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試練と共に脱出の道を用意される神

2014-04-14 | あなたへの聖書メッセージ
試練と共に脱出の道を用意される神  



1コリント10:13  あなたがたの会った試練はみな人の知らないものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを、耐えられないほどの試練に会わせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えてくださいます。

このみことばは、聖書の中でも良く知られている言葉です。そして、とても良い、励ましの言葉でもあります。このみ言葉によって、キリスト信仰に近づいたと言う人が、多くいるようです。

このみことばは、人生のあらゆる困難、試練、逆境の時に、神が私たちに語っている、素晴らしい言葉です。
進学、就職、仕事の上での困難、また、家族の困難な問題、病気になった時、まさに、そのような、試練の中におかれた時、このみことばは、大きな力となります。
「神は真実な方ですから、あなたがたを、耐えられないほどの試練に会わせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えてくださいます。」
神は、必ず、その試練に脱出の道を用意しておられるのです。なんて、すばらしい言葉でしょうか。このみことばは、神の言葉ですから、真実です。

別の聖書箇所で、パウロはこう言っています。
2コリント4: 8 私たちは、四方八方から苦しめられますが、窮することはありません。途方にくれていますが、行きづまることはありません。

パウロは、なぜ、こう言えたかと言うと、それは、まさに、「神は真実な方ですから、あなたがたを、耐えられないほどの試練に会わせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えてくださ」るからでしょう。

本日は、この「神は、耐えられないほどの試練に会わせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えてくださ」る」の意味を、このみ言葉が、本来意味すること、本筋の意味を、共に学びたいと思いますこのみ言葉の本来の意味を知るカギは、旧約聖書にあります。

そこで、まず、「まことの神とは、どんなお方ですか?」と尋ねてみましょう。
子どもが言う「ねえ、神ってどんな方?」です。この質問です。

その答えの一つが、ここにあります。
まことの神は、私たちを、「耐えられないほどの試練に会わせないで、むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えてくださる神」だということです。

では、どういう神だと言うことでしょうか。
これは、旧約聖書を理解していく時に、正しくその意味を、理解することができます。旧約聖書が啓示する、神の姿を見る時に、わかるのです。

旧約聖書が示す神、その神は、まず、哲学的な概念ではありません。
神はいる、と思えばいるとか、自分の心に生きている、と思えばいるし、神が自分を助けてくれると思って全力を尽くせば、何とか、道が開かれるものさ、というような、存在だとすれば、その神は、哲学的な概念にしか過ぎません。

しかし、旧約聖書を見ると、まことの神は、そんなお方ではありません。まことの神は、歴史の中で働かれる神です。
まず、神は、天地宇宙を創造し、歴史を創造しました。アダムを創造し、ノアに箱舟を造らせ、ノアに、虹を見せて約束を与えた。そして、神は、異教徒の中から、アブラハムを召し、イスラエル民族を生み出し、そして、その孫ヨセフを異教の国のエジプトの総理大臣にし、そして、イスラエルの民がエジプトで増え広がり、しかし、エジプト人の奴隷となって、苦しむと、神は、モーセを選んで、モーセに自分の名を知らせ、そして、奴隷となっていた、エジプトから、イスラエルの民を、約束の地カナンへと連れ帰りました。

このように、実際の歴史に働かれる神こそ、まことの神の姿です。
神は、創世記1章から、ずっと、神がどういうお方か、ご自分のことを人々に、知らせようと願って来られました。そして、旧約聖書は、まことの神が、どういうお方かを、明確に知らせています。

神は、私たちを超越した存在です。人は、神に誰も、ああしろ、こうしろとは言えません。そして、神が、ご自分のことを、私たちに、あらわしてくださらない限り、私たちには、神は、わかりません。
多くの人は、神を自分の好む姿に、自分の勝手な神のイメージを作りあげて、それが神だと思っています。それは人が造り出した神です。

だから、そういう人は、まことの神の語る、神の言葉を聞こうとしません。また、神に自分の本根を語ることもしません。

しかし、旧約聖書を読むと、神が私たちに語りかけています。神のことばが聞こえます。その神の語りかけによれば、この世界は、私たちを中心ではなく、神を中心にまわっています。

私たちは、神を自分の好む姿に、自分の勝手な神のイメージを作りあげて、すなわち、神は慈しみ深い神だ、これだけを考えたい。その神を、自分の神としたい、と思っています。
しかし、パウロは、ローマの教会の信者たちに向かって、こう言いました。

ローマ11:22 見てごらんなさい。神のいつくしみときびしさを。倒れた者の上にあるのは、きびしさです。あなたの上にあるのは、神のいつくしみです。ただし、あなたがそのいつくしみの中にとどまっていればであって、そうでなければ、あなたも切り落とされるのです。

旧約聖書を見ると、神のきびしさが、わかります。
神は、創世記6章で、創造のみわざの草創期に、ご自分が創造された人間と動物のほとんどを、洪水で滅ばされました。それは、神のきびしさもありますが、実は、人間の罪が、手のつけようがないほどになってしまい、そういう失敗した人間の世界になってしまったからです。

では、神はさばきの神で、人に慈しみ深い神ではないのでしょうか。
ユダヤ人は、神に懲らしめられては、神に立ち返り、信仰を持ってきました。そのユダヤ人たちは、3千年もの間、こう歌い継いで来ました。

詩篇103:8 主は、あわれみ深く、情け深い。怒るのにおそく、恵み豊かである。
詩篇 136: 1 主に感謝せよ。主はまことにいつくしみ深い。その恵みはとこしえまで。

神は、ただきびしい神ではない。神と共に歩む者とっては、慈しみ深い神なのです。
ノアにとって、神は、近づくことのできない、恐ろしい神ではない。頼ることのできる神です。
アブラハムにとって、神は、近づくことのできない、恐ろしい神ではない。語り合える、慈しみ深い神です。イサクにとって、ヤコブにとって、ヨセフにとって、モーセにとって、ダビデにとって、神は、近づくことのできない、恐ろしい神ではない。慈しみ深い神です。彼らは、神に選ばれ、神と共に歩んだ人たちです。

なぜ、彼らは、選ばれたのでしょうか。彼らが、他の人々よりも頭が良かったらですか、お金持ちだったからですか、道徳的に優れていたかたですか。いいえ、違います。彼らが、選ばれたのは、神が彼らを愛されたからです。

そして、それは、私たちも同じです。私たちは、特別な人ではない。しかし、神に選ばれた人なのです。神に愛されているからです。
詩篇 136: 1 主に感謝せよ。主はまことにいつくしみ深い。その恵みはとこしえまで。
この賛美は、私たちの賛美でもあります。

しかし、神に愛されいる人は、神の試練に会わない、といことではないのです。
神に愛され、神に選ばれた人を、神は試します、テストをするのです。

アブラハムは、やっと産まれたそのひとり子イサクを、燔祭にささげよとの命令を受けました。なぜ、でしょう。アブラハムが神に選ばれたからです。

この世の中でも、選ばれる時、テストを受けますね。高校、大学、会社に入る、国家資格を取る、その時、テストを受けるでしょう。それは、選ばれた人だけが取得できるからです。選ばれる時に、テストを受けます。神もテスト、試練を課すのです。神の選びの器に対しては、テストをするのです。

アダムの長男カインは、そのテストに失敗した。その後の、カインの子孫、系譜は、神のテストをことごとく、軽んじたのです。
ノアもテストを受けました。
ノアがどんな気持ちで箱舟を造っていたか。どんなに戦いが多かったか。
どんなに、箱舟なんか造るのを、やめようと思ったか。
こんなことして何になるのか、と思ったか。
大勢の人々の中に同じように流れに生きたらどんなに楽か、思ったか。
ノアはテストを受けたのです。
ノアは、神のことばを取りました。そして、神に従ったのです。
ノアは、試練に、テストに合格しました。
だから、神は、彼と契約を結びました。そのしるしとして、虹を出したのです。

アブラハムも一人息子イサクをささげる試練、テストに合格しまた。
その結果、アブラハムから、イスラエル民族が生まれ、さらに、アブラハムは、すべて、まことの神を信じる者の、信仰の父になりました。

なぜ、ノアは、アブラハムは、ヨセフは、試練に合格できたと思いますか。
その答えがここになります。
1コリント 10:13 あなたがたの会った試練はみな人の知らないようなものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを耐えることのできないような試練に会わせるようなことはなさいません。むしろ、耐えることのできるように、試練とともに、脱出の道も備えてくださいます。

そうです、ここで言う「あなたがたの会った試練」とは、ノアが受けた試練であり、アブラハムが、ヨセフが、モーセが受けた試練と同じなのです。
彼らは、「耐えることのできないような試練に会わせる」ことなく、「試練とともに、脱出の道も備え」られていたので、合格できたのです。

ノアは、箱舟に入ることができました、箱舟という脱出の道を神は、用意してくださっていたのです。ヨセフは、エジプトに売られて行きましたが、そこで、総理大臣になる道が、用意されていたのです。
モーセは、エジプトの軍隊、全軍に追いかけられ、紅海の前で、絶体絶命にまりましたが、神は、紅海の水をしりぞけ、そこに道を用意してくださいました。脱出の道を用意して、くださっていたのです。

そうです、試練とは、まことの神を神する生き方、神と共に歩む人生に降りかかる、苦難と誘惑です。
出エジプトの民は、40年の荒野旅路で、この試練にぶつかったのです。
水がない、肉が食べたい、がない、・・・。
しかし、何と言ってもその試練、その苦難とは、まことの神を知りながら、その神のことばを聞こうとせず、さらには、ほかの神を神とする心を持つ誘惑です。自分の偶像を持とうとする誘惑、これは、試練です。
だから、1コリント10章13節の前後の節で、こう言っています。
7節を見てください。
1コリント10: 7 あなたがたは、彼らの中のある人たちにならって、偶像崇拝者となってはいけません。聖書には、「民が、すわっては飲み食いし、立っては踊った」と書いてあります。
次に14節を見てください。1コリント10: 14 ですから、私の愛する者たちよ。偶像礼拝を避けなさい。と言っています。
まことの神を知りながら、自分の偶像を持とうとする誘惑、信仰の戦い、これも、大きな試練です。

それに対して、神は私たちに「耐えることのできないような試練に会わせる」ことなく「試練とともに、脱出の道も備え」てくださる、言っておられるのです。

神は、私たちの弱さを知っています。行き詰まること、躓くことを知っています。つぶやきや、失敗の涙を知っています。でも安心してください。
神は「詩篇103:8 主は、あわれみ深く、情け深い。怒るのにおそく、恵み豊かである。」な神です。「詩篇 136: 1・・主はまことにいつくしみ深い。その恵みはとこしえまで。」 の神なのです。

そうです、どんな試練であっても、その試練とともに、必ず、脱出の道を用意されている神なのです。そして、試練への勝利の道を用意してくださる神なのです。
1コリント10:13  あなたがたの会った試練はみな人の知らないものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを、耐えられないほどの試練に会わせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えてくださいます。

神は真実なお方です。嘘、偽りはありません。十字架にいのちを捨ててまで、私たちを愛してくださった神が、こう約束されているのです。

1コリント10:13 ・・神は真実な方ですから、あなたがたを、耐えられないほどの試練に会わせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えてくださいます。
私たちもこの真実な神に、真実な心で、心をこめて、お従いしていきましょう。
アーメン。

人はパンだけで生きるのではなく ー勝利の人生を生きるには

2013-08-10 | あなたへの聖書メッセージ
     人はパンだけで生きるのではなくー
勝利の人生を生きるには 


イエスは、どんなお方でしょうか。
イエスは、罪は犯されなかったですが、あとは、すべての点で、私たちと同じ人間となられ、私たちが受けるすべての、試みに会われたお方です。
ですから、イエスは、私たちの弱さをご存じで、私たちを、絶えず、あわれみ深く思い、恵もうとされいるお方が、イエスであると、聖書にあります。

へブル4:15 私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。
へブル 4:16 ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。

イエスが公生涯を始められて、荒野で40日断食した後、まず、悪魔の試みを受けました。イエスが、悪魔の試みを受けられたこと自体、驚くべきことですが・・、まず、マタイ4章1節をみてください。

マタイ4:1 さて、イエスは、悪魔の試みを受けるため、御霊に導かれて荒野に上って行かれた。

ここには、「イエスは、悪魔の試みを受けるため、“御霊”に導かれて荒野に上って行かれた。」とあり、父なる神が、聖霊によって、イエスを悪魔の試に合わせられるために、荒野に導かれたとあります。
神の導きで、御子イエスが悪魔に試みられるとは、どういうことなのだろうか、と言う疑問がでてきますが。  

これは、そのことの背後に、父なる神の御意志があったということです。
神から来る、試みは、試練は、神が目的をもって、人に与えるものです。
ここでも、父なる神は、ある目的を持って、イエスを、悪魔の試みに、合わせたと言えます。

この荒野での悪魔の試みは、3つありました。
そして、この試練は、実は、みな、かつて、イスラエルの民が、出エジプトの時に、40年間の荒野の旅路で、受けた試練であったのです。

さて、第1の試み(誘惑)は何でしょうか。

マタイ4: 2 そして、四十日四十夜断食したあとで、空腹を覚えられた。
マタイ4: 3 すると、試みる者が近づいて来て言った。「あなたが神の子なら、この石がパンになるように、命じなさい。」

まず、イエスは荒野に導かれ、「四十日四十夜断食したあとで、空腹を覚えられた。」(2節)とあり、イエスは、この時、飢餓のただ中に置かれました。そして、悪魔は、その飢餓状態にあるイエスに、「あなたが神の子なら、この石がパンになるように、命じなさい。」と言ったのです。

これが第1の誘惑でした。この悪魔の言葉は、犯罪行為しなさいというのではない。ある意味では、正当なことのように聞こえます。飢えで苦しんでいるじゃないか、その辺に沢山ある石をパンに変えて食べたらいいじゃないか、あなたは神の子なのだから、そんなことをするのはわけないじゃないか、と言うわけです。  
そこには、人が飢えに苦しんでいるとき、そのままでは、飢え死にしてしまう、これは大問題だ。あなたは、神の子なのだから、奇跡のわわざを使ってでも、石をパンに変えてでも、飢えを満たすべきだ、あなたはメシヤなんだから、奇跡を使って、この人間の問題を解決すべきだ、という悪魔の主張であったのです。  

「空腹を覚えた」これは、モーセによってエジプトから脱出したユダヤの民が、40年間、荒野の旅をしていた時、受けた試練でありました。
約束の地カナンを目指して、荒野を旅していたユダヤの民は、その旅に出てすぐに遭遇したことは、水のない、のどの渇きと、パンがない空腹でした。

お腹が空いて仕方がなかったのです。それで、民はモーセに文句を言いました。そのとき、神は、人々を飢えるままにしておかないで、毎日、取って食べるだけの、「マナ」(パン)を天から降らせて、イスラエルの民を養ったのです。すなわち、神は民にパンを与えたのです。

そして、神は「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出るすべてのことばによって生きる。」(申命記8:3)と民に、語られたのです。 
しかし、当時のイスラエルの民は、この言葉の意味を正しく、理解することはできませでした。そして、マナではいやだと、文句を言ったのです。
しかし、イエスは、今、マタイ4: 4イエスは答えて言われた。「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる』と書いてある。」
と、その時の神の言葉を、使って、悪魔の試みに勝利しました。

ですから、この言葉自体が、実は、神が民にパンを与えている中で語られた言葉だったのです。神は、人々が飢えに苦しんでいるときに、その不満を漏らしているときに、「そんな文句を言うんじゃない、人はパンだけで生きているんじゃないだ。」と言って、民の訴えを退け、飢えている人々を無視されたのではありません。 

神は、民の飢え渇きに対して、水とマナを与えて満たしました。その身体を養いながら、神は民に、「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出るすべてのことばによって生きのです」よ、神の言葉を語られたのです。 

ですから、イスラエルの民は、マナを拾いながら、マナを食べながら、「そうだ、この食物は、神からいただいたものだ。神は私たちの身体を生かしてくださろうとしているのだ。」と、思えたはずなのですが、そうではなかった。
こんなものではなく、肉が食べたい、と言って神に、文句を言ったのです。

悪魔は、人にとって、パンは必要不可欠だ、だから、石からでも、パンに変えて、人々に与えるべきだと言いました。
しかし、そこには、そもそも、私たちの日ごとの糧(パン・米)は、神からいただいたものなのである、と神への思いがありません。

マナを食べながら、イスラエルの民は、気が付くべきだったのです。
「確かに神はモーセを通して、神のことばを私たちに語ってくださって、私たちの魂を生かしてくださろうとしている。」と。 

『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる。』(4節)これは、パンを無視して、信仰生活だけしていればいいと言っているのではありません。そもそも、神は、パンを与えると共に、神の言葉も与え、肉体も魂も、両方を生かしてくださる、ということを、マナは、示していたのです。その神を信じ、信頼して生きるとき、私たちは真に健やかな人生を生きることができる、と言っているのです。 

しかし、悪魔は、人はパンの必要、重要性だけに、心を向けさせ、そもそも、人にいのちを与えてくださった神を、無きものとしようと、したのです。
人々の目を、いのちとパンの与え主の神から、石をパンに変える奇跡の力に、向けさせて、人々の目を神から、そらそうとしたのです。

イエスは決して、人にはパンはいらない、と言ったことはありません。事実、イエスは御自分についてきた民が飢えたとき、2匹の魚と5つのパンで、5,000人を養いました。その時は、まさに奇跡を使って、5,000人以上に、パンをに与えています。 
また、「日ごとの糧(パン)を今日も与えたまえ」と、祈りなさいと、教えています。
イエスは決して、私たちのパンを軽んじてはおられません。

しかし、同時に、イエスは、人間の生活は、神のことばによって、正しいものになることを、その御生涯で、命をかけて、お示しになりました。すなわち、『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる。』(4節)という意味は、いのちとパンの与え主である神なしでは、人間は正しく生きていけない。人間は、自分の力だけでは、生きることはできない、神を無視して、誰も、からだも魂も健全に、生きていくことは出来ないというということなのです。 
私たちは、神と神のことば、によって、生かされている人生であるということです。 

さて、悪魔の第2の試み(誘惑)は何だったでしょうか。

マタイ4:5 すると、悪魔はイエスを聖なる都に連れて行き、神殿の頂に立たせて、4:6 言った。「あなたが神の子なら、下に身を投げてみなさい。」 

当時のユダヤの人々は、自分たちを救い出してくれる救い主が、エルサレム神殿の屋根に来られると、信じていたようです。そして、悪魔は、イエスを神殿の屋根のてっぺん(55メートルあった)に立たせて、「こから飛び降りたらどうだ。あなたが神の子なら、必ず、父なる神が、御使いを送って、助けてくれるはすだ。それは、人々は、目撃し、拍手喝さいをするはずだ!」と試みました。

しかも悪魔は、マタイ4: 6 言った。「あなたが神の子なら、下に身を投げてみなさい。『神は御使いたちに命じて、その手にあなたをささえさせ、あなたの足が石に打ち当たることのないようにされる』と書いてありますから。」
と、悪魔は、詩篇91篇11節を使って、イエスが、本当に神の子、救い主でるあなら、この奇跡をやって、証明したらしい、と誘惑したのです。悪魔も神の言葉を信じてはいるのです。 

さて、この第2の誘惑はどんな誘惑だったのでしょうか。・・それは、神の子の証拠を、誰もが目に見える形で見せなさい、ということです。そして、父なる神を試せ、ということでした。つまり、イエスが神の子であるなら、神殿の屋根のトップから飛び降りても、父なる神が御使いを送って、支えるでしょう、だから、あなたが神の子であるなら、父なる神の守りがあるかどうか試してごらん、というものでした。 

このイエスの受けた試みは、誘惑の意味は、何だったでしょうか。それは、神の子の証拠を示せということであり、それは、神を試すという、試み、誘惑です。 

私たちは神を信じています。しかし、時には、圧倒されるような神の恵みを体験したい、神がおられ、私を愛していてくれる決定的な証拠が欲しい、という思いがあるのではないでしょうか。 
つまり、私たちは、神を求めたり、信じるというとき、自分たちのこうして欲しい、ああして欲しいという、神への要求があるのです。そして、その自分の要求が即座に、聞き入れられたら、私は神を信じてもいいのだが、と思うのです。 
つまり、私たちは、自分の願いや要求が通ったとき、しかも、即座に要求が通ったとき、「ああ、神様は生きていらっしゃる。」と言えます。しかし、どうでしょうか。病気になったり、病気が直らなかったり、仕事がうまくいかなくなったり、人生で失敗をしたり、家族の問題が起ったり、神の恵を感じられなくなたりすると、失望してしまいます。なぜ、神に失望するのでしょう。

それは、どういう心から、そうなるのでしょうか。
「あなたが神だというなら神らしく振る舞ったらどうですか。」「イエスが神の子だというなら、神の子らしく振る舞って、私の願い、要求をかなえてください。もしかなえられれば、本物の神だ。」、本物神かどうか判断するのは私だ。・・私が本物かどうか、判断する。こういう態度になってしまってはいないでしょうか。 これでは、どちらが神がわかりませんね。
神を試す、神を試みる信仰者です。
これが、信仰者の受ける大きな試み、誘惑の一つなのです。 

イエスもこの試み、誘惑を受けたのです。そして、イエスは、
マタイ4: 7 イエスは言われた。「『あなたの神である主を試みてはならない』とも書いてある。」 という神のことば、聖書の言葉で、悪魔の誘惑を、退けました。
この御言葉も旧約聖書、申命記6:16に書かれている言葉です。 
この時の民は、メリバと言うところで、水がなくて、本当に神がるのか、と言って、モーセを殺そうとしたのです。イスラエルの民は、試みに負けました。

私たちには、神を試みる立場も権利もありません。悪魔は、信仰の名を使って不信仰に誘います。私の信じた神は、神らしく振る舞っているのか、私がかかえる問題に対して、神は神として振る舞っているのか。そうであれば、問題を早く解決してくれはずだ。そうすれば、私は神を、はっきりしんじるのに。
 
イエスは、「『あなたの神である主を試みてはならない』とも書いてある。」という聖書の言葉の決断をしました。誘惑に勝たれました。このイエスの決断は、私たちの決断です。このイエスの決断を私たちが生活の中でするとき、私たちは神に従う、という信仰、祝福をいただく信仰者となれるのです。


さて、イエスに対する、悪魔の第3の誘惑は何だったでしょう。

マタイ4: 8 今度は悪魔は、イエスを非常に高い山に連れて行き、この世のすべての国々とその栄華を見せて、
マタイ4: 9 言った。「もしひれ伏して私を拝むなら、これを全部あなたに差し上げましょう。」

よく、人は「この世はむなしい」とか言います。辛いことがあったり、失望することがあると、私は世捨て人になって暮らそうか、などと口走ったりします。なぜ、そう言うのか、それは、私たちの心を魅了してやまないものが、この世の豊かさだからです。この世にあるものの美しさだからです。

私たちの心は、物質の満ちあふれる豊かさ、この世の華やかさに、多くとらわれています。それらのものから、決して自由になれていない。これは、信仰者にとって、大きな試練、誘惑です。
この試練、誘惑に負けて、どれほど多くの人が、犯罪に手をそめて、大金を得ようとしているか。
私たちも、キリストを信じる信仰さえもが、いつしか、この世の繁栄に、どう役立っているか、などという視点から見られてしまうことさえあるのです。 

この世の繁栄(繁栄自体は悪ではない・繁栄を主の栄光に帰すかどうか)を手にしたいという誘惑は、けっして単純なものではありません。イエスはこの誘惑に真剣に闘いました。

私たちは、時には、悪魔の弟子になっても、この世の国々、富み、栄華を手に入れることの方が、本当に幸福な人生と言えるのではないだろうかと、そう考えたことはないでしょうか。そこまでは、ないにしても。 

一生懸命イエスを信仰してきて、イエスに従い、イエスの教えに忠実に生きてきて、献金したり、奉仕したり、人を愛そうと一生懸命生きて来たが、この世的には、少しも報われないことを感じて、イエスに救われた恵は大きい、と言って喜べない。むしろ、どうちらかと言うと、この世の繁栄から取り残された寂しさの方が、強く心をしめて、憂えるということがあるのではないでしょうか。

一生懸命人を助け、奉仕してることが、そんなに感謝をされるわけでもなく、この世的には報われない、と思ってしまったことはないでしょうか。
キリスト者は、人からの感謝は求めないと言いつつも。この世の栄誉、この世の繁栄とうもの、にはやり誘惑を感じているのだと思います。

しかし、イエスもこの誘惑を受けたのですから、何よりもこの世の繁栄を手にしたいという誘惑は、だれしもが受ける誘惑であると言えましょう。
この試練、誘惑との闘いは、人間の最も深い所での闘いでもあるということです。そして、この試練、誘惑の悪魔の最終目的は、「ひれ伏して私を拝め、私に仕えよ」ということです。 

イエスは、この試練、誘惑にどう決断したでしょうか。
マタイ4:10イエスは言われた。「引き下がれ、サタン。『あなたの神である主を拝み、主にだけ仕えよ』と書いてある。」

イエスの答えは、非常にはっきりして、しかも強い調子のものです。「引き下がれ、サタン。『あなたの神である主を拝み、主にだけ仕えよ。』と書いてある。」、
悪魔に仕え、悪魔を拝むなんてとんでもない、だた神のみに仕えよ。誘惑を退ける決断はこれでした。これで十分でした。これがイエスの答えでした。これまた、申命記6:13の言葉です。
マタイ4:11 すると悪魔はイエスを離れて行き、見よ、御使いたちが近づいて来て仕えた。 

さて、私たちは、イエスに対して、「ひれ伏して私を拝め」とは言わないまでも、「私に仕えよ」と求めていることがあるのではないでしょうか。

礼拝は、私たちが神に礼拝をささげるのです。もらうのではないのです。結果的には、神から恵をもらうことは確かなのですが、本来礼拝に来る姿勢は、神に礼拝をささげるために来るのです。旧約の礼拝は、犠牲に捧げる動物を携えてやってた。自分たちが、神にささげるものを持って礼拝に来たのです。

しかし、受けることを求めるだけに来ると、今日の礼拝は、サービスが悪い、私の性格にあっていないとか、私の必要に答えていない、と言うことになってしまう。それは、教会の礼拝に来て、イエスに対して、「私に仕えよ。」と言っているのと同じなのです。それでは、サタンのことばに従うことです。
 
さて、イエスは、悪魔の3つの試み、誘惑と闘い、勝利されました。

この3つの試み、誘惑は、イエスを信じて神の子供とされた、私たちが受ける試練、誘惑です。そして、それを、イエスは、まず、ご自分神の子として、私たちより先に、試練を受けて、その勝利の手本を示されたのです。

イエスは、神の子として、石をパンに変えて、人々の心を自分に引きつけることもできましたが、これでは、経済的なメシヤ、になってしまいます。
また、神殿の屋根のトップか飛び降りて、天使がさーと受け止めるところを、人々に見せて、イエスの不思議な力で人々を魅了し、御自分に人々の心を引きつけることも、できましたが、これは、神の約束よりも、奇跡の力のメシヤになってしまいます。
さらに、この世のすべての繁栄をイエスは手にして、その栄冠を手してこの世に君臨することもイエスにはできましたが、それでは、サタンを拝むことになります。
イエスは、魅力のある、この3つの誘惑を、すべて、イエスは、神の言葉によって退けました。 

へブル4:12 神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通し、心のいろいろな考えやはかりごとを判別することができます。

このイエスの、悪魔との闘いの、勝利は何かといえば、それは、聖書の御言葉を前面出したことですが、それは、イエスは、神の御子として全知全能の圧倒的な力を示すメシヤ、として歩むことを拒絶した、ということです。つまり、イエスは、自分の神の子としての強大な力を自制することによって、悪魔の誘惑に打ち勝ったのです。

この世で、繁栄と栄華を見せつける、かっこのよい拍手喝さいを浴びるメシヤではなく、苦難のしもべ、としてのメシヤの道を、選ばれた。
栄冠の冠をかぶったメシヤではなく、苦難のメシヤをイエスは選ばれた、決断をしたということです。
すなわち、イエスは、御自分を私たちに与えること、その根本に御自分を十字架で、犠牲にして、私たちを救う、犠牲的な愛を選ばれたのです。

それによって今、私たちに、キリストの十字架による罪の赦しの救いがもたらされたのです。これは、実に驚くべきことです。イエスは、すべての人々の救い主です。しかし、力による服従を私たちに強いることはありませんでした。

否、むしろ、イエスは私たちを、自由にすることに固執しました。人間は、この神の御子イエスにつばを吐きかけ、神の御子を十字架に付けて処刑する、自由と力を私たちに与えられたのです。

イエスが十字架に付けられたとき、人々は、イエスに向って、「おまえが救い主なら、今十字架から降りてみよ、自分とおれたちを救え!」と言いました。 イエスが私たちを救うためには、御自分を救うことはできなかったのです。 

イエスは持てる神の子としての力を自制することによって、悪魔の誘惑に勝利しました。それはまさに、ご自分を救えない、十字架による人類の救いを選んだということなのです。

また、イエスは神として、手っ取り早い、人の救いと、問題の解決の道ではなく、忍耐深く、人間の自由を最大限に尊重して、神のわざをゆっくりと進めることを選ばれました。
イエスは、ご自分に反対するものをねじ伏せたり、いっきにぶっ潰すとか、一掃することはありませんでした。 

イエスは、御自分が地上にいる間に、全世界を回心させようとはしませんでした。イエスが宣教で歩まれたのは、パレスチナとその周辺のごく限られた地域だけした。イエスは御自分の救いを人に無理強いすることはありませんでした。 

神は、私たちを犠牲的な愛をもって、罪の中から、死の中から救ってくださました。神が私たちに求めているのは、神の力づくで、神に従わせることとではなく、私たちの自発的な愛による応答なのです。 

礼拝も、奉仕も、献金も、神の愛への応答です。
与えられているから、感謝の心を、礼拝であらわす、奉仕であらわす、献金であらわすのです。

私たちも悪魔の誘惑に合います。それは、神が私たちに強制ではなく、自由を与えているからです。その自由を使って、神に仕えましょう。

ガラテヤ5: 1キリストは、自由を得させるために、私たちを解放してくださいました。ですから、あなたがたは、しっかり立って、またと奴隷のくびきを負わせられないようにしなさい。

そして、自由を使って、私たちは、神から引き離そうとする悪魔と戦います。それは、イエスが、悪魔と闘われたからです。そして、イエスの勝利によって、わたしたちのにも勝利が約束されているからです。

ローマ8:37 しかし、私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。

ヤコブ4: 7 ですから、神に従いなさい。そして、悪魔に立ち向かいなさい。そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げ去ります。

アーメン。 

失望しないで、あきらめないで!

2013-03-16 | あなたへの聖書メッセージ
        失望しないで、あきらめないで!
 
 長くクリスチャンとしての生活をしておられる方でも、まだ聖書のことも神のこともさっぱりわからないままで、いったい信仰を持つとはどういぅことだろうかと問い続けている方もいるかもしれません。

あるいはまた、自分は信仰を持つ、クリスチャンなんかにはなれないが、ただ聖書の話は興味深いから聞いている、と言う方もいると思います。
しかし、聖書のことばを本当に理解するためには、聖書の神を信じないと、わからないのです。聖書は神を信じない人には、本当には、とわからないということです。

しかし、信じなければ、と言われても、信じたくても、信じられないから、信じられないと言っているのに、それでは、あきらめるしかない、と思っている人もいるかもしれません。

しかし、イエスは、そういう人でも決して、あきらめる必要はないと言っています。

ルカ18: 1 いつでも祈るべきであり、失望してはならないことを教えるために、イエスは彼らにたとえを話された。

とあり、ここでイエスは、「失望してはならないことを教えるため」に、この話をされた、とここにあります。

そうです、このたとえ話でイエスは、神を信じた人はもちろん、神を信じられない人でも、決して、あきらめてはならない、失望してはならないことを、ここで、教えているのです。

ここでのイエスのお話は、たたえ話です。しかも、これは、非常にユニークなたとえ話です。

この誓え話は、こうです。
ルカ18: 2 「ある町に、神を恐れず、人を人とも思わない裁判官がいた。

ある町に、神を畏れず人を人とも思わない裁判官がいた。なんてひどい裁判官なのでしょうか。日本の時代劇に出てくるあ、悪代官のようなものです。
神を畏れない。神を神として尊ばない。もちろん、祈りはしない。当時のユダヤ社会です、神がいることを、意識しながらも、この世のなかに正義が成り立つような、裁きを行なうことはしない。
もちろん、神のおきてによって、裁判をするもことも考えない。だいたい、人を人とも思わない、人を人として重んじない人で、自分が裁く人の権利などは権利などは無視する裁判官が、この裁判官だというのです。まさにこれは、最悪の裁判官です。

裁判官というのは、たいへん大きな権力を持っている。これは昔も今も変わりはない。裁判官は、自分で 「これは正しい」「これは罰すべき悪である」と決めることができる。裁判官の判決は、大きなカを持ちます。裁判がこう決めた、ということになると、もうどうしようもなくなる。この裁判官が最悪の裁判官とあっては、本当に困ってしまいます。

こういう権力を持っている人間は、この世のなかの正義というのは、自分が決めることができると思ったり、時には黒を白と言いくるめて、それでも通用することを喜んだり、それだけに自分におべっかを使う者のために有利な裁判をしては、多額のわいろをもらったり、というふうなことにまでなりかねないのです。
 
創世記3章に、蛇-サタンが、エバを誘って罪を起こさせた言葉が記されています。創世記3: 5 あなたがたがそれを食べるその時、あなたがたの目が開け、あなたがたが神のようになり、善悪を知るようになることを神は知っているのです。」
神のようになって、自分で善悪を決められる、だから食べてごらんなさい、と、善悪を知る知識の実を、食べるようにとサタンは、誘ったのです。

神ではなく、人がすべてを決める、自分が神になって裁くことができるようになり、神のさばきに、服する必要はなくなる、これが、罪の誘惑です。そしてこれが、おおもとの罪=原罪です。
そう考えますと、この裁判官の姿は、まさに、人間の原罪が現れてきている姿とも言えます。つまり、罪人である、私たち自身の姿であるとも言えるのです。

さて、このような最悪の裁判官の所に、人を人とも思わないのですから、誰の訴えにも、きちんと耳を傾けることがないような裁判官のところに、一人のやもめ女がやってきた。

ルカ 18: 3 その町に、ひとりのやもめがいたが、彼のところにやって来ては、『私の相手をさばいて、私を守ってください』と言っていた。

この裁判官は、もちろん、取り合おうとしなかった。しかし、何度も何度もやって来ては、叫ぶので、考えた。
ルカ 18: 4 彼は、しばらくは取り合わないでいたが、後には心ひそかに『私は神を恐れず人を人とも思わないが、ルカ18: 5 どうも、このやもめは、うるさくてしかたがないから、この女のために裁判をしてやることにしよう。でないと、ひっきりなしにやって来てうるさくてしかたがない』と言った。」

この裁判官は、やもめ女が、「ひっきりなしにやって来てうるさくてしかたがない」から、彼女のために裁判をしてやろう。と考えを変えた、たというのです。

夫は既に死んでしまった。子どもがいたかどうかわかりません。やもめというのは当時のユダーヤの社会においては、特に社会的な地位が低い、あるいはむしろ無力な存在であった。

まさにそのやもめが、この最悪の裁判官のところに来たのです。そして頼んだ。おそらく自分よりも遥かにカのあるひとに、カづくで財産を奪われそうになっているようなことであったのでしょう。「どうぞ、自分のために正しい裁きを行ってください」。必死に訴えても、人の願いなどをいちいち聞いてはいない裁判官ですから、そんなことでびくともしなかった。

しかし、このやもめは、他の無力な人びととは少し違っていた。どこが違うか、
①諦めなかった。②気落ちしなかった。③失望しなかった。④何度もやって来て頼んだ。

どうせ頼んでもだめだろうと、一度は頼んでみたものの「ああ、やはりだめだった」と引っ込んでしまうことはなかった。どうせ私はやもめだから、このような目に遭う運命にあると、諦めることはなかった。この人の生き方は、運命、宿命に身を任せることではなかった。自分としてこれは当然の正しいことということを貫く姿勢があった。芯の強いとは、このようにあきらめないことにありますね。

あまりに粘り強く、何度も足を運んできて、助けを求めて叫ぶので、さすがに、この最悪の裁判官も、彼女のために、裁きを行なうことにしたというのです。

ルカ18: 5 どうも、このやもめは、うるさくてしかたがないから、この女のために裁判をしてやることにしよう。でないと、ひっきりなしにやって来てうるさくてしかたがない』と言った。」

この最悪の裁判官は、悩まされ続けて、これでは困ると、困り切って、ここで彼女のためになるような裁判をして片づけてしまおうと思ったのです。そうしたらもう悩まされなくてすむだろうと考えて、事柄を片づけてしまったというのです。
 
さて、なぜ主イエスはこんな、たとえ話をなさったのでしょうか。

ルカ18: 6 主は言われた。「不正な裁判官の言っていることを聞きなさい。
ルカ 18: 7 まして神は、夜昼神を呼び求めている選民のためにさばきをつけないで、いつまでもそのことを放っておかれることがあるでしょうか。
ルカ 18: 8 あなたがたに言いますが、神は、すみやかに彼らのために正しいさばきをしてくださいます。

ここでイエスが、私たちに一番いいたいことは、教えたいことは、
それは、神を信じた人はもちろん、神を信じられない人でも、決して、あきらめてはならない、失望してはならないことを、ここで、教えているのです。

そして、失望しないで、落胆しないで、熱心に、しつこいくらいに、神に祈り求めなさいと、教えているのです。

主イエスがここでお語りになりました誓え話の主題、それは「祈る」ということです。そして、神を信じるということは、祈ることです。しかし、多くの人は、信仰を持たなければ、祈れないと思っているかもしれません。
しかし、実は、信仰を求めるということそれ自体が、既に祈りなのです。

信仰がわかる、あるいは信じるということは、神が生きておられるということがわかるといぅことです。聖書が語っている神というのはこういう方であるというように、神についての知識が増えるというのは信仰を意味しない。

神を信じるということは、神が生きておられるということがよくわかるということです。神が生きておられる。それは、この私のために生きていてくださるということがわかるということです。自分はその神とおつきあいをする、あるいは既にしているのだということを知っているということです。この神とのおつきあいというのは、祈りです。神が生きておられること、これは誰かが一所懸命説得して、そのひとに説得力があれば、その説得のおかげで神が生きておられることがわかるようになる、ということでもない。

神が生きておられることがきちんとわかるのは、神ご自身がそれを教えてくださった時だけです。そうなると、私たちが信仰を求めるのは何よりも祈りになる。
神に向かう祈り、願いです。「どうぞ、神が生きておられることを神ご自身が示してください、教えてください」という祈りになる。ですから、信仰を求めることが既に祈りだということです。祈ることは難しいことではないのであって、神の名を呼ぶだけでいい。「神よ、どうぞ私にあなたの生きておられることをわからせてください」と、呼びかければそれでよいのです。
 
そういう祈りの生活を始める時に、私たちがすぐに遭遇する問題は、祈ってもすぐには神は答えてくださらないことがあるということです。ですから、すぐに、「気を落とす」、「失望する」ということです。

しかし、不義な、神を神とも思わず、人を人とも思わないような、最悪の裁判官であっても、熱心な願いには負けるものだ。まして、日夜、神に正義の裁きを祈り求める民を、まことの神は、そのままでほって置くようなことは、なさらない、とイエスは、言われているのです。

つまり、イエスは、祈りというのは失望してはいけない、途切れてはいけない。ほんとうに必要なことであるならば、絶えず、日夜、叫び続け、訴え続けなさい。神は必ず、聴いてくださる。不義の裁判官でさえ言うことを聞いて、願いをかなえた。た。まして、私たちの父である神は、私たちの祈りの叫びを、無視されることはない。そうここで、約束して、おられるのです。
 
さて、この話は、しかし、ここで終わっていません。

ルカ 18: 8 あなたがたに言いますが、神は、すみやかに彼らのために正しいさばきをしてくださいます。しかし、人の子が来たとき、はたして地上に信仰が見られるでしょうか。」

実は、この誓え話は、これに先立つ、ルカ17章の記事から続きます。そこで主イエスが話題にしておられたことがあります。
ルカ17:25 しかし、人の子はまず、多くの苦しみを受け、この時代に捨てられなければなりません。 ルカ17:26 人の子の日に起こることは、ちょうど、ノアの日に起こったことと同様です。

人の子とは主イエスご自身のことです。「人の子はまず、多くの苦しみを受け、この時代に捨てられなければなりません」とは、これから起こる十字架の出来事の予告です。そうです、イエスは、私たちのために十字架につけられて死にますが、その前に、私たちにこの教えをされたのです。失望しないで祈り続けよ!と。

のイエスご自身が、絶えず祈られたお方です。十字架につけれる前の晩に、ゲッセマネの園で祈られました。

ルカ22:41 そしてご自分は、弟子たちから石を投げて届くほどの所に離れて、ひざまずいて、こう祈られた。
ルカ22:42 「父よ。みこころならば、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、みこころのとおりにしてください。」
ルカ 22:43 すると、御使いが天からイエスに現われて、イエスを力づけた。
ルカ22:44 イエスは、苦しみもだえて、いよいよ切に祈られた。汗が血のしずくのように地に落ちた。
ルカ 22:45 イエスは祈り終わって立ち上がり、弟子たちのところに来て見ると、彼らは悲しみの果てに、眠り込んでしまっていた。
ルカ 22:46 それで、彼らに言われた。「なぜ、眠っているのか。起きて、誘惑に陥らないように祈っていなさい。」

イエスは、常に失望しないで、私たちの救いの達成のために、祈ってくださいました。十字架の直前にも、祈ってたのです。いえ、十字架の上でさえ、祈りました。luke 23:34 そのとき、イエスはこう言われた。「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」

イエスは、今朝、この不正な裁判官のたとえで、ルカ18: 1 いつでも祈るべきであり、失望してはならないことを教え、てくださったています。
イエスご自身は、私たちのために十字架につけられて死に、そして、三日目に復活して、今、天において、私たちのために、とりなしの祈りをしてくあさっているのです。そして、私たちの祈りを聞いてくださっているのです。
不正な裁判官に、はるかにまさって、私たちの祈りを、叫びを聴いてくださっているのです。ここに、私たちの慰め、励ましがあるのです。

ルカ18: 1 いつでも祈るべきであり、失望してはならないことを教えるために、イエスは彼らにたとえを話された。

アーメン。

クリスマス・メッセージ 不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君

2012-12-08 | あなたへの聖書メッセージ
  不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君 


今日はそのアドベントの第2週ということで、旧約聖書にあります、イザヤの預言したメシヤ預言(キリストのことを預言していること)を、続けて学びたいと思います。
特に、イザヤ9章6節です。
イザヤ9:6 ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。ひとりの男の子が、私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれる。 

ここは、イザヤ7章14節に続いて、キリストが地上に誕生する約700年前に、キリストの誕生が預言されている箇所です。このイザヤ書9章6、7節がキリストを指していることは、疑いえない事実なのです。

まず、このイザヤ書9章6,7節の時代背景を見てみますと。 
このイザヤという預言者は南王国ユダで活動した預言者(BC.750-700頃)ですが、神の召命を受けて登場してきたのは、すでに、イスラエル王国が北と南に2つに、分裂してから200年後です。
ちなみに、北王国イスラエルは、ヤロブアムによって出来た北方10部族の国。南ユダは、ダビデ王の系図をたどる2部族からなる小国でしたが、都エルサレムを持っていた。  
このように、イエスの誕生700年前に、2つに分裂した、イスラエル王国のその、南王国ユダの中で、アハズ王の時に、活躍した預言者が、イザヤです。

◎さて、当時、北イスラエル王国とその北にアラム王国がありましたが、さらにその北東に、アッシリヤ帝国があり、このアッシリヤ帝国は、南のアラム王国、北イスラエル王国へ攻め込もうと、虎視眈々と、その機会を狙っていた。そのアッシリヤ帝国の脅威に、対抗して、アラムと、北イスラエルは同盟を結び、さらに、南ユダ王国とも同盟を結ぼうとしたのです。

◎しかし、南ユダ王国のアハズ王は、これを拒否しました。そこで、アラムと北イスラエルの連合軍は、南ユダの都エルサレムに攻め上り、アハズ王を滅ぼそうとしました。(これが、BC.743年頃です)。

南王国ユダのアハズの軍隊は、一時は、これを撃退しましたが、アラムと北イスラエルの連合軍は、北イスラエルの地にとどまって、また、ユダを狙っていた。それを、聞いた、アハズ王と民は、どうしたか。
イザヤ7:2 ところが、「エフライムにアラムがとどまった。」という報告がダビデの家に告げられた。すると、王の心も民の心も、林の木々が風で揺らぐように動揺した。 
この時、南ユダのアハズ王と民は、非常に恐れ動揺し、防御のために、あちらこちらと狂奔(きょうほん)しました。

◎アハズ王は窮地に陥ったとき神に信頼せず、神により頼まかったために、その心は動揺し恐れました。そして、こともあろうに、北イスラエルとアラムに攻め込もうとしていた、アッシリヤ帝国に助けを求めたのです。そればかりでなく、このアハズ王(BC.743-716)は、偶像礼拝であるバアル礼拝を積極的に推進したため宗教的、道徳的な腐敗と混乱が国の中に充満したのです。 

◎さて、不信仰なアハズの援軍要請に答えて、アッシリヤの王ティグラテ・ピレセルは、このときとばかり、大軍を率いて怒涛のように、北イスラエルとアラムに攻め寄せてきました。BC.733年、722年にアッシリヤ帝国(ティグラテ・ピレセル)は、アラムの首都ダマシコを攻撃し、アラムの王レツィンは殺されました(イザヤ16:9)。また北イスラエルの王ペカも内部クーデターで殺されて、アッシリヤ帝国に滅ぼされる寸前、大変な窮地に陥ってしまいました。
  
◎さて、アッシリヤに助けを求めたユダ王国でしたが、アッシリヤ軍はこれ幸いとばかり、まずアラムと北イスラエルを滅ばしました(BC.723、722)。しかし、神に頼らずアッシリヤ軍により頼んだ、南王国ユダはこれで一安心できたかと言うと、そんなことはない。
◎アッシリヤ軍は、その猛威をもって、こんどは南ユダを攻撃してきたのです。それは激しい攻撃で、南ユダ王国全土への攻撃でした。そのため、南王国ユダも壊滅状態の寸前まで追い込まれます。この時、北イスラエルと南ユダは暗黒の時代、どん底状態でした。
  
その状況をイザヤは、こう記しています。  
イザヤ8:21 彼は、迫害され、飢えて、国を歩き回り、飢えて、怒りに身をゆだねる。上を仰いでは自分の王と神をのろう。8:22 地を見ると、見よ、苦難とやみ、苦悩の暗やみ、暗黒、追放された者。 
「苦難とやみ、苦悩の暗やみ、暗黒」これは、その時の北イスラエルと南ユダの窮地に陥った、本当に絶望状態をあらわしています。
「苦難とやみ、苦悩の暗やみ、暗黒」

◎今の私たちはどうでしょうか。今の時代、日本は、世界は、やはり暗黒の部分が多いのではないでしょうか。
そして、私たち、個人、個人の人生にも、苦難とやみ、暗黒のような状態に、陥ることが、多々あるのではないでしょうか。
私も多々経験しています。まずは、17歳の時に、病気になり、それこそ、これから青春を楽しもうとした時、将来も希望も無くなってしまいました。

◎EYさんも20歳の時に屋根から落ちて、脊椎を損傷したとのこと、その後、大変な苦しみを味わって、来られたと思います。20歳のその時、おそらく、真っ暗闇に放り込まれた状態ではなかった、でしょうか。まして
身体に障害を持つと言うことは、大変なことです。

◎西村隆さんのこと・・・金沢の岡田仰先生の同窓の方。岡田先生が、関西学院神学部にいた時、一年上に、西村隆さんがいた。目立たない人だったようです。しかし、西村隆さんは、大学卒業後、社会人いなって結婚したが、彼は、ALSを発病し、今も戦っているのです。

◎また、そうした、身体の障害でなくても、人生の壁、生きていく上で人生の障害にぶつかる人は、多くいます、いや、ほとんどの人が、ぶつかっているでしょう。
結婚したいができない、いつも、相手の壁にぶつかる。結婚しても、夫と妻もの間に壁ができる、あるいは、問題がある。親子の間の問題、子供の問題、がある。それが、取り除けない。会社や職場においても、そういう人と人の壁がある。これらは、生きうえでの障害となり、その人を苦しめます。その人にとっては、そういう状態が、「苦難とやみ、苦悩の暗やみ、暗黒」と言えると思います。
◎中村道夫さん、武田恵裕兄のお母さんのこと、これも、暗黒でしょう。

◎人生の、苦悩とくらやみ、の中に落ちいったとき、私たちは、そこで絶望し、悲観し、自暴自棄になって、自分の人生を捨ててしまうか。いや、そういう中でも、心を強め、人生を捨てずに、希望をもって、さらに、喜びすら持って、人生を生きぬいていくには、どうしたら良いでしょうか。

「苦難とやみ、苦悩の暗やみ、暗黒」に共通していることは、闇です。暗みです。暗闇をなくすには、どうしたらよいか。それは、光しかない。
光が、差し込めば、暗みは、消滅するのです。
◎さて、苦難と闇、苦悩と暗やみ、暗黒の中、絶望の闇の中を歩んでいた、北イスラエル南ユダ王国のですが、その時イザヤは、神の託宣、神のことばを、あずかって、こう預言をしたのです。

9章2節を見て下さい。                 
イザヤ9:2 やみの中を歩んでいた民は、大きな光を見た。死の陰の地に住んでいた者たちの上に光が照った。 

「やみの中を歩んでいた民は」→「大きな光を見た」、「死の陰の地に住んでいた者たちの上に」→「光が照った」という、神のことばを語ったのです。

つまり、暗黒、闇を取り除く、光が、もたらせると言う預言です。この光によって、民は、どうなるか。それは、1節です。
イザヤ9:1 しかし、苦しみのあった所に、やみがなくなる。先にはゼブルンの地とナフタリの地は、はずかしめを受けたが、後には海沿いの道、ヨルダン川のかなた、異邦人のガリラヤは光栄を受けた。

9章1節後半と2節 「やみの中を歩んでいた民は、大きな光を見た。死の陰の地に住んでいた者たちの上に光が照った。」 「異邦人のガリラヤは光栄を受けた。」これは預言の言葉です。ここに「大きな光を見た。」「光が照った。」と、「光栄を受けた。」と完了形、で表現されていますが、これは旧約の預言書には、よく見られる用法なのですが、預言的完了形でありまして、まだ起こっていない事なのですが、そのことが必ず起こることなので、あたかもすでに起こったかのように表現する方法です。 

◎しかし、これは当時、このイザヤの預言を聞いていた民たちにとっては、まだ起こっていない、これから起こる事柄です。つまり、これは、そのような暗黒の中にいた民にも、神のあわれみ深い働きが臨んで、民に光が与えられる、大きな喜びが与えられるという約束が示された、ということです。  


◎「苦しみのあった民に、やみがなくなる」「はずかしめを受けた民が、光栄を受ける」、と言うのです。
苦難と絶望からの脱出です。
さらに、イザヤ9:3 あなたはその国民をふやし、その喜びをまし加えられた。彼らは刈り入れ時に喜ぶように、分捕り物を分けるときに楽しむように、あなたの御前で喜んだ。 

この3節には、喜びがあります。
さて、なぜ、喜べるのか。それは、まことの神を信じる者に、勝利と平和がもたらされるからです。北イスラエル王国と、南ユダ王国は、外国の敵に敗北し、また、それは、まことの神から離れ、バアルの神などの偶像礼拝に走った、霊的な敗北もしていたからです。

しかし、神がもらたす、暗黒、闇を追い出す光は、神に立ち返りさえすれば、神が、その神の力のよって、完全な勝利と完全な平和を与えると言うのです。
だから、絶望から希望へ、そして、喜びの人生へと変えれていくのです。

◎さて、では、神が与えると言われた、その完全な勝利と完全な平和は、私たちにどのようにもたらされるか。
それは、「ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる」からだと言います。

イザヤ9:6 ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。ひとりの男の子が、私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれる。    

◎これこそが、私たちの人生の暗闇を追い出す光、私たちの喜びの最高の根拠です。一人の男の子の出生が大いなる喜びを「私たちに」与えられる、もたらされると言うのです。この「ひとりのみどり子」は、「男の子」という意味のことばですが、次に「ひとりの男の子が、私たちに与えられる。」とありますが、これは「私たちのための一人の息子」と訳せることばです。
ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。
ひとりの男の子が、私たちに与えられる。
は、重要なことなので、同じことを繰り返して言っているのです。

◎つまり、ここには明確に「私たちのために生まれる一人の男の子の誕生」が預言されていて、このお方こそが、私たちに、光栄をもたらされる、と言うことなのです。

◎では、この一人の男の子が誰なのか。しかも、この男の子は「私たちのために生まれる。」「私たちに与えられる。」と出生の明確な目的が「私たちのため」と示されています。 
◎さらに「主権はその肩にあり」とあり、この男の子は単なる子供ではなく、実際の統治者であることがわかります。そして、実はこの統治者をイスラエルは求めていたのです。アラムやアッシリヤ帝国と言った圧制から、イスラエルの国を救い出してくれる強い統治者を求めていました。

◎この強い統治者であり、救出者をイスラエルは、油注がれた者=マシ―ァハ「メシヤ」と呼ぶようになり、自分たちの国を救ってくれる「メシヤ」が、やがて「救い主」という意味を持つようになり、メシヤをギリシャ語に直したものが、「キリスト」です。

◎つまり、神は9章6節の、この男の子こそが、メシヤであると、イザヤを通して、ここで預言しているのです。この6節、7節は、イエス様のことを言っているのです。このイエス・キリストの誕生こそ、イスラエルだけでなく、人類の大いなる喜びなのです。

◎さて、救い主イエス・キリストは、6節をよく読んでみると、ここで言われる名前に、その本質が示されています。その男の子は、“その名は「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれる。”とあります。 

◎私たちの救い主は、「不思議な助言者」です。王には、助言者や議官すなわち補佐官がいて、政治を助けました。(イザヤがそうでした)。ところがこの男の子=メシヤは、統治者であり、王であるのに、同時に助言者であります。
◎つまり、「私たちのために」来られるこの方=救い主、キリストは、王でありながら、私たちに助言をしてくださる方であると言うことです。英語の聖書では、この「不思議な助言者」を Wonderful Counselor (NIV)と訳しています。つまり、イエスは、「素晴らしいカウンセラー、相談者、助言者」なのです。

◎次にイエスは「力ある神」です。イエス・キリストが、単なるこの世の王ではない「力ある神」であると言っているのです。イエスは、全知全能の地ある神です。

マルコ10:27 イエスは、彼らをじっと見て言われた。「それは人にはできないことですが、神は、そうではありません。どんなことでも、神にはできるのです。」
◎次にイエスは、「永遠の父」です。
イエス・キリストは、「永遠の父」と言われます。この「永遠」は、歴史の興亡を越えた終末的な、永遠に続く王国の樹立を考えていることがわかります。イエスは、力ある神であるのに、私たちの父となることを示しています。つまり、イエスは、永遠にわたって御自分の民=私たちを、を保護し、支え、愛する方であること、あわれみに満ちた方である、ということです。

放蕩息子の父親こそ、イエス・キリストに他ならないのです。

次に、イエスは、「平和の君」です。
この シャロームは、健康であり、平安であり、平和であり、健全さであり、安全であり、欠けるところの無い十全性であり、繁栄を意味するところの言葉です。人は神との間にこのシャロームが成立するとき、心に真の平和が訪れます。そして、人との間にもシャロームが成立し、個人の生活にもシャロームが成立するのです。イエスこそ、私たちに、シャロームをもたらしてくださるお方のです。
自ら十字架につき、私たちの罪を背負って死なれ、神と私たちを和解させ、真の平和をもたらされました。

コロサイ1:19 なぜなら、神はみこころによって、満ち満ちた神の本質を御子のうちに宿らせ、 コロサイ 1:20 その十字架の血によって平和をつくり、御子によって万物を、御子のために和解させてくださったからです。地にあるものも天にあるものも、ただ御子によって和解させてくださったのです。

さて、イザヤは、このような「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」という名を持つ、すなわち、そういう本質と特質を備えた「一人の男の子」がイスラエルに与えられると、神の託宣、神の約束を、語ったのです。

このようなお方が誰かと考えれば、それは、ただの人間ではない、イエス・キリストにほかならないのです。その証拠に、新約聖書でも、ここをイエス・キリストの預言として記しています。  

◎実はイザヤは、先に7章14節でもすでに、その男の子は処女から生まれることを預言していました。→イザヤ7:14 それゆえ、主みずから、あなたがたに一つのしるしを与えられる。見よ。処女がみごもっている。そして男の子を産み、その名を『インマヌエル』と名づける。 
「私たちのために生まれ」「私たちのために与えられる」この男の子は、7章14節では預言されていた、インマヌエルの神なのです。
主が約束されたインマヌエルの神は、主権者であり、不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君なのです。

◎このイザヤの預言、神からの託宣を聞いた民は、疑ったかも知れません。本当にそんなお方が来られるのかと。しかし、イザヤはそれが必ず絶対に実現すると保証します。 なぜなら、その保証は、預言者の権威によってまたらされるのではなく、9章7節にありますように、「軍の主の熱心がこれを成し遂げる。」からです。つまりこれは、神の民に対する主の愛とあわれみの激しい熱意が、熱心がこのことを必ず来らせるので、これを阻止できるものは何もないという宣言なのです。イザヤはこのことを実現の保証としているのです。 

ルカ 2:11 きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。

◎イエス・キリストのこの地上での誕生は、まさに、暗黒の中にいる私たちへの「光」なのです。イエス・キリストの救いがなければ、この世は暗黒のままです。 

しかし、神は御子イエス・キリストをこの世に遣わしてくださり、私たちの身代わりとして、十字架にかけて私たちを罪の滅びから救って下さったのです。 「やみの中を歩んでいた民は、大きな光を見た。死の陰の地に住んでいた者たちの上に光が照った。」のです。 

◎西村隆さんのこと・・ 彼は今、ALSと戦っている。それでも、2004年に『神様がくれた弱さと微笑み』という本を出版した。
彼は言っています。
「神様からの恵や、語りかけは、私たちのすぐ近くにあります。でもそれに気が付くには人によって様々な道があります。私は病気という弱さが与えられて神様の恵を実感しました。それまでは、出来ないこと、不安や不満を数えていました。ところが出来ること、希望や満足を数えたら、驚くほど恵みに満ちた私たちの生活がありました。」
でも、こうも言っています。
「私は病気を受容で来ているわけでもまく、人生を悟ったり、あきらめたわけでのなく、信仰心があついわけでもありません。泣いて、叫んで、おびえて、そんな自分を情けなく、感じます。でも、ただひとつだけ確信があります。
揺り動く振り子の中心にキリストがいて、切れることのない糸で結ばれている確信。私は投げ出されることはありません。闇の中でも。」

イエスこそ、私たちの人生の道を照らす光です。私たちを救ってくださる救いの光なのです。イエス御自身もこう言われました。 
  
ヨハネ8:12「わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。 
                     
アーメン。  

 神様とは、イエス様とは、どういうお方か

2012-11-17 | あなたへの聖書メッセージ
神様とは、イエス様とは、どういうお方か   


かつて、ルーズベルトは、よく教会に出かけた、大統領がこられるというので、教会に来る人もいた。ある時、行事のために来れないときがあった。そこで、一人が電話した。すると、その教会の執事が、こう答えた。このひとことが有名です。「大統領が来られるかどうか、わかりません。でもイエス様は来られます。どうぞイエス様に 神様に会いに来てください」。

礼拝に出席することによって、神にお会いでき、そして、神が人生を共に歩んでくださる確信が持てるのです。ですから、一週間にたった1回です。教会の礼拝を大切にし、まず、可能な限り(体調や入院などで出席できないこともあります)、礼拝を優先することを、心がけてみてください。礼拝は、そこで、神様にお会いし、神が自分に語ってくださる場でもあります。そして、そこには、主の祝福が用意されています。

さて、では、私たちとお会いして下さる神様とは、共に人生を歩んで下さる神様とは、イエス様とは、どういうお方でしょうか。

そのことを明らかにしているのが、聖書ですが、その中でも、本日の、このルカ15章の放蕩息子の話は、実に、そのことを、良くあらわしています。

イエスがされた放蕩息子のたとえ話し ルカ15:11-32

さて、イエスはこういう話をされました。ある人に、(この人は、比較的大きな農場の持ち主で裕福な人でしたが)、この人に、二人の息子がおりました。二人とも、父の農場で父と一緒に働いていました。

兄息子は、まじめな性格で、家を継ごうとまじめに働いていました。しかし、弟息子は、一緒に働いてはいましたが、不満をもっていました。何不自由のない生活をしていましたが、農場の生活にまた、田舎暮らしにあきあきして、もっと広い世界、もっと自由な世界に行って見たいと考えました。もっと自分の力をためしてみたい、もっと刺激のある楽しい暮らしがしたい、と思っていました。あるとき、弟息子は、そのつのる気持ちをおさえることができず、お父さんにこう言いました。 

「お父さん、私はこの家を出て行きます。こんな田舎は、もう嫌です。都会に行って、自分の力を試してみたいのです。一旗あげたいのです。
だから、お父さん、『おとうさん。私に財産の分け前を下さい。』(12節)。」

◎日本では生前贈与というのがありますが、当時、ユダヤ人、アラブ人の間には、生前贈与の法律はなかった。ですから、この弟息子の言葉は、異常な言葉だったのです。
生きている父親に向かって、息子が『おとうさん。私に財産の分け前を下さい。』と言うことは、それは父親に向かって、「お父さん、早く死んで下さい。」と言うことと同じでした。当時のユダヤの父親の権威が、どれほどい大きいかを考えれば、とんでもないことでした。『おとうさん。私に財産の分け前を下さい。』(12節)。

◎しかし、その異常な言葉にもかかわらず、このお父さんは、弟息子に財産をわけてやりました。「それで父は、身代をふたりに分けてやった。」「ふたりに分けてやった」とありますが、平等に、お兄さんにも、父は、あげたのです。これは、実際には、兄は家に留まっているので、土地、家畜は、そのままの状態ですが。

◎ルカ15:13 それから、幾日もたたぬうちに、弟は、何もかもまとめて遠い国に旅立った。     
お父さんから財産の生前贈与(農家ではおもに、家畜と土地でした)を受けた、弟息子は、それを現金化して、外国とも言える遠い国、大きな町へと、旅だったのです。

さて、財産の分け前を現金としてもらい、大金をもって、大きな気持ちで、願っていた広い世界、自由な世界へ、意気揚々と、羽ばたいて行った、弟息子ですが、その後どうしたでしょうか。その結果は、意外とはやくやってきました。
ルカ15:13 それから、幾日もたたぬうちに、弟は、何もかもまとめて遠い国に旅立った。そして、そこで放蕩して湯水のように財産を使ってしまった。 

◎彼は念願の広い世界、自由な世界に出てきましたが、そこで自分の力を試し、一旗揚げようとしたのですが、志はあったのですが、大きな町には、誘惑も多くあったのです。彼は、お金持ちでした、最初は。そして、彼がしたことは、「そこで放蕩して湯水のように財産を使ってしまった」のです。あっという間に、ばく大な財産が、消えて行ってしまいました。
◎そして、悪い時には、悪いことが重なるものです。彼がいたその外国の町とその周辺に、大経済不況が襲ったのです。そのわけは、作物が取れない、大凶作、大飢饉が、その地域をおそったからです。
ルカ15:14 何もかも使い果たしたあとで、その国に大ききんが起こり、彼は食べるにも困り始めた。 
◎それで彼は、働いて食いぶちを稼ぐこともできず、また、その町でできた友人に、お金を貸してくれと頼んでも、かつて、彼のお金で、あれほど、豪遊させてもらった友人も、「あんたなんか知らないね」と言って、相手にしてくれません。彼は、「ああ、彼らは、僕をしたって近寄って来たのではなく、僕ののお金をしたって近寄って来たのだ」と弟息子は、その時、知ったのです。

◎しかし、今や、遅し。「彼は食べるにも困り始めた」のです。そして、とうとう、町の郊外の豚飼いのところに身を寄せて、豚の世話をして、食い扶持を、もらおうとしました。しかし、豚の世話をしてもいいよと、言ってはくれましたが、彼に、賃金はおろか、食べる物もくれなかったのです。これは、豚飼いは、彼を、厄介払いしたということです。

◎ルカ15:15 それで、その国のある人のもとに身を寄せたところ、その人は彼を畑にやって、豚の世話をさせた。15:16 彼は豚の食べるいなご豆で腹を満たしたいほどであったが、だれひとり彼に与えようとはしなかった。 

◎しかも、ユダヤ人にとって、豚は、宗教上、汚れた動物だった(レビ11:7)。し、食べることはしなかったのです。ですから、豚を飼う手伝いとは、彼は、ユダヤ人として、これ以上ない、屈辱を味わったのです。それでも、食べ物は、与えられなかった。

◎彼は、何、不自由のない父のもとを、飛び出して、自分が考える自由と希望とを求めて、外国の都会に出てきました。しかし、そこで彼が直面した現実は、誘惑に負けて、放蕩の生活となり、その後に待っていたものは、今までの人生で、経験したこのない、屈辱の生活でした。彼の人生は、破滅、寸前でした。

自暴自棄になってしまっても、おかしくない状態でした。
でも、その時、彼は、深く悩み、自分自身のやってきたことを、考えるようになりました。
そして、彼の心に、変化が起こりました。彼の心に気づき、が起ったのです。彼は、自分の姿が見えたのです。その時、彼は、我に返ったのです。
◎ルカ15:17 しかし、我に返ったとき彼は、こう言った。『父のところには、パンのあり余っている雇い人が大ぜいいるではないか。それなのに、私はここで、飢え死にしそうだ。 

◎「我に返った」この弟息子は、お父さんといた時の生活が、いかに恵まれていたか、その恵みの大きさに気が付いたのです。田舎で、お父さんの農場を手伝っていたとはいえ、何、不自由なく生活していた。お父さんは、雇い人もたくさんいる農場主で、裕福で、自分は、その息子で、雇い人の人たちからは、弟ぼちゃんとか、弟息子さんとか、言われて大事なされ、育ってきた。

◎それが、何だ、この自分の姿は、今、自分は、衣服はボロボロ、豚の糞尿にまみれて、くさくなり、食べる物もなく、相手にしてくれる人は、誰もいない。
ああ、私のお父さんは、裕福で、私はその使用人ではなく、息子だったのだ。
ああ、お父さんは、僕が家を出るって言ったら、必死になって止めたけど、それでも、僕がお父さん言うことを聞かないで、自分の財産の分け前を、今すぐ、くれ!、と自分勝手に、言ったとき、お父さんは、あの大きな農場の財産を、分けて、僕にくれたのだ。
ああ、本当に、お父さんは、なんて心の優し、愛の深い、お父さんだったんだろ。今、僕は、気がついた。僕は、こんなに愛してくれていた、お父さんを裏切って、出てきたのだ、だから、こうなったのだ。
悪いのは、僕の方だ。そうだ、お父さんに謝ろう。
お父さんの所へ帰ろう。こんなことろで、飢え死にするよりは、ましだ、と彼は思ったのです。

◎弟息子は、物事がうまく行っているときには、気がつかなかった。問題や、困難さに直面したときに、魂の飢えと渇きをもっていた、自分の本当の姿に、気がついたのです。これが「我に返る」ということです。

◎さて、弟息子は、我に返り、そして、彼は、お父さんが悪いのではなく、自分が間違っていたことに気が付いたのです。そして、彼は、お父さんの所へ帰ろう、帰って謝ろうと、と決心したのです。

◎しかし、彼は、こうも思いますた。「あの大農場の財産の自分の分け前を、すべて、もらってきてしまったのだから、もう、息子としては、受け入れてもらえないだろう。それは、虫が良すぎる。だがまてよ。それでも、雇い人の一人としてなら、受け入れてもらえるかもしれない。」
雇い人の一人になったって、こんなことろで、飢え死にするよりは、ましだ、と彼は思ったのです。
◎そして、こうお父さんに、あやまることを決めました。
ルカ15:18 立って、父のところに行って、こう言おう。「おとうさん。私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました。 
ルカ15:19 もう私は、あなたの子と呼ばれる資格はありません。雇い人のひとりにしてください。」』 
この言葉は、真実でした。そして、お父さんお前で、すぐに言えるように、いくども、いくども、この言葉を、練習したのです。

◎そうです。この放蕩息子の言葉には、悔い改めの告白が入っています。
「我に返った」という言葉は、「真の自分の姿に気が付き、迷いから覚める」ということであり、そこには、「悔い改める」という意味もあるのです。 
◎悔改めた彼は、それを行動に移しました。さっそく、遠い、お父さんのいる家へと、帰っていったのです。

◎さて、家に近づけば、近づくほど、放蕩息子の心に恐れが出できました。こんな、状態で帰ってきても、虫いい自分に、お父さんは、怒って、「なんで帰って来たんだ!お前なんか知らない、私の弟息子は、死んだのだ!」と言われるかもしれない。
さて、お父さんは、どうしたでしょうか。
◎ルカ15:20 こうして彼は立ち上がって、自分の父のもとに行った。ところが、まだ家まで は遠かったのに、父親は彼を見つけ、かわいそうに思い、走り寄って彼を抱き、口づけした。

◎なんと、弟息子を見つけたのは、父親でした。息子が父親を見つけたのではありません。父は、誰かもわからないような姿に、落ちぶれていた、みすぼらしい姿での、この弟息子を、まだ、家から遠かったのに、その姿を見つけて、自分の息子とすぐわかり、走り寄って行ったのです。そして、彼を迎え抱きしめたのです。

◎お父さんは、毎日、弟息子が、我に返って、家に帰ってくるようにと祈り、毎日、夕方になると、今日帰って来るか、今日は帰って来ると、屋敷の入口に立って、出て行った方を、見て、弟息子帰りを待っていたのです。だから、まだ、家から遠かったのに、その姿を見つけて、走り寄って行ったのです。
お父さんは、この放蕩息子の帰りを、毎日、待っていたのです。
◎弟息子も、決心したことを、お父さんに、言うべき、練習してきたことを、一気に、告白しました。。
ルカ15:21 息子は言った。『おとうさん。私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました。もう私は、あなたの子と呼ばれる資格はありません。』・・・や、や、(雇い人のひとりにしてください。) 

しかし、お父さんは、息子のことばを遮り(さえぎり)ました。「雇い人のひとりにしてください」は、言わせなかったのです。
それどろころか、お父さんは、
ルカ15:22 ところが父親は、しもべたちに言った。『急いで一番良い着物を持って来て、この子に着せなさい。それから、手に指輪をはめさせ、足にくつをはかせなさい。 ルカ15:23 そして肥えた子牛を引いて来てほふりなさい。食べて祝おうではないか。ルカ15:24 この息子は、死んでいたのが生き返り、いなくなっていたのが見つかったのだから。』そして彼らは祝宴を始めた。

◎驚くべき、お父さんの行動です。父は、弟息子の放蕩生活を、一切、叱りませんでした。その自分勝手なことを、財産を持って行って、使い果たしてしまったことも、「なぜ、こんな悪いことをしたんだ!」とか言わない。一切、彼を責めていません。
◎父がしことは、「良く帰ってきたね!この日を待っていたのだよ。」とそのみすぼらしい、豚の糞尿で臭くなった弟息子を、強く抱きしめ、元通り、出て行く前と同じように、自分の息子として受け入れ、しかも、あたかも、死んでいた愛する息子が、生き返ったのを、おお喜びするかのように、大喜びで、大宴会を開いて、お祝いしてくれたのです。

◎さて、イエス様が、お話ししてくださった、この放蕩息子の話しのお父さんをどう思いますか。
(このお父さんは、甘すぎる。こんなわがままな放蕩息子に、こんなお父さんの態度では、それじゃ、また出て行くよ。また悪いこと をするよ。こう思うかもしれません。)

◎しかし、何と愛の深い、慈悲深い、お父さんだと思いませんか。
◎このお父さんは、天の父なる神様を、あらわしています。そして、同時に、このお父さんは、イエス様も、あらわしているのです。
まことの神様、天地万物の創造主なる神とは、イエス様とは、このお父さんのような、お方だと、聖書は言っているのです。

◎この放蕩息子を迎えた、お父さんこそ、まことの神、イエス様は、なのです。
イエス様とは、こういうお方であると、思って良いのです。愛の深い、慈悲深い、お方であると言うことなのです。

でも人は、こう言いますね。このお父さんは、甘すぎる。こんなわがままな放蕩息子に、こんなお父さんの態度では、それじゃ、また出て行くよ。また悪いこと をするよ。

◎そうでしょうか。あの弟息子、放蕩息子は、誰ですか。この放蕩息子は私たちなのです。ここにいる人、すべて、また、教会の外にいるすべての人なのです。
この放蕩息子は、私だと、わかれば、天の神様、イエス様の愛が、どんない大きいかが、わかります。

◎放蕩息子は、お父さんの所へ帰るとき、に何か、償いをしていますか。
まったくしていません。自分の全財産をつか果たした来ただけです。お父さんの所へ帰ろうと思ったことも、自分が、こんなところで、みじめな思いをするのは嫌だ、飢え死にするは嫌だ、と、強く思ったからです。
◎放蕩息子は、もう一度、お父さんと愛の関係を築きなおしてから、もう少しマシになってから、もう少しお金を返してから、というようなことは思わなかった。どうしようもなくなって、これでは、もうだめだ、飢え死にするしかない状況の中で、まだ、生きたい、生きたいんだ、という思い(魂の飢え渇き)があった。
◎その魂の飢え渇きを、持った時、お父さんおところには、飢え渇き、、満たしてくれるものがある、と分かったのです。それで、父のもとに帰っていったのです。
◎それで、良いのです。私たちも神のもとに帰ればいいのです。放蕩息子は、自分が助かるために父のもとに帰ってきま した。それに対して、私たちの感覚からすれば、甘いと思うほど、父は、息子に、何も要求をしませんでした。
◎放蕩息子は、汚れた服のまま、豚の糞尿にまみれて悪臭を放っていたまま、父のもとへ帰ってきたのです。(この息子は、私たちを指しています)。この放蕩息子をゴキブリ!とも汚い!とも臭い!とも言わずに父親は 抱きしめたのです。自分の息子として。・・・まことの神様とは、こういうおかただということです。イエス様とは、こういうお方だ、ということです。これが神の愛です。
このお父さんは、放蕩息子が、「もう私は、あなたの子と呼ばれる資格はありません。・・・雇い人のひとりにしてください。」と言おうとする息子に、最後まで言わせず、その指に相続人の証である指輪をはめさせ、お祝いの大宴会を開きました。これは、馬鹿げた愛ではない、驚くべき愛です。これが私たち注がれいる神の愛なのです。

ローマ5:8 しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。
◎お父さんもとにの立ち返って、お父さんに抱きしめられた、放蕩息子は、その罪が赦され、息子として、天の神様から、迎らえたことを、すなわち、イエスを信じて救われたことを、示しています。
◎なぜ、この放蕩息子は、ゆるされ、祝福されたのでしょうか。それは、ここには、出てきませんが、この慈愛深い、お父さんは、イエス様で、イエスは、放蕩息子が犯した罪を、イエスの十字架の血によって、あがなってくださったからです。
◎イエスは、「羊のために捨てる」と言われましたが、迷い出た、一匹の羊のために=この放蕩息子のために、私たちのために、十字架に死んで復活されたからです。

◎だから、私たちが、この穂等息子のように、父のもとに立ちかえりさえすれば、=キリストを信じ受け入れさせすれば、神は、私たちの罪を赦し、神の子供として迎えてくださり、そして、大きな喜びが、天で起こるのです。
そして、イエスは、いつも私たちともにいてくださり、私たちを、どんな時でも守り支えてくださるのです。

まことの神様、イエス様は、腕を広げて私たちを抱きしめようと待っていてくださいます
放蕩息子が、父のもとに帰って行ったように、私たちも神のもとに立ち返ることです。
私たちが、痛んでいる自分、傷ついている自分、弱さを持っている自分、罪を犯している自分、そのままで、いいんです。まことの神様、イエス様は、腕を広げて私たちを抱きしめて、いやしてくださいます。

ルカ15:20 こうして彼は立ち上がって、自分の父のもとに行った。ところが、まだ家まで は遠かったのに、父親は彼を見つけ、かわいそうに思い、走り寄って彼を抱き、口づけした。

アーメン。

預言者ハバククが示した「救い」

2012-10-05 | あなたへの聖書メッセージ


  預言者ハバククが示した「救い」 

預言者ハバククが活躍したのは, エルサレム神殿の崩壊(前587年)の約20年前、「カルデヤ」人のネブカデネザル王のバビロニア帝国の世界制覇の野望がユダ王国にも及びつつある時代に、ハバククは主の預言者として活動した。

そして、彼の預言が語られて10年も経たないうちに,前597年に,エルサレムがバビロニア軍によって包囲されるという事態が起きたと考えられる。そのような危機的な時代に、まことの神の信仰する人の「救い」は、どこにあったのか。
これが、ハバクク書のテーマであり、メッセージです。

さて、実は、ハバククが語り始めるまでに,すでに20年間の長きにわたってエレミヤが「主の言葉」を語っていたにもかかわらず,民は主の言葉に「聞かなかった」(エレ25:3).このような中で,ハバククの預言活動が行われたのですが、そして、事態は、どんどん悪くなっていく。

冒頭の1章2節において、ハバククは、「暴虐だ!」と叫ぶほかない状況。聖書で最初に用いられるのは,大洪水直前の「暴虐で満ちていた」地の絶望的な状況についてである(創6:11,13)、これは、神によりさばかれ滅びるほかないような「不義」に満ちた極限状態を指しています。即ち、あの大洪水直前の状況(創6:11,13)と少しも変わらない,全く滅んでしまっても仕方がないような事態を憂えて,神に助けを求める。しかし、神は救ってくださらない。
そして、「いつまで」そのような状況が続くのですかと、彼は訴えるのである。

ハバクク1: 2 主よ。私が助けを求めて叫んでいますのに、あなたはいつまで、聞いてくださらないのですか。私が「暴虐」とあなたに叫んでいますのに、あなたは救ってくださらないのですか。

ハバククが、一番問題を感じているのは、苦しいのは、
ハバクク 1: 3 なぜ、あなたは私に、わざわいを見させ、労苦をながめておられるのですか。暴行と暴虐は私の前にあり、闘争があり、争いが起こっています。
ハバクク1: 4 それゆえ、律法は眠り、さばきはいつまでも行なわれません。悪者が正しい人を取り囲み、さばきが曲げて行なわれています
この3-4節から推察できるように,彼が助けを求めて叫んでいるのは、バビロニア帝国と言う、外敵が攻めてくるからよりも、実は、国内のすぐ近くで起こっている「暴行と暴虐」(3節b)のゆえであり,悪者が正しい者を抑圧していて,さばき(神の正義)が行われていない事態(4節)のゆえである。
そこでハバククは神に問いかける。
ハバクク 1: 2 主よ。私が助けを求めて叫んでいますのに、あなたはいつまで、聞いてくださらないのですか。私が「暴虐」とあなたに叫んでいますのに、あなたは救ってくださらないのですか。

この間いかけに対して、神はハバククには想像も及ばない方法で契約の民を裁
くと言われる(5節)。悪者の典型であるカルデヤ人によって彼らを裁くと言う
のである(5-11節)。再び、ハバククは神に問う。

ハバクク1:13 あなたの目はあまりきよくて、悪を見ず、労苦に目を留めることができないのでしょう。なぜ、裏切り者をながめておられるのですか。悪者が自分より正しい者をのみこむとき、なぜ黙っておられるのですか。

激しい訴えとなっている、この、二度にわたる彼の「なぜですか?」という問いは,神の義を問うヨブの問いに通じる。神が正しい方で,この世を支配しておられるとすれば,なぜ悪者が勝ち縛り,正しい者が虐げられているのを,神はただ眺めて許しておられるのか。悪者を裁くためにと言って,神はなぜもっと悪い「強暴で激しい」(6節)カルデヤ人を用いて契約の民イスラエルを裁かれるのか。他の人々が,眠っている中で,預言者はただ一人夜中に起き上がって「いつまでですか?」「なぜですか?」と叫ぶのである。

この訴えは不信仰からのものではない.しらけず,忍耐をもって問い続け,神からの答を待つ信仰者の姿がここにある。

「救い」とは
このことは「いつまで救ってくださらないのですか」という2節の問いに対する答えは、3章に至るまで、直接的には与えられていないが、1章と2章には、その答えの示唆があるのです。

では、ハバククは、神が信仰する民を救ってくださるとは、どういうことかと言っているのか。それは、1:2のことばの中に、その示唆がすでにあります。
ハバクク1: 2 主よ。私が助けを求めて叫んでいますのに、あなたはいつまで、聞いてくださらないのですか。
私が「暴虐」とあなたに叫んでいますのに、あなたは救ってくださらないのですか。
ここに、神が「聞く」ということと、「救い」という言葉が、並んで出てきます。
「救う」と「聞く」とは,旧約聖書の中でしばしばワードペアとして用いられる。例えば,イザヤ59:1
イザヤ59:1見よ。主の御手が短くて救えないのではない。
その耳が遠くて、聞こえないのではない。
ここでは,主なる神が、その力強い「御手」で救うことが,神の、その「耳」で聞くことと対応していることがわかります。

ハバククも、信仰者が、神に助けを求めて、叫ぶ、祈る、その訴えに,神が「聞いて下さる」ことが「人の救い」につながると、理解しているのです。

まず、人の救いとは、主なる神が、悩む者の叫びを聴いてくださることから始まります。そして、神が人の叫び、訴え、祈りを、聞いてくださることが「救い」の始まりであり、神の救いが始まっているから、その人は、大変な状況、また、苦しみから解放をもたらされたと言えるのです。

詩篇では、そのことをたくさん歌っています。(その中の一つ)
詩篇34: 6 この悩む者が呼ばわったとき、主は聞かれた。こうして、主はすべての苦しみから彼を救われた。

イエスが誕生する前に、老人、祭司ザカリヤの祈りを、主は、聞かれて、妻エリサベツは、ヨハネを身ごもりました。
ルカ1:13 御使いは彼に言った。「こわがることはない。ザカリヤ。あなたの願いが聞かれたのです。あなたの妻エリサベツは男の子を産みます。名をヨハネとつけなさい。
もう一度、詩篇145:19では、
詩篇 145:19 また主を恐れる者の願いをかなえ、彼らの叫びを聞いて、救われる。
とあり、主なる神が、私たちの叫びを書くことは、神が私たちを、救うことである、ことがわかります。

◎本気で、主なる神に、叫び求めてください。主なる神は、その叫びを必ず、聞かれます。それは、神の救いにあずかった、神の救いが始まった、と言うことなのです。神が、良くわからないという方は、これを、まず、実行してみてください。
しかしながら,「あなたはいつまで、聞いてくださらないのですか。あなたは救ってくださらないのですか。」という、ハバククの冒頭の問いに対して、ようやく与えられた、主なる神からの答えは、2章4節後半でした。
ハバクク2: 2 主は私に答えて言われた。幻を板の上に書いて確認せよ。これを読む者が急使として走るために。
ハバクク 2: 3 この幻は、定めの時について証言しており、終わりについて告げ、まやかしを言ってはいない。もしおそくなっても、それを待て。それは必ず来る。遅れることはない。
ハバクク 2: 4 見よ。彼の心はうぬぼれていて、まっすぐでない。しかし、正しい人はその信仰によって生きる。

「正しい人はその信仰によって生きる。」=「義人は、信仰によって生きる」。
これが、神の答えでした。

これは、どういうことでしょうか。
次の2章5節以降、のことばの意味から、分かることがあります。
「生きる」に対いて、「生きない」者の姿、すなわち、救いのない人の姿を、描写しています。
ハバクク 2: 5 実にぶどう酒は欺くものだ。高ぶる者は定まりがない。
彼はよみのようにのどを広げ、死のように、足ることを知らない。
彼はすべての国々を自分のもとに集め、すべての国々の民を自分のもとにかき集める。
ハバクク2: 6 ・・・「わざわいだ。自分のものでないものを増し加える者。」
ハバクク 2: 9 わざわいだ。自分の家のために不正な利得をむさぼり、わざわいの手からのがれるために、自分の巣を高い所に据える者

救いのない、生きないものとは、「欺くもの」「高ぶる者」「よみのようにのどを広げ、死のように、足ることを知らない、どん欲な者」「すべての国々の民を自分のもとにかき集める、貪欲な者」すなわち、これが、他人のものを奪い、その弱みにつけ込んで暴虐を行う者たちです。
これは、まさに罪人の姿であって、創世記3章の「堕罪」の時から全然変わっていない人間の本性なのです。

そして、そう言う人の持つ宗教の特徴は、こうだと言うのです。
ハバクク 2:18 彫刻師の刻んだ彫像や鋳像、偽りを教える者が、何の役に立とう。物言わぬ偽りの神々を造って、これを造った者が、それにたよったところで、何の役に立とう。
ハバクク2:19 わざわいだ。木に向かって目をさませと言い、黙っている石に向かって起きろと言う者よ。それは像だ。それは金や銀をかぶせたもの。その中には何の息もない。

「黙っている木や石に向かって目さませ」とか「起きろ」とか言う者であり、その中に「何の息もない」金や銀を被せた木や石を偶像として拝み,拠り頼
む者です。これこそ、聖書が言う、こ「悪者」である。彼らは「物言わぬ偽りの神々を追って」それに頼り、真の神を無視するのである。

そして、私たちの住む世の中の現実が、ここにあります。
このような悪者の罪の世の中にあって、「正しい人はその信仰によって生きる。」=「義人は、信仰によって生きる」とは、どういうことなのか。

生きる、とは、救われるとは、どういうことなのか。
それはまず、2章20節です。
ハバクク2:20 しかし主は、その聖なる宮におられる。全地よ。その御前に静まれ。

信仰によって生きる者は、どこに目を向けるベきであるか。それは、「聖なる官」に座しておられる主なる神にです。

神は今何もなさらないかのように見えても、「とこしえに王として御座に着いておられる」(詩29:10b)のです。悪者が幅を利かせ、世を支配し,好き勝手に振る舞っているように見えても、神である主は、天の王座に座してすべてを治めておられる。
罪人は、やがて、必ず、自分の蒔いた種を刈り取らなければならない。全地よ。主の聖なる御前に「静まれ」。主がこれからどういうことを、なそうとしておられるか、静まって主の「みわざ」を見よ。
と神は、言われます。

そして、神は、天のその聖なる宮から出られて、私たちのところに来られる。

ハバクク3:13 あなたは、ご自分の民を救うために出て来られ、あなたに油そそがれた者を救うために出て来られます。あなたは、悪者の家の頭を粉々に砕き、足もとから首まで裸にされます。セラ

このように神が、出て来られる目的は、「ご自分の民を救うために出て来られ、あなたに油そそがれた者を救うために出て来られます」とあるように、神の民を助け、救うために来られるのです。
さらに、この神の救いは、「悪者の家の頭を粉々に砕き、」とあります。
創世記3章15節のことばを、思い出します。
創世記 3:15 わたしは、おまえと女との間に、また、おまえの子孫と女の子孫との間に、敵意を置く。彼は、おまえの頭を踏み砕き、おまえは、彼のかかとにかみつく。」

つまり、救いは、主の民と主に油注がれた王を「救う」即ち「助ける」ためであるが、さらに、救いと裁きが,神が「出て行かれる」ことによって行使され,同時に実現するのである。悪者の頭が、完全に踏み砕かれることによっても、私たちに、救いがもたらされると言うことなのです。

ハバクク 3:13 あなたは、ご自分の民を救うために出て来られ、あなたに油そそがれた者を救うために出て来られます。あなたは、悪者の家の頭を粉々に砕き、足もとから首まで裸にされます。
これは、天の聖なる宮から、すく主が、この世に来る、ことによって、実現すると言うことです。

さて、ハバククが、示す私たちの救いは、まず、私たちの神に対する訴え、願い、が聞かれ、そこから、神の救いは、始まって、そして、その先にあることは、「神の救い」は「救い主」が天の御座から来られることによって実現する。

それは,悪者=サタン、に対して「神の怒り」が向けられ、悪者=サタンが、すく主によって、完全に踏み砕かれることによって、私たちの救いは、実現する、ことでもある、ということです。

この神のみことばを信じ、信頼する者を、神は、罪びとであっても裁かず、生かしてくださるのです。神の目から見て、正しい人、聖なる人として、生かしてくださるのです。
その姿が、ハバクク書の最後に、示されています。
ハバクク3:18 しかし、私は主にあって喜び勇み、私の救いの神にあって喜ぼう。
ハバクク 3:19 私の主、神は、私の力。私の足を雌鹿のようにし、私に高い所を歩ませる。

これが、「正しい人はその信仰によって生きる。」=「義人は、信仰によって生きる」人の姿であり、救いなのです。
最後に、ローマ1章17、18節を開いてみてください。
ローマ1:16 私は福音を恥とは思いません。福音は、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力です。
ローマ 1:17 なぜなら、福音のうちには神の義が啓示されていて、その義は、信仰に始まり信仰に進ませるからです。「義人は信仰によって生きる」と書いてあるとおりです。

このローマ1:17は、ハバクク書2章4節bの「正しい人はその信仰によって生きる。」の引用です。そして、ハバククは、イエスが来られる、600年前に、ハバククは、このこととを予言していたと言っているのです。
パウロは、ここで、まことの神は、悪を、罪びとを、裁く神であると言いながら、しかし、救い主のイエス・キリストの到来、その十字架と復活による、罪の赦しの福音があるからこそ、「義人は信仰によって生きる」のだと言っています。

私たちの救いは、まず、私たちの神に対する訴え、願い、が聞かれ、そこから、神の救いは、始まって、そして、救い主イエス・キリストが、天の御座からこの世に来られ、私たちの罪の贖いのために、十字架について死なれ、そして、復活し、また、そのことによって、悪者=サタンを、踏み砕くことによって、私たちに、完全な救いをもたらしてくだっさたのです。

私たちが、すべきことは、この真の神のあわれみよって、信仰をもって、すく主イエス・キリストに近づき、そして、信頼して生きることなのです。

その時、私たちは、罪の世にあっても、救いの喜び、に生きることができるのです。
ハバクク3:18 しかし、私は主にあって喜び勇み、私の救いの神にあって喜ぼう。
ハバクク3:19 私の主、神は、私の力。私の足を雌鹿のようにし、私に高い所を歩ませる。
アーメン。

主を待ち望む者は新たな力を得る 

2012-08-04 | あなたへの聖書メッセージ
主を待ち望む者は新たな力を得る 

今、ロンドン・オリンピックが、開催されている真っ最中です。オリンピックには、ドラマがありますね。
銀メダル10個取るのと、金メダル1個取るのと、どちらが価値があると思いますか。考えてみますと、それは、一個のその小さなメダルです。これを取れた人は、大喜びし、また、取れなかった人の中には、泣き崩れて、悲しみ、くやしさ、また、応援してくれた人に、申し訳ないと思う。
世界中から、選ばれた、優れた人たちが、国を代表して、集まってきて、金、銀、銅のメダル、を目指して、競い合っている、闘ってる。この場合、ライバルとの戦い、もありますが、何よりも、自分との戦いも大きいのではないでしょうか。
メダルを取ることは、戦いです。

私たちの人生も、ある意味、オリンピック選手が金メダルを目指しているようなものです。パウロと言う人は、こう言いました。
2テモテ 4: 7 私は勇敢に戦い、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました。
2テモテ4: 8 今からは、義の栄冠が私のために用意されているだけです。かの日には、正しい審判者である主が、それを私に授けてくださるのです。私だけでなく、主の現われを慕っている者には、だれにでも授けてくださるのです。

私たちの人生も、最後に、栄冠を手するか、しないかの、人生なのです。ですから、私たちの人生もまた、戦いです。霊的な戦いです。しかも激しい戦いです。時には、疲れ、たゆみ、つまづき倒れます。それでも、また、立ち上がって、前進してかねばなりません。天国へ行くその日まで、私たちの信仰の戦い、霊的な戦いは、続きます。

この夏も暑いですね。群馬県は、猛暑日とかそういうニュースには、必ず、出てきます。暑いです。ぐたっと来ます。弱さを感じます。この暑さ中で、疲れ、たゆみ、つまづき倒れ、それでも、また、立ち上がって、前進して行くためには、力が、必要です。信仰の力、心の力、魂の力が必要です。どうしたら、その力を得ることができるでしょうか。

力を得る最善の方法は、これだと、聖書は言っています。
イザヤ40:31 しかし、主を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように翼をかって上ることができる。走ってもたゆまず、歩いても疲れない。

生きる力、魂の力、信仰の力、霊的な力を得る秘訣がここにあります。
「主を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように翼をかって上ることができる。走ってもたゆまず、歩いても疲れない。」
これは、どういうことでしょうか。これは、まず第一に、心と身体を休ませ、そこで、主イエス・キリストを待ち望むことだと、聖書は言います。
休むことが大事です。でも、それだけではダメで、天地創造の神、主を待ち望むこと、キリストを待ち望むことが、大切なのです。なぜなら、私たちの弱った身体、弱った心、弱った信仰、弱った魂を、真に、強くできるのは、私たちの創造者、無から天地を創造され、私たちを創造された、神しか、できないのです。

イザヤ40:28 あなたは知らないのか。聞いていないのか。主は永遠の神、地の果てまで創造された方。疲れることなく、たゆむことなく、その英知は測り知れない。イザヤ40:29 疲れた者には力を与え、精力のない者には活気をつける。

私たちの信仰の旅、信仰の戦いは、この「永遠の神、地の果てまで創造された方。疲れることなく、たゆむことなく、その英知は測り知れない」生ける神=イエス・キリストによって、回復が与えられるのです。
イエスは、「疲れた者には力を与え、精力のない者には活気をつける。」お方なのです。

新約聖書の中に、イエス・キリストがいかに、私たちの疲れをいやし、回復を与えるかが、次の二つの言葉で、良くあらわされています。
 
第一のことばは、ヨハネ4: 13イエスは答えて言われた。「この水を飲む者はだれでも、また渇きます。ヨハネ4: 14しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。」

まず、最初に、イエスは、イエスを信じる者に、「永遠のいのちへの水がわき出る泉」(ヨハネ4:14)となる水を、私たちに与えると言われます。そこで強調されていることは、この世の普通の水は、飲んでもまた、乾きますが、イエスが与えてくださる水は永遠のいのち、永遠の回復、をもたらす、ということです。
次に、イエスの第二のことばは、
ヨハネ6:35 イエスは言われた。「わたしがいのちのパンです。わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません。

イエスは、「いのちのパン」を与えると言われています。これは、荒野でイスラエルの民に与えられたマナとは違って、このパンを食べる者は、十分に満足し、永遠に生きます。普通のパンを食べてもいずれは死にますが、このパンは永遠のいのちが、その人の中に、生まれるのです。
イエスは私たちに、「永遠のいのちへの水」下さり、また、「いのちのパン」を下さって、私たちの信仰の戦い、信仰の旅路を、支えられ、養われるのです。

では、「キリストが与える水を飲む」とは、「パンであるキリストを食する」とはどのような意味でしょう。これは、イエス・キリストを信じ、イエスにすべてをより頼むことです。自分の身をゆだねることです。また、イエスに従うことです。

そして、それは、第一に、教会で、また、個人でも、神を礼拝することによって、キリストが与える、「永遠のいのちへの水」と「いのちのパン」をいただくことができます。礼拝とは、神の前にひざまづくことです。輝きと栄光に満ちた神に対する、人間の応答です。
私たちは、礼拝を通して目を天に向け、私たちの造り主であり、贖い主であるイエスを、礼拝する時、方の、私たちの魂と、心と、身体は、回復させられるのです。礼拝を通して、元気づけられて、「新しく力を得」新しい献身の思いと、新しくされた力が与えられて、「鷲のように翼をかって」再び信仰生活を、始めることができるのです。
公の礼拝に出ることは、主を待ち望んでいる証拠です。だから、礼拝に出ることによって、力が与えられる、回復が与えられるのです。
(個人の家で、また、野原で、電車を待つ間でも、神を礼拝することができます、礼拝は、神の前にひざまづくことから始まります)

預言者イザヤも、神殿の中で、礼拝してた時に、主の幻を見ました。その幻の中で神の栄光が輝き、イザヤを圧倒します。神の栄光に満ちた輝きの中で、イザヤは、自分はこれほど素晴らしい主の栄光の中にいる、ことは許されていない罪人だと知って、イザヤは突っ伏し、愕然としました。しかし、その時、誰がわたしのために働くのか、と言う主の言葉を聞いたのです。その時、イザヤはこう言いました。「ここに、私がおります! 私を遣わしてください!」
神の素晴らしい栄光に満ちたご臨在は、イザヤに、新しく立ちあがっていく力をもたらしたのです。

そして、主は、イザヤにこう約束をしてくださったのです。
イザヤ40:30 若者も疲れ、たゆみ、若い男もつまずき倒れる。
イザヤ40:31 しかし、主を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように翼をかって上ることができる。走ってもたゆまず、歩いても疲れない。

これは、今は、私たちに与えれた約束です。

さて、主を待ち望むことで、もうひとつのことを考えましょう。それは、私たちは、また、この信仰の旅路を行くためには、自分より前に旅をして、今は、神の国へ行き着いた人々の足跡から、学ぶことによって、主からの励ましを与えられる、ということです。

私たちのキリスト信仰は、一朝にして私たちに、伝えられて、私たちの所にきたのではありません。信仰の先人たちがいたのです。(私が信仰を持てた恩人がいます)
マーガリット・エミー・バーネットは、今から131年前、1878年 イギリスのノリッチ市で英国教会の牧師の一人娘として生まれた。 1891年 母が死去(バーネット13歳) 。1904年 26歳の時、聖霊の満たしを経験し、献身を決意して、宣教師としてインドか中国へ行くことを祈る。 1908年30歳 日本伝道隊に関心を持つ。 1909年31歳 ケズィック・コンベンションに出席して、日本でのバゼット・ウィルクスの働きを聞き。ロンドンで行われた日本伝道隊の集会に出席し始めた。 1917年 39歳の時、父が死去する(84歳)、その年末に日本伝道隊の宣教師として日本に向けて旅立ち、横浜に着いた。有馬聖会に出席して、鉱山宣教団の宣教師のアピールに答えて立ち上がった。 1920年42歳のとき、 舟喜麟一と共に足尾町で伝道活動を始める。大間々町、境町に伝道を拡大して行った。 1923年45歳のとき、 舟喜麟一と共に、セントラル・ジャパン・パイオニア・ミッションを設立した。栃木県、群馬県、埼玉県への伝道のビジョンを持った。イギリスに一時帰国する。 1927年 前橋に移り伝道を開始する。戦争中は戦時中敵性国民として軟禁されていた。 1950年 福音伝道教団理事長に就任する。 1951年 73歳で、日本で、死去、日本の土になった。
バーネット26歳の時、村の小学校の校長をしていた。霊的には、信仰があるのかないのか、最悪の状態。また、心は罪の葛藤で苦しみ続けていた。父の留守中の代理牧師としていらっしゃった宣教師のおくさんは、一ケ月の滞在期間中、インドにおける働きの暗いところばかりを話して下さいました。恐ろしい砂あらし、酷暑、熱病、夜の物音、けんかしている宣教師たち。この方は、六年間の苦しい宣教活動の中で一人も悔い改める人がおこらず、自分の健康もそこなわれましたが、少しも落胆している様子もなく、私には彼女の気待がわかりませんでした。 

その夏、一つの大事な霊的ステップがありました。それは、私がもし本当のクリスチャンになるなら、キリストの為にどこへつかわされても、どんなことでも我慢しなければならないということに気づいたことです。もし、この事を主に告白するなら、エスキモーの所へつかわされるかもしれないし、その寒さが恐ろしく思われましたが、それでも主の為なら従がわねばならないと思いました。

この霊的ステップは、あの宣教帥のおくさんが去られる数日前のことでした。おくさんが去ってしまい、悲しく、淋しくなって、彼女の使用していた部屋に入ってみました。すると、テーブルの上に白い本がおいてあり、それはリーダー・ハリス夫人の″聖霊のみたし″はどういうふうに受けるかという本でした。おくさんは私のように幾分恥しがりやで、私に直接渡す大胆さがなかったので、そこにおいていったのでした。私は、溺れるものはわらをもつかむ人のように、その本を真剣に読みはじめ、すぐにわかったことは、この本の著者は私の問題の解決方法を知っているということでした。それで夜の十一時まで息もつかずに読み通し、聖霊のみたしの道をはっきりと見い出しました。
 
そこで、私はひざまづいて本に書いてある三つのステップを行ないました。
第一に、神に無条件に降伏しました。このことは数日前にしたことでしたが、更に深く心の中の思いにおいても全く降伏しました。
第二は、ロマ書六章、ガラテヤニ・十にあるように、自分はキリストと共に十字架につけられ、葬られ、甦えらされたものだと計算しました。このことは充分わかりませんでしたが、御言葉どうりにしました。
第三は、ルカ十一・十三の約束にしたがって、聖霊を求め、聖霊が私のうちに入られたことを信じ、聖霊が私を占領して下さったことを感謝しました。
 
以上のことは私にとって本当に新しい光でした。なぜなら、今迄なにか神秘的な経験によって分かると思っていましたのに、ここには神のことばをただ信じて、安息することが書かれてあったからてす。私は、主が静かに私の中に入られたことを信じて、その夜、床につきました。
 
次の朝、新しい世界の中に目がさめました。ようやく、私の経験の中で″古いものが過き去って、みよ、全てが新しくなった〃という思いが入って来ました。なにかわくわくさせる経験ではなく、静かで平安と力に満ちた経験でした。

神のことばへの疑い、高教会の考えに傾くこと、世的な考え、などが夜の霧か朝日のまえに消えるように、私の心の中から消え去っていきました。私にとって聖書は新しい本になり、祈りは楽しいものになりました。
心の底から、まだ福音が伝えられていない人々に神の愛を伝えなければならないという思いが、非常に強く燃え始めました。

この年、バーネットは、宣教師になる決心をし、そして、準備をして、39歳のとき、日本の横浜に着いたのです。
私(金井)はこのバーネット先生の信仰をとても感謝していますし、こうした自分の一生を、日本の宣教のために献げてくださった方がいるから、自分がいることを思いますし、こうした先人達の献身と信仰の歩みを、思うときに、勇気と力がわいてくるのです。

イザヤ40:30 若者も疲れ、たゆみ、若い男もつまずき倒れる。
イザヤ40:31 しかし、主を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように翼をかって上ることができる。走ってもたゆまず、歩いても疲れない。

このみ言葉は、私たちのキリスト信仰の人生の旅では、どんな時でも、どんなに戦いが激しくても、それに疲れ果てても、キリストは、私たちに力を与え、もう一度、立ち上がっていくことができる、ことを約束しています。
私たちは、疲れた時には、ゆっくり身体を休ませ、キリストを想い、キリストを礼拝して、新しい力をいただいて、天国への旅を、この道を上っていきましょう。
そして、2テモテ 4: 7 私は勇敢に戦い、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました。 2テモテ4: 8 今からは、義の栄冠が私のために用意されているだけです。かの日には、正しい審判者である主が、それを私に授けてくださるのです。と、天国での金メダル、義の栄冠、をともに頂きましょう。
 アーメン。

嵐を静める神イエス様

2012-07-21 | あなたへの聖書メッセージ
嵐を静める神イエス様


さて、本日の聖書箇所は、ガリラヤ湖での奇跡の出来事です。
この日の状況ですが、この日一日中、主イエスは宣教、説教をなさった。つまり、救いについて、神の国について人々に語っていました。舟の上からです。というのは、おびただしい数の群衆が、イエスのみもとに集まっていたので、イエスは、舟に乗ってガリラヤ湖に出て、そこから、岸辺にいる群衆に話をしたのです。

そして、やがて夕暮れになり、日が沈み、主イエスはそこで、群衆を帰して、ご自分も舟からおりて、岸に戻ろうとしたのではなく、このまま舟を沖えだすように言われた。「さあ、向こう岸へ渡ろう。」と弟子たちに言われた。

このとき、イエスは、朝からずっと宣教をされていて、疲れていたと思います。おそらく、その疲れた、身体を休めるために、群衆から離なれ、向こう岸に行こうとなさったのかもしれません。
マルコ4:36 そこで弟子たちは、群衆をあとに残し、舟に乗っておられるままで、イエスをお連れした。他の舟もイエスについて行った。

ガリラヤの湖を舟で、対岸に向かう途中、主イエスはきっと疲れが出たんでしょう。うとうとと、しているうちにお眠りになった。

弟子たちは、今まで主イエスは話し続けられた。こちらはただ聞くだけであった。イエス様には休んでいてもらいたい。舟を漕ぐのは、今度は自分たちの仕事だ。そう思って弟子たちは、漕いでいたでしょう。

時は、夕方から、夜になりました。けれども、夜、漁に出た経験は何度もある弟子たち、そしてガリラヤ湖を知り尽くしている、漁師であった弟子たちにとっては、夜の湖を渡ることは、何でもないことでした。
そして、ガリラヤの湖は、周りが小高い山に囲まれていたため、時として、突風が吹くこともよく知っていました。ですから、その時の対処策も心得ていたのです。

すると、どうでしょう。やはり、突風が吹いてきて、どんどん激しくなって嵐になっていった。弟子たちは、またいつものことが始まったと、初めは思ったかもしれません。・・・しかし、このときは、いつもとはずい分違う激しい風です。そのうち今で言う、台風のような暴風=嵐になってきた。あまりの暴風に、舟は波をかぶって、舟の中に水が入ってきてしまった。弟子たちは、プロの漁師でしたが、この時、舟が沈むのではないかという恐怖を感じたのです。
しかし、それでも、イエスは疲れて眠っておられたのです。

マルコ4:38 ところがイエスだけは、とものほうで、枕をして眠っておられた。

舟の「とものほう」とは、船尾のことです。舟は、ともの方が、少し高くなっているから、あまり波がかからない、そこにお客さんを乗せたのだという解説をする人もあります。
イエスは、座布団の類いのものを、枕にして横になっておられたのではないかと考えらます。とにかく船尾で、眠っておられた。

舟を漕くことの専門家である弟子たちは恐れと不安でいっぱいになっている。しかしイエスは眠っておられたのです。

自分たちは非常に困難な目にあっているのに、イエスは、平気で眠っておられる。いままで、自分たちにできることはさせてもらおう、と言う気で舟を漕いでいた弟子たちですが、眠っているイエスを起こしまして、こう言ったのです。

マルコ4:38・・・弟子たちはイエスを起こして言った。「先生。私たちがおぼれて死にそうでも、何とも思われないのですか。」

この言葉は、弟子たちがイエスに腹を立てたのです。なぜ、ひとり、眠っていられるのか、私たちのことは、どうでもよいのか。
これは、信仰とは正反対の、不平、不満、非難のことばです。自分たちの力では、どうしようもないことがわかると、弟子たちの恐れ、不安、不満、批判の矛先は、誰に、集中したでしょうか。イエス様です。

この弟子たちの不満、批判の訴えに対して、イエスは、どうされたでしょうか。
マルコ4:39 イエスは起き上がって、風をしかりつけ、湖に「黙れ、静まれ。」と言われた。すると風はやみ、大なぎになった。
イエスが、嵐をしかりつけると、嵐は、ぴたっとやんだのです。
このことは、私たちにイエスは、何を教えているのでしょうか。

第1の学び
私たちも、人生における悲しみ嵐、生活苦の嵐、困難の嵐、失望と落胆の嵐、疑いの嵐に、ほんろうされることがあるかもしれませんが、イエスは、必ず、助けてくださるということです。
イエスが嵐の中の自分と、共に生きて下さっていることに目を向けるとき、すなわち、その人生の嵐に中に臨在されるイエスを仰ぐとき、イエスは、「黙れ、静まれ。」と言ってくださって、私たちの人生の一番激しい嵐でさえも、イエスは、静めてくださ=窮地から助け出してくださる、ということが、ここに示されています。

詩篇50:15 苦難の日にはわたしを呼び求めよ。わたしはあなたを助けだそう。
詩篇46: 1 神はわれらの避け所、また力。苦しむとき、そこにある助け。
イエスは、私たちが苦しむときに、必ず助けて下る、そこにある助け、だということです。これが、この奇跡から学ぶ第1のことです。

次に、第2学びは、40節のイエスの言葉にあります。
マルコ4:40 イエスは彼らに言われた。「どうしてそんなにこわがるのです。信仰がないのは、どうしたことです。」

イエスは、湖の嵐を静め、弟子たちの窮地を救ってから、この言葉を言われたのです。→「なぜこわがるのか。信仰がないのは、どうしたことか。」と言われた。
イエスへの信仰とは、何もなにもない時だけでなく、突然の事態にも、信仰を働かせる必要があることを、ここで私たちに、教えておられます。

① そもそも、キリストの命令で出発した舟です。だから、だから最後までキリストが責任を取ってくださる、それゆえ、突然、どのような困難な事態に遭遇しても、だいじょうぶだとの信仰をもつことです。
② この舟には、キリストが乗っておられる、だから、仮に自分たちの力では、どうしようもない困難な事態に遭遇しても、キリストが共におられるから大丈夫だ、との信仰。

つまり、イエスは、イエスを信じる者が困ったとき、ほっておいたり、見て見ぬふりをするのではなく、必ず介入して、その困難、窮地から、助けてくださる、救って下さるお方だ、という信仰を、持つことです。

そして、神は愛をもって、キリストに従う者に、最善を成してくださるという、信仰を持ち続けるということです。「神は私たちに最善以下のことはなされない」、この信仰もつことです。これが、大切なのです。

悪い状況が出て来たら、すぐに、躓いてしますことなくです。
ところが、弟子たちのとった行動は、まず、プロの漁師である自分たちの力に頼り、それが、駄目だとわかると、うろたえて絶望し、ついには、自分たちの先生であり、師であるイエス様を、批判し始めたのです。
「先生。私たちがおぼれて死にそうでも、何とも思われないのですか。」

この時こそ、信仰を働かせて、困難に立ち向かうべき時なのに、信仰をよってキリストを見上げなかったので、クリスチャンとしての行動をとることができなかったのです。だから、キリストを信じていない人と同じような反応をしたのです。実は、これが不信仰です。
だから、イエスは、弟子たちに言われました。
「どうしてそんなにこわがるのです。信仰がないのは、どうしたことです。」

次に、第3に、この出来事から、イエスは、誰かと言うことを、教えています。
マルコ4:41 彼らは大きな恐怖に包まれて、互いに言った、「風や湖までが言うことをきくとは、いったいこの方はどういう方なのだろう。」
と弟子たちは言いました。

イエスは、私たちの人生に訪れる風と波とを静め、私たちに新しい道を造ってくださる、力ある神だと、いうことです。
かつて、神は、出エジプトのとき、イスラエルの民のために、前は紅海、後はエジプト軍の戦車、というときに、民の眼の前で、東風を吹かせて、紅海の水を干上がらせ、民の進むべき道を開かれました。

しかし、イエスは、今も、私たちのために、風と波と嵐を越えて、ゆくべき道を造ってくださるということを、この出来事は示しています。

「風や湖までが言うことをきくとは、いったいこの方はどういう方なのだろう。」

私たちの罪をゆるしてくださるイエスは、もともと風と波とを造られた、天地創造の神でした。
弟子たちは、友だちのような、親しみのある、人間イエスを求めていました。
それは、間違いではありません。しかし、イエスは、単なる優しい人ではなかった。嵐さえも、いうことを聞かせることができる、権威あるお方、神のなのです。すなわち、嵐さえも、治めることができる全知全能の神なのです。イエスは、その権威をもって、私たちの人生の嵐を静め、さらに、嵐を乗り越えさえ、そして、私たちが前進できるように、新しい道を用意してくださる神、なのです。

愛と優しさはもちろんあります。しかし、忘れてならないのは、天地万物を従わせることができる権威を、もっておられる神であり、私たちのいのちを、握っておられる神である、ということです。

イエスは、このあと、こう言われました。
マタイ10:28 からだを殺しても、たましいを殺せない人たちなどを恐れてはなりません。そんなものより、たましいもからだも、ともにゲヘナで滅ぼすことのできる方を恐れなさい。
弟子たちは言いました。「いったいこの方はどういう方なのだろう。」
イエスは、十字架と復活のイエス・キリスト 私たちの罪のために十字架で死に、そして、私たちが神から義とされ、聖なる者とされるために、死からよみがえってくださった、イエス・キリストです。このイエスを、信じるなら、私たちも永遠のいのちをいただいて、やがて、死から復活し、永遠に神の国で、神と共に、平安と憩いの日々を、生きるのです。
だから、イエスを信じるということは、死なない人になった、ともいえるのです。
そのことをイエスは、こう言われました。

ヨハネ11:25 イエスは言われた。「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。
ヨハネ11:26 また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。このことを信じますか。」
「このことを信じますか」信じられれば、恐れはなくなります。

さて、皆さん、自分の人生において、この信仰を働かせましょう。
もしも、皆さんが、聖書を読み、キリストの救い、福音のメッセージを聞き、キリストを信じ、キリストに従って生きようとしているならば、みなさんの人生の責任は、キリストがとってくださいます。

だから、突然の嵐、人生の試練にあったとしても、だいじょうぶです。
たとえ、人生において、自分の力では、どうしようもない、と言う時でも、そういう困難に直面しても、キリストが、すぐそばにいて助けてくださいますから、大丈夫です。
私たちは弱くとも、イエス・キリストは、強いのです。全知全能の神なのです。
この天地を無から創造した神なのです。

詩篇 121: 1 私は山に向かって目を上げる。私の助けは、どこから来るのだろうか。
詩篇121: 2 私の助けは、天地を造られた主から来る。

無から天地を創造した神の、その全知全能の力の最大の表れは「復活」でした。死をも乗り越えてしまう神の力です。
私たちに死からの復活をもたらすことができる神、これが、救い主が、イエス・キリストなのです。

私たちは、このイエスを信じるなら、もうだめだ、ということはない、キリストにある人には、常に「将来と希望」の道が開かれているのです。

詩篇46: 1 神はわれらの避け所、また力。苦しむとき、そこにある助け。

エレミヤ29:11 わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ。―主の御告げ―それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。

このガリラヤ湖の嵐を静めるイエスの、この単純なもの物語は、弟子たちの歩みを受け継ぐ、私たちにとって、まことに大きな慰め、励ましです。
人生の航海を進む、私たちが、たとえ嵐中に入ろうとも、キリストは、嵐をしかりつけてまで、私たちを必ず助けてくださる力の神なのです。そして、私たちが進むべき、新しい道、将来と希望の道を、開いていてくださる神なのです。

私たちは「人生丸」という舟に乗って、人生という航海を、続けています。私たちは「人生丸」の船長は、イエス様です。イエス様を船長として、進むとき、私たちのゆ行く手に何が、あろうとも、だいじょうぶなのです。
マルコ4:39 イエスは起き上がって、風をしかりつけ、湖に「黙れ、静まれ。」と言われた。すると風はやみ、大なぎになった。

アーメン。

主が家を建てるのでなければーむなしい労苦から喜びの労苦へ   

2012-05-18 | あなたへの聖書メッセージ
  主が家を建てるのでなければーむなしい労苦から喜びの労苦へ    


人生には多くの労苦がありますが、その労苦がむなしいものに終わったら、その人の人生は残念な、むなしい人生になってしまうと思います。
詩篇127篇1~2節には、「働きはむなしい」「見張りはむなしい」「辛苦の糧を食べるのも、それはむなしい」と「むなしい」が、3回も出てきます。こんなむなしい人生は歩みたくないですね。

でも詩篇127篇は、ソロモンが作った、短い詩篇ですが、私たちが、日ごろの生活、信仰生活を送る上で、大きな指針となる、大切な、また、素晴らしいみ言葉の一つだと思います。
生活の上で大変な時、困難な時、仕事がきつい時、労苦が多い時、また、これから、新しい進路を決めたり、結婚、出産、転職、家の建築、建売住宅を買う、マンションを買う、など、様々な、人生の選択、また、決断をしなければ、ならない時、など、このみことばを、いつも思いて祈れば、必ず、主の最善の導きが得られると思います。

そして、実は、この詩篇からは、私たちは、そういう状況の中で、信仰的な確信が得られる、霊的な悟り、励ましが、得られのです。

詩篇127: 1 主が家を建てるのでなければ、建てる者の働きはむなしい。主が町を守るのでなければ、守る者の見張りはむなしい。

ここでソロモンは、家の建築と、町の守りの働き、その労苦について、言っています。この背景には、古代イスラエルの民の開拓地の、激しい労苦と、その社会的な状況があります。
イスラエルでは、畑になるような耕地が少なく、荒野を開拓して耕作地にするには、容易なことではありません。

ゴロゴロとした、岩や石を取り除き、地を掘り返し、そして、そこへ遠方から、水を引いてくる。そして、そこに種を蒔き、手入れをし、草取りをする。そして、今度は、自分の住む家も、テントから、石やレンガの家を作る。これも手作りです。
そして、そこで何とか、食料を確保し、そして、結婚をし、家庭を作る。
「家を建てる」とは、そういうことです。ただ単に、家の建築のことでなく、そのための労働、結婚、出産、などの家庭の建設にともなう、すべてのことが含まれます。

そして、そういう家々が集まって、町を作ります。古代イスラエルでは、自分の家が、何も問題がなく、安心でも、自分のある町が、外敵から攻撃に合う危険が絶えず、あったのです。
そこで、民たちは、町を外敵から守るために、町に城壁をめぐらし、そして、見張りを置いて用心します。攻撃を受けたら、直ちに、町の若者が皆で、外敵と闘い、町を守ります。  「町を守る」「守る者の見張り」とは、そういうことです。

いくら自分の家が立派でも、その町が、滅ぼされてしまったら、その家は、立ちゆきません。今の私たちの日本では、自分の家を守っても、町を守る、という感覚はなかったと思います。しかし、今回の大震災で、私たちも同じだということがつくづく、分かりましたね。

特に、福島の原発の災害では、そうでしょう。新築の立派な家でも、そこを立ち退かなければならない、出ていかなければならない。町がやられてしまったら、どんな豪邸もだめです。
そういう意味では、私たちも、自分の住む町が、村が、県が、さらには、国が、守られないと、私たちの家も会社も教会堂も、無になってしまう。

エレミヤは、バビロンへ捕囚となって、連れて行かれた、絶望の中にいた、イスラエルの民に、対して、手紙を書いて、こう言いました。
エレミヤ29: 7 わたしがあなたがたを引いて行ったその町の繁栄を求め、そのために主に祈れ。そこの繁栄は、あなたがたの繁栄になるのだから。」

私たちも日ごろから、自分が置かれた、町の繁栄を祈ることが大切です。これは、自分が置かれた会社の繁栄を祈れ!とも受け止められます。

さて、古代イスラエルの民と同じように、私たちも、同じ「仕事」、「家庭を築く」、「家を建てる」、労苦があります。
この詩篇の作者ソロモンは、
詩篇127: 1 主が家を建てるのでなければ、建てる者の働きはむなしい。主が町を守るのでなければ、守る者の見張りはむなしい。
と言っています。
実は、この1節は、ヘブル語の原文では、「もし」がついているのです。ですから、直訳すれば、こうなります。

もし、主が家を建てるのでなければ、建てる者の働きはむなしい。
もし、主が町を守るのでなければ、守る者の見張りはむなしい。


つまり、ここで、ソロモンは、私たちの今の働き、労苦が、意味がないとか、決してむなしいものだと、言っているのではなく、「もし、主が家を建てるのでなければ、建てる者の働きはむなしい。もし、主が町を守るのでなければ、守る者の見張りはむなしい。」ですよ、と言っているのです。

つまり、主は、私たちに、大切な、霊的な悟りを得よ、と言っているのです。
私たちが、神なしで、神の祝福なしで、労苦し、家を建て努力をいくらしても、その働き、労苦はむなしい、と悟りなさい、言っているのです。

古代イスラエルの農夫の生活は、貧しいものでした。日本でも昔はそうでした。朝早起き、夜遅くまで働き、食事は粗末なもので、それでも、最後の仕事を終えて眠りに着くのは、かなり、遅くなってからです。
こうした働きは、今でもそうですね。人間の一生は、これの連続、こうして一生が終わる。

もし、神なしで、神の祝福なしで、この人生を送るしたら、それは、
詩篇127: 2 あなたがたが早く起きるのも、おそく休むのも、辛苦の糧を食べるのも、それはむなしい。  ですよ、これを悟ってください、とソロモンは言っているのです。
なぜ、むなしい人生を悟れと!と言っているのでしょうか。
これは、消極面の真理です。積極的な面の真理は、その裏返しです。ソロモンが本当に言いたかった中心のことは、その積極面のことです。

つまり、神になしの人生ではなく、神に信頼する、神により頼む人生、神の祝福を受ける人生があるということです。
神と共にあってなされる仕事は、一見どんな些細な、つまらない仕事に見えても、また、それが労苦に満ちた仕事であっても、神が共にあってなされるなら、神に祝福された仕事になる、神に祝福された家の建築になる、神に祝福された家庭の建てあげになる、ということなのです。

また、神の守りのない人生は、危険にさらされ、自分の努力だけでは、とうてい防ぎきれない。神に信頼していきるならば、そこには一番確かな人生があるという、ことなのです。神なき、努力、辛苦の糧を食べる労苦も、結局は、むなしい、空虚なこのになってしまうが、その反対の、神に信頼して、神と共に、労苦する時、そこには、神の祝福が、大いにあると、悟りなさいと、言っているのです。
その大きな祝福の結論が2節の後半にあります。

詩篇127: 2 ・・・主はその愛する者には、眠っている間に、このように備えてくださる。
「主はその愛する者には、眠っている間に、このように備えてくださる」
これを、みなさん、神の真理のことばと信じてください。
これは、聖書のことば、真理のことばです。
これは、本当に、感謝なことばですね。神は、私たちが眠っている間に、私たちの必要なものは、用意してくださると言うのです。

どんなに、心配なことがあっても、祈って寝ることできる。寝ている間に、主が、問題を解決してくれる、と信じて、眠ってしますのです。この言葉があるので、眠ることができる。
しかし、皆さん、これは、神がみんなしてくだるから、私たちの労苦はいらない、無駄なことだ、という意味ではありません。

これは、要は、私たちの人間の努力、力、能力、権力、お金の力、そうしたものがあれば、神を抜きにして、幸福な仕事ができるか、自分の家をもつこと、結婚、出産、幸福な家庭ができるか、いうと、それはできない。しかし、神の恵みと神の助けがあれば、私たちにお働きと、労苦は無駄にならず、神の祝福にあずかり、幸福な仕事、家を持つこと、幸福な結婚、出産、幸福な家庭の建設ができる、ということなのです。

「主はその愛する者には、眠っている間に、このように備えてくださる」

神は、私たちを「神の愛する者」と呼んでくださいます。
神は、私たちを愛して、私たちのために、すべてを備えてくださるのです。

「主はその愛する者には、眠っている間に、このように備えてくださる」
私たちが朝、目を覚ます時、そこには、私たちのために、神が用意された、新しい世界があります。私たちが生きるに必要なすべてが、神によって、用意されています。
これを信じて良いのです。

無から天地万物を造り出した神です。天創造の時のことえを思い出してください。
神は、無から、光、海、大空、陸地、動物、人を創造されました。その6日間のことを、聖書は、1日事に記していますが、その1日ごとの終わりに、なんとありますか。
「こうして夕があり、朝があった」とあります。
「夕があり、朝があった」です。朝には、それは創造されていました。
朝から始まって、夕方できたのではないのです。夕から夜のうちに、主は、創造されたのです。朝には、できていました。

今もそうです。私たちが眠っている間に、神は、全く新しい、1日を創造し、朝には、私たちに、その全く、新しい1日を下さっているのです。
朝、私たちは、まだ、一度も経験したこのとない、まったく新しい1日を、生きることができるのです。

「主はその愛する者には、眠っている間に、このように備えてくださる」
そして、神は、私たちが知らない時に、いわば、眠っている時に、御子イエス・キリストによる、私たちのために、救いの道を用意してくださいました。

私たちが知らない時に、いわば、眠っている時に、御子イエス・キリストは、私たちの罪のために十字架にかかり、死んでくださいました。
そして、救いの完成のために、死からよみがえってくださった。復活してくださった。

私たちが知らない時に、いわば、眠っている時に、神は、御子イエス・キリストによる、救いの道、永遠のいのち、天国を、私たちのために、用意してくださっているのです。

「こうして夕があり、朝があった」
御子イエス・キリストは、日曜日の朝、復活しました。その生涯は、朝から夕ではなかった。地上生涯の最後は、朝、でした。私たちの人生も同じです。この地上の人生の最後は、夕ではなく、朝、です。キリストにある人生は、夕で終わりません。復活の朝がくるのです。

御子イエス・キリストを、信じてください。
御子イエス・キリストにすべての望みをかけてください。
イエスは言われました。「わたしが生きるので、あなたがたも生きる」(ヨハネ14:19)と。
キリストは生きているので、信じる私たちも生きるのです。
だから、信仰によって、キリストの十字架と復活に、望みをもてば、私たちの人生には、いのちの望みがでてくのです。

しかし、キリストの十字架と復活に、望みを持てなければ、いくら、努力しても、やがて、むなしさが襲ってくる、空虚な人生に思えてくるのです。
詩篇127: 2 あなたがたが早く起きるのも、おそく休むのも、辛苦の糧を食べるのも、それはむなしい。

しかし、救い主、御子イエス・キリストを信じて、神に望みを置き、この神の恵みと神の助けがあれば、私たちにお働きと、労苦は無駄にならず、神の祝福にあずかり、幸福な仕事、家を持つこと、幸福な結婚、出産、幸福な家庭の建設ができる、この詩篇は言っています。これを、悟りなさいと、ソロモンは言っているのです。

最後に、3節、を見てください。
詩篇127: 3 見よ。子どもたちは主の賜物、胎の実は報酬である。

もうすぐ、出産の方もいるでしょう。まさに、子どもたちは主の賜物、胎の実は報酬である
いのちは、神が与える、賜物です。
赤ちゃんが、おギャーと生まれてくるまで、お父さん、お母さんは、その子に、指一本触れることができいのです。
子どもは、神の祝福からくる、両親への贈り物です。

同時に、それは、子どもは、両親だけで育つもではなく、多くの人々のよって、そだてられるものです。一人のいのちの誕生は、それは、共同体に与えれたいのちでもあるのです。そして、その子供は、将来、町を守る者となるのです。
だから、詩篇127: 4 若い時の子らはまさに勇士の手にある矢のようだ。
と言っているのです。
子どもは、神がくださった、神の勇士として期待されいる存在です。ですから、両親だけでなく、共同体、全体の子どもとして、育てていくことが、自然なのです。

さて、御子イエス・キリストを、信じてください。
御子イエス・キリストにすべての望みをかけてください。

その時、私たちの、仕事、子育て、奉仕、家庭の建設、教会の奉仕、伝道、これらの労苦は、むなしいものにならず、神に祝福された、喜びの労苦となるのです。
「主はその愛する者には、眠っている間に、このように備えてくださる。」

アーメン。


 

変化する時代を前向きに生きるために

2012-05-18 | あなたへの聖書メッセージ
 変化する時代を前向きに生きるために
ーあらゆる境遇に対処できる人になるために



  
今、世界は大きく変わろうとしています。良いか悪いかは別として、とにかく、大きく変化をしようとしています。
エジプトに始まり、北アフリカ、アラブ諸国に変動が、今、起きています。
日本も、変化を迎えています。大きな変化です。その変化と言うのは、良い方向ではないように思えます。そう言う中で、下手をすると、生きていけなくなる人が多くなると思います。

特に、若者が危ない。社団法人「日本青少年研究所」(東京)が、中国、韓国などの協力を得て、アメリカと中国と韓国と日本の高校生に対して、「・運動 ・体型とダイエット ・食事と睡眠 ・喫煙と飲酒の経験 ・健康と衛生に対する態度 ・情緒とストレス ・自分の性格評価と自己意識、など。」調査した。そして、2011年2月25日に発表しました。

その中に、自尊意識の調査がありましたが、結果は次のとおりでした。

「私は価値のある人間だと思う」:日本7.5%、米国57.2%、中国42.2%、韓国20.2%。
「自分を肯定的に評価するほう」:日本6.2%、米国41.2%、中国38.0%、韓国18.9%。
「私は自分に満足している」:日本3.9%、米国41.6%、中国21.9%、韓国14.9%。
「自分が優秀だと思う」:日本4.3%、米国58.3%、中国25.7%、韓国10.3%。

「自分は価値がある人間だと思うか」と質問です。アメリカの高校生は、約60パーセントがある。中国は、42%、韓国は、20%、日本は7.5%、でした。日本の高校生は、断然、自分を価値ある人間だと思えないのです。アメリカの約八分の一でしかない。この意識の違いは、どこからくるのでしょうか。

今日本の若者は、非常に危ない状態です。自分は生きる価値があると思っている日本の若者が、10%も、いないのです。生きることに希望がないのです。

そして、今の若者は、表面的には、友人関係を持っているように見えるが、深い絆をもてないという。そして、少しばかりの、困難や、痛み、悲しい出来事に耐えられない、と言います。

日本のある社会学者が、今の、日本の若者をこう分析しています。
それは、自分に困難やつらい出来事が生じた時に、たとえば、受験に失敗、就職試験に失敗(群馬県では大卒の5割が就職できない)、あるいは、失恋、会社で叱られた、とか・・・)

その時どう対処するか。日本の若者のタイプを、こう分析しています。

①引きこもる・・自分の殻に閉じこもって出てこない。外と遮断する。
これ以上自我が傷つかないよう、沈黙と孤独の殻に閉じこもり、自己防衛に徹するパターンです。このような人は、あまり人と口をききません。しかし、このような人の心にも、様々な思いや感情が渦巻いています。

②強い人に依存して、その人の言いなりになる。・・・寄らば大樹の陰の生き方。
自分の個性をださない。

③どうせこの世の中は、そんなもの大した価値もない、どんな人生も価値がないのだ。・・頭脳的な厭世主義。

④自分がこうなったのは、親が悪い、友人が悪い、学校が悪い、社会が悪いと言って、外を攻撃するように生きる・・・・自分は悪くない、すべて、他者のせいにする。
  
上記の調査に見られるように、今日本では、若者だけでなく、多くの人々は、生きていく自信を喪失していると言えるでしょう。それは、多くの人々が、自分の人生に、自分の存在に、価値を見いだせなくなっていると言うことです。生きる自信の喪失ということは、自分が持つべき正しい自尊心がもてなくなっている、と言うことです。

自分を過大評価し過ぎてはだめですが、しかし、いつも自分は価値のない人間だ、いてもいなくてもいい人間だ、と思い込むことは、生きる自信を喪失させてしまいます。 
生きる自信の喪失は、幼い子どもから、小学生、中学生、高校生、青年、熟年、高齢者に至るまで広がっている大きな問題です。 

どうしたら、少しぐらいの困難に負けない、しかも、他者をも尊重して生きられる人になれるのでしょうか。そして、何よりも、自分の人生に価値を見出し、希望を持って、生きるためには、どうしたらよいのでしょうか。

どうしたら、今の大変化の時代を生き残れるか。
どうしたら、正しい生きる自信を持つことができるでしょうか。自分は、今、ものすごく価値ある人生を生きているのだ、健全な自尊心がもてるか。
どうしたら、困難、悲しみ、失敗、そういう中でも前向きに、生きていくことができるのでしょうか。

創世記に出てきます、ヨセフの生涯をとおして、それを考えて見たいと思います

ヨセフの生涯。

イスラエル民族の父は、アブラハムです。その子は、イサク、そして、その子はヤコブです。ヤコブには12人の男の子が生まれて、11番目の子どもがヨセフです。

上に10人の兄さんがいた。弟にベニヤミンが生まれた。ヨセフは、父ヤコブの年老いてからの子であり、しかもヤコブが愛したラケルの最初の子どもであったので、他の異母兄弟よりもヤコブに愛された(創37:1-3)。彼には特別に、「そで付きの長服」が与えられた。 

そのためヨセフは兄たちから、ねたまれ憎まれることになった。特に、兄たちがヨセフに仕えるという夢の話をしたので、ますます憎まれるようになり、荒野に羊を追っていった兄たちを見に行って、ヨセフは兄たちに殺されそうになったが、長兄ルベンに助けられ、荒野の空井戸の穴に投げ込まれた。

しかし、ルベンがいない間に、他の兄たちはヨセフをエジプト行きの、商人のキャラバン隊のたちに売り、商人は、ヨセフをエジプトに連れていって、売り飛ばした。
(兄たちはヨセフの長服を血に浸して父ヤコブの所へ持っていき、ヨセフは野獣に殺されたと偽った。) 
こうしてヨセフは、エジプトの王パロの廷臣で、侍従長ポテファルに奴隷として売られた。ヨセフは、エジプトで奴隷となった。ヨセフが17才の時のことであった。 
若いヨセフは、生きていられないような、大きな試練に会いました。

エジプトの王パロの侍従長ポテファルの家で、ヨセフは、悲しみと辛さの中に、また、孤独の中にあった。しかし、彼は、くじけなった。与えられた奴隷の仕事をひた向きにこなしていった。また、神の助けがあったので、ヨセフの仕事は、良き成果をおさめた。ついに彼は奴隷でありながら、ポテファルの家来同然になり、家の財産の管理を、すべて任された。

しかし、それもつかの間、ポテファルの妻にだまされて、無実の罪をきせられ、エジプト王の牢屋に、ぶち込まれたのです。彼は、奴隷よりももっと悪い、囚人になってしまった。 しかし、そこでもヨセフは、くじけませんでした。そこでも言われたことに忠実に働き、監獄の中のことを、任されるまでになったのです。囚人でありながら、全囚人を監督する人になった。

ヨセフが監獄にいた頃、パロ王の側近の献酌官長と調理官長とがパロに対して罪を犯したため、ヨセフと同じ監獄に入れらて来た。彼らは夢を見たが、その夢の意味をヨセフが解き明かすと、その解き明かしの通りとなり、献酌官長はもとの職にもどり、調理官長は木にかけられて処刑された。ヨセフは、献酌官長に自分のことを思い出してくれるように頼んだが、彼はヨセフのことを忘れてしまった。 

それから2年後に、パロ王は夢を見て、エジプトのすべての呪法師にその解き明かしを命じたが、王の夢を、解き明かしのできる者は一人もいなかった。
その時、先のヨセフに助けられた献酌官長が、ヨセフのことを思い出し、監獄でのいきさつをパロに話した。パロはヨセフを呼びだして、その夢の解き明かしを命じた。 

ヨセフは、その夢で示されていることは、神がこれからなさろうとしていることで、エジプト全土が7年間、大豊作の恵みに預かり、その後7年間のききんが起こり、地は荒廃するというものであった。そして、ヨセフは豊作の7年の間に、次の飢饉の備えをするようにパロに進言した。このことはパロとすべての家臣たちに認められて、パロ王は、ヨセフを監獄から出し、エジプトの全土を治める総理大臣にヨセフを任命したのです。 このとき、ヨセフは、30歳でした。

このヨセフの生き方に、学ぶものが多くあります。
彼の道のりは、大変なものがありました。特に17才から30才までの、13年間は、ヨセフの人生は、本当につらい日々、苦しい毎日でした。 
兄さんたちから殺されそうになり、そして、エジプトの奴隷として売られ、次は、悪いこともしていないのに、囚人となり監獄へ。 皆さんがそうなったら、自分のことをどう考えますか。ああ、もうなんて人生なんだ。もうだめだ!夢も希望もない!と思うでしょうか。
こんな人生では、生きていく価値はない。希望もない、と思ってもしかたがない、状態でした。しかし、ヨセフは、違っていたのです。

まず、ヨセフは、本当に困難にくじけない人でした。どんな苦境の中でも、けっして希望を失わないで、前向きに生きたのです。そして、自分が置かれたその場所で、その主人に、自分にできる最善を尽くしました。そして、ヨセフは30才にして、エジプトの宰相=総理大臣に、任命されたのです。

なぜ、ヨセフは、このような人生を、生きることができたのでしょうか。

それは、ヨセフは、世界の創造主と、個人的な知りあいになっていたということです。  
ヨセフは、親、兄弟、友人、から引き離された。孤独か?いや、ヨセフは、天創造の神、主と個人的な知り合いになっていました。イエス・キリストの信仰をもっていたと言ってもよいのです。
ここが、もっとも大切なところです。
アメリカは問題の多い国です。しかし、そこの高校生の6割が、自分の人生には、生きる価値があると信じている。・・・・人だけではなく、天地創造の神の存在を信じているからではないか。そういうことを、子どものころから、教わってきたからではないか。

ヨセフは、この世界の創造主と個人的に知りあいになっており、キリストへの真摯な信仰を持っていました。創造主なる神を知ること、救い主であるキリストを信じること、これほどに、人の思い、心を、自尊心を、満足させるものはありません。
まぜなら、神は、人を全世界を手に入れるよりも尊い存在と見ています。私たちの恐れも、心配もすべて御存知です。すべての人が自分を忘れたかに思えるような時でも、神は私たちを忘れてはいないのです。

 女が自分の乳飲み子を忘れようか。自分の胎の子をあわれまないだろうか。たとい、女たちが忘れても、このわたしはあなたを忘れない。 イザヤ49: 15

と聖書は言っています。

神は、私たちの、どんな状況にも、意味と励ましを与えてくださいます。また、誰も相手にしてくれない時でも、神は愛をもって手を差し伸べていて下さいます。 また、神は誰であったも人を決して軽く見ないのです。 神は、その人本人が考えている以上に、重い存在と見ているのです。聖書でもそのことをこう言っています。

 わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。 イザヤ43:4

「わたしはあなたを愛している」と言う神の愛の最も大きなあらわれが、イエス・キリストの十字架です。神は、そのひとり子、御子イエス・キリストを、天から遣わし、私たちのために、身代わりとして、十字架につけてくださったのです。なぜでしょうか。実にイエス・キリストの十字架の死は、私たちの自分ではどうにもならない罪、自己中心の自我、心の傷、劣等感をいやし、救ってくださるためにでした。

(キリストは)そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。1ペテロ2:24  

そして、イエス・キリストは、私たちのマイナス面をプラスに、空しさを充実に、失望を希望に変えて下さるお方なのです。
イエス・キリストを信じてください。その時、罪がゆるされ、神の子どもとされる、歩みが与えられます。罪とサタンの呪縛から、解放されます。人をゆるすことができます。

それだけではありません。
神を信じ、神を愛する生き方をして行く時、私たちの過去の失敗も、生かされます。過去の痛みも、益に変えられます。

神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。ローマ8:28 

人は、人生のマイナスと言われることが、実は、その後の人生で、プラスと変えられるのです。これは、不思議です。天地創造の神を自分の神として、歩んでください。この神、いえす・キリストを、ご自分の人生で、大切なお方として、歩んでみてください。
過去の失敗や、苦しみ、挫折、痛み、それらすべてが、益となって、自分に返ってくるのです。だから、人生に希望を持てます。そして、その人生は、思いもよらない広い世界へと、開かれていくのです。

イエス・キリストの十字架に・・私たちの現実の罪があり、また、その罪に対する現実の赦しがあります。私たちにとってのいやしは、キリストの十字架の傷にあり、救いは十字架にあるのです。ですから、このキリストを信じ信仰によってキリストと結びつき、その罪の赦しと復活のいのちを頂くことを確信することこそが、自分の人生が価値あるものであることがわかり、生きる自信につながるのです。

さて、創世記のヨセフのことを考えて見ましょう。 これは、牢獄に入れられて誰からも忘れられてしまうことは、ヨセフの生涯で最大の逆境、ピンチです。しかし、ヨセフは監獄の中で自分が無実であることは知っていたが、ああもうだめだ!神はなんて意地悪なんだ!私は何と不幸な人間なのだ!とヨセフは自己憐憫に身をまかせることはしませんでした。 それどころかヨセフは、同じ囚人として入ってき夢に悩まされていた、献酌官長と調理官長を助けることが出来ました。

自分が大変で人のことどころではない、言えばヨセフは言えたでしょう。しかし、ヨセフは、彼らと話すことを避けていませんでしたし、その夢の意味をしり、知らせることができるたった一人の方である神をしらせ、神の彼らの心を向けさせました。

なぜ、ヨセフにそれが出来たのでしょう。 ヨセフは、何度も突然、考えられないような逆境に陥った経験をしていました。その時、その時、ヨセフは落ち込んだかも知れないが、しかし、彼はその中でも神の御前で生きること、神とともに生きることをやめなかったのです。 すなわち、彼はどんな時でも神に祈り、神に頼り続けました。

それゆえ、神もまたヨセフを忘れていなかったのです。ヨセフに夢を解き明かしてもらった献酌官長はヨセフのことを忘れたけれども、神はヨセフのことを忘れていなかったのです。 ヨセフが困難な人生にも関らず泣き言をいわないで、しっかりと自立していった鍵がここにあると思います。 彼は、どんな時も神の思いに目を向けていたということです。彼はどんな逆境の中でも神の御前で生きること、神とともに生きることをやめなかったのです。だから、彼の人生は、つらいことも、人からいじめあれた経験も、すべてかれの人生の益に変えられたのです。 神はヨセフを大いに祝福してくださったのです。 

あなたは、キリストを信じていますか。キリストにつながっていますか。あなたは自分がキリストに召されるほどに、自分が価値あるものであることを知って下さい。 神があなたを肯定し、あなたを用いて下さることを信じて下さい。
そのとき、あなたの過去のどんな失敗も、苦しみも、仮悲しみも、万事が益となることを見るでしょう。そして、そのとき「わたしを強くして下さるかたによって、何事でもすることができる。」ことを体験するでしょう。
私たちも、ヨセフのような歩みが、今、できるのです。


わたしは乏しいから、こう言うのではない。わたしは、どんな境遇にあっても、足ることを学んだ。わたしは貧に処する道を知っており、富におる道も知っている。わたしは、飽くことにも飢えることにも、富むことにも乏しいことにも、ありとあらゆる境遇に処する秘けつを心得ている。 わたしを強くして下さるかたによって、何事でもすることができる。 ピリピ4:11~13
 
アーメン。