説教題 心の貧しい者の幸福
聖 書 マタイの福音書5章1-12節
人には様々な生き方があると思いますが、共通して言えることは、すべての人は幸福を求めて生きていることだと思います。ほんとうに幸福な人とはどういう人なのでしょうか。
日本で始めてノーベル文学賞を受賞したのは、川端康成と言う人です。彼は作家として富みも名声も手に入れた人でした。しかし、彼は74才でガス自殺をしてしまいました。その時、川端康成の友人の作家が、こんなことを言っています。
「世間並みに見れば、川端康成が死ななければならない条件は何もないように思える。……川端康成は文壇に登場し、芸術院会員になり、文化勲章を受け、日本で最初のノーベル文学賞の栄誉に輝いた。若いときから病弱の身を保って70才を越えることが出来た。
鎌倉の自宅には、素晴らしい書庫付の書斎も出来、身辺は国宝級の古美術に満ちあふれ、日本人の多くの敬愛を受け、誠実な夫人の愛情に包まれ、その少し前には、盲腸の手術も無事に済み、どこから見ても満足する状態であり、誰が見てもうらやましい人生だった。なぜ、死ななければならなかったのか。その答えは誰も出せないだろう。しかし、彼は決して幸福な境遇ではなかったようだ。」と川端康成の友人の作家が言っているのです。
人は、有名になったり、お金持ちになったりして、表面的には、幸福そうに見える人でもその実、悲惨な中にいることは十分考えられることです。
また、直面する困難や問題を解決し、人に幸福をもたらすとうたっている、御利益宗教のようなものは、一時的には幸福感をもたらしても、根本的には人を、本当に幸福にしていない。うまい話は決して人を幸福にしない。
さて、イエス・キリストは、このマタイ5章~7章の「山上の説教」と言われて箇所ではっきりと、人が本当に幸福になりたいなら、ここにこそ、人の本当の幸福が有ると言っているのです。
特に、このマタイ5章1-12節には、「幸いです=幸福です」と言うことばが、9回繰り返されて出てきます。ここに9回出てきます「幸いである」(マカリオイ)とう語は、原文では、文章の最初に来ている感嘆詞、でありまして、「幸いだ!」という感嘆のことばです。
文語訳聖書では、「幸いなるかな、心の貧しい者。」というふうに、原語の響きを忠実に伝えています。新改訳聖書のように「心の貧しい者は・・幸いです。」というのはいかにも散文的な表現です。
さて、この「幸いだ」(マカリオイ)という言葉は、「外側から乱されることのない、内側からわき上がる喜び」、「人生の偶然の出来事や、変化に影響されることのない喜びをもつ幸福」を意味する言葉です。
英語で幸福を、Happiness と言いますが、その語幹は、HappeningのHapで、「偶然、まぐれ、運」、を意味しています。つまり、英語のことばから言えることは、人の幸福とは、人生の運や偶然に、左右されるものだ、という考えがあることが解ります。
この世にも喜びがあり、幸福があります。しかし、この世の喜びや幸福はHappeningの要素が強いのです。そして、それは過ぎ去っていくものです。運が去ってしまった、健康をそこなった、事業が失敗した、計画が失敗した、時勢が変わった時、この世の喜びはたちんまち消えてしまう、ということがあるのではないでしょうか。
しかし、イエス・キリストが言われている幸福は、イエス・キリストが与える幸福は、この世から影響されないもの、何をもってもその内面の幸福を乱されないものであるということです。イエスは「その喜びをあなたがたから奪いさる者はありません。」(ヨハネ16:22)と言いました。
この山上の説教で、イエスが語ったところの幸福は、たとえ苦痛の中に置かれたとしても、心に満ちる喜びであり、痛み、損失、悲しみ、嘆きも消すことが出来ない幸福なのです。そして、死でさえも、奪い取ることができない喜びの幸福なのです。
さて、今日は、その幸福の第1の使信、5章3節の「心の貧しい者の幸福」の意味を学んでみたいと思います。
マタイ5:3心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。
心の貧しい者は幸福だ!とは、意外な言葉だと思います。普通、人は、貧しい者は不幸だと言います。しかし、イエスは、心の貧しい者は幸福だと言うのです。
ここで、この「貧しい」と言う語は、「うずくまる」とか「ちじこまる」という意味を持つことばで、人を委縮させてしまうような貧しさ、を意味する言葉です。イエスは、立ち上がれないほどに貧困に打ちのめされた人、その人こそ幸いであるというのです。
すなわち、今、欠乏と困窮の中に生きている人、あるいは、悩みの中、試みの中にある人、飢餓に苦しむ人、その自分の貧しさを知っている人が、「心の貧しい人」だとイエスは言われているのです。
つまり、イエスが言う、「心の貧しい人」の意味するところは、生きていくための力、資源が自分の中には全くないことを自分で知っている人、認めている人で、そのために、生きるための必要な助けと力を、ただ神に求める人のことを言っているのです。
すなわち、自分が全く無力であり、無知であり、人生を生きるのに、自分には限界が有ることを知って、ただ、ひたすら神により頼む人のことです。
しかし、この世は、こういう人を嫌います。この世は、こういう人を賢くない人、として見ています。この世は、自己信頼、自己確信、自己表現への信奉を強調しています。出世したいなら自分自身に自信を持ちなさいと言います。良いセールスマンであることは、自信と確信に満ちている印象を客に与えることであると。この世は、自分を表現する、自分を信頼する、自分に生まれつき備わっている力を自覚し、信じなさい、と言います。そして、それらを世に見せ、知らせることである、と言います。これは「ヒューマニズム」とも言う。ヒューマニズムの落とし穴は、神を否定する考えです。宗教も人間が作りだした文化と考える。人間の上に神はいないとする。これは、根本的な間違いです。(進化論がその背景にあります。)
つまり、人間は自分を幸福にする力を、自分が持っていると言うのです。また、神を信じるなどと言うことは弱い人間のすることだ、人間は自分の力で生きていける、と言います。
そしてこれが、高い教育と知識、高学歴、お金持ちになることが、人を救い、人を立派にし、幸福にするはずだと言う主張になります。世界の貧しい人たちを助ける=これが救いであると言います。(確かに貧しい人を助けることは悪いことではないが。)
しかし、イエス・キリストは、「5:3心の貧しい者こそ幸福です。」と言うのです。そして、その人こそ、本当にその人こそ、幸福な人であると、イエスは言われているのです。
つまり、人がいくら努力して、高い教育を受け、高い文化を築いても、神を神としない、人には、真の幸福はない。真の幸福は、私たちの創造主なる神のもとに立ち返り、その導きた従い、神の力に頼って生きるところにあると、イエスは言っているのです。
そのために、人がなすべきことは、自分の我を張って生きることをやめ、自力で生きるのをやめて、謙虚になって、神にすがることなのです。そのためには、心の貧しさが必要なのです。自分が本当に貧しい者であることを、知る必要があるのです。自分の貧しさを知っている人だけが、自己主張をやめ、謙虚になって、神のあわれみに、すがることができるのです。
神の御子イエス・キリストは、本当に貧しさを味わったお方です。イエス・キリストは、私たちにために貧しくなられました。天の栄光の御座を捨て、貧しい馬小屋に生まれ、私たちの罪の身代わりとして、十字架について、私たちの罪の罰として死んでくださったのです。これ以上、貧しくなったお方はありません。だから、私たちがイエス・キリストを信じて救われるために必要なことは、私たちが富むことではなく、心を貧しくしてこのキリストを信じ受け入れることなのです。そのとき、私たちの過去、現在、未来のすべての罪が赦され、救われるのです。そして、決して消えることのない、死んでも消えない、幸福が与えられるのです。
だから、イエスは「5:3心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。」と言われたのです。皆さんは、心の貧しさをお持ちでしょうか。
生まれつきの自分の素質に、信頼を置いていないでしょうか。自分の体力や才能に信頼を置いていないでしょうか。自分に与えられている社会的な地位や、お金、財産を頼みとしてはいないでしょうか。自分の受けた教育、卒業した学校、学歴、などを誇りとしてはいないでしょうか。そうでないとしても、「おしん」のように、一生懸命生きてきた、その自分の努力が、自分を生かしている、と思っていないでしょうか。
心の貧しい者こそ、真の幸福になれるだとイエスは言っているのです。
なぜ、こんなに貧しい人こそが、ほんとうの幸福者なのでしょうか。
それは、彼らは、この世で何も、本当に何も持ってはいないけれども、イエス・キリストという神を持つことによって、神にあってすべてのものを、持っている人だからです。イエスは、そのことを、こう言われました。
5:3心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。
→「天国は彼らのものである。」
天の御国を持つということは、神に属するすべてのものを持っているのと同じです。だから、実をいうと、心の貧しいものは、何ももたないものではなく、すべてを持っている人なのです。これ以上富んでいる人はいないのです。イエスは、天国というものは、心の貧しい人たちのものだと言っているのです。
さて、では、どうしたら心の貧しさを持てるのでしょうか。実は、心の貧しさは、神によって神の恵みとして人に与えられるものなのです。
それは、イエスの招きにあります。イエスの招きに応えることなのです。
イエスの招きとその約束のみことばに従う者に、心の貧しさが与えられるのです。そして、そのイエスの招きは、時として、痛い思いや、困難な経験、逆境と呼ばれるような中で、与えられることがあるのです。
R.G.ビビアン氏の証し
もう随分昔の事ですが、今から百数十年前に、英国の鉱業家に、グリーン.G.ビビアンさん、という人がいました。彼は時代の波に乗って成功し、鉱山王と呼ばれるようになりました。彼は財産にものを言わせ、豪華な世界旅行をし、各地の鉱山や炭坑を視察しました。
ところがある日、霧のロンドンの西部街を歩いていると突然、視力の異常を感じました。そして、治療の甲斐もなく彼は失明し、盲人になってしまったのです。
国内はもとより、ドイツ、スイスと名医を尋ねましたが、回復の道はなく、彼は失意のあまり、身体の健康をも害してしまいました。そして、医師の勧めで転地療養することになりました。彼は自分に絶望しました。そして、その時、心が貧しくなったのです。
この時、彼は悔い改めキリストを信じました。
キリストを信じたビビアン氏は、教会堂建築の費用を全額、献金したり、自分が経営する会社の工場には、社員のための伝道館を建て、牧師を招きました。
さらに、彼は世界旅行の時に見た、フランス、ドイツ、スペイン、ロシア、日本、カナダ、南アフリカ、南アメリカの各地で、幾百万の鉱山労働者とその家族の悲惨、霊的な暗黒状態(その日その日を唯暮らしている)を思い起こしました。
そして、彼はそこに重荷を感じて、全財産を投じて、1906年(明治39年)、今から103年前に、グリーン・ビビアン・マイナーズ・ミッション(ビビアン鉱山労働者伝道団)を設立したのです。(これは国際的なもので、今でも数か国の鉱山労働者と金属労働者とその家族のためにその働きは、続けられているそうです。)
そして、このグリーン・ビビアン氏の創設したマイナーズ・ミッションの働きが、1907年に、日本の栃木県の足尾にもたらされたのです。当時足尾は、銅を産出する鉱山として、活気があり、沢山の労働者が集まっていました。鉱毒事件もありましたが、このマイナーズ・ミッションの足尾のおける伝道の働きは進展しました。1908年に鉱山伝道団・足尾教会の会堂が建設されました。(これが、今の福音伝道教教団の足尾キリスト教会)
そして、日本の宣教のために来日していた、一人の婦人室教師が、この働きを足尾に見に来たです。この婦人宣教師がイギリス人宣教師M.A.バ∵ネット師です(福音伝道教団の創設者)。バーネット師は、足尾に来て、重荷が与えられました。このマイナーズ・ミッションの足尾の働きを引き継ぐ決心をしたのです。
そしてさらに、バーネット師は、足尾町、大間々町、境町、太田などに伝道の重荷が与えられたのです。そして、バーネット宣教師は当時日本伝道隊におりました、舟喜麟一牧師(舟書信先生のお父さん)らとともに、群馬、埼玉、栃木県の日本の内陸部3県の田舎町の開拓伝道のために、(1927年に)福音伝道協会を設立したのです。これが今の福音伝道教団となりました。
つまり、福音伝道教団は、グリーン・ビビアン・マイナーズ・ミッションの働きと伝道があったからこそ、生まれたと言っても良いのです。足尾でのマイナーズ・ミッションの働きとがあったからこそ、バーネット師は群馬に伝道を開始したのです。
福音伝道教団は(足利教会もそうですが)バーネット宣教師は創設者のは違いないのですが、実は、さかのぼれば、イギリスの一人の実業家が盲目になり、その心が貧しくなったことによって、すなわち、グリーン・ビビアン氏の心が貧しくなったことによって生まれたと言っても過言ではないでしょう。
このグリーン・ビビアン・マイナーズ・ミッション(ビビアン鉱山労働者伝道団)が設立されてから、4年目に彼は天に召されました。しかし、彼の日本の足尾での働きは、バーネット師に引き継がれ、福音伝道教団が生み出され、そして、多くの人々の救いにつながりました。私の信仰の源流も、ここにあると言えます。
マタイ5:3心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。
イエス・キリストは神の御子であったのに、その天の御座を捨てて、私たちの所に来て下さいました。しかも、私たちのかたくな心、罪の身代わりとして、十字架について死んでくださいました。
2コリント8:9 あなたがたは、私たちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は富んでおられたのに、あなたがたのために貧しくなられました。それは、あなたがたが、キリストの貧しさによって富む者となるためです。
主イエスを心に信じ迎え入れるとき、人は益々心の貧しい者とされるのです。そして、その人は天国の市民としてふさわしい者とされるのです。
マタイ5:3心の貧しい寺は幸いです。天の御国はその人のものだからです。
そして、心の貧しい人こそ、神の国を持つ、豊かな人、本当に幸福な人なのです。
アーメン。
聖 書 マタイの福音書5章1-12節
人には様々な生き方があると思いますが、共通して言えることは、すべての人は幸福を求めて生きていることだと思います。ほんとうに幸福な人とはどういう人なのでしょうか。
日本で始めてノーベル文学賞を受賞したのは、川端康成と言う人です。彼は作家として富みも名声も手に入れた人でした。しかし、彼は74才でガス自殺をしてしまいました。その時、川端康成の友人の作家が、こんなことを言っています。
「世間並みに見れば、川端康成が死ななければならない条件は何もないように思える。……川端康成は文壇に登場し、芸術院会員になり、文化勲章を受け、日本で最初のノーベル文学賞の栄誉に輝いた。若いときから病弱の身を保って70才を越えることが出来た。
鎌倉の自宅には、素晴らしい書庫付の書斎も出来、身辺は国宝級の古美術に満ちあふれ、日本人の多くの敬愛を受け、誠実な夫人の愛情に包まれ、その少し前には、盲腸の手術も無事に済み、どこから見ても満足する状態であり、誰が見てもうらやましい人生だった。なぜ、死ななければならなかったのか。その答えは誰も出せないだろう。しかし、彼は決して幸福な境遇ではなかったようだ。」と川端康成の友人の作家が言っているのです。
人は、有名になったり、お金持ちになったりして、表面的には、幸福そうに見える人でもその実、悲惨な中にいることは十分考えられることです。
また、直面する困難や問題を解決し、人に幸福をもたらすとうたっている、御利益宗教のようなものは、一時的には幸福感をもたらしても、根本的には人を、本当に幸福にしていない。うまい話は決して人を幸福にしない。
さて、イエス・キリストは、このマタイ5章~7章の「山上の説教」と言われて箇所ではっきりと、人が本当に幸福になりたいなら、ここにこそ、人の本当の幸福が有ると言っているのです。
特に、このマタイ5章1-12節には、「幸いです=幸福です」と言うことばが、9回繰り返されて出てきます。ここに9回出てきます「幸いである」(マカリオイ)とう語は、原文では、文章の最初に来ている感嘆詞、でありまして、「幸いだ!」という感嘆のことばです。
文語訳聖書では、「幸いなるかな、心の貧しい者。」というふうに、原語の響きを忠実に伝えています。新改訳聖書のように「心の貧しい者は・・幸いです。」というのはいかにも散文的な表現です。
さて、この「幸いだ」(マカリオイ)という言葉は、「外側から乱されることのない、内側からわき上がる喜び」、「人生の偶然の出来事や、変化に影響されることのない喜びをもつ幸福」を意味する言葉です。
英語で幸福を、Happiness と言いますが、その語幹は、HappeningのHapで、「偶然、まぐれ、運」、を意味しています。つまり、英語のことばから言えることは、人の幸福とは、人生の運や偶然に、左右されるものだ、という考えがあることが解ります。
この世にも喜びがあり、幸福があります。しかし、この世の喜びや幸福はHappeningの要素が強いのです。そして、それは過ぎ去っていくものです。運が去ってしまった、健康をそこなった、事業が失敗した、計画が失敗した、時勢が変わった時、この世の喜びはたちんまち消えてしまう、ということがあるのではないでしょうか。
しかし、イエス・キリストが言われている幸福は、イエス・キリストが与える幸福は、この世から影響されないもの、何をもってもその内面の幸福を乱されないものであるということです。イエスは「その喜びをあなたがたから奪いさる者はありません。」(ヨハネ16:22)と言いました。
この山上の説教で、イエスが語ったところの幸福は、たとえ苦痛の中に置かれたとしても、心に満ちる喜びであり、痛み、損失、悲しみ、嘆きも消すことが出来ない幸福なのです。そして、死でさえも、奪い取ることができない喜びの幸福なのです。
さて、今日は、その幸福の第1の使信、5章3節の「心の貧しい者の幸福」の意味を学んでみたいと思います。
マタイ5:3心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。
心の貧しい者は幸福だ!とは、意外な言葉だと思います。普通、人は、貧しい者は不幸だと言います。しかし、イエスは、心の貧しい者は幸福だと言うのです。
ここで、この「貧しい」と言う語は、「うずくまる」とか「ちじこまる」という意味を持つことばで、人を委縮させてしまうような貧しさ、を意味する言葉です。イエスは、立ち上がれないほどに貧困に打ちのめされた人、その人こそ幸いであるというのです。
すなわち、今、欠乏と困窮の中に生きている人、あるいは、悩みの中、試みの中にある人、飢餓に苦しむ人、その自分の貧しさを知っている人が、「心の貧しい人」だとイエスは言われているのです。
つまり、イエスが言う、「心の貧しい人」の意味するところは、生きていくための力、資源が自分の中には全くないことを自分で知っている人、認めている人で、そのために、生きるための必要な助けと力を、ただ神に求める人のことを言っているのです。
すなわち、自分が全く無力であり、無知であり、人生を生きるのに、自分には限界が有ることを知って、ただ、ひたすら神により頼む人のことです。
しかし、この世は、こういう人を嫌います。この世は、こういう人を賢くない人、として見ています。この世は、自己信頼、自己確信、自己表現への信奉を強調しています。出世したいなら自分自身に自信を持ちなさいと言います。良いセールスマンであることは、自信と確信に満ちている印象を客に与えることであると。この世は、自分を表現する、自分を信頼する、自分に生まれつき備わっている力を自覚し、信じなさい、と言います。そして、それらを世に見せ、知らせることである、と言います。これは「ヒューマニズム」とも言う。ヒューマニズムの落とし穴は、神を否定する考えです。宗教も人間が作りだした文化と考える。人間の上に神はいないとする。これは、根本的な間違いです。(進化論がその背景にあります。)
つまり、人間は自分を幸福にする力を、自分が持っていると言うのです。また、神を信じるなどと言うことは弱い人間のすることだ、人間は自分の力で生きていける、と言います。
そしてこれが、高い教育と知識、高学歴、お金持ちになることが、人を救い、人を立派にし、幸福にするはずだと言う主張になります。世界の貧しい人たちを助ける=これが救いであると言います。(確かに貧しい人を助けることは悪いことではないが。)
しかし、イエス・キリストは、「5:3心の貧しい者こそ幸福です。」と言うのです。そして、その人こそ、本当にその人こそ、幸福な人であると、イエスは言われているのです。
つまり、人がいくら努力して、高い教育を受け、高い文化を築いても、神を神としない、人には、真の幸福はない。真の幸福は、私たちの創造主なる神のもとに立ち返り、その導きた従い、神の力に頼って生きるところにあると、イエスは言っているのです。
そのために、人がなすべきことは、自分の我を張って生きることをやめ、自力で生きるのをやめて、謙虚になって、神にすがることなのです。そのためには、心の貧しさが必要なのです。自分が本当に貧しい者であることを、知る必要があるのです。自分の貧しさを知っている人だけが、自己主張をやめ、謙虚になって、神のあわれみに、すがることができるのです。
神の御子イエス・キリストは、本当に貧しさを味わったお方です。イエス・キリストは、私たちにために貧しくなられました。天の栄光の御座を捨て、貧しい馬小屋に生まれ、私たちの罪の身代わりとして、十字架について、私たちの罪の罰として死んでくださったのです。これ以上、貧しくなったお方はありません。だから、私たちがイエス・キリストを信じて救われるために必要なことは、私たちが富むことではなく、心を貧しくしてこのキリストを信じ受け入れることなのです。そのとき、私たちの過去、現在、未来のすべての罪が赦され、救われるのです。そして、決して消えることのない、死んでも消えない、幸福が与えられるのです。
だから、イエスは「5:3心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。」と言われたのです。皆さんは、心の貧しさをお持ちでしょうか。
生まれつきの自分の素質に、信頼を置いていないでしょうか。自分の体力や才能に信頼を置いていないでしょうか。自分に与えられている社会的な地位や、お金、財産を頼みとしてはいないでしょうか。自分の受けた教育、卒業した学校、学歴、などを誇りとしてはいないでしょうか。そうでないとしても、「おしん」のように、一生懸命生きてきた、その自分の努力が、自分を生かしている、と思っていないでしょうか。
心の貧しい者こそ、真の幸福になれるだとイエスは言っているのです。
なぜ、こんなに貧しい人こそが、ほんとうの幸福者なのでしょうか。
それは、彼らは、この世で何も、本当に何も持ってはいないけれども、イエス・キリストという神を持つことによって、神にあってすべてのものを、持っている人だからです。イエスは、そのことを、こう言われました。
5:3心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。
→「天国は彼らのものである。」
天の御国を持つということは、神に属するすべてのものを持っているのと同じです。だから、実をいうと、心の貧しいものは、何ももたないものではなく、すべてを持っている人なのです。これ以上富んでいる人はいないのです。イエスは、天国というものは、心の貧しい人たちのものだと言っているのです。
さて、では、どうしたら心の貧しさを持てるのでしょうか。実は、心の貧しさは、神によって神の恵みとして人に与えられるものなのです。
それは、イエスの招きにあります。イエスの招きに応えることなのです。
イエスの招きとその約束のみことばに従う者に、心の貧しさが与えられるのです。そして、そのイエスの招きは、時として、痛い思いや、困難な経験、逆境と呼ばれるような中で、与えられることがあるのです。
R.G.ビビアン氏の証し
もう随分昔の事ですが、今から百数十年前に、英国の鉱業家に、グリーン.G.ビビアンさん、という人がいました。彼は時代の波に乗って成功し、鉱山王と呼ばれるようになりました。彼は財産にものを言わせ、豪華な世界旅行をし、各地の鉱山や炭坑を視察しました。
ところがある日、霧のロンドンの西部街を歩いていると突然、視力の異常を感じました。そして、治療の甲斐もなく彼は失明し、盲人になってしまったのです。
国内はもとより、ドイツ、スイスと名医を尋ねましたが、回復の道はなく、彼は失意のあまり、身体の健康をも害してしまいました。そして、医師の勧めで転地療養することになりました。彼は自分に絶望しました。そして、その時、心が貧しくなったのです。
この時、彼は悔い改めキリストを信じました。
キリストを信じたビビアン氏は、教会堂建築の費用を全額、献金したり、自分が経営する会社の工場には、社員のための伝道館を建て、牧師を招きました。
さらに、彼は世界旅行の時に見た、フランス、ドイツ、スペイン、ロシア、日本、カナダ、南アフリカ、南アメリカの各地で、幾百万の鉱山労働者とその家族の悲惨、霊的な暗黒状態(その日その日を唯暮らしている)を思い起こしました。
そして、彼はそこに重荷を感じて、全財産を投じて、1906年(明治39年)、今から103年前に、グリーン・ビビアン・マイナーズ・ミッション(ビビアン鉱山労働者伝道団)を設立したのです。(これは国際的なもので、今でも数か国の鉱山労働者と金属労働者とその家族のためにその働きは、続けられているそうです。)
そして、このグリーン・ビビアン氏の創設したマイナーズ・ミッションの働きが、1907年に、日本の栃木県の足尾にもたらされたのです。当時足尾は、銅を産出する鉱山として、活気があり、沢山の労働者が集まっていました。鉱毒事件もありましたが、このマイナーズ・ミッションの足尾のおける伝道の働きは進展しました。1908年に鉱山伝道団・足尾教会の会堂が建設されました。(これが、今の福音伝道教教団の足尾キリスト教会)
そして、日本の宣教のために来日していた、一人の婦人室教師が、この働きを足尾に見に来たです。この婦人宣教師がイギリス人宣教師M.A.バ∵ネット師です(福音伝道教団の創設者)。バーネット師は、足尾に来て、重荷が与えられました。このマイナーズ・ミッションの足尾の働きを引き継ぐ決心をしたのです。
そしてさらに、バーネット師は、足尾町、大間々町、境町、太田などに伝道の重荷が与えられたのです。そして、バーネット宣教師は当時日本伝道隊におりました、舟喜麟一牧師(舟書信先生のお父さん)らとともに、群馬、埼玉、栃木県の日本の内陸部3県の田舎町の開拓伝道のために、(1927年に)福音伝道協会を設立したのです。これが今の福音伝道教団となりました。
つまり、福音伝道教団は、グリーン・ビビアン・マイナーズ・ミッションの働きと伝道があったからこそ、生まれたと言っても良いのです。足尾でのマイナーズ・ミッションの働きとがあったからこそ、バーネット師は群馬に伝道を開始したのです。
福音伝道教団は(足利教会もそうですが)バーネット宣教師は創設者のは違いないのですが、実は、さかのぼれば、イギリスの一人の実業家が盲目になり、その心が貧しくなったことによって、すなわち、グリーン・ビビアン氏の心が貧しくなったことによって生まれたと言っても過言ではないでしょう。
このグリーン・ビビアン・マイナーズ・ミッション(ビビアン鉱山労働者伝道団)が設立されてから、4年目に彼は天に召されました。しかし、彼の日本の足尾での働きは、バーネット師に引き継がれ、福音伝道教団が生み出され、そして、多くの人々の救いにつながりました。私の信仰の源流も、ここにあると言えます。
マタイ5:3心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。
イエス・キリストは神の御子であったのに、その天の御座を捨てて、私たちの所に来て下さいました。しかも、私たちのかたくな心、罪の身代わりとして、十字架について死んでくださいました。
2コリント8:9 あなたがたは、私たちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は富んでおられたのに、あなたがたのために貧しくなられました。それは、あなたがたが、キリストの貧しさによって富む者となるためです。
主イエスを心に信じ迎え入れるとき、人は益々心の貧しい者とされるのです。そして、その人は天国の市民としてふさわしい者とされるのです。
マタイ5:3心の貧しい寺は幸いです。天の御国はその人のものだからです。
そして、心の貧しい人こそ、神の国を持つ、豊かな人、本当に幸福な人なのです。
アーメン。