老いてもなお実を実らせる人生
さて、私たちは誰でも、健やかな老い、美しい老いを、迎えられるように願っているのではないでしょうか。
仏教では、この世を4つの苦しみの場としてとらえています。「生、病、老、死」の4つの苦しみに、人生全体を集約します。「生、病、老、死」の四苦とは、生きることの苦しみ、老いることの苦しみ、病むことの苦しみ、そして、死の苦しみです。この四苦の中に、老いの苦しみが入っています。
老いていくということは、やはり、喜ばしい事というよりも、苦しいことなのでしょうか。確かに、そうだと言えるかもしれません。若くして死なない限り、すべての人は、老いを経験します。そのすべての人が経験する、老いとは、そんなに、苦しい惨めなものなのでしょうか。 私たちは、老いをどうとらえたら良いのでしょうか。では、聖書は人の老いをどうとらえているのでしょうか。幾つかに絞って見ていきます。
第1に、年を重ねて高齢者=老人、になることは、神の祝福であると聖書はみています。
そして、老人がその共同体にいるということは、その共同体が神によって祝福されている証拠でした。
今でこそ、日本は世界一の長寿国ですが、日本も江戸時代末期までの平均寿命は、30歳と言われています。それは、伝染性の病気で大量の死者を出したり、乳児死亡率が高かったからです。5歳までに50%の子供が死んでしまったそうです。これは、大名や将軍の子供でも例外ではなかった。(勿論、例外的に長生きをした人もいた。しかし、平均は30才であった。)。 ちなみに、聖徳太子は48才で死にました。また、源頼朝は52才、足利幕府をつくった足利尊氏は53才、足利幕府3代将軍・足利義満は50才で死に、応仁の乱を引き起こした足利8代将軍・足利義政は54才で死んでいる。
戦国時代に、明智光秀に殺された、織田信長は48才、上杉謙信も48才で死んでいる。武田信玄は52才、豊臣秀吉は62才、徳川家康は75才まで生きました。
そして、古代イスラエルにおいても、アブラハム、イサク、ヨセフと言った族長時代以降は、戦争や、天災、飢餓、病気など、様々な危機を乗り越えて生きる老人は、ごく少数でした。例えば、旧約聖書における平均寿命を見ると、これは、ダビデ王の家系のその後の王たち14代の王の平均寿命を調べた人がいます。その人によると、平均寿命は43.6才であったと言います。
中には暗殺された王もいましたが、それでも、一般人は、王様のような栄養を取れなかったことえを考えると、古代イスラエルにおいて、一般人の平均寿命は30才代であったろうと言っています。(日本と同じです。)。
ですから、イスラエルでは、老人が共同体の中にいると言うこと自体が、その共同体が神によって祝福された証しでした。まず、これが、聖書の老人観です。聖書はこう言っています。
レビ記19: 32 あなたは白髪の老人の前では起立し、老人を敬い、またあなたの神を恐れなければならない。わたしは主である。
聖書は老人に対しては、敬意を表すべきであることを言っています。→「あなたは白髪の老人の前では起立し、老人を敬い、またあなたの神を恐れなければならない。」。
この言葉は、老人を敬うことは、神を敬うことにつながっていることを示しています。
「あなたの父母を敬え。」ということは、皆、聖書の言葉として知っています。しかし、聖書はさらに、「あなたのおじいさん、おばあさんを敬え」と言っていることも、私たちは、忘れてならないと思います。高齢者を大切にすべきことは、聖書の教えです。
しかし今、日本は老人が多い国であり、厚生労働省の調査では、今年も100歳以上が、47,756人いる。日本は、聖書的にみると、神に祝福されている国になります。
しかし、高齢者とのゆったりとした会話や交わり、高齢者を愛し、敬う、心の豊かさを持って生活しているかと言うと、そうではなく、むしろ、そういったものを、失ってしまっているのではないでしょうか。どうしてなのでしょうか。
多くの孤独の老人は、自分に対して興味をしめしてくれる人はいない、と思っているようです。今の時代、私たちは、もっと、もっと、老人を愛することが求められていると思います。
レビ記19: 32 あなたは白髪の老人の前では起立し、老人を敬い、またあなたの神を恐れなければならない。わたしは主である。
さて、聖書が示す老いの特徴の第2は、知恵と分別があるということです。
高齢者は、自分の弱さは自覚していますが、知恵と慎重さと、分別があるのです。高齢者は若者よりもずっと、相手の言うことを聞き、理解しようとする心を持っていると、聖書は見ています。
旧約聖書の中の2サムエル記に、ダビデ王が、その子アブシャロムの反乱で、アブシャロムから命を狙われて、王宮を逃げ出して行く、ところがあります。ダビデは突然のことで、着の身着のまま荒野に逃げて行ったわけですが、その時、80歳になるバルジライという人(当時としては相当な老人です)が、逃げてきたダビデをかくまい、養いました。 そして、ダビデ軍はアブシャロム軍に勝利して、王宮に戻るのですが、そのとき、ダビデは、このバルジライへの感謝として、バルジライを一緒に王宮に連れていき、側近に取り立てて、一生面倒みる、と言いました。しかし、バルジライは、「私はもう高齢で、王の役には立ちませんから結構です。」と言って王の申し出を辞退しました。そして、そばにいたキムハムという若者を、自分の代わりに、連れて行ってダビデの家来にしてくれるように、頼みました。
このように、年をとるにしたがって増してくる、自らの弱さを冷静に認め、他の人の迷惑になることをよしとせず、謙遜に、若者を後押ししている、老人の知恵と分別のある姿を、聖書は示しています。
また、1列王記には、ソロモン王の子供のレハブアム王のことが出て来ますが、このレハブアム王は、民たちの訴えがあったので、自分の政治判断をするために、長老と若者に、相談しました。老人である長老たちは王に、民の強制労働を軽減して、民に親切にすれば、民は王に従うようになると進言しました。しかし、若者たちは、もっと税金を取り立て、過酷な労働を嫁すように言いました。レハブアム王は、老人の意見を退け、若者の意見を採用しました。そして、失敗してしまいました。若者の意見を受入れて、民を苦しめた結果、国が北王国と南王国の二つに分裂してしまったのです。老人である長老たちの意見を大切にしていれば、こんなことにはならなかったのです。
このように、老いた者は慎重で、苦しむ者の気持ちを理解できる、また、その判断に分別のあることを、聖書は示しています。
次に、聖書が示す老いの特徴の第3は、第2のことと反対のことです。さて、聖書から見る、老いの第3の特徴は、それは、年をとれば誰でも、分別のある人になるかというと、そうではなく、「愚かな王様」になる人もいる、言うことです。
聖書は、知恵と分別は、老いの特徴であると言っています。しかし、同時に、人はさまざまであって、年をとっても、頑固やわがままで、プライドが強く、人を困らせる老人もいると、聖書は正直に言っています。
ヨブ記32: 9 年長者が知恵深いわけではない。老人が道理をわきまえるわけでもない。
伝道者の書 4: 13 貧しくても知恵のある若者は、もう忠言を受けつけない年とった愚かな王にまさる。
これは、私たちすべての者への神からの警告でしょう。年をとって生きるが大変になる人は、頑固で、謙遜になれない人だと思います。年をとって、身体もきかなくなと、家族や他者に、お世話になる機会が多くなると思います。しかし、その時、謙遜になれないと、「誰々さんの世話にはなりたくない。」、と言って、ますます自分を孤独にしてしまいます。そして、生きていくのが大変辛くなる。
私はかつて、中之条で伝道していた頃、沢渡温泉病院に伝道していたことがあります。200人ぐらいの入院患者さんがいたでしょうか。そのベットを一つ、一つを回って伝道していた時、ある付添家政婦さんが、「ぜひ、わたしの患者さんに、話をしてください。」と言われた。行ってみるとその人は、車イスに座ったまま下を向いて、じっとしている。動こうとしない。このままでは、強制退院させられると言う。私は聖書の話をしたが、その人は、ほとんど聞こうとしなかった。その人は、公立学校の校長をした人で、エリート街道を歩んできたそうです。しかし、脳梗塞になり、身体が動かなくなってしまった。とても、プライドが強く、惨めな自分を受入れられず、リハビリをすることについても、誰の言うことも聞かない、と言うことでした。
聖書は、人が年をとれば、自然に、謙遜で分別のある人になるかというと、そうではなく、「忠言を受けつけない年とった愚かな王」になることもあると、言っております。 私たちは老いても、「忠言を受けつけない年とった愚かな王様」なってはならないのであります。
さて、ここまでは、聖書の中から老いの特徴を3つに絞って、見てまいりましたが、では、私たちが健やかに、老いを生きるための秘訣を、聖書はどう教えているのでしょうか。
聖書が教える、老いを健やかに生きる秘訣の
第1は、年をとればとるほど、神により頼んで生きると言うことです。
年をとれば、誰で皆、身体のどこかが痛んできます。自分の弱さがわかります。そのときこそ、自分の力により頼んで生きるのではなく、また、他人の力により頼んで生きるのではなく、神に=キリストにより頼んで生きると言うことです。その人に神は、こう約束しています。
イザヤ書 46:3 ・・胎内にいる時から、担われており、生まれる前から運ばれた者よ。
イザヤ46:4 あなたがたが年をとっても、わたしは同じようにする。あなたがたがしらがになっても、わたしは背負う。わたしはそうしてきたのだ。なお、わたしは運ぼう。 わたしは背負って、救い出そう。
ここに神の慈しみ深い約束があります。神は、どんなに年をとっても、私たちを背負い運んでくださると約束してくださっているのです。
永遠の神、無から天地を創造した神、イエス・キリストに、心からより頼み、望みをおく人は、地上の生活における、身体の不調や弱さに、一喜一憂するのではなく、老いても、人知を越えた神の愛、神の力を体験するというのです。
次に、健やかに老いを生きる秘訣の第2は、賛美と祈りに打ち込むことです。
それは、
詩篇71: 8 私の口には一日中、あなたの賛美と、あなたの光栄が満ちています。
詩篇 71:14 しかし、私自身は絶えずあなたを待ち望み、いよいよ切に、あなたを賛美しましょう。
ここには、年老いてもなお、日々、神をさんびする口があります。神を讃美して歌う、とき、心がいつも神に向かいます。・・次に9節です。
詩篇71: 9 年老いた時も、私を見放さないでください。私の力の衰え果てたとき、私を見捨てないでください。
詩篇 71:18 年老いて、しらがになっていても、神よ、私を捨てないでください。
これは、祈りです。このように、老いの大変さをじっと自分の中に閉じ込めないで、率直に、この詩人のように神に祈ることです。このように、老いても日課のように、神への賛美と祈りに打ち込んでいくことができます。賛美と祈りによって、魂はますます元気になり、生きる力が出てきます。
次に、老いを健やかに生きる秘訣の第3は、老年期だからと言って、消極的に生きるのではなく、積極的に生きること、福音宣教に生きることです。
それは、自分に出来ないことがあることを悔やんで、何もしなくなるのではなく、自分に出来ないことは、できないと正直に認め、自分に出来ることを、前向きに行うことだと思います。 教会の礼拝、集会に、できるだけ出席することもその一つでしょう。祈りと賛美もその一つでしょう。祈りは、最後の最後まで、できる主への積極的な奉仕です。
さらに、詩篇71篇15、17、18節にはこうあります。
詩篇71:15 私の口は一日中、あなたの義と、あなたの救いを語り告げましょう。私は、その全部を知ってはおりませんが。
詩篇71:17 神よ。あなたは、私の若いころから、私を教えてくださいました。私は今もなお、あなたの奇しいわざを告げ知らせています。
詩篇71:18 ・・・・私はなおも、あなたの力を次の世代に、あなたの大能のわざを、後に来るすべての者に告げ知らせます。
ここで、詩人は、「年老いて、しらがになっていても、・・私はなおも、あなたの力を次の世代に、あなたの大能のわざを、後に来るすべての者に告げ知らせます。」と、言っています。詩人は、若いころから教えられてきた、神のみわざと義を、次の世代の者へ、告げ知らせる、と言っています。 「年老いて、しらがになっていても」、彼は自分の弱さを認め、自覚しているが、その弱さと、反比例して、神の義と、神の救いの偉大さをますます深く知り、それを宣べ伝えると言っているのです。つまり、老いてもなお、神の救い、キリストの救い、神の御ことばを、生活の中で、次の世代に宣べ伝える、福音宣教をすると、言っているのです。
伝道の仕方には、様々あります。普段の人との会話の中で、教会を紹介したり、集会にさそったり、いろいろな、方法があると思います。キリストを伝えていくこと。「年老いて、しらがになっていても、・・私はなおも、あなたの力を次の世代に、あなたの大能のわざを、後に来るすべての者に告げ知らせます。」。ここに、老いてなお、積極的に生きる、生き生きとした、生き方があると思います。
さて、 老いても神にすべてをより頼んで生きる人。老いても賛美と祈りに打ち込む人。そして、老いても、消極的に生きるのではなく、積極的に生きる、福音を宣教する人。
そして、老いても、神に感謝できる人。こういう人を、聖書は、こうまとめています。
詩篇92:13 彼らは、主の家に植えられ、私たちの神の大庭で栄えます。
詩篇 92:14 彼らは年老いてもなお、実を実らせ、みずみずしく、おい茂っていましょう。
「主の家に植えられた人」「神の多庭に植えられた人」です。こういう人は信仰によって、神(キリスト)に深く根をおろし、神(キリスト)と結びついている人です。
神の庭に、根をはっているがゆえに、キリストから、肉体的いのち、霊的いのち、永遠のいちを、いただくことができます。ですから、老齢になっても、主イエスとともに、賛美しながら、老いの坂を越えていくことができるのです。そして、老いても、なお、みずみずしく芽吹き、葉を茂らせ、そして、実を結び続けるというのです。神の家、神の庭、すなわち、キリストを源泉とする、永遠のいのちが、あるゆえに、この神のいのちに、根をはっているがゆえに、「年老いてもなお、実を実らせる」人生が、ここにあるのです。
詩篇92:13 彼らは、主の家に植えられ、私たちの神の大庭で栄えます。
詩篇92:14 彼らは年老いてもなお、実を実らせ、みずみずしく、おい茂っていましょう。
アーメン。
さて、私たちは誰でも、健やかな老い、美しい老いを、迎えられるように願っているのではないでしょうか。
仏教では、この世を4つの苦しみの場としてとらえています。「生、病、老、死」の4つの苦しみに、人生全体を集約します。「生、病、老、死」の四苦とは、生きることの苦しみ、老いることの苦しみ、病むことの苦しみ、そして、死の苦しみです。この四苦の中に、老いの苦しみが入っています。
老いていくということは、やはり、喜ばしい事というよりも、苦しいことなのでしょうか。確かに、そうだと言えるかもしれません。若くして死なない限り、すべての人は、老いを経験します。そのすべての人が経験する、老いとは、そんなに、苦しい惨めなものなのでしょうか。 私たちは、老いをどうとらえたら良いのでしょうか。では、聖書は人の老いをどうとらえているのでしょうか。幾つかに絞って見ていきます。
第1に、年を重ねて高齢者=老人、になることは、神の祝福であると聖書はみています。
そして、老人がその共同体にいるということは、その共同体が神によって祝福されている証拠でした。
今でこそ、日本は世界一の長寿国ですが、日本も江戸時代末期までの平均寿命は、30歳と言われています。それは、伝染性の病気で大量の死者を出したり、乳児死亡率が高かったからです。5歳までに50%の子供が死んでしまったそうです。これは、大名や将軍の子供でも例外ではなかった。(勿論、例外的に長生きをした人もいた。しかし、平均は30才であった。)。 ちなみに、聖徳太子は48才で死にました。また、源頼朝は52才、足利幕府をつくった足利尊氏は53才、足利幕府3代将軍・足利義満は50才で死に、応仁の乱を引き起こした足利8代将軍・足利義政は54才で死んでいる。
戦国時代に、明智光秀に殺された、織田信長は48才、上杉謙信も48才で死んでいる。武田信玄は52才、豊臣秀吉は62才、徳川家康は75才まで生きました。
そして、古代イスラエルにおいても、アブラハム、イサク、ヨセフと言った族長時代以降は、戦争や、天災、飢餓、病気など、様々な危機を乗り越えて生きる老人は、ごく少数でした。例えば、旧約聖書における平均寿命を見ると、これは、ダビデ王の家系のその後の王たち14代の王の平均寿命を調べた人がいます。その人によると、平均寿命は43.6才であったと言います。
中には暗殺された王もいましたが、それでも、一般人は、王様のような栄養を取れなかったことえを考えると、古代イスラエルにおいて、一般人の平均寿命は30才代であったろうと言っています。(日本と同じです。)。
ですから、イスラエルでは、老人が共同体の中にいると言うこと自体が、その共同体が神によって祝福された証しでした。まず、これが、聖書の老人観です。聖書はこう言っています。
レビ記19: 32 あなたは白髪の老人の前では起立し、老人を敬い、またあなたの神を恐れなければならない。わたしは主である。
聖書は老人に対しては、敬意を表すべきであることを言っています。→「あなたは白髪の老人の前では起立し、老人を敬い、またあなたの神を恐れなければならない。」。
この言葉は、老人を敬うことは、神を敬うことにつながっていることを示しています。
「あなたの父母を敬え。」ということは、皆、聖書の言葉として知っています。しかし、聖書はさらに、「あなたのおじいさん、おばあさんを敬え」と言っていることも、私たちは、忘れてならないと思います。高齢者を大切にすべきことは、聖書の教えです。
しかし今、日本は老人が多い国であり、厚生労働省の調査では、今年も100歳以上が、47,756人いる。日本は、聖書的にみると、神に祝福されている国になります。
しかし、高齢者とのゆったりとした会話や交わり、高齢者を愛し、敬う、心の豊かさを持って生活しているかと言うと、そうではなく、むしろ、そういったものを、失ってしまっているのではないでしょうか。どうしてなのでしょうか。
多くの孤独の老人は、自分に対して興味をしめしてくれる人はいない、と思っているようです。今の時代、私たちは、もっと、もっと、老人を愛することが求められていると思います。
レビ記19: 32 あなたは白髪の老人の前では起立し、老人を敬い、またあなたの神を恐れなければならない。わたしは主である。
さて、聖書が示す老いの特徴の第2は、知恵と分別があるということです。
高齢者は、自分の弱さは自覚していますが、知恵と慎重さと、分別があるのです。高齢者は若者よりもずっと、相手の言うことを聞き、理解しようとする心を持っていると、聖書は見ています。
旧約聖書の中の2サムエル記に、ダビデ王が、その子アブシャロムの反乱で、アブシャロムから命を狙われて、王宮を逃げ出して行く、ところがあります。ダビデは突然のことで、着の身着のまま荒野に逃げて行ったわけですが、その時、80歳になるバルジライという人(当時としては相当な老人です)が、逃げてきたダビデをかくまい、養いました。 そして、ダビデ軍はアブシャロム軍に勝利して、王宮に戻るのですが、そのとき、ダビデは、このバルジライへの感謝として、バルジライを一緒に王宮に連れていき、側近に取り立てて、一生面倒みる、と言いました。しかし、バルジライは、「私はもう高齢で、王の役には立ちませんから結構です。」と言って王の申し出を辞退しました。そして、そばにいたキムハムという若者を、自分の代わりに、連れて行ってダビデの家来にしてくれるように、頼みました。
このように、年をとるにしたがって増してくる、自らの弱さを冷静に認め、他の人の迷惑になることをよしとせず、謙遜に、若者を後押ししている、老人の知恵と分別のある姿を、聖書は示しています。
また、1列王記には、ソロモン王の子供のレハブアム王のことが出て来ますが、このレハブアム王は、民たちの訴えがあったので、自分の政治判断をするために、長老と若者に、相談しました。老人である長老たちは王に、民の強制労働を軽減して、民に親切にすれば、民は王に従うようになると進言しました。しかし、若者たちは、もっと税金を取り立て、過酷な労働を嫁すように言いました。レハブアム王は、老人の意見を退け、若者の意見を採用しました。そして、失敗してしまいました。若者の意見を受入れて、民を苦しめた結果、国が北王国と南王国の二つに分裂してしまったのです。老人である長老たちの意見を大切にしていれば、こんなことにはならなかったのです。
このように、老いた者は慎重で、苦しむ者の気持ちを理解できる、また、その判断に分別のあることを、聖書は示しています。
次に、聖書が示す老いの特徴の第3は、第2のことと反対のことです。さて、聖書から見る、老いの第3の特徴は、それは、年をとれば誰でも、分別のある人になるかというと、そうではなく、「愚かな王様」になる人もいる、言うことです。
聖書は、知恵と分別は、老いの特徴であると言っています。しかし、同時に、人はさまざまであって、年をとっても、頑固やわがままで、プライドが強く、人を困らせる老人もいると、聖書は正直に言っています。
ヨブ記32: 9 年長者が知恵深いわけではない。老人が道理をわきまえるわけでもない。
伝道者の書 4: 13 貧しくても知恵のある若者は、もう忠言を受けつけない年とった愚かな王にまさる。
これは、私たちすべての者への神からの警告でしょう。年をとって生きるが大変になる人は、頑固で、謙遜になれない人だと思います。年をとって、身体もきかなくなと、家族や他者に、お世話になる機会が多くなると思います。しかし、その時、謙遜になれないと、「誰々さんの世話にはなりたくない。」、と言って、ますます自分を孤独にしてしまいます。そして、生きていくのが大変辛くなる。
私はかつて、中之条で伝道していた頃、沢渡温泉病院に伝道していたことがあります。200人ぐらいの入院患者さんがいたでしょうか。そのベットを一つ、一つを回って伝道していた時、ある付添家政婦さんが、「ぜひ、わたしの患者さんに、話をしてください。」と言われた。行ってみるとその人は、車イスに座ったまま下を向いて、じっとしている。動こうとしない。このままでは、強制退院させられると言う。私は聖書の話をしたが、その人は、ほとんど聞こうとしなかった。その人は、公立学校の校長をした人で、エリート街道を歩んできたそうです。しかし、脳梗塞になり、身体が動かなくなってしまった。とても、プライドが強く、惨めな自分を受入れられず、リハビリをすることについても、誰の言うことも聞かない、と言うことでした。
聖書は、人が年をとれば、自然に、謙遜で分別のある人になるかというと、そうではなく、「忠言を受けつけない年とった愚かな王」になることもあると、言っております。 私たちは老いても、「忠言を受けつけない年とった愚かな王様」なってはならないのであります。
さて、ここまでは、聖書の中から老いの特徴を3つに絞って、見てまいりましたが、では、私たちが健やかに、老いを生きるための秘訣を、聖書はどう教えているのでしょうか。
聖書が教える、老いを健やかに生きる秘訣の
第1は、年をとればとるほど、神により頼んで生きると言うことです。
年をとれば、誰で皆、身体のどこかが痛んできます。自分の弱さがわかります。そのときこそ、自分の力により頼んで生きるのではなく、また、他人の力により頼んで生きるのではなく、神に=キリストにより頼んで生きると言うことです。その人に神は、こう約束しています。
イザヤ書 46:3 ・・胎内にいる時から、担われており、生まれる前から運ばれた者よ。
イザヤ46:4 あなたがたが年をとっても、わたしは同じようにする。あなたがたがしらがになっても、わたしは背負う。わたしはそうしてきたのだ。なお、わたしは運ぼう。 わたしは背負って、救い出そう。
ここに神の慈しみ深い約束があります。神は、どんなに年をとっても、私たちを背負い運んでくださると約束してくださっているのです。
永遠の神、無から天地を創造した神、イエス・キリストに、心からより頼み、望みをおく人は、地上の生活における、身体の不調や弱さに、一喜一憂するのではなく、老いても、人知を越えた神の愛、神の力を体験するというのです。
次に、健やかに老いを生きる秘訣の第2は、賛美と祈りに打ち込むことです。
それは、
詩篇71: 8 私の口には一日中、あなたの賛美と、あなたの光栄が満ちています。
詩篇 71:14 しかし、私自身は絶えずあなたを待ち望み、いよいよ切に、あなたを賛美しましょう。
ここには、年老いてもなお、日々、神をさんびする口があります。神を讃美して歌う、とき、心がいつも神に向かいます。・・次に9節です。
詩篇71: 9 年老いた時も、私を見放さないでください。私の力の衰え果てたとき、私を見捨てないでください。
詩篇 71:18 年老いて、しらがになっていても、神よ、私を捨てないでください。
これは、祈りです。このように、老いの大変さをじっと自分の中に閉じ込めないで、率直に、この詩人のように神に祈ることです。このように、老いても日課のように、神への賛美と祈りに打ち込んでいくことができます。賛美と祈りによって、魂はますます元気になり、生きる力が出てきます。
次に、老いを健やかに生きる秘訣の第3は、老年期だからと言って、消極的に生きるのではなく、積極的に生きること、福音宣教に生きることです。
それは、自分に出来ないことがあることを悔やんで、何もしなくなるのではなく、自分に出来ないことは、できないと正直に認め、自分に出来ることを、前向きに行うことだと思います。 教会の礼拝、集会に、できるだけ出席することもその一つでしょう。祈りと賛美もその一つでしょう。祈りは、最後の最後まで、できる主への積極的な奉仕です。
さらに、詩篇71篇15、17、18節にはこうあります。
詩篇71:15 私の口は一日中、あなたの義と、あなたの救いを語り告げましょう。私は、その全部を知ってはおりませんが。
詩篇71:17 神よ。あなたは、私の若いころから、私を教えてくださいました。私は今もなお、あなたの奇しいわざを告げ知らせています。
詩篇71:18 ・・・・私はなおも、あなたの力を次の世代に、あなたの大能のわざを、後に来るすべての者に告げ知らせます。
ここで、詩人は、「年老いて、しらがになっていても、・・私はなおも、あなたの力を次の世代に、あなたの大能のわざを、後に来るすべての者に告げ知らせます。」と、言っています。詩人は、若いころから教えられてきた、神のみわざと義を、次の世代の者へ、告げ知らせる、と言っています。 「年老いて、しらがになっていても」、彼は自分の弱さを認め、自覚しているが、その弱さと、反比例して、神の義と、神の救いの偉大さをますます深く知り、それを宣べ伝えると言っているのです。つまり、老いてもなお、神の救い、キリストの救い、神の御ことばを、生活の中で、次の世代に宣べ伝える、福音宣教をすると、言っているのです。
伝道の仕方には、様々あります。普段の人との会話の中で、教会を紹介したり、集会にさそったり、いろいろな、方法があると思います。キリストを伝えていくこと。「年老いて、しらがになっていても、・・私はなおも、あなたの力を次の世代に、あなたの大能のわざを、後に来るすべての者に告げ知らせます。」。ここに、老いてなお、積極的に生きる、生き生きとした、生き方があると思います。
さて、 老いても神にすべてをより頼んで生きる人。老いても賛美と祈りに打ち込む人。そして、老いても、消極的に生きるのではなく、積極的に生きる、福音を宣教する人。
そして、老いても、神に感謝できる人。こういう人を、聖書は、こうまとめています。
詩篇92:13 彼らは、主の家に植えられ、私たちの神の大庭で栄えます。
詩篇 92:14 彼らは年老いてもなお、実を実らせ、みずみずしく、おい茂っていましょう。
「主の家に植えられた人」「神の多庭に植えられた人」です。こういう人は信仰によって、神(キリスト)に深く根をおろし、神(キリスト)と結びついている人です。
神の庭に、根をはっているがゆえに、キリストから、肉体的いのち、霊的いのち、永遠のいちを、いただくことができます。ですから、老齢になっても、主イエスとともに、賛美しながら、老いの坂を越えていくことができるのです。そして、老いても、なお、みずみずしく芽吹き、葉を茂らせ、そして、実を結び続けるというのです。神の家、神の庭、すなわち、キリストを源泉とする、永遠のいのちが、あるゆえに、この神のいのちに、根をはっているがゆえに、「年老いてもなお、実を実らせる」人生が、ここにあるのです。
詩篇92:13 彼らは、主の家に植えられ、私たちの神の大庭で栄えます。
詩篇92:14 彼らは年老いてもなお、実を実らせ、みずみずしく、おい茂っていましょう。
アーメン。