荒野に花を咲かせる人に
本日は、特に、このマルコの福音書の1章12,13節を学びたいと思います。ここは、40日間の荒れ野での試練に耐えられた、主イエスについて語られています。
さて、イエスは、公生涯を開始されたとき、まず、洗礼者ヨハネから、ヨルダン川で洗礼受けられました。
このイエスの洗礼の意味は、「これは,わたしの愛する子,わたしはこれを喜ぶ」(1:17)という天からの声に現されていました。すなわち、これは、イエスが王であり、神の子である事実を人々に明らかにする神の宣言でありますが、それはイザヤ42:1の苦難と共に人々の罪を担う「主のしもべ」を想起させるものであり、イエスの洗礼は、イエスは王であり神の子でありながら、罪人の一人に数えられ「苦難のしもべ」として、公生涯を歩み始めたことを現すものでした。(そして、私たちの模範としての洗礼の意味もあります)。
次に、驚くべきことが、記されています。洗礼を受けられたイエスは、次に、荒野に導かれ、そこに40日40夜とどまりまして、なんと、サタンの誘惑を受けられます。
マルコ1:12 そしてすぐ、御霊はイエスを荒野に追いやられた。
1:13 イエスは四十日間荒野にいて、サタンの誘惑を受けられた。野の獣とともにおられたが、御使いたちがイエスに仕えていた。
このイエスが、荒野で悪魔の試みを受けられたという記事は、マタイとルカの福音書にもありますが、ルコは自分の立場から、この主イエスの荒野の誘惑の、一番大事なこと点は何か、イエスの戦いの中心は何かを、きわめて簡潔に書き記していると思います。
12節に「マルコ 1: 12 そしてすぐ、御霊はイエスを荒野に追いやられた。」とあります。・・まず、マルコが最も言いたいことは、イエスが洗礼者ヨハネから、洗礼を受けられるとすぐに、聖霊によって、イエスは、「荒野」に導かれたということです。しかも、そこで40日40夜を過ごすことになる。
イエスは、公生涯を始めたとき、まず、40日間、だれもいない荒野に行って、そこで過ごしたのです。しかも、マタイの福音書を見ますと、この40日間、イエスは間断食し、何も食べなかったのです。
なぜ、神の御子が公生涯を始められてすぐ、荒野で40日間も過ごさなければならなかったのでしょうか。そのことには、どんな意味があるのでしょうか。
荒野とは何か
さて、この「荒野」と訳されております言葉は、「人の住んでいない、寂しい、荒涼とした所」という意味がありますが、ここに用いられているギリシア語の言葉は、もとは、「捨てる」という意味の言葉から来ているようです。
「捨てる」、だから、荒れ野とは、捨てられた野ということです。捨てられて、人が住んでもいないところが、荒れ地になるのです。人がいないのです。人に捨てられているところなのです。
日本の地形には、本来、荒野は、ほとんどありません。緑豊かで、水も豊富です。
しかし、イスラエルや中東諸国では、荒野が沢山あります。
緑もない、岩と石、砂の世界です。
荒涼とした世界です。
また、自然界の荒れ野にまさる「人間のつくる荒れ野」もあります。
チェルノブイリ原発事故跡の視察の記事
チェルノブイリ原発の作業員ら5万人が暮らした旧ソ連(現ウクライナ)のプリピャチ市。ホテルや住居はガラスが破られ、室内に家財が散乱していた。事故5日後にオープン予定だった市中央部の遊園地では観覧車がさびつき、20台のゴンドラを風が揺らす。
旧ソ連政府は原発事故発生後、プリピャチを含む周辺の汚染地域を「ゾーン」と呼ぶ立ち入り規制区域に指定し、11万6000人を強制移住させた。ソ連崩壊後、ウクライナ、ベラルーシ両国は住民の帰還を目指し、公共施設などの一部で除染に取り組んだ。しかし、効果的な手法を確立することはできず時間と予算だけが費やされたという。
植物を植えて土壌中の放射性物質を吸い上げる方法も実践されたが、効果は見られなかった。マチは荒野に変わり果てた。
住民の強制移住で無人となった168の村の名を記したプレートが今春、チェルノブイリ市の中央広場に立てられた。
視察した川内村の遠藤雄幸村長は、在ウクライナ大使館職員から立て札の意味を説明され青ざめた。人ごとではないと感じた。
被災地ルポ 南相馬市 車や通行人の姿なし 残っても生活できない
市内では人口7万人のうち、1万数千人はまだ残っているとみられる。しかし、市内で営業している店舗は数店だけだ。
市によると、ガソリン、灯油などは入りつつあるものの、従業員が避難しているため数店しか営業できないという。こうした中、食肉のニューさいとうは3日続けて営業し、肉や揚げ物を買い求める客に応えた。店舗だけでなく、市内の自動販売機の大半はスイッチが切られている。車や通行人の姿はほとんど見られない。さらに、人が居ない家で、多くの盗難があったとのこと。
人の住まない荒野が、日本にもあるのです。
さて、神が天地創造をされた、最初の段階では、最初の人、アダムとエバは、荒野に住んでいたのではありません。ご承知のとおり、神が人のために用意された、すばらしい楽園、エデンの園におかれました。
人が荒野に住むと言うことは、神の計画ではなかったことです。
人は、エデンの園から追放されて、荒野をさまよう、用になったのです。
なぜでしょうか。
創世記に、神は天地をお造りになり、野の獣も造り、最初の人、アダムとエバをお造りになった。そのとき、人は、野の獣と共に生き、人と獣とが、共に仲良く生きていた。
ところが、蛇をあやつるサタン(悪魔)が蛇の姿でやってきた。そして、神が食べてはいけない死ぬから、と言われた「善悪の知識の木」の実を食べれば、あなたがたは神さまのように、賢くなる、食べても死なない、とそそのかした。
つまり、神様に従うわないで、自分の自由に、意のままに生きることができる、と誘惑した。神さまなんかいらなくなる。これが、人間の心を喜ばせた。そして、エバが最初に、そして、一緒にいた、アダムも、その実を食べた。
その結果、人間はパラダイスのエデンの園から追われた。いばらの地、荒れ野の生活が、そこから始まったのです。そして、人と人、獣と人の仲違いが始まった。
そもそも、「荒野」は、人間の罪が、作り出してしまったものなのです。
神さまなんかいらないと思い、自分たちは、十分に賢いのだと思い込み、自分たちが自然を含む世界を、征服できるものと信じる。自分たちと戦う獣などは殺し、おいしい肉はたべ、自分たちに、役に立つ自然は用い尽くすし、邪魔する自然は、破壊する、できると思うようになった。その結果、そこは、荒野となった。
原発の問題も同じではないでしょうか。
神さまなんかいらないと思い、自分たちは、十分に賢いのだと思い込み、自分たちが自然を含む世界を、征服できるものと信じる
思いのままになる、何でもして良い、その結果、そこには、荒野が残るのみです。
ですから、荒野と言うのは、神が最初に造った荒野は、問題がなかったのです。問題は、人の心の中の神に逆らう罪の荒野が、自然界に人に、生きるのに辛い、荒野をもたらしたと言えるでしょう。
荒野は、自然界だけでなく、人の中にあります。神に従うことをやめ、サタンのことばに従って、自分の人生は、自分が思いどうりに生きられると、思う、それが、たいえhん、真面目な来方であっても、その人は、「荒野のような人間」であると、言って良いでしょう。
「荒野のような人間」とは、
荒れ野のように人に、捨てられている人という意味です。他の人びとに顧みられない人、孤独な人、という意味であります。
今、日本では毎年2万人余の自殺者が30年続き、3万人余の自殺者がここ8年連続しているのです。
なぜ、でしょうか。それは、本人の意思とは反対に、病気が、そうさせてしまう、ということもありますから、一概に言えませんが、しかし、これだけ、文化、文明、科学、技術、医学、などが、発達した日本で、これが起きている。
日本には、荒野が多いのでは、ないでしょうか。荒野では、人は生きられないのです。
人間にも、緑の牧場が必要です。
神を見失う人生が、いかに「荒野のような人」になってしまうかを示しているのではないでしょうか。
さて、マルコは、イエスが洗礼を受けられたあと、どうしたかと言うと、
マルコ1:12 そしてすぐ、御霊はイエスを荒野に追いやられた。
とあります。
聖霊が、イエスを、エデンの園ではなく、荒野に、追いやったのです。
なぜでしょうか。
イエスは、私たちの真の救い主として、人々が、追いやられた、荒野を経験すつ必要があったからです。
私たちが経験している、荒野の生活を、経験し、そして、私たちの代表として、その荒野に勝利する、必要があったからでしょう。
ですから、主イエスが荒野に導かれたのは、自然界の荒れ野にまさる「人間のつくる荒れ野」に、ご自身をさらしたのだ、考えて良いと思います。
神を失った者がどんなにすさむかということを、荒野で味わったと言えるのではないかと思います。
だからこそ、そのあとで、イエスは、1:15 「時が満ち、神の国は近くなった。悔い改めて福音を信じなさい。」」と、救霊の情熱を持って、人が、罪の荒野から、救い出される道を、大声で、述べ伝えた。宣教を開始したのです。
さて、主イエスは荒野に導かれ、そこでただ断食して、40日間過ごされたのではありませんでした。荒野で、サタンからの誘惑を受けたのです。
1:13 イエスは四十日間荒野にいて、サタンの誘惑を受けられた。
最初の人、アダムとエバも、エデンの園で、サタンの誘惑を受けました。
イエスも、福音宣教に先だって、サタンの誘惑を受けられたのです。
イエスは、この荒れ野において、サタンから三つの誘惑を受けました。サタンはの誘惑をして、イエスを試みました。(誘惑=試)。
第1の誘惑は、「この石がパンになるように,命じなさい」と誘う。自らの飢えを解決し、飢えている人々を助けるなら、メシヤとしての使命を容易に達成出来るではないかと、味方を装って勧めたのです。それに対して、イエスは、「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる。』と書いてある。」と、聖書の言葉で返しました。
次に、悪魔はイエスを聖なる都エルサレムに連れて行き、神殿の頂に立たせて、「あなたが神の子なら、下に身を投げてみなさい。」と奇跡の力で、メシヤになる誘いをします。これにも、イエスは、「『あなたの神である主を試みてはならない。』とも書いてある。」という、聖書の言葉で返しました。
第3の誘惑、サタンは、「もしひれ伏して私を拝むなら、(この世の栄華、権力)を全部あなたに差し上げましょう。」と、富と権力によってメシヤになるように誘います。イエスは、「引き下がれ、サタン。『あなたの神である主を拝み、主にだけ仕えよ。』と書いてある。」と行って、悪魔を撃退しました。
この3つの誘惑の意味は、悪魔の目的は、何だったなんだか。
それは、悪魔は、イエスに、神に従うことをやめて、イエス自身が世界を思いどうりにするよう、誘惑したのです。アダムとエバの誘惑と良く似ています。
サタンのイエスへの誘惑は、全人類にとって、大きな危機でそた。それは、十字架の道を避けて、メシヤ(救い主)になれる方法を示したのです。すなわち、悪魔は、イエスの十字架による、人類の救いの計画を台無しにしようとしたのです。
そして、最終的には、イエスを父なる神にではなく、自分に(サタンに)仕えさせようとしたとのです。
最初の人、アダムとエバは、自分が神のようになれるという、サタンの誘惑に勝利することができませんでした。
荒野に花を咲かせてくださったお方
しかし、イエスは、勝利しました。40日40夜の、荒野での試練、悪魔の試みに、聖書のみことばを信頼することによって、勝利してくださいました。
そして、全人類の救いの道、福音宣教を開始してくださったのです。
1:15 「時が満ち、神の国は近くなった。悔い改めて福音を信じなさい。」
だから、今日、私たちは、イエスの福音を聞くことができ、そして、イエスの福音を信じて、救えわれることができる。死でなく、いのちへ、移される。
私たちの魂は、永遠のいのちを、いただいて、死んでも生きる者となれたのです。
シャローム・パラダイス=英安の園、天国へ入れる者となれたのです。
さらに、荒野でのイエスの勝利は、イエスを信じる私たちの、荒野の心が、花園に変えられることを意味しています、すなわち、イエスは、荒野に花を咲かせてくださった、ということです。
そのことを、イザヤは、イエス誕生の700年前に預言して、こう言いました。
イザヤ 35: 1 荒野と砂漠は楽しみ、荒地は喜び、サフランのように花を咲かせる。
このために、イエスは、聖霊に導かれ、荒野に身をさらし、さらに、サタンの試みを、受けられ、勝利してくださったのです。
主イエスが、荒野に身をさらし、サタンの誘惑、試練に耐えてくださってことを、思いめぐらしましょう。主イエスが、荒野に身をさらし、サタンの誘惑、試練に勝利してくださったことを、感謝しましょう。
イエスは、私たちの荒野の人生に、種をまき、花を育ててくださっているのです。
1:15 「時が満ち、神の国は近くなった。悔い改めて福音を信じなさい。」
このイエスの福音(十字架と復活)を信じるとき、私たちの人生の荒野に、イエスは花を咲かせてくださるのです。
現代の社会は、決してエデンの園ではないでしょう。荒野のようなところです。でも、荒野で勝利されたイエスと一緒なら、そこに種をまき、花を咲かせこともできるということなのです。
私たちは、自分の生き方で、その荒野を広げてしまうこともできれば、その荒野に花をもたらす人にもなれるのです。
まずは、私たちの家族の中に、また、周りにいる、孤独な人、自分は捨てられていると思っている人、痛みをもっている人、その人に優しく声をかけ、祈り、福音を伝え、少しでも慰めを与えることができるなら、荒野に花を咲かせる人にもなれる、と言うことではないでしょうか。
マルコ1:12 そしてすぐ、御霊はイエスを荒野に追いやられた。
1:13 イエスは四十日間荒野にいて、サタンの誘惑を受けられた。野の獣とともにおられたが、御使いたちがイエスに仕えていた。
イザヤ 35: 1 荒野と砂漠は楽しみ、荒地は喜び、サフランのように花を咲かせる。
アーメン。
本日は、特に、このマルコの福音書の1章12,13節を学びたいと思います。ここは、40日間の荒れ野での試練に耐えられた、主イエスについて語られています。
さて、イエスは、公生涯を開始されたとき、まず、洗礼者ヨハネから、ヨルダン川で洗礼受けられました。
このイエスの洗礼の意味は、「これは,わたしの愛する子,わたしはこれを喜ぶ」(1:17)という天からの声に現されていました。すなわち、これは、イエスが王であり、神の子である事実を人々に明らかにする神の宣言でありますが、それはイザヤ42:1の苦難と共に人々の罪を担う「主のしもべ」を想起させるものであり、イエスの洗礼は、イエスは王であり神の子でありながら、罪人の一人に数えられ「苦難のしもべ」として、公生涯を歩み始めたことを現すものでした。(そして、私たちの模範としての洗礼の意味もあります)。
次に、驚くべきことが、記されています。洗礼を受けられたイエスは、次に、荒野に導かれ、そこに40日40夜とどまりまして、なんと、サタンの誘惑を受けられます。
マルコ1:12 そしてすぐ、御霊はイエスを荒野に追いやられた。
1:13 イエスは四十日間荒野にいて、サタンの誘惑を受けられた。野の獣とともにおられたが、御使いたちがイエスに仕えていた。
このイエスが、荒野で悪魔の試みを受けられたという記事は、マタイとルカの福音書にもありますが、ルコは自分の立場から、この主イエスの荒野の誘惑の、一番大事なこと点は何か、イエスの戦いの中心は何かを、きわめて簡潔に書き記していると思います。
12節に「マルコ 1: 12 そしてすぐ、御霊はイエスを荒野に追いやられた。」とあります。・・まず、マルコが最も言いたいことは、イエスが洗礼者ヨハネから、洗礼を受けられるとすぐに、聖霊によって、イエスは、「荒野」に導かれたということです。しかも、そこで40日40夜を過ごすことになる。
イエスは、公生涯を始めたとき、まず、40日間、だれもいない荒野に行って、そこで過ごしたのです。しかも、マタイの福音書を見ますと、この40日間、イエスは間断食し、何も食べなかったのです。
なぜ、神の御子が公生涯を始められてすぐ、荒野で40日間も過ごさなければならなかったのでしょうか。そのことには、どんな意味があるのでしょうか。
荒野とは何か
さて、この「荒野」と訳されております言葉は、「人の住んでいない、寂しい、荒涼とした所」という意味がありますが、ここに用いられているギリシア語の言葉は、もとは、「捨てる」という意味の言葉から来ているようです。
「捨てる」、だから、荒れ野とは、捨てられた野ということです。捨てられて、人が住んでもいないところが、荒れ地になるのです。人がいないのです。人に捨てられているところなのです。
日本の地形には、本来、荒野は、ほとんどありません。緑豊かで、水も豊富です。
しかし、イスラエルや中東諸国では、荒野が沢山あります。
緑もない、岩と石、砂の世界です。
荒涼とした世界です。
また、自然界の荒れ野にまさる「人間のつくる荒れ野」もあります。
チェルノブイリ原発事故跡の視察の記事
チェルノブイリ原発の作業員ら5万人が暮らした旧ソ連(現ウクライナ)のプリピャチ市。ホテルや住居はガラスが破られ、室内に家財が散乱していた。事故5日後にオープン予定だった市中央部の遊園地では観覧車がさびつき、20台のゴンドラを風が揺らす。
旧ソ連政府は原発事故発生後、プリピャチを含む周辺の汚染地域を「ゾーン」と呼ぶ立ち入り規制区域に指定し、11万6000人を強制移住させた。ソ連崩壊後、ウクライナ、ベラルーシ両国は住民の帰還を目指し、公共施設などの一部で除染に取り組んだ。しかし、効果的な手法を確立することはできず時間と予算だけが費やされたという。
植物を植えて土壌中の放射性物質を吸い上げる方法も実践されたが、効果は見られなかった。マチは荒野に変わり果てた。
住民の強制移住で無人となった168の村の名を記したプレートが今春、チェルノブイリ市の中央広場に立てられた。
視察した川内村の遠藤雄幸村長は、在ウクライナ大使館職員から立て札の意味を説明され青ざめた。人ごとではないと感じた。
被災地ルポ 南相馬市 車や通行人の姿なし 残っても生活できない
市内では人口7万人のうち、1万数千人はまだ残っているとみられる。しかし、市内で営業している店舗は数店だけだ。
市によると、ガソリン、灯油などは入りつつあるものの、従業員が避難しているため数店しか営業できないという。こうした中、食肉のニューさいとうは3日続けて営業し、肉や揚げ物を買い求める客に応えた。店舗だけでなく、市内の自動販売機の大半はスイッチが切られている。車や通行人の姿はほとんど見られない。さらに、人が居ない家で、多くの盗難があったとのこと。
人の住まない荒野が、日本にもあるのです。
さて、神が天地創造をされた、最初の段階では、最初の人、アダムとエバは、荒野に住んでいたのではありません。ご承知のとおり、神が人のために用意された、すばらしい楽園、エデンの園におかれました。
人が荒野に住むと言うことは、神の計画ではなかったことです。
人は、エデンの園から追放されて、荒野をさまよう、用になったのです。
なぜでしょうか。
創世記に、神は天地をお造りになり、野の獣も造り、最初の人、アダムとエバをお造りになった。そのとき、人は、野の獣と共に生き、人と獣とが、共に仲良く生きていた。
ところが、蛇をあやつるサタン(悪魔)が蛇の姿でやってきた。そして、神が食べてはいけない死ぬから、と言われた「善悪の知識の木」の実を食べれば、あなたがたは神さまのように、賢くなる、食べても死なない、とそそのかした。
つまり、神様に従うわないで、自分の自由に、意のままに生きることができる、と誘惑した。神さまなんかいらなくなる。これが、人間の心を喜ばせた。そして、エバが最初に、そして、一緒にいた、アダムも、その実を食べた。
その結果、人間はパラダイスのエデンの園から追われた。いばらの地、荒れ野の生活が、そこから始まったのです。そして、人と人、獣と人の仲違いが始まった。
そもそも、「荒野」は、人間の罪が、作り出してしまったものなのです。
神さまなんかいらないと思い、自分たちは、十分に賢いのだと思い込み、自分たちが自然を含む世界を、征服できるものと信じる。自分たちと戦う獣などは殺し、おいしい肉はたべ、自分たちに、役に立つ自然は用い尽くすし、邪魔する自然は、破壊する、できると思うようになった。その結果、そこは、荒野となった。
原発の問題も同じではないでしょうか。
神さまなんかいらないと思い、自分たちは、十分に賢いのだと思い込み、自分たちが自然を含む世界を、征服できるものと信じる
思いのままになる、何でもして良い、その結果、そこには、荒野が残るのみです。
ですから、荒野と言うのは、神が最初に造った荒野は、問題がなかったのです。問題は、人の心の中の神に逆らう罪の荒野が、自然界に人に、生きるのに辛い、荒野をもたらしたと言えるでしょう。
荒野は、自然界だけでなく、人の中にあります。神に従うことをやめ、サタンのことばに従って、自分の人生は、自分が思いどうりに生きられると、思う、それが、たいえhん、真面目な来方であっても、その人は、「荒野のような人間」であると、言って良いでしょう。
「荒野のような人間」とは、
荒れ野のように人に、捨てられている人という意味です。他の人びとに顧みられない人、孤独な人、という意味であります。
今、日本では毎年2万人余の自殺者が30年続き、3万人余の自殺者がここ8年連続しているのです。
なぜ、でしょうか。それは、本人の意思とは反対に、病気が、そうさせてしまう、ということもありますから、一概に言えませんが、しかし、これだけ、文化、文明、科学、技術、医学、などが、発達した日本で、これが起きている。
日本には、荒野が多いのでは、ないでしょうか。荒野では、人は生きられないのです。
人間にも、緑の牧場が必要です。
神を見失う人生が、いかに「荒野のような人」になってしまうかを示しているのではないでしょうか。
さて、マルコは、イエスが洗礼を受けられたあと、どうしたかと言うと、
マルコ1:12 そしてすぐ、御霊はイエスを荒野に追いやられた。
とあります。
聖霊が、イエスを、エデンの園ではなく、荒野に、追いやったのです。
なぜでしょうか。
イエスは、私たちの真の救い主として、人々が、追いやられた、荒野を経験すつ必要があったからです。
私たちが経験している、荒野の生活を、経験し、そして、私たちの代表として、その荒野に勝利する、必要があったからでしょう。
ですから、主イエスが荒野に導かれたのは、自然界の荒れ野にまさる「人間のつくる荒れ野」に、ご自身をさらしたのだ、考えて良いと思います。
神を失った者がどんなにすさむかということを、荒野で味わったと言えるのではないかと思います。
だからこそ、そのあとで、イエスは、1:15 「時が満ち、神の国は近くなった。悔い改めて福音を信じなさい。」」と、救霊の情熱を持って、人が、罪の荒野から、救い出される道を、大声で、述べ伝えた。宣教を開始したのです。
さて、主イエスは荒野に導かれ、そこでただ断食して、40日間過ごされたのではありませんでした。荒野で、サタンからの誘惑を受けたのです。
1:13 イエスは四十日間荒野にいて、サタンの誘惑を受けられた。
最初の人、アダムとエバも、エデンの園で、サタンの誘惑を受けました。
イエスも、福音宣教に先だって、サタンの誘惑を受けられたのです。
イエスは、この荒れ野において、サタンから三つの誘惑を受けました。サタンはの誘惑をして、イエスを試みました。(誘惑=試)。
第1の誘惑は、「この石がパンになるように,命じなさい」と誘う。自らの飢えを解決し、飢えている人々を助けるなら、メシヤとしての使命を容易に達成出来るではないかと、味方を装って勧めたのです。それに対して、イエスは、「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる。』と書いてある。」と、聖書の言葉で返しました。
次に、悪魔はイエスを聖なる都エルサレムに連れて行き、神殿の頂に立たせて、「あなたが神の子なら、下に身を投げてみなさい。」と奇跡の力で、メシヤになる誘いをします。これにも、イエスは、「『あなたの神である主を試みてはならない。』とも書いてある。」という、聖書の言葉で返しました。
第3の誘惑、サタンは、「もしひれ伏して私を拝むなら、(この世の栄華、権力)を全部あなたに差し上げましょう。」と、富と権力によってメシヤになるように誘います。イエスは、「引き下がれ、サタン。『あなたの神である主を拝み、主にだけ仕えよ。』と書いてある。」と行って、悪魔を撃退しました。
この3つの誘惑の意味は、悪魔の目的は、何だったなんだか。
それは、悪魔は、イエスに、神に従うことをやめて、イエス自身が世界を思いどうりにするよう、誘惑したのです。アダムとエバの誘惑と良く似ています。
サタンのイエスへの誘惑は、全人類にとって、大きな危機でそた。それは、十字架の道を避けて、メシヤ(救い主)になれる方法を示したのです。すなわち、悪魔は、イエスの十字架による、人類の救いの計画を台無しにしようとしたのです。
そして、最終的には、イエスを父なる神にではなく、自分に(サタンに)仕えさせようとしたとのです。
最初の人、アダムとエバは、自分が神のようになれるという、サタンの誘惑に勝利することができませんでした。
荒野に花を咲かせてくださったお方
しかし、イエスは、勝利しました。40日40夜の、荒野での試練、悪魔の試みに、聖書のみことばを信頼することによって、勝利してくださいました。
そして、全人類の救いの道、福音宣教を開始してくださったのです。
1:15 「時が満ち、神の国は近くなった。悔い改めて福音を信じなさい。」
だから、今日、私たちは、イエスの福音を聞くことができ、そして、イエスの福音を信じて、救えわれることができる。死でなく、いのちへ、移される。
私たちの魂は、永遠のいのちを、いただいて、死んでも生きる者となれたのです。
シャローム・パラダイス=英安の園、天国へ入れる者となれたのです。
さらに、荒野でのイエスの勝利は、イエスを信じる私たちの、荒野の心が、花園に変えられることを意味しています、すなわち、イエスは、荒野に花を咲かせてくださった、ということです。
そのことを、イザヤは、イエス誕生の700年前に預言して、こう言いました。
イザヤ 35: 1 荒野と砂漠は楽しみ、荒地は喜び、サフランのように花を咲かせる。
このために、イエスは、聖霊に導かれ、荒野に身をさらし、さらに、サタンの試みを、受けられ、勝利してくださったのです。
主イエスが、荒野に身をさらし、サタンの誘惑、試練に耐えてくださってことを、思いめぐらしましょう。主イエスが、荒野に身をさらし、サタンの誘惑、試練に勝利してくださったことを、感謝しましょう。
イエスは、私たちの荒野の人生に、種をまき、花を育ててくださっているのです。
1:15 「時が満ち、神の国は近くなった。悔い改めて福音を信じなさい。」
このイエスの福音(十字架と復活)を信じるとき、私たちの人生の荒野に、イエスは花を咲かせてくださるのです。
現代の社会は、決してエデンの園ではないでしょう。荒野のようなところです。でも、荒野で勝利されたイエスと一緒なら、そこに種をまき、花を咲かせこともできるということなのです。
私たちは、自分の生き方で、その荒野を広げてしまうこともできれば、その荒野に花をもたらす人にもなれるのです。
まずは、私たちの家族の中に、また、周りにいる、孤独な人、自分は捨てられていると思っている人、痛みをもっている人、その人に優しく声をかけ、祈り、福音を伝え、少しでも慰めを与えることができるなら、荒野に花を咲かせる人にもなれる、と言うことではないでしょうか。
マルコ1:12 そしてすぐ、御霊はイエスを荒野に追いやられた。
1:13 イエスは四十日間荒野にいて、サタンの誘惑を受けられた。野の獣とともにおられたが、御使いたちがイエスに仕えていた。
イザヤ 35: 1 荒野と砂漠は楽しみ、荒地は喜び、サフランのように花を咲かせる。
アーメン。