試練と共に脱出の道を用意される神

2014-04-14 | あなたへの聖書メッセージ
試練と共に脱出の道を用意される神  



1コリント10:13  あなたがたの会った試練はみな人の知らないものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを、耐えられないほどの試練に会わせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えてくださいます。

このみことばは、聖書の中でも良く知られている言葉です。そして、とても良い、励ましの言葉でもあります。このみ言葉によって、キリスト信仰に近づいたと言う人が、多くいるようです。

このみことばは、人生のあらゆる困難、試練、逆境の時に、神が私たちに語っている、素晴らしい言葉です。
進学、就職、仕事の上での困難、また、家族の困難な問題、病気になった時、まさに、そのような、試練の中におかれた時、このみことばは、大きな力となります。
「神は真実な方ですから、あなたがたを、耐えられないほどの試練に会わせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えてくださいます。」
神は、必ず、その試練に脱出の道を用意しておられるのです。なんて、すばらしい言葉でしょうか。このみことばは、神の言葉ですから、真実です。

別の聖書箇所で、パウロはこう言っています。
2コリント4: 8 私たちは、四方八方から苦しめられますが、窮することはありません。途方にくれていますが、行きづまることはありません。

パウロは、なぜ、こう言えたかと言うと、それは、まさに、「神は真実な方ですから、あなたがたを、耐えられないほどの試練に会わせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えてくださ」るからでしょう。

本日は、この「神は、耐えられないほどの試練に会わせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えてくださ」る」の意味を、このみ言葉が、本来意味すること、本筋の意味を、共に学びたいと思いますこのみ言葉の本来の意味を知るカギは、旧約聖書にあります。

そこで、まず、「まことの神とは、どんなお方ですか?」と尋ねてみましょう。
子どもが言う「ねえ、神ってどんな方?」です。この質問です。

その答えの一つが、ここにあります。
まことの神は、私たちを、「耐えられないほどの試練に会わせないで、むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えてくださる神」だということです。

では、どういう神だと言うことでしょうか。
これは、旧約聖書を理解していく時に、正しくその意味を、理解することができます。旧約聖書が啓示する、神の姿を見る時に、わかるのです。

旧約聖書が示す神、その神は、まず、哲学的な概念ではありません。
神はいる、と思えばいるとか、自分の心に生きている、と思えばいるし、神が自分を助けてくれると思って全力を尽くせば、何とか、道が開かれるものさ、というような、存在だとすれば、その神は、哲学的な概念にしか過ぎません。

しかし、旧約聖書を見ると、まことの神は、そんなお方ではありません。まことの神は、歴史の中で働かれる神です。
まず、神は、天地宇宙を創造し、歴史を創造しました。アダムを創造し、ノアに箱舟を造らせ、ノアに、虹を見せて約束を与えた。そして、神は、異教徒の中から、アブラハムを召し、イスラエル民族を生み出し、そして、その孫ヨセフを異教の国のエジプトの総理大臣にし、そして、イスラエルの民がエジプトで増え広がり、しかし、エジプト人の奴隷となって、苦しむと、神は、モーセを選んで、モーセに自分の名を知らせ、そして、奴隷となっていた、エジプトから、イスラエルの民を、約束の地カナンへと連れ帰りました。

このように、実際の歴史に働かれる神こそ、まことの神の姿です。
神は、創世記1章から、ずっと、神がどういうお方か、ご自分のことを人々に、知らせようと願って来られました。そして、旧約聖書は、まことの神が、どういうお方かを、明確に知らせています。

神は、私たちを超越した存在です。人は、神に誰も、ああしろ、こうしろとは言えません。そして、神が、ご自分のことを、私たちに、あらわしてくださらない限り、私たちには、神は、わかりません。
多くの人は、神を自分の好む姿に、自分の勝手な神のイメージを作りあげて、それが神だと思っています。それは人が造り出した神です。

だから、そういう人は、まことの神の語る、神の言葉を聞こうとしません。また、神に自分の本根を語ることもしません。

しかし、旧約聖書を読むと、神が私たちに語りかけています。神のことばが聞こえます。その神の語りかけによれば、この世界は、私たちを中心ではなく、神を中心にまわっています。

私たちは、神を自分の好む姿に、自分の勝手な神のイメージを作りあげて、すなわち、神は慈しみ深い神だ、これだけを考えたい。その神を、自分の神としたい、と思っています。
しかし、パウロは、ローマの教会の信者たちに向かって、こう言いました。

ローマ11:22 見てごらんなさい。神のいつくしみときびしさを。倒れた者の上にあるのは、きびしさです。あなたの上にあるのは、神のいつくしみです。ただし、あなたがそのいつくしみの中にとどまっていればであって、そうでなければ、あなたも切り落とされるのです。

旧約聖書を見ると、神のきびしさが、わかります。
神は、創世記6章で、創造のみわざの草創期に、ご自分が創造された人間と動物のほとんどを、洪水で滅ばされました。それは、神のきびしさもありますが、実は、人間の罪が、手のつけようがないほどになってしまい、そういう失敗した人間の世界になってしまったからです。

では、神はさばきの神で、人に慈しみ深い神ではないのでしょうか。
ユダヤ人は、神に懲らしめられては、神に立ち返り、信仰を持ってきました。そのユダヤ人たちは、3千年もの間、こう歌い継いで来ました。

詩篇103:8 主は、あわれみ深く、情け深い。怒るのにおそく、恵み豊かである。
詩篇 136: 1 主に感謝せよ。主はまことにいつくしみ深い。その恵みはとこしえまで。

神は、ただきびしい神ではない。神と共に歩む者とっては、慈しみ深い神なのです。
ノアにとって、神は、近づくことのできない、恐ろしい神ではない。頼ることのできる神です。
アブラハムにとって、神は、近づくことのできない、恐ろしい神ではない。語り合える、慈しみ深い神です。イサクにとって、ヤコブにとって、ヨセフにとって、モーセにとって、ダビデにとって、神は、近づくことのできない、恐ろしい神ではない。慈しみ深い神です。彼らは、神に選ばれ、神と共に歩んだ人たちです。

なぜ、彼らは、選ばれたのでしょうか。彼らが、他の人々よりも頭が良かったらですか、お金持ちだったからですか、道徳的に優れていたかたですか。いいえ、違います。彼らが、選ばれたのは、神が彼らを愛されたからです。

そして、それは、私たちも同じです。私たちは、特別な人ではない。しかし、神に選ばれた人なのです。神に愛されているからです。
詩篇 136: 1 主に感謝せよ。主はまことにいつくしみ深い。その恵みはとこしえまで。
この賛美は、私たちの賛美でもあります。

しかし、神に愛されいる人は、神の試練に会わない、といことではないのです。
神に愛され、神に選ばれた人を、神は試します、テストをするのです。

アブラハムは、やっと産まれたそのひとり子イサクを、燔祭にささげよとの命令を受けました。なぜ、でしょう。アブラハムが神に選ばれたからです。

この世の中でも、選ばれる時、テストを受けますね。高校、大学、会社に入る、国家資格を取る、その時、テストを受けるでしょう。それは、選ばれた人だけが取得できるからです。選ばれる時に、テストを受けます。神もテスト、試練を課すのです。神の選びの器に対しては、テストをするのです。

アダムの長男カインは、そのテストに失敗した。その後の、カインの子孫、系譜は、神のテストをことごとく、軽んじたのです。
ノアもテストを受けました。
ノアがどんな気持ちで箱舟を造っていたか。どんなに戦いが多かったか。
どんなに、箱舟なんか造るのを、やめようと思ったか。
こんなことして何になるのか、と思ったか。
大勢の人々の中に同じように流れに生きたらどんなに楽か、思ったか。
ノアはテストを受けたのです。
ノアは、神のことばを取りました。そして、神に従ったのです。
ノアは、試練に、テストに合格しました。
だから、神は、彼と契約を結びました。そのしるしとして、虹を出したのです。

アブラハムも一人息子イサクをささげる試練、テストに合格しまた。
その結果、アブラハムから、イスラエル民族が生まれ、さらに、アブラハムは、すべて、まことの神を信じる者の、信仰の父になりました。

なぜ、ノアは、アブラハムは、ヨセフは、試練に合格できたと思いますか。
その答えがここになります。
1コリント 10:13 あなたがたの会った試練はみな人の知らないようなものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを耐えることのできないような試練に会わせるようなことはなさいません。むしろ、耐えることのできるように、試練とともに、脱出の道も備えてくださいます。

そうです、ここで言う「あなたがたの会った試練」とは、ノアが受けた試練であり、アブラハムが、ヨセフが、モーセが受けた試練と同じなのです。
彼らは、「耐えることのできないような試練に会わせる」ことなく、「試練とともに、脱出の道も備え」られていたので、合格できたのです。

ノアは、箱舟に入ることができました、箱舟という脱出の道を神は、用意してくださっていたのです。ヨセフは、エジプトに売られて行きましたが、そこで、総理大臣になる道が、用意されていたのです。
モーセは、エジプトの軍隊、全軍に追いかけられ、紅海の前で、絶体絶命にまりましたが、神は、紅海の水をしりぞけ、そこに道を用意してくださいました。脱出の道を用意して、くださっていたのです。

そうです、試練とは、まことの神を神する生き方、神と共に歩む人生に降りかかる、苦難と誘惑です。
出エジプトの民は、40年の荒野旅路で、この試練にぶつかったのです。
水がない、肉が食べたい、がない、・・・。
しかし、何と言ってもその試練、その苦難とは、まことの神を知りながら、その神のことばを聞こうとせず、さらには、ほかの神を神とする心を持つ誘惑です。自分の偶像を持とうとする誘惑、これは、試練です。
だから、1コリント10章13節の前後の節で、こう言っています。
7節を見てください。
1コリント10: 7 あなたがたは、彼らの中のある人たちにならって、偶像崇拝者となってはいけません。聖書には、「民が、すわっては飲み食いし、立っては踊った」と書いてあります。
次に14節を見てください。1コリント10: 14 ですから、私の愛する者たちよ。偶像礼拝を避けなさい。と言っています。
まことの神を知りながら、自分の偶像を持とうとする誘惑、信仰の戦い、これも、大きな試練です。

それに対して、神は私たちに「耐えることのできないような試練に会わせる」ことなく「試練とともに、脱出の道も備え」てくださる、言っておられるのです。

神は、私たちの弱さを知っています。行き詰まること、躓くことを知っています。つぶやきや、失敗の涙を知っています。でも安心してください。
神は「詩篇103:8 主は、あわれみ深く、情け深い。怒るのにおそく、恵み豊かである。」な神です。「詩篇 136: 1・・主はまことにいつくしみ深い。その恵みはとこしえまで。」 の神なのです。

そうです、どんな試練であっても、その試練とともに、必ず、脱出の道を用意されている神なのです。そして、試練への勝利の道を用意してくださる神なのです。
1コリント10:13  あなたがたの会った試練はみな人の知らないものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを、耐えられないほどの試練に会わせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えてくださいます。

神は真実なお方です。嘘、偽りはありません。十字架にいのちを捨ててまで、私たちを愛してくださった神が、こう約束されているのです。

1コリント10:13 ・・神は真実な方ですから、あなたがたを、耐えられないほどの試練に会わせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えてくださいます。
私たちもこの真実な神に、真実な心で、心をこめて、お従いしていきましょう。
アーメン。