主が家を建てるのでなければーむなしい労苦から喜びの労苦へ   

2012-05-18 | あなたへの聖書メッセージ
  主が家を建てるのでなければーむなしい労苦から喜びの労苦へ    


人生には多くの労苦がありますが、その労苦がむなしいものに終わったら、その人の人生は残念な、むなしい人生になってしまうと思います。
詩篇127篇1~2節には、「働きはむなしい」「見張りはむなしい」「辛苦の糧を食べるのも、それはむなしい」と「むなしい」が、3回も出てきます。こんなむなしい人生は歩みたくないですね。

でも詩篇127篇は、ソロモンが作った、短い詩篇ですが、私たちが、日ごろの生活、信仰生活を送る上で、大きな指針となる、大切な、また、素晴らしいみ言葉の一つだと思います。
生活の上で大変な時、困難な時、仕事がきつい時、労苦が多い時、また、これから、新しい進路を決めたり、結婚、出産、転職、家の建築、建売住宅を買う、マンションを買う、など、様々な、人生の選択、また、決断をしなければ、ならない時、など、このみことばを、いつも思いて祈れば、必ず、主の最善の導きが得られると思います。

そして、実は、この詩篇からは、私たちは、そういう状況の中で、信仰的な確信が得られる、霊的な悟り、励ましが、得られのです。

詩篇127: 1 主が家を建てるのでなければ、建てる者の働きはむなしい。主が町を守るのでなければ、守る者の見張りはむなしい。

ここでソロモンは、家の建築と、町の守りの働き、その労苦について、言っています。この背景には、古代イスラエルの民の開拓地の、激しい労苦と、その社会的な状況があります。
イスラエルでは、畑になるような耕地が少なく、荒野を開拓して耕作地にするには、容易なことではありません。

ゴロゴロとした、岩や石を取り除き、地を掘り返し、そして、そこへ遠方から、水を引いてくる。そして、そこに種を蒔き、手入れをし、草取りをする。そして、今度は、自分の住む家も、テントから、石やレンガの家を作る。これも手作りです。
そして、そこで何とか、食料を確保し、そして、結婚をし、家庭を作る。
「家を建てる」とは、そういうことです。ただ単に、家の建築のことでなく、そのための労働、結婚、出産、などの家庭の建設にともなう、すべてのことが含まれます。

そして、そういう家々が集まって、町を作ります。古代イスラエルでは、自分の家が、何も問題がなく、安心でも、自分のある町が、外敵から攻撃に合う危険が絶えず、あったのです。
そこで、民たちは、町を外敵から守るために、町に城壁をめぐらし、そして、見張りを置いて用心します。攻撃を受けたら、直ちに、町の若者が皆で、外敵と闘い、町を守ります。  「町を守る」「守る者の見張り」とは、そういうことです。

いくら自分の家が立派でも、その町が、滅ぼされてしまったら、その家は、立ちゆきません。今の私たちの日本では、自分の家を守っても、町を守る、という感覚はなかったと思います。しかし、今回の大震災で、私たちも同じだということがつくづく、分かりましたね。

特に、福島の原発の災害では、そうでしょう。新築の立派な家でも、そこを立ち退かなければならない、出ていかなければならない。町がやられてしまったら、どんな豪邸もだめです。
そういう意味では、私たちも、自分の住む町が、村が、県が、さらには、国が、守られないと、私たちの家も会社も教会堂も、無になってしまう。

エレミヤは、バビロンへ捕囚となって、連れて行かれた、絶望の中にいた、イスラエルの民に、対して、手紙を書いて、こう言いました。
エレミヤ29: 7 わたしがあなたがたを引いて行ったその町の繁栄を求め、そのために主に祈れ。そこの繁栄は、あなたがたの繁栄になるのだから。」

私たちも日ごろから、自分が置かれた、町の繁栄を祈ることが大切です。これは、自分が置かれた会社の繁栄を祈れ!とも受け止められます。

さて、古代イスラエルの民と同じように、私たちも、同じ「仕事」、「家庭を築く」、「家を建てる」、労苦があります。
この詩篇の作者ソロモンは、
詩篇127: 1 主が家を建てるのでなければ、建てる者の働きはむなしい。主が町を守るのでなければ、守る者の見張りはむなしい。
と言っています。
実は、この1節は、ヘブル語の原文では、「もし」がついているのです。ですから、直訳すれば、こうなります。

もし、主が家を建てるのでなければ、建てる者の働きはむなしい。
もし、主が町を守るのでなければ、守る者の見張りはむなしい。


つまり、ここで、ソロモンは、私たちの今の働き、労苦が、意味がないとか、決してむなしいものだと、言っているのではなく、「もし、主が家を建てるのでなければ、建てる者の働きはむなしい。もし、主が町を守るのでなければ、守る者の見張りはむなしい。」ですよ、と言っているのです。

つまり、主は、私たちに、大切な、霊的な悟りを得よ、と言っているのです。
私たちが、神なしで、神の祝福なしで、労苦し、家を建て努力をいくらしても、その働き、労苦はむなしい、と悟りなさい、言っているのです。

古代イスラエルの農夫の生活は、貧しいものでした。日本でも昔はそうでした。朝早起き、夜遅くまで働き、食事は粗末なもので、それでも、最後の仕事を終えて眠りに着くのは、かなり、遅くなってからです。
こうした働きは、今でもそうですね。人間の一生は、これの連続、こうして一生が終わる。

もし、神なしで、神の祝福なしで、この人生を送るしたら、それは、
詩篇127: 2 あなたがたが早く起きるのも、おそく休むのも、辛苦の糧を食べるのも、それはむなしい。  ですよ、これを悟ってください、とソロモンは言っているのです。
なぜ、むなしい人生を悟れと!と言っているのでしょうか。
これは、消極面の真理です。積極的な面の真理は、その裏返しです。ソロモンが本当に言いたかった中心のことは、その積極面のことです。

つまり、神になしの人生ではなく、神に信頼する、神により頼む人生、神の祝福を受ける人生があるということです。
神と共にあってなされる仕事は、一見どんな些細な、つまらない仕事に見えても、また、それが労苦に満ちた仕事であっても、神が共にあってなされるなら、神に祝福された仕事になる、神に祝福された家の建築になる、神に祝福された家庭の建てあげになる、ということなのです。

また、神の守りのない人生は、危険にさらされ、自分の努力だけでは、とうてい防ぎきれない。神に信頼していきるならば、そこには一番確かな人生があるという、ことなのです。神なき、努力、辛苦の糧を食べる労苦も、結局は、むなしい、空虚なこのになってしまうが、その反対の、神に信頼して、神と共に、労苦する時、そこには、神の祝福が、大いにあると、悟りなさいと、言っているのです。
その大きな祝福の結論が2節の後半にあります。

詩篇127: 2 ・・・主はその愛する者には、眠っている間に、このように備えてくださる。
「主はその愛する者には、眠っている間に、このように備えてくださる」
これを、みなさん、神の真理のことばと信じてください。
これは、聖書のことば、真理のことばです。
これは、本当に、感謝なことばですね。神は、私たちが眠っている間に、私たちの必要なものは、用意してくださると言うのです。

どんなに、心配なことがあっても、祈って寝ることできる。寝ている間に、主が、問題を解決してくれる、と信じて、眠ってしますのです。この言葉があるので、眠ることができる。
しかし、皆さん、これは、神がみんなしてくだるから、私たちの労苦はいらない、無駄なことだ、という意味ではありません。

これは、要は、私たちの人間の努力、力、能力、権力、お金の力、そうしたものがあれば、神を抜きにして、幸福な仕事ができるか、自分の家をもつこと、結婚、出産、幸福な家庭ができるか、いうと、それはできない。しかし、神の恵みと神の助けがあれば、私たちにお働きと、労苦は無駄にならず、神の祝福にあずかり、幸福な仕事、家を持つこと、幸福な結婚、出産、幸福な家庭の建設ができる、ということなのです。

「主はその愛する者には、眠っている間に、このように備えてくださる」

神は、私たちを「神の愛する者」と呼んでくださいます。
神は、私たちを愛して、私たちのために、すべてを備えてくださるのです。

「主はその愛する者には、眠っている間に、このように備えてくださる」
私たちが朝、目を覚ます時、そこには、私たちのために、神が用意された、新しい世界があります。私たちが生きるに必要なすべてが、神によって、用意されています。
これを信じて良いのです。

無から天地万物を造り出した神です。天創造の時のことえを思い出してください。
神は、無から、光、海、大空、陸地、動物、人を創造されました。その6日間のことを、聖書は、1日事に記していますが、その1日ごとの終わりに、なんとありますか。
「こうして夕があり、朝があった」とあります。
「夕があり、朝があった」です。朝には、それは創造されていました。
朝から始まって、夕方できたのではないのです。夕から夜のうちに、主は、創造されたのです。朝には、できていました。

今もそうです。私たちが眠っている間に、神は、全く新しい、1日を創造し、朝には、私たちに、その全く、新しい1日を下さっているのです。
朝、私たちは、まだ、一度も経験したこのとない、まったく新しい1日を、生きることができるのです。

「主はその愛する者には、眠っている間に、このように備えてくださる」
そして、神は、私たちが知らない時に、いわば、眠っている時に、御子イエス・キリストによる、私たちのために、救いの道を用意してくださいました。

私たちが知らない時に、いわば、眠っている時に、御子イエス・キリストは、私たちの罪のために十字架にかかり、死んでくださいました。
そして、救いの完成のために、死からよみがえってくださった。復活してくださった。

私たちが知らない時に、いわば、眠っている時に、神は、御子イエス・キリストによる、救いの道、永遠のいのち、天国を、私たちのために、用意してくださっているのです。

「こうして夕があり、朝があった」
御子イエス・キリストは、日曜日の朝、復活しました。その生涯は、朝から夕ではなかった。地上生涯の最後は、朝、でした。私たちの人生も同じです。この地上の人生の最後は、夕ではなく、朝、です。キリストにある人生は、夕で終わりません。復活の朝がくるのです。

御子イエス・キリストを、信じてください。
御子イエス・キリストにすべての望みをかけてください。
イエスは言われました。「わたしが生きるので、あなたがたも生きる」(ヨハネ14:19)と。
キリストは生きているので、信じる私たちも生きるのです。
だから、信仰によって、キリストの十字架と復活に、望みをもてば、私たちの人生には、いのちの望みがでてくのです。

しかし、キリストの十字架と復活に、望みを持てなければ、いくら、努力しても、やがて、むなしさが襲ってくる、空虚な人生に思えてくるのです。
詩篇127: 2 あなたがたが早く起きるのも、おそく休むのも、辛苦の糧を食べるのも、それはむなしい。

しかし、救い主、御子イエス・キリストを信じて、神に望みを置き、この神の恵みと神の助けがあれば、私たちにお働きと、労苦は無駄にならず、神の祝福にあずかり、幸福な仕事、家を持つこと、幸福な結婚、出産、幸福な家庭の建設ができる、この詩篇は言っています。これを、悟りなさいと、ソロモンは言っているのです。

最後に、3節、を見てください。
詩篇127: 3 見よ。子どもたちは主の賜物、胎の実は報酬である。

もうすぐ、出産の方もいるでしょう。まさに、子どもたちは主の賜物、胎の実は報酬である
いのちは、神が与える、賜物です。
赤ちゃんが、おギャーと生まれてくるまで、お父さん、お母さんは、その子に、指一本触れることができいのです。
子どもは、神の祝福からくる、両親への贈り物です。

同時に、それは、子どもは、両親だけで育つもではなく、多くの人々のよって、そだてられるものです。一人のいのちの誕生は、それは、共同体に与えれたいのちでもあるのです。そして、その子供は、将来、町を守る者となるのです。
だから、詩篇127: 4 若い時の子らはまさに勇士の手にある矢のようだ。
と言っているのです。
子どもは、神がくださった、神の勇士として期待されいる存在です。ですから、両親だけでなく、共同体、全体の子どもとして、育てていくことが、自然なのです。

さて、御子イエス・キリストを、信じてください。
御子イエス・キリストにすべての望みをかけてください。

その時、私たちの、仕事、子育て、奉仕、家庭の建設、教会の奉仕、伝道、これらの労苦は、むなしいものにならず、神に祝福された、喜びの労苦となるのです。
「主はその愛する者には、眠っている間に、このように備えてくださる。」

アーメン。


 

変化する時代を前向きに生きるために

2012-05-18 | あなたへの聖書メッセージ
 変化する時代を前向きに生きるために
ーあらゆる境遇に対処できる人になるために



  
今、世界は大きく変わろうとしています。良いか悪いかは別として、とにかく、大きく変化をしようとしています。
エジプトに始まり、北アフリカ、アラブ諸国に変動が、今、起きています。
日本も、変化を迎えています。大きな変化です。その変化と言うのは、良い方向ではないように思えます。そう言う中で、下手をすると、生きていけなくなる人が多くなると思います。

特に、若者が危ない。社団法人「日本青少年研究所」(東京)が、中国、韓国などの協力を得て、アメリカと中国と韓国と日本の高校生に対して、「・運動 ・体型とダイエット ・食事と睡眠 ・喫煙と飲酒の経験 ・健康と衛生に対する態度 ・情緒とストレス ・自分の性格評価と自己意識、など。」調査した。そして、2011年2月25日に発表しました。

その中に、自尊意識の調査がありましたが、結果は次のとおりでした。

「私は価値のある人間だと思う」:日本7.5%、米国57.2%、中国42.2%、韓国20.2%。
「自分を肯定的に評価するほう」:日本6.2%、米国41.2%、中国38.0%、韓国18.9%。
「私は自分に満足している」:日本3.9%、米国41.6%、中国21.9%、韓国14.9%。
「自分が優秀だと思う」:日本4.3%、米国58.3%、中国25.7%、韓国10.3%。

「自分は価値がある人間だと思うか」と質問です。アメリカの高校生は、約60パーセントがある。中国は、42%、韓国は、20%、日本は7.5%、でした。日本の高校生は、断然、自分を価値ある人間だと思えないのです。アメリカの約八分の一でしかない。この意識の違いは、どこからくるのでしょうか。

今日本の若者は、非常に危ない状態です。自分は生きる価値があると思っている日本の若者が、10%も、いないのです。生きることに希望がないのです。

そして、今の若者は、表面的には、友人関係を持っているように見えるが、深い絆をもてないという。そして、少しばかりの、困難や、痛み、悲しい出来事に耐えられない、と言います。

日本のある社会学者が、今の、日本の若者をこう分析しています。
それは、自分に困難やつらい出来事が生じた時に、たとえば、受験に失敗、就職試験に失敗(群馬県では大卒の5割が就職できない)、あるいは、失恋、会社で叱られた、とか・・・)

その時どう対処するか。日本の若者のタイプを、こう分析しています。

①引きこもる・・自分の殻に閉じこもって出てこない。外と遮断する。
これ以上自我が傷つかないよう、沈黙と孤独の殻に閉じこもり、自己防衛に徹するパターンです。このような人は、あまり人と口をききません。しかし、このような人の心にも、様々な思いや感情が渦巻いています。

②強い人に依存して、その人の言いなりになる。・・・寄らば大樹の陰の生き方。
自分の個性をださない。

③どうせこの世の中は、そんなもの大した価値もない、どんな人生も価値がないのだ。・・頭脳的な厭世主義。

④自分がこうなったのは、親が悪い、友人が悪い、学校が悪い、社会が悪いと言って、外を攻撃するように生きる・・・・自分は悪くない、すべて、他者のせいにする。
  
上記の調査に見られるように、今日本では、若者だけでなく、多くの人々は、生きていく自信を喪失していると言えるでしょう。それは、多くの人々が、自分の人生に、自分の存在に、価値を見いだせなくなっていると言うことです。生きる自信の喪失ということは、自分が持つべき正しい自尊心がもてなくなっている、と言うことです。

自分を過大評価し過ぎてはだめですが、しかし、いつも自分は価値のない人間だ、いてもいなくてもいい人間だ、と思い込むことは、生きる自信を喪失させてしまいます。 
生きる自信の喪失は、幼い子どもから、小学生、中学生、高校生、青年、熟年、高齢者に至るまで広がっている大きな問題です。 

どうしたら、少しぐらいの困難に負けない、しかも、他者をも尊重して生きられる人になれるのでしょうか。そして、何よりも、自分の人生に価値を見出し、希望を持って、生きるためには、どうしたらよいのでしょうか。

どうしたら、今の大変化の時代を生き残れるか。
どうしたら、正しい生きる自信を持つことができるでしょうか。自分は、今、ものすごく価値ある人生を生きているのだ、健全な自尊心がもてるか。
どうしたら、困難、悲しみ、失敗、そういう中でも前向きに、生きていくことができるのでしょうか。

創世記に出てきます、ヨセフの生涯をとおして、それを考えて見たいと思います

ヨセフの生涯。

イスラエル民族の父は、アブラハムです。その子は、イサク、そして、その子はヤコブです。ヤコブには12人の男の子が生まれて、11番目の子どもがヨセフです。

上に10人の兄さんがいた。弟にベニヤミンが生まれた。ヨセフは、父ヤコブの年老いてからの子であり、しかもヤコブが愛したラケルの最初の子どもであったので、他の異母兄弟よりもヤコブに愛された(創37:1-3)。彼には特別に、「そで付きの長服」が与えられた。 

そのためヨセフは兄たちから、ねたまれ憎まれることになった。特に、兄たちがヨセフに仕えるという夢の話をしたので、ますます憎まれるようになり、荒野に羊を追っていった兄たちを見に行って、ヨセフは兄たちに殺されそうになったが、長兄ルベンに助けられ、荒野の空井戸の穴に投げ込まれた。

しかし、ルベンがいない間に、他の兄たちはヨセフをエジプト行きの、商人のキャラバン隊のたちに売り、商人は、ヨセフをエジプトに連れていって、売り飛ばした。
(兄たちはヨセフの長服を血に浸して父ヤコブの所へ持っていき、ヨセフは野獣に殺されたと偽った。) 
こうしてヨセフは、エジプトの王パロの廷臣で、侍従長ポテファルに奴隷として売られた。ヨセフは、エジプトで奴隷となった。ヨセフが17才の時のことであった。 
若いヨセフは、生きていられないような、大きな試練に会いました。

エジプトの王パロの侍従長ポテファルの家で、ヨセフは、悲しみと辛さの中に、また、孤独の中にあった。しかし、彼は、くじけなった。与えられた奴隷の仕事をひた向きにこなしていった。また、神の助けがあったので、ヨセフの仕事は、良き成果をおさめた。ついに彼は奴隷でありながら、ポテファルの家来同然になり、家の財産の管理を、すべて任された。

しかし、それもつかの間、ポテファルの妻にだまされて、無実の罪をきせられ、エジプト王の牢屋に、ぶち込まれたのです。彼は、奴隷よりももっと悪い、囚人になってしまった。 しかし、そこでもヨセフは、くじけませんでした。そこでも言われたことに忠実に働き、監獄の中のことを、任されるまでになったのです。囚人でありながら、全囚人を監督する人になった。

ヨセフが監獄にいた頃、パロ王の側近の献酌官長と調理官長とがパロに対して罪を犯したため、ヨセフと同じ監獄に入れらて来た。彼らは夢を見たが、その夢の意味をヨセフが解き明かすと、その解き明かしの通りとなり、献酌官長はもとの職にもどり、調理官長は木にかけられて処刑された。ヨセフは、献酌官長に自分のことを思い出してくれるように頼んだが、彼はヨセフのことを忘れてしまった。 

それから2年後に、パロ王は夢を見て、エジプトのすべての呪法師にその解き明かしを命じたが、王の夢を、解き明かしのできる者は一人もいなかった。
その時、先のヨセフに助けられた献酌官長が、ヨセフのことを思い出し、監獄でのいきさつをパロに話した。パロはヨセフを呼びだして、その夢の解き明かしを命じた。 

ヨセフは、その夢で示されていることは、神がこれからなさろうとしていることで、エジプト全土が7年間、大豊作の恵みに預かり、その後7年間のききんが起こり、地は荒廃するというものであった。そして、ヨセフは豊作の7年の間に、次の飢饉の備えをするようにパロに進言した。このことはパロとすべての家臣たちに認められて、パロ王は、ヨセフを監獄から出し、エジプトの全土を治める総理大臣にヨセフを任命したのです。 このとき、ヨセフは、30歳でした。

このヨセフの生き方に、学ぶものが多くあります。
彼の道のりは、大変なものがありました。特に17才から30才までの、13年間は、ヨセフの人生は、本当につらい日々、苦しい毎日でした。 
兄さんたちから殺されそうになり、そして、エジプトの奴隷として売られ、次は、悪いこともしていないのに、囚人となり監獄へ。 皆さんがそうなったら、自分のことをどう考えますか。ああ、もうなんて人生なんだ。もうだめだ!夢も希望もない!と思うでしょうか。
こんな人生では、生きていく価値はない。希望もない、と思ってもしかたがない、状態でした。しかし、ヨセフは、違っていたのです。

まず、ヨセフは、本当に困難にくじけない人でした。どんな苦境の中でも、けっして希望を失わないで、前向きに生きたのです。そして、自分が置かれたその場所で、その主人に、自分にできる最善を尽くしました。そして、ヨセフは30才にして、エジプトの宰相=総理大臣に、任命されたのです。

なぜ、ヨセフは、このような人生を、生きることができたのでしょうか。

それは、ヨセフは、世界の創造主と、個人的な知りあいになっていたということです。  
ヨセフは、親、兄弟、友人、から引き離された。孤独か?いや、ヨセフは、天創造の神、主と個人的な知り合いになっていました。イエス・キリストの信仰をもっていたと言ってもよいのです。
ここが、もっとも大切なところです。
アメリカは問題の多い国です。しかし、そこの高校生の6割が、自分の人生には、生きる価値があると信じている。・・・・人だけではなく、天地創造の神の存在を信じているからではないか。そういうことを、子どものころから、教わってきたからではないか。

ヨセフは、この世界の創造主と個人的に知りあいになっており、キリストへの真摯な信仰を持っていました。創造主なる神を知ること、救い主であるキリストを信じること、これほどに、人の思い、心を、自尊心を、満足させるものはありません。
まぜなら、神は、人を全世界を手に入れるよりも尊い存在と見ています。私たちの恐れも、心配もすべて御存知です。すべての人が自分を忘れたかに思えるような時でも、神は私たちを忘れてはいないのです。

 女が自分の乳飲み子を忘れようか。自分の胎の子をあわれまないだろうか。たとい、女たちが忘れても、このわたしはあなたを忘れない。 イザヤ49: 15

と聖書は言っています。

神は、私たちの、どんな状況にも、意味と励ましを与えてくださいます。また、誰も相手にしてくれない時でも、神は愛をもって手を差し伸べていて下さいます。 また、神は誰であったも人を決して軽く見ないのです。 神は、その人本人が考えている以上に、重い存在と見ているのです。聖書でもそのことをこう言っています。

 わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。 イザヤ43:4

「わたしはあなたを愛している」と言う神の愛の最も大きなあらわれが、イエス・キリストの十字架です。神は、そのひとり子、御子イエス・キリストを、天から遣わし、私たちのために、身代わりとして、十字架につけてくださったのです。なぜでしょうか。実にイエス・キリストの十字架の死は、私たちの自分ではどうにもならない罪、自己中心の自我、心の傷、劣等感をいやし、救ってくださるためにでした。

(キリストは)そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。1ペテロ2:24  

そして、イエス・キリストは、私たちのマイナス面をプラスに、空しさを充実に、失望を希望に変えて下さるお方なのです。
イエス・キリストを信じてください。その時、罪がゆるされ、神の子どもとされる、歩みが与えられます。罪とサタンの呪縛から、解放されます。人をゆるすことができます。

それだけではありません。
神を信じ、神を愛する生き方をして行く時、私たちの過去の失敗も、生かされます。過去の痛みも、益に変えられます。

神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。ローマ8:28 

人は、人生のマイナスと言われることが、実は、その後の人生で、プラスと変えられるのです。これは、不思議です。天地創造の神を自分の神として、歩んでください。この神、いえす・キリストを、ご自分の人生で、大切なお方として、歩んでみてください。
過去の失敗や、苦しみ、挫折、痛み、それらすべてが、益となって、自分に返ってくるのです。だから、人生に希望を持てます。そして、その人生は、思いもよらない広い世界へと、開かれていくのです。

イエス・キリストの十字架に・・私たちの現実の罪があり、また、その罪に対する現実の赦しがあります。私たちにとってのいやしは、キリストの十字架の傷にあり、救いは十字架にあるのです。ですから、このキリストを信じ信仰によってキリストと結びつき、その罪の赦しと復活のいのちを頂くことを確信することこそが、自分の人生が価値あるものであることがわかり、生きる自信につながるのです。

さて、創世記のヨセフのことを考えて見ましょう。 これは、牢獄に入れられて誰からも忘れられてしまうことは、ヨセフの生涯で最大の逆境、ピンチです。しかし、ヨセフは監獄の中で自分が無実であることは知っていたが、ああもうだめだ!神はなんて意地悪なんだ!私は何と不幸な人間なのだ!とヨセフは自己憐憫に身をまかせることはしませんでした。 それどころかヨセフは、同じ囚人として入ってき夢に悩まされていた、献酌官長と調理官長を助けることが出来ました。

自分が大変で人のことどころではない、言えばヨセフは言えたでしょう。しかし、ヨセフは、彼らと話すことを避けていませんでしたし、その夢の意味をしり、知らせることができるたった一人の方である神をしらせ、神の彼らの心を向けさせました。

なぜ、ヨセフにそれが出来たのでしょう。 ヨセフは、何度も突然、考えられないような逆境に陥った経験をしていました。その時、その時、ヨセフは落ち込んだかも知れないが、しかし、彼はその中でも神の御前で生きること、神とともに生きることをやめなかったのです。 すなわち、彼はどんな時でも神に祈り、神に頼り続けました。

それゆえ、神もまたヨセフを忘れていなかったのです。ヨセフに夢を解き明かしてもらった献酌官長はヨセフのことを忘れたけれども、神はヨセフのことを忘れていなかったのです。 ヨセフが困難な人生にも関らず泣き言をいわないで、しっかりと自立していった鍵がここにあると思います。 彼は、どんな時も神の思いに目を向けていたということです。彼はどんな逆境の中でも神の御前で生きること、神とともに生きることをやめなかったのです。だから、彼の人生は、つらいことも、人からいじめあれた経験も、すべてかれの人生の益に変えられたのです。 神はヨセフを大いに祝福してくださったのです。 

あなたは、キリストを信じていますか。キリストにつながっていますか。あなたは自分がキリストに召されるほどに、自分が価値あるものであることを知って下さい。 神があなたを肯定し、あなたを用いて下さることを信じて下さい。
そのとき、あなたの過去のどんな失敗も、苦しみも、仮悲しみも、万事が益となることを見るでしょう。そして、そのとき「わたしを強くして下さるかたによって、何事でもすることができる。」ことを体験するでしょう。
私たちも、ヨセフのような歩みが、今、できるのです。


わたしは乏しいから、こう言うのではない。わたしは、どんな境遇にあっても、足ることを学んだ。わたしは貧に処する道を知っており、富におる道も知っている。わたしは、飽くことにも飢えることにも、富むことにも乏しいことにも、ありとあらゆる境遇に処する秘けつを心得ている。 わたしを強くして下さるかたによって、何事でもすることができる。 ピリピ4:11~13
 
アーメン。

チャイルド・パラダイス・プロジェクト

2012-05-18 | イベント案内
チャイルド・パラダイス・プロジェクト
(子どもの園プロジェクト)


主旨  

東日本大震災の被災者のために、特に、福島原発事故で、野外で遊べない福島の子どもたちのために、少しでも野外で遊んでもらおう、というプロジェクトです。



活動

具体的には、福島市、郡山市などの放射線量が多く、いまだに、屋外で伸び伸びと遊ぶことができない子どもたちを、バス等をチャーターし、野外で遊ばせることができる群馬などの公園(たとえば太田市にある「ぐんまこどもの国」)、遊具のある場所、などへ連れて行って、十分に野外で身体を動かし、遊んでもらおう、というものです。(基本的は親子の参加となります)。時には、宿泊して行いたいと思います。そのためにかかる費用は、すべてこのプロジェクトが負担します。


 お願い

①このプロジェクトのためにご献金をお願いします。
②このプロジェクトの当日参加、お手伝いをお願いします。




事務局 保守バプテスト同盟・高崎キリスト福音宣教会内
    〒370-0046 高崎市江木町1530-1
          ☎・FAX 027-325-8160

スタッフ 
    金井浜夫(代表)・松下武夫(渉外担当)・中村道夫(会計担当)・
    小林早苗・市川英市・市川麻子・金井京子

母の日のためのアートフラワー作りを行いました

2012-05-18 | 集会のご案内
母の日のための、アートフラワー作りを行いました

5月6日(日)富沢和美さんを招きして楽しくできました


2012年5月6日(日)午後1:30~3:30、今年も、アートフラワー作家の富沢和美さんをお招きして、母の日に、お母さんにプレゼンするための、アートフラワー作りを行いました。教会員以外にも6名の方が参加され、それぞれ良い作品ができました。この日は、品川聖書ファーラムの山本雅子さん、町田恵さんが、開拓教会の視察と交流のために、当教会の礼拝においでになりましたが、お二人もアートフラワー作りにも参加され、良き交流の時が持てました。


☆次回は、11月25日(日)午後2時~4時、クリスマス・リース作りを行います。(生の木の葉を使います)。
 参加費用は、材料代のみで、1500円です。
 どなたでもだいじょうぶです。ぜひ、お越しください。電話で申し込んでくださると感謝です。


↓ 次の写真は、5月6日の時の様子です














「英会話教室」におこしください

2012-05-18 | 英会話教室

         Let´s Enjoy English with Sam Yerby

         サム・ヤービー先生の英会話教室



すみません、2012年からお休みしています。

再会したら、お知らせいたします。

よろしくお願いいたします。




まずは、月2回から始めてみませんか。

ネイティブの先生とアットホームな雰囲気で、英会話を楽しみませんか。
小学生クラスと大人クラスです。
毎月2回のレッスンです。第2火曜日、第4火曜日です。


9月からは、以下のように予定しています

午後3:00~4:00 大人クラス
午後5:00~5:55 小学生クラス 
午後7:30~8:30 大人クラス(このクラスは、今はお休みしています)


☆小学生1回55分で、3クラスあります。大人は60分クラスで、2クラスあります。 ご自分の都合の良いクラスを選んでください。

☆料金は、すべての人が、入会金1,000円、レッスン1回につき1,000円で す。都合でレッスンを休んだ場合は、料金はいただきません。


講師・サム・ヤービー先生 Sam Yerby
 
先生は、アメリカ人のサム・ヤービー先生です。
ヤービー先生は、日本にきて33年の宣教師です。とても親切で、子供好き、わかりやすく、もちろん ネイティブ・イングリッシュです。





   お申込みは 高崎キリスト福音宣教会へどうぞ

   高崎市江木町1530-1 牧師・金井浜夫 までどうぞ。
   ☎027-325-8160 or ☎080-5173-6412  へご連絡ください。




英会話クラスの様子









上の写真・大人のクラスの様子です











上の写真・小学生クラスの様子です


森繁昇さんのライブ・コンサートをおこないました

2012-05-14 | イベント案内
森繁昇さんのライブ伝道コンサートをおこないました

4月22日(日)午後1:30~3:30、ゆかいな宣教トークと熱唱でした
     
  
2012年4月22日(日)に、ゴスペル寅さんこと、森繁昇さんをお招きして、ライブ伝道コンサートを行いました。森繁さんとの出会いは、昨年の8月に洗礼式の日に、高崎駅から電話が来て、旅の途中だが礼拝に出たいとのことで、その日の礼拝に来られたことから始まりました。突然でしたが、歌っているとのことで、洗礼式の後のティータイムで、演奏していただきましたが、なかなか味のあるすべて自作の歌で、とても良かったです。そこで、今回、正式にお招きしての、ライブ伝道会となりました。ユーモアのある宣教トークと自作の歌の熱唱で、出席者は少なかったのですが、皆さんとても嬉しくなった様子でした。時間がのびましたが、それでも、最後は、拍手がなりやまず、アンコールに。そして、ぜひ、2回目を開催してほしいとの声がたくさん出ました。