ、聖書を神のことばと信じて、これに信頼し、自分の人生の羅針盤として、そのお言葉に従って行ってみてください。きっと、光の中を歩んでいくに違いありません。




参考文献                                  
1)ジャン・カルブアン著・渡辺信夫訳『キリスト教綱要・』新教出版社、
1962(原書1559).
2)ヘンリー・シーセン著・島田福安訳『組織神学』聖書図書刊行会、1961(原書
1949).
3)ルイス・ベルコフ著・森田勝美・今井正訳『組織神学序論』聖契授産所出版
部、1997(原書1941).
4)ルイス・ベルコフ著・大山忠一訳『改革派神学通論』聖契授産所出版部、1979(原書1933).
5)岡田稔『改革派神学概論』、聖契授産所出版部1985.
6)宇田進・鈴木昌・蔦田公義・鍋谷尭爾・橋本龍三・山口昇編『新キリスト教辞
典』いのちのことば社、1991.    
7)上沼昌雄『罪と恵みの中の私』聖書と神学ミニストリー、1996.     
8)宇田進「神学入門」の項(どこの辞典かは不明).


                  高崎キリスト福音宣教会 牧師 金井浜夫


神の啓示について

2009-02-02 | 牧師の窓
                神の啓示について

 ノンクリチャンの中にも、クリスチャンの中にも、ときどきですが、「私は神の啓示を受けました」と言う人がいるようですが、しかし「神の啓示を受けた」という言葉を簡単に使っていないでしょうか。
「これは神の啓示によって示されたことです」と誰かが言った場合、人は一切そのことに口をはさむことができなくなります。人は神ではなく、神は絶対のお方です。神のなさることに人が異議を唱えることはできません。つまり、「神の啓示を受けた」といういう言葉の重みは、絶大なものがあります。それは「神の導きを受けた」と、言うべきところを、「神の啓示を受けた」と、言ってしまっていることはないでしょうか。
そこで、神の啓示について正しく理解していただくために、聖書から考察してみたいと思います。
                      
(1)人間だけで神を知ることはできない  

神を知ろうとするのは、人間の側の行為ですが、神がいることは分かっても、人間の有限な頭脳では、無限の神というお方が、どういうお方かを知ることはできません。 パウロという人は、一世紀の頃ギリシャ文化と学問の都アテネに行ったとき「知られない神に」と刻まれた偶像(祭壇)があるのを、見つけたと言っています(使徒の働き17章23節)。これは人々が、自分たちが拝んでいる対象が、どんなものか知らないで拝んでいる、結果になっていることの良い例でしょう。  

しかし、神はご自分の方から、ご自身を「あらわ」されたのです。すなわち神は、ご自分から人に、お語りになり、御自身を啓示なさいました。人間が地上に存在する前から、神は活動しておられました。また、人間が神を探求する前から、神の方で人間を探し求めておられました。「初めに、神が天と地を創造した」(創世記1:1)「なぜなら神について知りうることは、彼らに明らかであるからです。それは神が明らかにされたのです。」(ローマ1:19)「神は、むかし先祖たちに、預言者たちを通して、多くの部分に分け、また、いろいろな方法で語られましたが、この終わりの時には、御子によって、私たちに語られました。」(ヘブル1:1)。  

(2)啓示ということば  

Revelationレバレイション は「啓示」とも「黙示」とも訳されることばです。 このことばは、新約聖書の原語のギリシャ語のアポカルプシスの訳語です。アポカルプシスは「啓示」「顕現」 「出現」の意味があります。 アポカルプシスは、アポカルプトウ という動詞から来ており、アポカルプトウには、 「被いを取り除く」「現す」「露見する」「明るみに出る」「啓示する」言う意味があります。 また、アポカルプシスは、「黙示」とも訳されることばです。 「イエス・キリストの黙示。これはすぐに起こるはずの事をそのしもべたちに示すため、神がキリストにお与えになったものである。そしてキリストは、その御使いを遣わして、これをしもべヨハネにお告げになった。」(ヨハネの黙示録1:1) 。このように、アポカルプシス=啓示は、神が隠されていた事柄をあらわにする行動、 ないしは、そのようにして神の側からあらわにされた事柄、をさすことを意味する言葉であると言えます。    

ガラテヤ1:12、2:2、エペソ1:17、3:3、ローマ1:17、18、ルカ2:32、 ローマ16:25、26、ルカ10:22、マタイ11:27、1コリント1:7、1ペテロ1:7、5:1、ルカ17:30などを開いて見て下さい。「啓示」と訳されているところと、「現れ」と訳されているところが出てきます。どちらも、アポカルプトウ (啓示する)ということばが使われています。   

また、アポカルプシスに対応する、旧約聖書のことばは、へブル語のガーラーで「あらわにする」「耳を開く、知らせる」、(受け身形で)「啓示されたもの」、(はかりごとを)「示す」「現れる」「離れ去る」という意味があります。「ペルシャの王クロスの第三年に、ペルテシャツァルと名づけられていたダニエルに、一つのことばが啓示された。」(ダニエル10:1)               

(3)一般啓示(自然啓示)   

神の啓示は人間の理性によって理解できるものです。一般啓示は全世界どの地でも、すべての民族、どの時代の人々にも示されている啓示のことです。 これは自然、歴史、良心の中に見いだされます。 

①自然における神の啓示
   
「天は神の栄光を語り告げ、大空は御手のわざを告げ知らせる。」 (詩篇19:1)「神の、目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造された時からこのかた、被造物によって知られ、はっきりと認められるのであって、彼らに弁解の余地はないのです。」(ローマ1:20)             

②歴史における神の啓示
  
腐敗した諸国家が今日まで続いていないこと、彼らはより正しい国家に滅ぼされているという事実を見るときに(近代の世界大戦を含む)、そこに神の意志、みわざの現れを、見ることができます。「高く上げることは、東からでもなく、西からでもなく、荒野からでもない。それは、神が、さばく方であり、これを低くし、かれを高く上げられるからだ。」                            (詩篇75:6、7) 世界の歴史を見るときに、そこに神の摂理と啓示を、見いだすことができます。さらに詳しくは、神はイスラエルの歴史の中に、特にご自身を現されたことがわかります。 

③良心に現れた神の啓示
  
人間の中にある良心の存在は不十分ですが、人間の中に残る「神のかたち」の部分 です。すべての人間の中に善悪の感覚があり、識別力があり、自分の道徳的基準に一致しているかを判断し、反していることを避けさせる行動に駆り立てるのは、人間の中にある良心です。このことの中に、神の啓示があると言うことできます。「彼らはこのようにして、律法の命じる行いが彼らの心に書かれていることを示しています。彼らの良心もいっしょになってあかしし、また、彼らの思いは互いに責め合ったり、また、弁明しあったりしています。」(ローマ2:15)  

しかし、一般啓示だけでは十分ではありません。神が存在すること、神が偉大なお方で栄光に満ち、万物を支配し、無限の力を持っていることは一般啓示から分かっても、 神の本質、性質、意志(みこころ)を知ることは出来ません。また、神を人格的に知り、神と親密な交わりを持ち、直接的な助けを頂くためには、もっと実際的な啓示が必要となります。

(4) 特別啓示  

一般啓示は明瞭であっても、それを受け取る人間の心が、罪により「神のかたち」がそこなわれていることにより、自然界の姿を通してあらわされている神のみわざが、見えない状態になっています。また、一般啓示には、罪を犯した人間の救いと、救いのために必要な知識は含まれていません。そこで、神の霊(聖霊)の働きによって、預言者や使徒といった特別な人々を用いて、すなわちイスラエル民族を通して、神の意志を伝えた神の啓示が、特別啓示です。これを超自然啓示ともいいます。そしてこれは、おもにイエス・キリストの人格と生涯のうちに現されています。 

①神は語られた・・旧約の預言者とイエス・キリスト
  
「神は、むかし先祖たちに、預言者たちを通して、多くの部分に分け、また、いろいろな方法で語られましたが、この終わりの時には、御子によって、私たちに語られました。」(ヘブル1:1)。「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。」(ヨハネ1:14)  

これらのことばは、特別啓示には、歴史的進展が、あることを示しています。旧約時代、 神はイスラエル民族の歴史を通して、神の啓示の媒介者としての預言者たちをとおし て、罪の赦しとあがないの計画を語りました。「いろいろな方法で語ら」と言う中には、 神の行為による啓示(奇跡のわざ)も含まれています。  
旧約聖書の中には、「預言する」「夢を見る 」「幻を見る 」という表現がよく出てきます。これはヘブル語本文でよく見られるparallelismパラレリズム(並行法)です。  

すなわち、これらは、それぞれ違う種類のわざではなく、三つとも神の啓示を指してい るます。旧約聖書の中には啓示の手段として、夢、幻、神のことばを語る預言、があ ります。しかし、旧約聖書における啓示の手段としての夢は、ヨセフ物語(創世記37, 40,41章)ギデオン(士師7:13以下)、ソロモン(列王上3:5,15)などでは評価することが出来ますが、大預言者(イザヤ、エレミヤ、ダニエル等)においてはほとんど啓示の働きをしていません。  

啓示の手段としての幻、の場合に留意すべきことは、幻を見た者が、その視覚的経験を常に(へブル語)ラーアー「見る」という語を用いていることです。幻をうける事に対して、ラーアー「見る」という語が、用いられていることが、証明しているように、明かに預言者たちはそれを、自分の意識がはっきりしない恍惚現象として理解したのではなかったということです。              

旧約聖書のおける啓示で、最も重要なのが、言葉による啓示です。すなわち、預言者 が預言したものは、神が預言者に与えられた言葉の啓示であった。預言者の使信のほとんどが、「主はこう言われる」という言葉をもって始まり、また終わっています。(イザヤ1:2、11、20、3:16、エレミヤ1:14、2:5、アモス1:3、6、等等) 

そして、新約の時代に、時満ちて神は、約束の贖い主(救い主)イエス・キリストを遣わしました。このイエスの受肉、生涯、十字架、復活、昇天、再臨の出来事そのものが神の啓示です。すなわち、イエス・キリストは「受肉した神のことば」なのです。(ヨハネ1:14、18、14:9)「この終わりの時には、御子によって、私た ちに語られました。」 

②神のことばの啓示である聖書 
 
旧約聖書は、預言者によってなされた、イエス・キリストの到来の約束の啓示であり、新約聖書は、イエス・キリストによって与えれた、約束の成就と、救いの完成の啓示です。  
聖書は完結した、救いのための神のことばであり、今日、神は聖書を通して、私たちに当時と全く同じ、神のことばを語っておられるのです。  

聖書が完結された今、聖書によって、人に対する神の啓示(語りかけ)は、十分であるため、今は、聖書の完結以前のような預言はないと言っても良いと思われます。従って、今日では聖書が神の特別啓示の唯一ものと言うことができるのです。(しかし、これは個人的に経験する、神の奇跡がなくなったと言うことではありません。奇跡のわざは啓示ではなく、主のみわざです)  

「聖書はあなたに知恵を与えてキリスト・イエスに対する信仰による救いを受けさせることができるのです。」(2テモテ3:15)「それから、イエスは、モーセおよびすべての預言者から始めて、聖書全体の中で、ご自分について書いてある事がらを彼らに説き明かされた。」(ルカ24:27)「あなたがたは、私たちから神の使信のことばを受けたとき、それを人間のことばとしてではなく、事実どうりに神のことばとして受け入れてくれたからです。この神のことばは、信じているあなたがたのうちに働いているのです。」                       (1テサロニケ1:13) 

イエス・キリストの救いの約束と成就に関する、さまざまな客観的事実は「むかし先祖たちに、預言者たちを通して、多くの部分に分け、また、いろいろな方法で語られましたが、この終わりの時には、御子によって、私たちに語られ」た、神のことばの啓示によって、その意味と目的を知ることができるのです。  

神のことばの啓示が、神の働きと守りによって文書化されたのが聖書です。そして、 その完結された聖書は教会に与えられました。聖書の啓示は事実と解釈の統一としての神にことばです。以下は、福音が聖書の示す通りに成就したことが分かります。 
「私があなたがたに最もたいせつなこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、また、葬られたこと、また、聖書に従って三日目によみがえられたこと、・・です。」(1コリント15:3-4)  

聖書の啓示は、その内容の意味は、人間の側の思いや考え方に左右されるものでは なく、客観的な事実であり、これを人間は自分に都合の良い、自分勝手な解釈をして はならないのです。

(5)特別啓示である聖書があるから神を知ることができる  

この聖書に啓示されている、イエス・キリストの特別啓示こそ、人間の救いの道であり、信仰をもってキリストを受け入れる者は、罪赦されて義なる者とされるのです。そして、イエス・キリストの救いにあずかって、全く新しい人に造り変えらるとき、自然啓示を、神の自然啓示として、ありのままに見ることができ、その意味も新しい意味を持ってくるのです。
   
神の啓示の中心は「聖書」です。神はそのわざのすべてを聖書を通して明らかにしておられるので、私たちは聖書を通してのみ神について、論じることが出来ます。したがって、神学とは、聖書のみことばを通して、神御自身を知ることであり、神がある事柄をことをどう考えているかを学ぶことです。またそれは、聖書から神の語りかけを聞くことでもあるのです。私たちは、聖書を通して、神が人に知らせていることを、学ぶことが出来るのです。 ですから誰でも聖書を読んで、学ぶ時、そこに啓示されている神の意志、みこころは何かを、聖書が書かれた当時と同じように、知ることができるのです。

(6)神を知るとする努力 
  
神は私たち人間を探しだそうとしています。ですから、人間の側でも神を知ろうと努力することは必要なことです。自分で考えることは大切なことです。あきらめることなくです。「もし、あなたがたが心を尽くしてわたしを捜し求めるなら、わたしを見つけるだろう。」(エレミヤ29:13)「求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。」 (マタイ:7) 
「神に近づきなさい。そうすれば神はあなたがたに近づいてくださいます。」                           (ヤコブ4:8)  
神に近づくとき(神を求めるとき)大切な私たちの態度は、神に対して、無関心にならないこと、偏見を捨てること、高ぶらずに謙虚になることです。「これらのことを、賢い者や知恵ある者には隠して、幼子たちに現して(啓示した)くださいました。・・・これがみこころにかなったことでした。」(マタイ11:25-26)             




参考文献                                  
1)ジョン・ストット著・有賀寿訳『これがキリスト教です』すぐ書房、1995(原 書1958).
2)ヘンリー・シーセン著・島田福安訳『組織神学』聖書図書刊行会、1961(原書 1949).
3)宇田進・鈴木昌・蔦田公義・鍋谷尭爾・橋本龍三・山口昇編『新キリスト教辞 典』いのちのことば社、1991.    
4)佐竹明『ヨハネの黙示録上』新教出版社、1978.
5)岩隈直『新約ギリシャ語辞典』山本書店、1982(初版1971).6)名尾耕作『旧 約聖書ヘブル語大辞典』聖文舎、1982.