人知を越えたキリストの愛 

2012-08-25 | 牧師の窓
人知を越えたキリストの愛   



8月も、いよいよ、今週で終わります。
8月は、暑いので、毎月のゴスペルや賛美歌を歌う会をお休みにして、少し、身体を休めてもらおうと思っていましたが、また、私自身も、少し、休みたかった、というのもありますが、休むどころか、むしろ、8月は、

8月第1週、5日(日)には、米田さんを招いての礼拝、そして、チャリティー・コンサートがあり、また、第2週は、12日に、打ち合せや祈りあり、15日~16日まで、チャイルド・パラダイス・プロジェクトの実施、これは、3日間あり、みなさんも、かなり疲れたと思います。
そして、第3週は、千田先生をお招きしての特別礼拝、そして、午後のオープンチャーチでの学び会、と続きました。

そして、本日が、第4主日礼拝です。
8月は、暑くて休むというより、むしろ、より多くの奉仕をささげた月になったのではないかと、思います。
皆さんも、この8月には、多くの時間と力をささげ、祈りに励み、労してくださったと思います。その労苦に対して、心から、感謝を申し上げたいと思います。ありがとうございました。

特に、チャイルド・パラダイス・プロジェクトの実施は、全員が初めての経験で、かなり、疲れたと思います。

さらに、8月は、教会に来ている男性ののお父さんの事故のことがあり、危機感を感じたこともあります。
私の母も、チャイルド・パラダイス・プロジェクトのあと、すぐに、入院したり、また、「胃ろう」の手術があったりと、いろいろ、ありました。

この8月は、労苦の多い、また、とても霊的な戦いの激しい月だったと思います。
しかし振り返ってみると、市川さんのお父さんの事故のことでは、みんなで心を合わせて、真剣に祈ることを、体験し、そして、意識不明の重体が、翌日には、意識が戻り、4日後には、退院して通院で良くなるとは、本当に、驚くべき、主のみわざを、拝させていただきました。

米田さんのコンサートも、私たちも恵まれましたし、また、千田先生の礼拝メッセージ、午後の学び会では、本当に多くの恵みをいただきました。

振り返ってみると、この8月は、霊的戦いの激しい月でしたが、主の恵みもまた、大きな月だったと思います。
「数えてみよ主の恵み」という賛美歌がありますが、あれも恵み、これも恵みと、言えるのではないかと、思います。
この8月の恵み、霊的戦いを振りかって見るとき、そこには、主が、私たちに語らろうとしていること、また、教えようとしてることが、示されてくるように思います。

そして、その主の教えは、エペソ教会の人々に対する、パウロの祈りの中に、示されているように思います。
このエペソ3:14-21は、パウロの祈りが書かています。
エペソ 3:14 こういうわけで、私はひざをかがめて、
エペソ 3:15 天上と地上で家族と呼ばれるすべてのものの名の元である父の前に祈ります。
このパウロの祈りは、とても真剣な、力強い祈りです。ユダヤ人は、もともとは、立って祈るのが普通でした。(これも主の前に立つ、と言う意識があってよい)。しかし、ここでパウロは、ひざまづいて、祈ると言っています。
「私はひざをかがめて・・父の前に祈ります」
これは、真剣さがでています。イエス様も、十字架を前にして、その前の夜に、ゲッセマネの園で、ひざまづいて祈りました。

ここでのパウロの真剣な、一生懸命の祈り、願いは、どんなものだったのでしょう。それは、イエスを信じる者の、生活での困難な戦いでの、勝利の秘訣でもありますが。

その秘訣は、こうです。16節を見てください。
エペソ3:16 どうか父が、その栄光の豊かさに従い、御霊により、力をもって、あなたがたの内なる人を強くしてくださいますように。

「あなたがたの内なる人を強くしてくださいますように」
クリスチャン生活を強めるために、必要不可欠なことは、私たちの内なる人が、強められることです。
「内なる人」とは、私たちの心であり、意志であり、たましい=霊です。これは、人格の最も深い部分であり、霊的な戦いの勝利には、ここが、強くなること、強められることが不可欠なのです。

そのためには、どうしたらよいか。
第1に、それは、私たち信じる者に働く、神のすぐれた力によって、強められることであり、そして、聖霊によって、強められることだと、パウロは言います。
「御霊により、力をもって、あなたがたの内なる人を強くしてくださいますように」と。
パウロは、エペソ1章では、
エペソ1:19 また、神の全能の力の働きによって、私たち信じる者に働く、神のすぐれた力が、どのように偉大なものであるかを、あなたがたが知ることができますように。
と祈っていますし、エペソ6章の方では、
エペソ6:10 終わりに言います。主にあって、その大能の力によって強められなさい。 と言っています。
キリストを信じる者は「神の全能の力」「その大能の力」によって、強められると言っています。

「神の全能の力」「その大能の力」とは、それは、キリストを死者の中からよみがえらせた力だと、聖書は言っています。この復活の力が、弱い私たちを強めてくださる、というのです。
ですから、私たちは、自分の力にたのまず、また、自分の弱さに落胆する前に、この神の全能の力、大能の力によって強められることを、祈り求めるなら、私たちの内なる人、は強められ、力が与えられるのです。

さらに、また私たちの内なる人が、強められ、力が与えられる秘訣は、聖霊を、内なる人にいただくことにあると、パウロは言います。
「御霊により、力をもって、あなたがたの内なる人を強くしてくださいますように」と。

誰でも、自分の罪を悔い改め、イエス・キリストを信じるときに、その人の内なる人に、聖霊が宿ります。私たちの身体が聖霊の宮となるのです。そして、この聖霊が、私たちの内なる人を、強くしてくださるのです。
2テモテ1: 7 神が私たちに与えてくださったものは、おくびょうの霊ではなく、力と愛と慎みとの霊です。
そして、それは、別の視点から見ると、イエス・キリストが、内なる人に、住んでくださることと同じなのです。
だから、パウロは、17節でこう言っています。
エペソ3:17 こうしてキリストが、あなたがたの信仰によって、あなたがたの心のうちに住んでいてくださいますように。

心にキリストが内住されることと、内なる人に入ってこられる聖霊によって強められることは、二つの別々な体験ではないのです。同じ体験です。

すなわち、人がイエスを信じる時、その「内なる人」、人格の最も深い部分に、聖霊がご自身の住まいを見つけ、そして、キリストも内住し、そこからその人全体を変えていかれるのです。

すでに、イエスを信じている人は、その内なる人に、聖霊と、キリストが内住していると、信じてよいのです。
エペソ3:17 こうしてキリストが、あなたがたの信仰によって、あなたがたの心のうちに住んでいてくださいますように。
信仰とは、これを信じ続けることです。
そして、その内住のキリストと聖霊が、私たちに神の全能の力、大能の力をもたらし、弱い私たちを強くしてくださるのです。
ですから、これは、大きな恵みです。

さて、私たちが信仰を強くし、心を強くしてもらう、勝利の秘訣の、
その第2の秘訣のは、なんでしょうか。
それは、人知を越えたキリストの愛を知ることだと、パウロは言います。
エペソ 3:19 人知をはるかに越えたキリストの愛を知ることができますように。こうして、神ご自身の満ち満ちたさまにまで、あなたがたが満たされますように。

ここ19節に「人知をはるかに越えたキリストの愛」とあります。パウロは、キリストの愛を知ることこそ、生きる力だと言います。霊的な戦いの激しい信仰者の内なる人を強め、霊的な戦いに勝利する秘訣は、なんといっても、キリストの愛を知ることだと言います。

キリストの愛、すなわち、キリストがどれほど私たちを愛したか、また、今も愛しているか、を知ることです。知ることとは、頭で知識として知るだけではありません。生活の中で、体験し、その愛の、「広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する」ことを意味しています。

キリストがどれほど私たちを愛したか、今も愛しているか、を知ること、これは、自分の心を探り、自分の心の動きに敏感にならねば、知ることができません。つまり、自分は、本当に罪深い人間だなー、とか、自分の罪深さを認めざるを得なくなって、悔い改める必要があることがわかる、こういった、自分の心の動きに敏感になって、初めて、キリストの十字架の重み、私のために、十字架にかかって死んでくださった、その愛の、広さ、長さ、高さ、深さ、を知るに至ります。

とは言っても、やはり、キリストの愛を、すべて知ることは、なかなかできません。ですから、聖書は、矛盾した言い方ですが、「人知をはるかに越えたキリストの愛」と言っているのです。

「人知をはるかに越えた」とは、人が知ることをはるかに越えている、知ることができていない、ということです。つまり、人の知性では理解できない愛だということです。
キリストの愛とは、人が知り、人が思うことよりも、はるかに偉大です。

すなわち、人には悲しみでしかない中にも、人には困難や苦しみとしか思えない中にも、キリストの愛は、現れているということです。
悲しみの中にいるとき、苦しい、困難な中にいる時、悪い状況が少しも良くならない時、私たちは、そこにキリストの愛を、知るとは、到底できません。

しかし、パウロは、そういう時にこそ、「人知をはるかに越えたキリストの愛を知ることができますように」と祈りなさいと、言うのです。
必ず、その時、人知をはるかに越えたキリストの愛を、知ることができるからだと言います。

金沢の金沢独立教会の岡田意先生が、こういう話をしておられます。
昨年のことですが、島崎正冶さんと言うおじいちゃんが、天に召されました。
この方は、キリストを信じる以前、尋常でない厳し試練と苦難を経験してこられた人だった。
初めに、この方の息子の嫁にあたる島崎律子さんと言う人が、キリストを信じたようです。この律子さんが礼拝に出始めた。ですから、キリストの十字架の救い、福音を聞いてはいたのですが、まだ、キリストを信じる前に、律子さんの実家で、大変な経済的困窮する出来事が起きたそうです。
取り返しがつかない損失をこうむった。心が苦しくなった。
そんな中で、礼拝に出ている時、この律子さんの心に、キリストが御手を差し伸べてくれるような感じを持ったそうです。キリストの愛を感じたそうです。
そして、キリストを信じた。
彼女は、祈った。そして、律子さんの心に、人知を越えたキリストの愛と力が、
注がれた。彼女の内なる人は、強められた。

その結果、どうなったか。まず、おしゅとめさん(ご主人のお母さん)が救われ、洗礼を受け、そして、その人生では、尋常でない厳し試練と苦難を経験してこられた、おしゅうとさん(ご主人のお父さん)が救われ、受洗したというのです。

そのおしゅとうとさんの、島崎正冶さんが、昨年、天に召されて、召天式をおこなったが、それは、「人知をはるかに越えたキリストの愛」を証する、召天式であったということです。
その人生では、尋常でない厳し試練と苦難を経験してこられた、おしゅうとさん(ご主人のお父さん)の、島崎正冶さんも、そういう経験が、キリストの愛を否定することにはならなかったのです。

すばらしですね、キリストの愛は。そして、困難の中にこそ、「人知をはるかに越えたキリストの愛」を知ることができるんですね。イエス・キリストは、素晴らしいお方です。

キリストの愛を知る、それは、また、キリストを信じた者が、キリストの愛と力によって、他者を愛するという、行動に出るとき、「人知をはるかに越えたキリストの愛」を、自分も相手も、知ることができるのです。

そして、忘れてはならないことは、愛には、犠牲がともなう、ということです。
今回の、チャイルド・パラダイス・プロジェクトの働きでも、3日にわたって、or2日にわたって、自分の休みを返上して、福島の人たちをお世話してくださいました。そこには、自分の時間をささげる犠牲、思いジュース持って、重いスイカを持って、暑い中を歩いて、運んでいく、ある人は車を出す、ガソリン代を出す、犠牲がともないます。
犠牲のない愛なんてありません。犠牲があるから愛なのです。(久場先生と話しました、今回来た、お母さん方が、私たちのおもてなしを見て、とても感動した、と言っていたそうです。)
しかし、犠牲の愛には、喜びがあるのです。恵みがあるのです。人生が豊かになるのです。

イエス様は、罪の中に死んでいた、私たちを探し出し、そして、死から命へと引き上げ、永遠のいのちを与えて、神の子としてくださった。今や、天の御国を相続する権利まで与えてくださったのです。私たちにそれだけの善い行いがあったからか。それだけ、すばらしい良い人間だからか。いいえ、そうではないのです。
「人知をはるかに越えたキリストの愛」が、私たちに注がれたからです。今も注がれているからです。

私たちは、弱い、力がない、愛がない、しかし、神には、キリストには、全知全能の力があり、人知をはるかに越えた愛があるのです。そして、それは、無限です。売り切れたということはないのです。無限の力、無限の愛です。誰でも、求める人には、与えられるのです。もうないよ、というこうことは、誰も、言われません。

そして、この、全知全能の力があり、人知をはるかに越えた愛が、キリストを信じる人の内なる人に、働くときのこそ、その人を強くし、愛のある人に、造り変えるです。

それは、私たちの思いを越えています。私たちの願いを越えて、与えられる、神が私たちの中に働くと言います。
エペソ3:20 どうか、私たちのうちに働く力によって、私たちの願うところ、思うところのすべてを越えて豊かに施すことのできる方に、

今朝、この私たちの内なる人を強くしてくださる、全知全能の神の力、キリストの力をいただきましょう。そして、「人知をはるかに越えたキリストの愛」をいただきましょう。そのために、こう祈りましょう。
「どうか、天のお父様が、その栄光の豊かさに従い、御霊により、力をもって、私の内なる人を強くしてくださるように。」
「どうか、私が、人知をはるかに越えたキリストの愛を知ることができますように。そして、神ご自身の満ち満ちたさまにまで、弱い私を、あなたの恵みで満たしてください。」と。   アーメン。

キリストが第一となる時、人生が満ち満ちたものに

2012-08-11 | 牧師の窓
キリストが第一となる時、人生が満ち満ちたものに
  


古い本ですが、宗教改革者ジャン・カルヴァンが子供たちのためのキリスト教教育のために書いた『ジュネーブ教会信仰問答』という本があります。これは、子供のために書かれたものですが、しかし、この信仰問答書は、優れたもので、その後、様々な教会で書かれていく信仰問書の基になりました。 

この『ジュネーブ教会信仰問答』の問い1は、「人生の主な目的は何ですか。」と質問し、その答えは、「神を知ることであります。」と答えます。そして、さらに、「神を知ることは、イエス・キリストにおいて知ることです。」と答えていきます。 

人生の目的は、神を知ることであり、イエス・キリストを知ることは、神を知ることだと、カルヴァンは言うのです。
キリストを知ることが大切です。皆さんは、キリストをどれだけ知っていますか。キリストを信仰するには、キリストを良く知らなければなりません。

このコロサイ人への手紙は、パウロが書いた4つの獄中書簡のうちの一つです。パウロは、3回の伝道旅行をした後、捕らえられて、ローマに連れていかれてそこで、2年間の幽閉生活をしました。ローマ皇帝カイザルの裁判を受けるためでした。そのローマの獄中の中で、パウロは、信仰について、また、イエス・キリストについて熟考し、そのことを手紙として書いたのです。エペソ書、ピリピ書、コロサイ書、ピレモン書の4つの手紙が、そうなのです。

獄中から書かれた、このコロサイ書から、本日は、キリストとその救いについて、学びたいと思います。

キリストとは、どういうお方でしょうか。
第一に、イエスは、神を見える形にした、神のあらわれである、ということです。
パウロは、コロサイ書で明確に語っています。まず、3つの箇所を見ていただきたい。

コロサイ1:15 御子は、見えない神のかたちであり、造られたすべてのものより先に生まれた方です。

コロサイ 1:19 なぜなら、神はみこころによって、満ち満ちた神の本質を御子のうちに宿らせ

コロサイ 2: 9 キリストのうちにこそ、神の満ち満ちたご性質が形をとって宿っています。

御子イエスは、まず「神のかたち」そのものであり、神であると、パウロは言っています。
そして、キリストの中に、父なる神の満ち満ちた神の本質、神の性質、があふれている。キリストの中に、神の恵が、形をとって宿っていると言うのです。キリストにこそ、一切の神の徳が形をとって、宿っている。「形をとって宿っている」とは、「肉体をとって、住んでいる」と言うことです。ですから、イエスは、「わたしを見た者は、父を見たのです。」(ヨハネ14:9)と言われました。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。」(ヨハネ14:6)とも言われました。イエスこそ、目に見えない神の現れなのです。
だから、キリストを知ることは神を知ることになるのです。 

そして、驚くべきことに、私たちが、キリストを心に迎えいれることを通して、神のあふれるばかりの恵が、私たちにも、満ち満ちていくのです。 

第2に、イエスは、万物の創造者である、ということです。

コロサイ1:16 なぜなら、万物は御子にあって造られたからです。天にあるもの、地にあるもの、見えるもの、また見えないもの、王座も主権も支配も権威も、すべて御子によって造られたのです。万物は、御子によって造られ、御子のために造られたのです。

この16節で、「万物は御子にあって造られた」「万物は、御子によって造られ」たとあります。キリストは、創造主でもあります。キリストは、「天にあるもの、地にあるもの、見えるもの、また見えないもの、王座も主権も支配も権威も、すべて御子によって造られた」と、ここに明記されています。

つまり、キリストによる創造が、今、存在する一切のものを含んでいたことを強調しています。とくに、「見えるもの、また見えないもの」という言葉を加えることによって、キリストの創造によらないものがないことが、強調されています。  

第3に、キリストは、私たちすべての人の救い主です。
では何から、私たちを救い出してくれる、救い主か。これも、コロサイ書に、明確に記されいます。

コロサイ 1:13 神は、私たちを暗やみの圧制から救い出して、愛する御子のご支配の中に移してくださいました。
コロサイ1:14 この御子のうちにあって、私たちは、贖い、すなわち罪の赦しを得ています。
① 私たちを暗やみの圧制から救い出す。
② 私たちを贖う、すなわち罪の赦しを得させる。

私たちは、生まれながらにして罪を持っており、その罪によって、神との敵対関係にありました。そのことがコロサイ1:21には、 
コロサイ1:21 あなたがたも、かつては神を離れ、心において敵となって、悪い行ないの中にあったのですが、 とあります。 

エペソ書にも、エペソ2:3 私たちもみな、かつては不従順の子らの中にあって、自分の肉の欲の中に生き、肉と心の望むままを行ない、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。 

とあり、神に背く罪のゆえに、生まれながらにして、神の「御怒りを受けるべき」者であったとあります。また、同じエペソ書で、 
エペソ2:2 そのころは、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊に従って、歩んでいました。 
とあって、「空中の権威を持つ支配者」「不従順の子らの中に働いている霊」、」これは、サタンのこと。サタンの支配の中にいたとあります。 

しかし、御子イエス・キリストの十字架の血が、イエス・キリストを信じるも者に対して、その神の怒りをもたらす、私たちの罪を赦し、サタンの圧制から解放したのです。そのことを、その事実を、コロサイ書で、こう言った、のです。
コロサイ1:13 神は、私たちを暗やみの圧制から救い出して、愛する御子のご支配の中に移してくださいました。 1:14 この御子のうちにあって、私たちは、贖い、すなわち罪の赦しを得ています。 

すばらしいですね。
これが、イエス・キリストの救いです。福音です。そして、その救いは、私たちの行いによる救いではなく、イエス・キリストの中にすべてあり、キリストのみわざ、すなわち十字架の血に、すべて依存しています。

この福音を、コロサイ1:19、20でこう言っているのです。 
コロサイ1:19 なぜなら、神はみこころによって、満ち満ちた神の本質を御子のうちに宿らせ、1:20 その十字架の血によって平和をつくり、御子によって万物を、ご自分と和解させてくださったからです。地にあるものも天にあるものも、ただ御子によって和解させてくださったのです。 

ここで、「神は、御子の十字架の血によって平和をつくり、御子によって万物を、ご自分と和解させてくださった」とあります。ここから、「和解の福音」ということばが成り立ちます。 神との和解は、御子キリストの十字架の血によると、聖書は言っています。私たちの罪が私たちに負わされないのは、キリストの十字架の血によるのです。つまり、罪のない御子キリストのからだが、十字架につけられて犠牲とされたゆえなのです。このことなしに、罪の赦し、神との和解はありません。 

さて、ここに「その十字架の血によって平和をつくり、御子によって万物を、ご自分と和解させてくださった」とありますが、万物とは、何でしょうか。
これは、次の「地にあるものも天にあるものも」であることがわかります。

さて、イエスは、何を創造されたか。1章16節に「1:16 なぜなら、万物は御子にあって造られたからです。天にあるもの、地にあるもの、見えるもの、また見えないものも・・・すべて御子によって造られた」とありますから、地上のものだけなく、天上界のものも、すべて、イエスが創造したのです。

では、サタンも、イエスが創造したのか。いいえ、違います。
イエス。キリストの十字架の血が、イエス・キリストを信じるも者に対して、その神の怒りをもたらす、私たちの罪を赦し、サタンの圧制から解放したのです。これが、救いで、福音ですから、サタンを、イエスが創造するはずがありません。

コロサイ2章15節では、 
コロサイ2: 15 神は、キリストにおいて、すべての支配と権威の武装を解除してさらしものとし、彼らを捕虜として凱旋の行列に加えられました。 
とあり、ここでは、「すべての支配と権威の武装」とは、明らかに、悪の霊、サタンについて言っています。
ですから、こう要約することができると思います。
目に見えない天上の諸霊(天使)は、本来キリストによって創造されたものであったが(1:16)、(含みとして)その後、自ら、神に敵対する悪しき霊となったものがいる。(サタンをキリストが造ったのではないが、聖書は天使の堕落がサタンになったことを示唆しています。2ペテロ2:4,ユダ6) しかし、そうした悪の諸々霊を、キリストはその十字架で、征服したので(2:15)、キリストを信じた私たちは、彼らの力から救い出された(1:13)。 

そこで、もう一度、創造の秩序に、目をとめていただきたい。
万物の創造の目的は、御子イエス・キリストのためでした。「万物は、御子によって造られ、御子のために造られたのです。」
さらに、聖書は、はっきりこう言っています。
コロサイ1:18 また、御子はそのからだである教会のかしらです。御子は初めであり、死者の中から最初に生まれた方です。こうして、ご自身がすべてのことにおいて、第一のものとなられたのです。

万物は、キリストによって、キリストのために創造され、キリストが、その中で、第一のものとなる=キリストがすべてを支配する、これが、創造の秩序、万物の秩序、です。そして、この状態こそが、「神との和解」「万物が和解」している状態、すなわち、「平和」な状態、なのです。

しかし、天使は、堕落して、神に背きサタンになり、人は、神に背いて、罪を犯し、この、キリストを第一にする世界の、秩序が崩れました。
その結果、サタンが人を支配する、人が人を支配する、敵対関係、戦いの状態になったのです。

これが、実は、現実の世界なのです。
しかし、神は、その愛と恵みにより、
コロサイ1:20 その十字架の血によって平和をつくり、御子によって万物を、ご自分と和解させてくださったからです。地にあるものも天にあるものも、ただ御子によって和解させてくださったのです。 
その結果、「コロサイ 1:14 この御子のうちにあって、私たちは、贖い、すなわち罪の赦しを得ています。」そして、「コロサイl 1:13 神は、私たちを暗やみの圧制から救い出して、愛する御子のご支配の中に移してくださ」ったのです。

キリストを信じて救われる、と言うことは、こういうことです。
つまり、神と和解し、罪が赦され、愛する御子キリストのご支配の中に、もう一度、生きるものとされた、ということです。

キリストを第一にする秩序の回復、これこそ、「万物の和解」の意味であり、救いです。
すなわち、キリストの救いとは、神との和解であり、それは、
第1に、神から離れていた人が、その罪が赦され、神のところに戻り、神との良き関係を回復することです。

第2に、今まで、自分を支配して来た、自我や悪の霊(サタン)の支配から、解放されて、キリストが自分の主人となて、御子キリストの愛の支配の中に入ることです。  

そして、最終的には、万物がキリストの支配に服して、救いの完成にいたるのですが、その完成にあすかること、すなわち、復活の身体をいただいて、永遠に生きることなのです。

神と和解し、罪が赦され、愛する御子キリストのご支配の中に生きる、キリストを第一として生きるとき、私たちの、地上の人生は、どうなりますか。
聖書は、こう言っています。

◎コロサイ 2:10 そしてあなたがたは、キリストにあって、満ち満ちているのです。キリストはすべての支配と権威のかしらです。
キリストの支配に中に生きる、キリストを第一にして生きるとき、その人の人生は、満ち満ちた、ものとなると、聖書は言っているのです。
すばらしいですね。

キリストの支配に中に生き、キリストを第一にして生きましょう。その時、満ち満ちた、人生がくるのですから。

キリストの支配に生きる、というとき、これは二つの支配と権威があると思います。一つは、出来事や事態そのものを変えてくださる、キリストの支配と権威です。すなわち、病気になってイエスに癒されることを、真剣に祈るとき、癒しを経験したり、経済的に行き詰まり、イエスに祈った結果、経済が好転したりします。それは、キリストの権威と支配の結果です。キリストの支配と権威が、私たちの状況を変えてくださるのです。また、私たちの問題を解決してくださるのです。 

しかし、どんどん良い方に変えれない場合でも、あきらめてはいけないのです。キリストの支配に、身を置くことが大切です。事態が、状況が、好転しないからと言って、人に頼って、右往左往してはならない。

そのような時でも、キリストの支配を信じて、キリストの支配の中に、自分を、置き続けるとき、神は、直ちにその境遇を、良い方向へ変えないかもしれませせんが、そして、ある期間、私たちを困難な場所に、置き続けるかもしれませが、その場合でも、私たちは決して、そこで、そこなわれることはないのです。 
かならず、守られます。
これは、キリストの支配の、もう一つの恵の面です。

パウロは、ローマの獄中から、このコロサイ人への手紙を書きましたが、しかし、最後まで、獄を出ることはできなかったです。しかし、そこで、4つの手紙を書きました。それが、今、聖書となって私たちが手にしているのです。

神の意図は、その困難な状況の中で、私たちがキリストに信頼することを通して、困難の中で、キリストの支配をさらに、体験していくためなのです。

キリストの支配に自分の人生を置くこと、キリストを第一にする人生、それは、アブラハムの信仰と同じです。そして、アブラハムに与えれた、神の祝福に生きる人生でもあります。

創世記12: 3 あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたをのろう者をわたしはのろう。地上のすべての民族は、あなたによって祝福される。

キリストを第一にする人生、それは、私たちが、今生きている、周りの人々を祝福する基となる、人生になる、と言うことなのです。

北海道に、矢部喜代子さんとう方がおられました。小さいときから寝たきりの方です。その矢部さんが、聖書を読み、イエスのことを知るのですが、どうして自分だけが、こんな身体なんだろうと疑問で、神を信じられない日々が続いた。ある日、一人の牧師先生が、矢部さんを訪問し、イエスのことを丁寧に話した。矢部さんは、その時からイエスの十字架の救いを信じるようになった。 

その後も、全身麻痺で寝たきり状態はかわらないけれども、自分にできることで、イエスに感謝をしたいと思うようになった。そこで、考えた。身体は麻痺してう動かないが、口は動かすことが出来る。話ができる。そこで、大人には伝道できないが、子供になら、イエスの素晴らしさを伝えることができる。そうだ、この家で、教会学校をやりたいと考えた。しかし、自分は動けないから、子供たちを集めにいくことはできない。そこで、子供たちが自分の家に来てくれるように祈った。  

そうすると、近所の子供がくるようになって、矢部さんが語るイエスの話を、喜んで聞いてくれた。次第に、集まってくる子供の数が増えてきて、50人、100人と集まるようになり、そのうち、子供の親も来るようになった。そうことが10数年続いた。その結果、そこが一つの教会になり、牧師を迎えてやっていると言います。 

矢部さんは、全身麻痺で寝たきりという事態の中で、その事態は、変えることができなかったが、しかし、その中ですべてを支配される、イエスを信頼して行ったとき、矢部さんの身体は、変えられなかったけれども、その困難な状況の中で、キリストの支配を体験し、そこにおいて、周りの人々を祝福する基となったのです。ここに、キリストの支配と権威があると思います。 

神の恵というものは、安全な平和な場所だけに、現されるのではない。いや、むしろ、私たちが困難な事態や、どうしようもない事態の中に立たされることによって、自分たちの知恵や力に、まったく、より頼めなくなったとき、キリストに信頼することによって、その中に、神の祝福と恵が、現されるということが多いのです。

コロサイ 2:10 そしてあなたがたは、キリストにあって、満ち満ちているのです。キリストはすべての支配と権威のかしらです。
アーメン。

神学とは何か(人はどうして神を知りえるか)

2009-02-03 | 牧師の窓
          神学とは何か(人はどうして神を知りえるか)                         

1.神学とは何か(広い意味で)。   

神学の学は学問の学です。つまり神学とは、神を知る学問であると言えます。神学とは、学問的な方向で真理が何であるか、そのもの自体を客観的に見ようとしているものです。  
カルブァン(宗教改革者1509-1564)は「神を知る知識とわれわれ自身を知る知識とは結びあったことがらである。」と言い、また「人間は神の御顔をまず凝視し、その次にこれを直視することから、自己自身を検討することへと、へりくだって来るのでなければ、くもりのない自己理解に達することが決してない」と言っています。  

つまり、人間を理解したければ(自分人身を知りたければ)まず、神を知ることだと言うのです。 カルブァンのこの言葉は神学とは何かをよくあらわしています。神学とは、神のわざの全体を神の視点からとらえていくことです。また、この世界のすべてのもの、すべての事柄を、神とのかかわりで、とらえていくことです。  

例えば、人の生きる意味はどこにあるのか。人は死んだらどうなるのか。火葬された骨にはどんな意味があるのか。とか様々のことを人間の思いや考えでは、それぞれ、十人十色の見解があり、真理がどれかわかりません。そこで、これらのことを、神はどうお考えになっているのかを、神の視点か考え学問するのです。

また、人間の救いについて、人間自身の必要から考えることも出来ますが、人によっては必要ないと思っている人もいるでしょう、しかし、神の視点から、人の救いの必要性を見ていくとき、すべての人に共通の理解が示されます。これが神学するということです。                      

2.神学とは何か(狭い意味で)。  

神学 theologyセオロジーという言葉は、ギリシャ語のセオスとロゴスに由来し、セオスは「神」の意、ロゴス は「言葉、話し、教え、説教」を意味しています。神学とは、神に関する学問ですが、同時に神についての知識でもあります。つまり、神に教えられた、神についての知識が神学でもあります。 そこで神学とは、狭い意味では、神についての教理で言えます。  

教理とは、聖書に記されている神の啓示の諸真理についての教えです。また、教義(ドグマ「指令・勅令・命令・規定・おきて」の意)とは、ギリシャ語のドケオーに由来します。ドケオーの意味は「期待する・と思う・と見なされる・決定する」です。教義とは、教会が教理を熟考し聖霊の導きの中で、最終的に公的な教会(会議)によって定義された、神の権威に基づいていると宣言された、教理のことです(個人的見解ではないということです)。

それは教会の信条(信仰告白)という形をとるようになりました。簡単に言えば、教義とは、教会が公認した教理のことです。ちなみに、アメリカではこの公認された教理の学的研究を「組織神学] SystematicシステマティックTheologyセオロジー ということばで言いますが、ドイツ、オランダでは「教義学(教理学)」DogumaticドグマティックTheologyセオロジー と言っています。

3.なぜ人は神学できるのか。   

では次に、人はなぜ神について考えたり学んだり、神が考えていることを学ぶことが出来るのでしょうか。
   
(1)神の啓示による  

それは、神が神御自身を人に啓示して下さったからです(神の啓示には、一般啓示と特別啓示がありますが、これは別講「神の啓示について」を参照してください)。
その神の啓示の中心は「聖書」です。神はそのわざのすべてを、聖書を通して明らかに しておられるので、私たちは聖書を通してのみ神について、論じることが出来ます。  

したがって神学とは、聖書のみことばを通して、神と神がそのことをどう考えているかを学ぶことです。またそれは、聖書から神の語りかけを聞くことでもあるのです。私たちは、聖書を通して、神が人に知らせていることを、学ぶことが出来るのです。  

また、人間の側でも神の啓示を知ろうと努力することは必要なことです。すなわち、私たちが神について知ろうとして、聖書から神の語りかけを聞くこと、 また、自分の問題を神の判断を聞くために、聖書から解決の道をさぐること、これはみな神学なのです。ですからすべてのクリスチャンは、神学をしているのです。   

神学は神についての思弁的(感想的)、観念的な議論ではなく、神が啓示されていることから、神を知ることが出来るのであって、それでも隠されていることは、神のものなのです。人間が知ることが出来ないもののあるのです。 
「隠されていることは、私たちの神、主のものである。しかし、現されたことは、永遠に、私たちと私たちの子孫のものであり、私たちがこのみおしえのすべてのことばを行うためである。」(申命記29:29)
                                     
(2)人間に与えられた能力(一般恩寵による)   

人が神学できる理由は、神の啓示とともにもう一つ、人間のもつ能力を上げることができます。しかし、この人間のもつ能力は、神の恩寵(恵み)によって、与えれたものです。  すなわち、神が人間を創造したので、私たちは今、存在しています。しかも、「人間は神のかたちに創造され」(創世記1:26.27)ているが故に、啓示された神のことばを理解することが出来るのです。  

また神は、人間は罪の堕落によって、知・情・意・すべてが堕落をしているにもかかわ  らず、ある程度神のかたちを保持し、神の啓示を理解できるようにしておられます。 また、正しいことや善を望ませ、創造的な働きをする能力が、人には与えれています。これを神の「一般恩寵」と言います。これは神学の出発点でもあります。

4.神学の必要性  

ヘンリー・シーセンは「真の信仰は知性、感情、意志を含むものであって、性格や行為の上に影響をおよぼすこと。また、人は自分の信じていることに従って行動する。」 と言っています。神学することは、その学んだことによって、自分の生き方を、神のみこころにそったものに変える動機となります。また、シーセンはこう言っています。「今日、礼拝で教理的な説教は嫌われる傾向にある。しかし、人が神のことばを徹底的に教え込まれるとき、初めて確固としたキリスト者になり、役立つ働き人になる。」

5.神学諸科の分類  

次に神学の諸科の分類をあげると、プロテスタント福音派の分類はおおよそ以下のとおりです。
(1)聖書神学  
聖書は神の啓示の書でるので、聖書は神学に必要かつ重要な中心です。     聖書はキリスト信仰のかかわるすべての出発点です。したがって、旧新約聖書そのものの研究(聖書神学)は、神学研究の最初の位置を占め、神学のベースになる部分で、非常に重要です。聖書神学は、聖書の本文および本文の復原、位置づけ、解釈に役立つ本文と関連した、諸学科の学びに直接たずさわります。この部門には以下の学びがあげられます。聖書言語(ヘブル語・ギリシャ語)・聖書考古学・聖書緒論・聖書釈義・聖書解釈学・本文研究・聖書史・聖書神学。 

(2)歴史神学          
キリスト教の根本的中心的な事柄は(例・キリストの十字架)啓示の出来事として歴史的な事実であるから、それは歴史的研究を必要とします。また、私たちの信仰生活そのものも歴史の中でなされています。そして、神学はキリストの教会の歴史の中でなされて来たゆえに、その歴史から学ぶことは、神学することになります。教会の歴史を軽視することは、その信仰が、根のない信仰となりやすいでしょう。
この部門には以下の学びがあげられます。聖書歴史・教会史・宣教史・教理史・神学史・信条史・教父学・礼典史・教会音楽史・キリスト教美術史・教会会議史。 

(3)組織神学          
聖書神学から基本的材料を受け取り、歴史神学の収穫と洞察を受け止めつつ、キリスト教信仰の真理内容(教理)を系統的、組織的に提示する学びです(P.2の2を参照)。この組織神学では、福音の真理を断片的、部分的でなく、全体像を明らかにしようとします。また、個々の教理を他の諸教理との相互関連性のなかで提示しようとしています。また、キリスト教真理の有意義性と妥当性を現代という状況を踏まえながら立証しようとしています。キリスト教倫理学・弁証学が含まれます。                
組織神学は教理を以下の部門に分類して学びます。 
                
1)聖書論・・・啓示としての聖書、霊感。        
2)神論・・・・神の本質と属性、聖定論、創造論、三位一体論        
3)聖霊論・・・聖霊の本質と働き。        
4)人間論・・・人間の起源、堕落と罪。             
5)キリスト論・キリストの人格、十字架と復活。        
6)救済論・・・選び、回心、義認と新生、聖化、堅持。        
7)教会論・・・教会の定義と設立、礼典、組織、使命と将来。        
8)終末論・・・キリストの再臨、人の復活、千年王国、新創造。
 
(4)実践神学          
神学の適用を取り扱うものです。神学の他の三部門から得た事柄を、実際の生活に適用することを学びます。この部門には以下の学びがあげられます。教職論・教会政治論・教会法・礼拝論・教会音楽論・教会建築・説教学・キリスト教教育学・牧会学・牧会カウンセリング・伝道学・宣教学・社会福祉論。

さて、このような神学校で学ぶような、神学の各科目の学びがなくても、毎日、聖書を読み聖書が語ることを、理解し、そのことに信頼して生きるとき、人は、神を知り、人を知って生きていることになるでしょう。そして、自分の生き方に確信を持つことができると思います。ぜひ、聖書を神のことばと信じて、これに信頼し、自分の人生の羅針盤として、そのお言葉に従って行ってみてください。きっと、光の中を歩んでいくに違いありません。




参考文献                                  
1)ジャン・カルブアン著・渡辺信夫訳『キリスト教綱要・』新教出版社、
1962(原書1559).
2)ヘンリー・シーセン著・島田福安訳『組織神学』聖書図書刊行会、1961(原書
1949).
3)ルイス・ベルコフ著・森田勝美・今井正訳『組織神学序論』聖契授産所出版
部、1997(原書1941).
4)ルイス・ベルコフ著・大山忠一訳『改革派神学通論』聖契授産所出版部、1979(原書1933).
5)岡田稔『改革派神学概論』、聖契授産所出版部1985.
6)宇田進・鈴木昌・蔦田公義・鍋谷尭爾・橋本龍三・山口昇編『新キリスト教辞
典』いのちのことば社、1991.    
7)上沼昌雄『罪と恵みの中の私』聖書と神学ミニストリー、1996.     
8)宇田進「神学入門」の項(どこの辞典かは不明).


                  高崎キリスト福音宣教会 牧師 金井浜夫


神の啓示について

2009-02-02 | 牧師の窓
                神の啓示について

 ノンクリチャンの中にも、クリスチャンの中にも、ときどきですが、「私は神の啓示を受けました」と言う人がいるようですが、しかし「神の啓示を受けた」という言葉を簡単に使っていないでしょうか。
「これは神の啓示によって示されたことです」と誰かが言った場合、人は一切そのことに口をはさむことができなくなります。人は神ではなく、神は絶対のお方です。神のなさることに人が異議を唱えることはできません。つまり、「神の啓示を受けた」といういう言葉の重みは、絶大なものがあります。それは「神の導きを受けた」と、言うべきところを、「神の啓示を受けた」と、言ってしまっていることはないでしょうか。
そこで、神の啓示について正しく理解していただくために、聖書から考察してみたいと思います。
                      
(1)人間だけで神を知ることはできない  

神を知ろうとするのは、人間の側の行為ですが、神がいることは分かっても、人間の有限な頭脳では、無限の神というお方が、どういうお方かを知ることはできません。 パウロという人は、一世紀の頃ギリシャ文化と学問の都アテネに行ったとき「知られない神に」と刻まれた偶像(祭壇)があるのを、見つけたと言っています(使徒の働き17章23節)。これは人々が、自分たちが拝んでいる対象が、どんなものか知らないで拝んでいる、結果になっていることの良い例でしょう。  

しかし、神はご自分の方から、ご自身を「あらわ」されたのです。すなわち神は、ご自分から人に、お語りになり、御自身を啓示なさいました。人間が地上に存在する前から、神は活動しておられました。また、人間が神を探求する前から、神の方で人間を探し求めておられました。「初めに、神が天と地を創造した」(創世記1:1)「なぜなら神について知りうることは、彼らに明らかであるからです。それは神が明らかにされたのです。」(ローマ1:19)「神は、むかし先祖たちに、預言者たちを通して、多くの部分に分け、また、いろいろな方法で語られましたが、この終わりの時には、御子によって、私たちに語られました。」(ヘブル1:1)。  

(2)啓示ということば  

Revelationレバレイション は「啓示」とも「黙示」とも訳されることばです。 このことばは、新約聖書の原語のギリシャ語のアポカルプシスの訳語です。アポカルプシスは「啓示」「顕現」 「出現」の意味があります。 アポカルプシスは、アポカルプトウ という動詞から来ており、アポカルプトウには、 「被いを取り除く」「現す」「露見する」「明るみに出る」「啓示する」言う意味があります。 また、アポカルプシスは、「黙示」とも訳されることばです。 「イエス・キリストの黙示。これはすぐに起こるはずの事をそのしもべたちに示すため、神がキリストにお与えになったものである。そしてキリストは、その御使いを遣わして、これをしもべヨハネにお告げになった。」(ヨハネの黙示録1:1) 。このように、アポカルプシス=啓示は、神が隠されていた事柄をあらわにする行動、 ないしは、そのようにして神の側からあらわにされた事柄、をさすことを意味する言葉であると言えます。    

ガラテヤ1:12、2:2、エペソ1:17、3:3、ローマ1:17、18、ルカ2:32、 ローマ16:25、26、ルカ10:22、マタイ11:27、1コリント1:7、1ペテロ1:7、5:1、ルカ17:30などを開いて見て下さい。「啓示」と訳されているところと、「現れ」と訳されているところが出てきます。どちらも、アポカルプトウ (啓示する)ということばが使われています。   

また、アポカルプシスに対応する、旧約聖書のことばは、へブル語のガーラーで「あらわにする」「耳を開く、知らせる」、(受け身形で)「啓示されたもの」、(はかりごとを)「示す」「現れる」「離れ去る」という意味があります。「ペルシャの王クロスの第三年に、ペルテシャツァルと名づけられていたダニエルに、一つのことばが啓示された。」(ダニエル10:1)               

(3)一般啓示(自然啓示)   

神の啓示は人間の理性によって理解できるものです。一般啓示は全世界どの地でも、すべての民族、どの時代の人々にも示されている啓示のことです。 これは自然、歴史、良心の中に見いだされます。 

①自然における神の啓示
   
「天は神の栄光を語り告げ、大空は御手のわざを告げ知らせる。」 (詩篇19:1)「神の、目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造された時からこのかた、被造物によって知られ、はっきりと認められるのであって、彼らに弁解の余地はないのです。」(ローマ1:20)             

②歴史における神の啓示
  
腐敗した諸国家が今日まで続いていないこと、彼らはより正しい国家に滅ぼされているという事実を見るときに(近代の世界大戦を含む)、そこに神の意志、みわざの現れを、見ることができます。「高く上げることは、東からでもなく、西からでもなく、荒野からでもない。それは、神が、さばく方であり、これを低くし、かれを高く上げられるからだ。」                            (詩篇75:6、7) 世界の歴史を見るときに、そこに神の摂理と啓示を、見いだすことができます。さらに詳しくは、神はイスラエルの歴史の中に、特にご自身を現されたことがわかります。 

③良心に現れた神の啓示
  
人間の中にある良心の存在は不十分ですが、人間の中に残る「神のかたち」の部分 です。すべての人間の中に善悪の感覚があり、識別力があり、自分の道徳的基準に一致しているかを判断し、反していることを避けさせる行動に駆り立てるのは、人間の中にある良心です。このことの中に、神の啓示があると言うことできます。「彼らはこのようにして、律法の命じる行いが彼らの心に書かれていることを示しています。彼らの良心もいっしょになってあかしし、また、彼らの思いは互いに責め合ったり、また、弁明しあったりしています。」(ローマ2:15)  

しかし、一般啓示だけでは十分ではありません。神が存在すること、神が偉大なお方で栄光に満ち、万物を支配し、無限の力を持っていることは一般啓示から分かっても、 神の本質、性質、意志(みこころ)を知ることは出来ません。また、神を人格的に知り、神と親密な交わりを持ち、直接的な助けを頂くためには、もっと実際的な啓示が必要となります。

(4) 特別啓示  

一般啓示は明瞭であっても、それを受け取る人間の心が、罪により「神のかたち」がそこなわれていることにより、自然界の姿を通してあらわされている神のみわざが、見えない状態になっています。また、一般啓示には、罪を犯した人間の救いと、救いのために必要な知識は含まれていません。そこで、神の霊(聖霊)の働きによって、預言者や使徒といった特別な人々を用いて、すなわちイスラエル民族を通して、神の意志を伝えた神の啓示が、特別啓示です。これを超自然啓示ともいいます。そしてこれは、おもにイエス・キリストの人格と生涯のうちに現されています。 

①神は語られた・・旧約の預言者とイエス・キリスト
  
「神は、むかし先祖たちに、預言者たちを通して、多くの部分に分け、また、いろいろな方法で語られましたが、この終わりの時には、御子によって、私たちに語られました。」(ヘブル1:1)。「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。」(ヨハネ1:14)  

これらのことばは、特別啓示には、歴史的進展が、あることを示しています。旧約時代、 神はイスラエル民族の歴史を通して、神の啓示の媒介者としての預言者たちをとおし て、罪の赦しとあがないの計画を語りました。「いろいろな方法で語ら」と言う中には、 神の行為による啓示(奇跡のわざ)も含まれています。  
旧約聖書の中には、「預言する」「夢を見る 」「幻を見る 」という表現がよく出てきます。これはヘブル語本文でよく見られるparallelismパラレリズム(並行法)です。  

すなわち、これらは、それぞれ違う種類のわざではなく、三つとも神の啓示を指してい るます。旧約聖書の中には啓示の手段として、夢、幻、神のことばを語る預言、があ ります。しかし、旧約聖書における啓示の手段としての夢は、ヨセフ物語(創世記37, 40,41章)ギデオン(士師7:13以下)、ソロモン(列王上3:5,15)などでは評価することが出来ますが、大預言者(イザヤ、エレミヤ、ダニエル等)においてはほとんど啓示の働きをしていません。  

啓示の手段としての幻、の場合に留意すべきことは、幻を見た者が、その視覚的経験を常に(へブル語)ラーアー「見る」という語を用いていることです。幻をうける事に対して、ラーアー「見る」という語が、用いられていることが、証明しているように、明かに預言者たちはそれを、自分の意識がはっきりしない恍惚現象として理解したのではなかったということです。              

旧約聖書のおける啓示で、最も重要なのが、言葉による啓示です。すなわち、預言者 が預言したものは、神が預言者に与えられた言葉の啓示であった。預言者の使信のほとんどが、「主はこう言われる」という言葉をもって始まり、また終わっています。(イザヤ1:2、11、20、3:16、エレミヤ1:14、2:5、アモス1:3、6、等等) 

そして、新約の時代に、時満ちて神は、約束の贖い主(救い主)イエス・キリストを遣わしました。このイエスの受肉、生涯、十字架、復活、昇天、再臨の出来事そのものが神の啓示です。すなわち、イエス・キリストは「受肉した神のことば」なのです。(ヨハネ1:14、18、14:9)「この終わりの時には、御子によって、私た ちに語られました。」 

②神のことばの啓示である聖書 
 
旧約聖書は、預言者によってなされた、イエス・キリストの到来の約束の啓示であり、新約聖書は、イエス・キリストによって与えれた、約束の成就と、救いの完成の啓示です。  
聖書は完結した、救いのための神のことばであり、今日、神は聖書を通して、私たちに当時と全く同じ、神のことばを語っておられるのです。  

聖書が完結された今、聖書によって、人に対する神の啓示(語りかけ)は、十分であるため、今は、聖書の完結以前のような預言はないと言っても良いと思われます。従って、今日では聖書が神の特別啓示の唯一ものと言うことができるのです。(しかし、これは個人的に経験する、神の奇跡がなくなったと言うことではありません。奇跡のわざは啓示ではなく、主のみわざです)  

「聖書はあなたに知恵を与えてキリスト・イエスに対する信仰による救いを受けさせることができるのです。」(2テモテ3:15)「それから、イエスは、モーセおよびすべての預言者から始めて、聖書全体の中で、ご自分について書いてある事がらを彼らに説き明かされた。」(ルカ24:27)「あなたがたは、私たちから神の使信のことばを受けたとき、それを人間のことばとしてではなく、事実どうりに神のことばとして受け入れてくれたからです。この神のことばは、信じているあなたがたのうちに働いているのです。」                       (1テサロニケ1:13) 

イエス・キリストの救いの約束と成就に関する、さまざまな客観的事実は「むかし先祖たちに、預言者たちを通して、多くの部分に分け、また、いろいろな方法で語られましたが、この終わりの時には、御子によって、私たちに語られ」た、神のことばの啓示によって、その意味と目的を知ることができるのです。  

神のことばの啓示が、神の働きと守りによって文書化されたのが聖書です。そして、 その完結された聖書は教会に与えられました。聖書の啓示は事実と解釈の統一としての神にことばです。以下は、福音が聖書の示す通りに成就したことが分かります。 
「私があなたがたに最もたいせつなこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、また、葬られたこと、また、聖書に従って三日目によみがえられたこと、・・です。」(1コリント15:3-4)  

聖書の啓示は、その内容の意味は、人間の側の思いや考え方に左右されるものでは なく、客観的な事実であり、これを人間は自分に都合の良い、自分勝手な解釈をして はならないのです。

(5)特別啓示である聖書があるから神を知ることができる  

この聖書に啓示されている、イエス・キリストの特別啓示こそ、人間の救いの道であり、信仰をもってキリストを受け入れる者は、罪赦されて義なる者とされるのです。そして、イエス・キリストの救いにあずかって、全く新しい人に造り変えらるとき、自然啓示を、神の自然啓示として、ありのままに見ることができ、その意味も新しい意味を持ってくるのです。
   
神の啓示の中心は「聖書」です。神はそのわざのすべてを聖書を通して明らかにしておられるので、私たちは聖書を通してのみ神について、論じることが出来ます。したがって、神学とは、聖書のみことばを通して、神御自身を知ることであり、神がある事柄をことをどう考えているかを学ぶことです。またそれは、聖書から神の語りかけを聞くことでもあるのです。私たちは、聖書を通して、神が人に知らせていることを、学ぶことが出来るのです。 ですから誰でも聖書を読んで、学ぶ時、そこに啓示されている神の意志、みこころは何かを、聖書が書かれた当時と同じように、知ることができるのです。

(6)神を知るとする努力 
  
神は私たち人間を探しだそうとしています。ですから、人間の側でも神を知ろうと努力することは必要なことです。自分で考えることは大切なことです。あきらめることなくです。「もし、あなたがたが心を尽くしてわたしを捜し求めるなら、わたしを見つけるだろう。」(エレミヤ29:13)「求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。」 (マタイ:7) 
「神に近づきなさい。そうすれば神はあなたがたに近づいてくださいます。」                           (ヤコブ4:8)  
神に近づくとき(神を求めるとき)大切な私たちの態度は、神に対して、無関心にならないこと、偏見を捨てること、高ぶらずに謙虚になることです。「これらのことを、賢い者や知恵ある者には隠して、幼子たちに現して(啓示した)くださいました。・・・これがみこころにかなったことでした。」(マタイ11:25-26)             




参考文献                                  
1)ジョン・ストット著・有賀寿訳『これがキリスト教です』すぐ書房、1995(原 書1958).
2)ヘンリー・シーセン著・島田福安訳『組織神学』聖書図書刊行会、1961(原書 1949).
3)宇田進・鈴木昌・蔦田公義・鍋谷尭爾・橋本龍三・山口昇編『新キリスト教辞 典』いのちのことば社、1991.    
4)佐竹明『ヨハネの黙示録上』新教出版社、1978.
5)岩隈直『新約ギリシャ語辞典』山本書店、1982(初版1971).6)名尾耕作『旧 約聖書ヘブル語大辞典』聖文舎、1982.