人知を越えたキリストの愛
8月も、いよいよ、今週で終わります。
8月は、暑いので、毎月のゴスペルや賛美歌を歌う会をお休みにして、少し、身体を休めてもらおうと思っていましたが、また、私自身も、少し、休みたかった、というのもありますが、休むどころか、むしろ、8月は、
8月第1週、5日(日)には、米田さんを招いての礼拝、そして、チャリティー・コンサートがあり、また、第2週は、12日に、打ち合せや祈りあり、15日~16日まで、チャイルド・パラダイス・プロジェクトの実施、これは、3日間あり、みなさんも、かなり疲れたと思います。
そして、第3週は、千田先生をお招きしての特別礼拝、そして、午後のオープンチャーチでの学び会、と続きました。
そして、本日が、第4主日礼拝です。
8月は、暑くて休むというより、むしろ、より多くの奉仕をささげた月になったのではないかと、思います。
皆さんも、この8月には、多くの時間と力をささげ、祈りに励み、労してくださったと思います。その労苦に対して、心から、感謝を申し上げたいと思います。ありがとうございました。
特に、チャイルド・パラダイス・プロジェクトの実施は、全員が初めての経験で、かなり、疲れたと思います。
さらに、8月は、教会に来ている男性ののお父さんの事故のことがあり、危機感を感じたこともあります。
私の母も、チャイルド・パラダイス・プロジェクトのあと、すぐに、入院したり、また、「胃ろう」の手術があったりと、いろいろ、ありました。
この8月は、労苦の多い、また、とても霊的な戦いの激しい月だったと思います。
しかし振り返ってみると、市川さんのお父さんの事故のことでは、みんなで心を合わせて、真剣に祈ることを、体験し、そして、意識不明の重体が、翌日には、意識が戻り、4日後には、退院して通院で良くなるとは、本当に、驚くべき、主のみわざを、拝させていただきました。
米田さんのコンサートも、私たちも恵まれましたし、また、千田先生の礼拝メッセージ、午後の学び会では、本当に多くの恵みをいただきました。
振り返ってみると、この8月は、霊的戦いの激しい月でしたが、主の恵みもまた、大きな月だったと思います。
「数えてみよ主の恵み」という賛美歌がありますが、あれも恵み、これも恵みと、言えるのではないかと、思います。
この8月の恵み、霊的戦いを振りかって見るとき、そこには、主が、私たちに語らろうとしていること、また、教えようとしてることが、示されてくるように思います。
そして、その主の教えは、エペソ教会の人々に対する、パウロの祈りの中に、示されているように思います。
このエペソ3:14-21は、パウロの祈りが書かています。
エペソ 3:14 こういうわけで、私はひざをかがめて、
エペソ 3:15 天上と地上で家族と呼ばれるすべてのものの名の元である父の前に祈ります。
このパウロの祈りは、とても真剣な、力強い祈りです。ユダヤ人は、もともとは、立って祈るのが普通でした。(これも主の前に立つ、と言う意識があってよい)。しかし、ここでパウロは、ひざまづいて、祈ると言っています。
「私はひざをかがめて・・父の前に祈ります」
これは、真剣さがでています。イエス様も、十字架を前にして、その前の夜に、ゲッセマネの園で、ひざまづいて祈りました。
ここでのパウロの真剣な、一生懸命の祈り、願いは、どんなものだったのでしょう。それは、イエスを信じる者の、生活での困難な戦いでの、勝利の秘訣でもありますが。
その秘訣は、こうです。16節を見てください。
エペソ3:16 どうか父が、その栄光の豊かさに従い、御霊により、力をもって、あなたがたの内なる人を強くしてくださいますように。
「あなたがたの内なる人を強くしてくださいますように」
クリスチャン生活を強めるために、必要不可欠なことは、私たちの内なる人が、強められることです。
「内なる人」とは、私たちの心であり、意志であり、たましい=霊です。これは、人格の最も深い部分であり、霊的な戦いの勝利には、ここが、強くなること、強められることが不可欠なのです。
そのためには、どうしたらよいか。
第1に、それは、私たち信じる者に働く、神のすぐれた力によって、強められることであり、そして、聖霊によって、強められることだと、パウロは言います。
「御霊により、力をもって、あなたがたの内なる人を強くしてくださいますように」と。
パウロは、エペソ1章では、
エペソ1:19 また、神の全能の力の働きによって、私たち信じる者に働く、神のすぐれた力が、どのように偉大なものであるかを、あなたがたが知ることができますように。
と祈っていますし、エペソ6章の方では、
エペソ6:10 終わりに言います。主にあって、その大能の力によって強められなさい。 と言っています。
キリストを信じる者は「神の全能の力」「その大能の力」によって、強められると言っています。
「神の全能の力」「その大能の力」とは、それは、キリストを死者の中からよみがえらせた力だと、聖書は言っています。この復活の力が、弱い私たちを強めてくださる、というのです。
ですから、私たちは、自分の力にたのまず、また、自分の弱さに落胆する前に、この神の全能の力、大能の力によって強められることを、祈り求めるなら、私たちの内なる人、は強められ、力が与えられるのです。
さらに、また私たちの内なる人が、強められ、力が与えられる秘訣は、聖霊を、内なる人にいただくことにあると、パウロは言います。
「御霊により、力をもって、あなたがたの内なる人を強くしてくださいますように」と。
誰でも、自分の罪を悔い改め、イエス・キリストを信じるときに、その人の内なる人に、聖霊が宿ります。私たちの身体が聖霊の宮となるのです。そして、この聖霊が、私たちの内なる人を、強くしてくださるのです。
2テモテ1: 7 神が私たちに与えてくださったものは、おくびょうの霊ではなく、力と愛と慎みとの霊です。
そして、それは、別の視点から見ると、イエス・キリストが、内なる人に、住んでくださることと同じなのです。
だから、パウロは、17節でこう言っています。
エペソ3:17 こうしてキリストが、あなたがたの信仰によって、あなたがたの心のうちに住んでいてくださいますように。
心にキリストが内住されることと、内なる人に入ってこられる聖霊によって強められることは、二つの別々な体験ではないのです。同じ体験です。
すなわち、人がイエスを信じる時、その「内なる人」、人格の最も深い部分に、聖霊がご自身の住まいを見つけ、そして、キリストも内住し、そこからその人全体を変えていかれるのです。
すでに、イエスを信じている人は、その内なる人に、聖霊と、キリストが内住していると、信じてよいのです。
エペソ3:17 こうしてキリストが、あなたがたの信仰によって、あなたがたの心のうちに住んでいてくださいますように。
信仰とは、これを信じ続けることです。
そして、その内住のキリストと聖霊が、私たちに神の全能の力、大能の力をもたらし、弱い私たちを強くしてくださるのです。
ですから、これは、大きな恵みです。
さて、私たちが信仰を強くし、心を強くしてもらう、勝利の秘訣の、
その第2の秘訣のは、なんでしょうか。
それは、人知を越えたキリストの愛を知ることだと、パウロは言います。
エペソ 3:19 人知をはるかに越えたキリストの愛を知ることができますように。こうして、神ご自身の満ち満ちたさまにまで、あなたがたが満たされますように。
ここ19節に「人知をはるかに越えたキリストの愛」とあります。パウロは、キリストの愛を知ることこそ、生きる力だと言います。霊的な戦いの激しい信仰者の内なる人を強め、霊的な戦いに勝利する秘訣は、なんといっても、キリストの愛を知ることだと言います。
キリストの愛、すなわち、キリストがどれほど私たちを愛したか、また、今も愛しているか、を知ることです。知ることとは、頭で知識として知るだけではありません。生活の中で、体験し、その愛の、「広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する」ことを意味しています。
キリストがどれほど私たちを愛したか、今も愛しているか、を知ること、これは、自分の心を探り、自分の心の動きに敏感にならねば、知ることができません。つまり、自分は、本当に罪深い人間だなー、とか、自分の罪深さを認めざるを得なくなって、悔い改める必要があることがわかる、こういった、自分の心の動きに敏感になって、初めて、キリストの十字架の重み、私のために、十字架にかかって死んでくださった、その愛の、広さ、長さ、高さ、深さ、を知るに至ります。
とは言っても、やはり、キリストの愛を、すべて知ることは、なかなかできません。ですから、聖書は、矛盾した言い方ですが、「人知をはるかに越えたキリストの愛」と言っているのです。
「人知をはるかに越えた」とは、人が知ることをはるかに越えている、知ることができていない、ということです。つまり、人の知性では理解できない愛だということです。
キリストの愛とは、人が知り、人が思うことよりも、はるかに偉大です。
すなわち、人には悲しみでしかない中にも、人には困難や苦しみとしか思えない中にも、キリストの愛は、現れているということです。
悲しみの中にいるとき、苦しい、困難な中にいる時、悪い状況が少しも良くならない時、私たちは、そこにキリストの愛を、知るとは、到底できません。
しかし、パウロは、そういう時にこそ、「人知をはるかに越えたキリストの愛を知ることができますように」と祈りなさいと、言うのです。
必ず、その時、人知をはるかに越えたキリストの愛を、知ることができるからだと言います。
金沢の金沢独立教会の岡田意先生が、こういう話をしておられます。
昨年のことですが、島崎正冶さんと言うおじいちゃんが、天に召されました。
この方は、キリストを信じる以前、尋常でない厳し試練と苦難を経験してこられた人だった。
初めに、この方の息子の嫁にあたる島崎律子さんと言う人が、キリストを信じたようです。この律子さんが礼拝に出始めた。ですから、キリストの十字架の救い、福音を聞いてはいたのですが、まだ、キリストを信じる前に、律子さんの実家で、大変な経済的困窮する出来事が起きたそうです。
取り返しがつかない損失をこうむった。心が苦しくなった。
そんな中で、礼拝に出ている時、この律子さんの心に、キリストが御手を差し伸べてくれるような感じを持ったそうです。キリストの愛を感じたそうです。
そして、キリストを信じた。
彼女は、祈った。そして、律子さんの心に、人知を越えたキリストの愛と力が、
注がれた。彼女の内なる人は、強められた。
その結果、どうなったか。まず、おしゅとめさん(ご主人のお母さん)が救われ、洗礼を受け、そして、その人生では、尋常でない厳し試練と苦難を経験してこられた、おしゅうとさん(ご主人のお父さん)が救われ、受洗したというのです。
そのおしゅとうとさんの、島崎正冶さんが、昨年、天に召されて、召天式をおこなったが、それは、「人知をはるかに越えたキリストの愛」を証する、召天式であったということです。
その人生では、尋常でない厳し試練と苦難を経験してこられた、おしゅうとさん(ご主人のお父さん)の、島崎正冶さんも、そういう経験が、キリストの愛を否定することにはならなかったのです。
すばらしですね、キリストの愛は。そして、困難の中にこそ、「人知をはるかに越えたキリストの愛」を知ることができるんですね。イエス・キリストは、素晴らしいお方です。
キリストの愛を知る、それは、また、キリストを信じた者が、キリストの愛と力によって、他者を愛するという、行動に出るとき、「人知をはるかに越えたキリストの愛」を、自分も相手も、知ることができるのです。
そして、忘れてはならないことは、愛には、犠牲がともなう、ということです。
今回の、チャイルド・パラダイス・プロジェクトの働きでも、3日にわたって、or2日にわたって、自分の休みを返上して、福島の人たちをお世話してくださいました。そこには、自分の時間をささげる犠牲、思いジュース持って、重いスイカを持って、暑い中を歩いて、運んでいく、ある人は車を出す、ガソリン代を出す、犠牲がともないます。
犠牲のない愛なんてありません。犠牲があるから愛なのです。(久場先生と話しました、今回来た、お母さん方が、私たちのおもてなしを見て、とても感動した、と言っていたそうです。)
しかし、犠牲の愛には、喜びがあるのです。恵みがあるのです。人生が豊かになるのです。
イエス様は、罪の中に死んでいた、私たちを探し出し、そして、死から命へと引き上げ、永遠のいのちを与えて、神の子としてくださった。今や、天の御国を相続する権利まで与えてくださったのです。私たちにそれだけの善い行いがあったからか。それだけ、すばらしい良い人間だからか。いいえ、そうではないのです。
「人知をはるかに越えたキリストの愛」が、私たちに注がれたからです。今も注がれているからです。
私たちは、弱い、力がない、愛がない、しかし、神には、キリストには、全知全能の力があり、人知をはるかに越えた愛があるのです。そして、それは、無限です。売り切れたということはないのです。無限の力、無限の愛です。誰でも、求める人には、与えられるのです。もうないよ、というこうことは、誰も、言われません。
そして、この、全知全能の力があり、人知をはるかに越えた愛が、キリストを信じる人の内なる人に、働くときのこそ、その人を強くし、愛のある人に、造り変えるです。
それは、私たちの思いを越えています。私たちの願いを越えて、与えられる、神が私たちの中に働くと言います。
エペソ3:20 どうか、私たちのうちに働く力によって、私たちの願うところ、思うところのすべてを越えて豊かに施すことのできる方に、
今朝、この私たちの内なる人を強くしてくださる、全知全能の神の力、キリストの力をいただきましょう。そして、「人知をはるかに越えたキリストの愛」をいただきましょう。そのために、こう祈りましょう。
「どうか、天のお父様が、その栄光の豊かさに従い、御霊により、力をもって、私の内なる人を強くしてくださるように。」
「どうか、私が、人知をはるかに越えたキリストの愛を知ることができますように。そして、神ご自身の満ち満ちたさまにまで、弱い私を、あなたの恵みで満たしてください。」と。 アーメン。
8月も、いよいよ、今週で終わります。
8月は、暑いので、毎月のゴスペルや賛美歌を歌う会をお休みにして、少し、身体を休めてもらおうと思っていましたが、また、私自身も、少し、休みたかった、というのもありますが、休むどころか、むしろ、8月は、
8月第1週、5日(日)には、米田さんを招いての礼拝、そして、チャリティー・コンサートがあり、また、第2週は、12日に、打ち合せや祈りあり、15日~16日まで、チャイルド・パラダイス・プロジェクトの実施、これは、3日間あり、みなさんも、かなり疲れたと思います。
そして、第3週は、千田先生をお招きしての特別礼拝、そして、午後のオープンチャーチでの学び会、と続きました。
そして、本日が、第4主日礼拝です。
8月は、暑くて休むというより、むしろ、より多くの奉仕をささげた月になったのではないかと、思います。
皆さんも、この8月には、多くの時間と力をささげ、祈りに励み、労してくださったと思います。その労苦に対して、心から、感謝を申し上げたいと思います。ありがとうございました。
特に、チャイルド・パラダイス・プロジェクトの実施は、全員が初めての経験で、かなり、疲れたと思います。
さらに、8月は、教会に来ている男性ののお父さんの事故のことがあり、危機感を感じたこともあります。
私の母も、チャイルド・パラダイス・プロジェクトのあと、すぐに、入院したり、また、「胃ろう」の手術があったりと、いろいろ、ありました。
この8月は、労苦の多い、また、とても霊的な戦いの激しい月だったと思います。
しかし振り返ってみると、市川さんのお父さんの事故のことでは、みんなで心を合わせて、真剣に祈ることを、体験し、そして、意識不明の重体が、翌日には、意識が戻り、4日後には、退院して通院で良くなるとは、本当に、驚くべき、主のみわざを、拝させていただきました。
米田さんのコンサートも、私たちも恵まれましたし、また、千田先生の礼拝メッセージ、午後の学び会では、本当に多くの恵みをいただきました。
振り返ってみると、この8月は、霊的戦いの激しい月でしたが、主の恵みもまた、大きな月だったと思います。
「数えてみよ主の恵み」という賛美歌がありますが、あれも恵み、これも恵みと、言えるのではないかと、思います。
この8月の恵み、霊的戦いを振りかって見るとき、そこには、主が、私たちに語らろうとしていること、また、教えようとしてることが、示されてくるように思います。
そして、その主の教えは、エペソ教会の人々に対する、パウロの祈りの中に、示されているように思います。
このエペソ3:14-21は、パウロの祈りが書かています。
エペソ 3:14 こういうわけで、私はひざをかがめて、
エペソ 3:15 天上と地上で家族と呼ばれるすべてのものの名の元である父の前に祈ります。
このパウロの祈りは、とても真剣な、力強い祈りです。ユダヤ人は、もともとは、立って祈るのが普通でした。(これも主の前に立つ、と言う意識があってよい)。しかし、ここでパウロは、ひざまづいて、祈ると言っています。
「私はひざをかがめて・・父の前に祈ります」
これは、真剣さがでています。イエス様も、十字架を前にして、その前の夜に、ゲッセマネの園で、ひざまづいて祈りました。
ここでのパウロの真剣な、一生懸命の祈り、願いは、どんなものだったのでしょう。それは、イエスを信じる者の、生活での困難な戦いでの、勝利の秘訣でもありますが。
その秘訣は、こうです。16節を見てください。
エペソ3:16 どうか父が、その栄光の豊かさに従い、御霊により、力をもって、あなたがたの内なる人を強くしてくださいますように。
「あなたがたの内なる人を強くしてくださいますように」
クリスチャン生活を強めるために、必要不可欠なことは、私たちの内なる人が、強められることです。
「内なる人」とは、私たちの心であり、意志であり、たましい=霊です。これは、人格の最も深い部分であり、霊的な戦いの勝利には、ここが、強くなること、強められることが不可欠なのです。
そのためには、どうしたらよいか。
第1に、それは、私たち信じる者に働く、神のすぐれた力によって、強められることであり、そして、聖霊によって、強められることだと、パウロは言います。
「御霊により、力をもって、あなたがたの内なる人を強くしてくださいますように」と。
パウロは、エペソ1章では、
エペソ1:19 また、神の全能の力の働きによって、私たち信じる者に働く、神のすぐれた力が、どのように偉大なものであるかを、あなたがたが知ることができますように。
と祈っていますし、エペソ6章の方では、
エペソ6:10 終わりに言います。主にあって、その大能の力によって強められなさい。 と言っています。
キリストを信じる者は「神の全能の力」「その大能の力」によって、強められると言っています。
「神の全能の力」「その大能の力」とは、それは、キリストを死者の中からよみがえらせた力だと、聖書は言っています。この復活の力が、弱い私たちを強めてくださる、というのです。
ですから、私たちは、自分の力にたのまず、また、自分の弱さに落胆する前に、この神の全能の力、大能の力によって強められることを、祈り求めるなら、私たちの内なる人、は強められ、力が与えられるのです。
さらに、また私たちの内なる人が、強められ、力が与えられる秘訣は、聖霊を、内なる人にいただくことにあると、パウロは言います。
「御霊により、力をもって、あなたがたの内なる人を強くしてくださいますように」と。
誰でも、自分の罪を悔い改め、イエス・キリストを信じるときに、その人の内なる人に、聖霊が宿ります。私たちの身体が聖霊の宮となるのです。そして、この聖霊が、私たちの内なる人を、強くしてくださるのです。
2テモテ1: 7 神が私たちに与えてくださったものは、おくびょうの霊ではなく、力と愛と慎みとの霊です。
そして、それは、別の視点から見ると、イエス・キリストが、内なる人に、住んでくださることと同じなのです。
だから、パウロは、17節でこう言っています。
エペソ3:17 こうしてキリストが、あなたがたの信仰によって、あなたがたの心のうちに住んでいてくださいますように。
心にキリストが内住されることと、内なる人に入ってこられる聖霊によって強められることは、二つの別々な体験ではないのです。同じ体験です。
すなわち、人がイエスを信じる時、その「内なる人」、人格の最も深い部分に、聖霊がご自身の住まいを見つけ、そして、キリストも内住し、そこからその人全体を変えていかれるのです。
すでに、イエスを信じている人は、その内なる人に、聖霊と、キリストが内住していると、信じてよいのです。
エペソ3:17 こうしてキリストが、あなたがたの信仰によって、あなたがたの心のうちに住んでいてくださいますように。
信仰とは、これを信じ続けることです。
そして、その内住のキリストと聖霊が、私たちに神の全能の力、大能の力をもたらし、弱い私たちを強くしてくださるのです。
ですから、これは、大きな恵みです。
さて、私たちが信仰を強くし、心を強くしてもらう、勝利の秘訣の、
その第2の秘訣のは、なんでしょうか。
それは、人知を越えたキリストの愛を知ることだと、パウロは言います。
エペソ 3:19 人知をはるかに越えたキリストの愛を知ることができますように。こうして、神ご自身の満ち満ちたさまにまで、あなたがたが満たされますように。
ここ19節に「人知をはるかに越えたキリストの愛」とあります。パウロは、キリストの愛を知ることこそ、生きる力だと言います。霊的な戦いの激しい信仰者の内なる人を強め、霊的な戦いに勝利する秘訣は、なんといっても、キリストの愛を知ることだと言います。
キリストの愛、すなわち、キリストがどれほど私たちを愛したか、また、今も愛しているか、を知ることです。知ることとは、頭で知識として知るだけではありません。生活の中で、体験し、その愛の、「広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する」ことを意味しています。
キリストがどれほど私たちを愛したか、今も愛しているか、を知ること、これは、自分の心を探り、自分の心の動きに敏感にならねば、知ることができません。つまり、自分は、本当に罪深い人間だなー、とか、自分の罪深さを認めざるを得なくなって、悔い改める必要があることがわかる、こういった、自分の心の動きに敏感になって、初めて、キリストの十字架の重み、私のために、十字架にかかって死んでくださった、その愛の、広さ、長さ、高さ、深さ、を知るに至ります。
とは言っても、やはり、キリストの愛を、すべて知ることは、なかなかできません。ですから、聖書は、矛盾した言い方ですが、「人知をはるかに越えたキリストの愛」と言っているのです。
「人知をはるかに越えた」とは、人が知ることをはるかに越えている、知ることができていない、ということです。つまり、人の知性では理解できない愛だということです。
キリストの愛とは、人が知り、人が思うことよりも、はるかに偉大です。
すなわち、人には悲しみでしかない中にも、人には困難や苦しみとしか思えない中にも、キリストの愛は、現れているということです。
悲しみの中にいるとき、苦しい、困難な中にいる時、悪い状況が少しも良くならない時、私たちは、そこにキリストの愛を、知るとは、到底できません。
しかし、パウロは、そういう時にこそ、「人知をはるかに越えたキリストの愛を知ることができますように」と祈りなさいと、言うのです。
必ず、その時、人知をはるかに越えたキリストの愛を、知ることができるからだと言います。
金沢の金沢独立教会の岡田意先生が、こういう話をしておられます。
昨年のことですが、島崎正冶さんと言うおじいちゃんが、天に召されました。
この方は、キリストを信じる以前、尋常でない厳し試練と苦難を経験してこられた人だった。
初めに、この方の息子の嫁にあたる島崎律子さんと言う人が、キリストを信じたようです。この律子さんが礼拝に出始めた。ですから、キリストの十字架の救い、福音を聞いてはいたのですが、まだ、キリストを信じる前に、律子さんの実家で、大変な経済的困窮する出来事が起きたそうです。
取り返しがつかない損失をこうむった。心が苦しくなった。
そんな中で、礼拝に出ている時、この律子さんの心に、キリストが御手を差し伸べてくれるような感じを持ったそうです。キリストの愛を感じたそうです。
そして、キリストを信じた。
彼女は、祈った。そして、律子さんの心に、人知を越えたキリストの愛と力が、
注がれた。彼女の内なる人は、強められた。
その結果、どうなったか。まず、おしゅとめさん(ご主人のお母さん)が救われ、洗礼を受け、そして、その人生では、尋常でない厳し試練と苦難を経験してこられた、おしゅうとさん(ご主人のお父さん)が救われ、受洗したというのです。
そのおしゅとうとさんの、島崎正冶さんが、昨年、天に召されて、召天式をおこなったが、それは、「人知をはるかに越えたキリストの愛」を証する、召天式であったということです。
その人生では、尋常でない厳し試練と苦難を経験してこられた、おしゅうとさん(ご主人のお父さん)の、島崎正冶さんも、そういう経験が、キリストの愛を否定することにはならなかったのです。
すばらしですね、キリストの愛は。そして、困難の中にこそ、「人知をはるかに越えたキリストの愛」を知ることができるんですね。イエス・キリストは、素晴らしいお方です。
キリストの愛を知る、それは、また、キリストを信じた者が、キリストの愛と力によって、他者を愛するという、行動に出るとき、「人知をはるかに越えたキリストの愛」を、自分も相手も、知ることができるのです。
そして、忘れてはならないことは、愛には、犠牲がともなう、ということです。
今回の、チャイルド・パラダイス・プロジェクトの働きでも、3日にわたって、or2日にわたって、自分の休みを返上して、福島の人たちをお世話してくださいました。そこには、自分の時間をささげる犠牲、思いジュース持って、重いスイカを持って、暑い中を歩いて、運んでいく、ある人は車を出す、ガソリン代を出す、犠牲がともないます。
犠牲のない愛なんてありません。犠牲があるから愛なのです。(久場先生と話しました、今回来た、お母さん方が、私たちのおもてなしを見て、とても感動した、と言っていたそうです。)
しかし、犠牲の愛には、喜びがあるのです。恵みがあるのです。人生が豊かになるのです。
イエス様は、罪の中に死んでいた、私たちを探し出し、そして、死から命へと引き上げ、永遠のいのちを与えて、神の子としてくださった。今や、天の御国を相続する権利まで与えてくださったのです。私たちにそれだけの善い行いがあったからか。それだけ、すばらしい良い人間だからか。いいえ、そうではないのです。
「人知をはるかに越えたキリストの愛」が、私たちに注がれたからです。今も注がれているからです。
私たちは、弱い、力がない、愛がない、しかし、神には、キリストには、全知全能の力があり、人知をはるかに越えた愛があるのです。そして、それは、無限です。売り切れたということはないのです。無限の力、無限の愛です。誰でも、求める人には、与えられるのです。もうないよ、というこうことは、誰も、言われません。
そして、この、全知全能の力があり、人知をはるかに越えた愛が、キリストを信じる人の内なる人に、働くときのこそ、その人を強くし、愛のある人に、造り変えるです。
それは、私たちの思いを越えています。私たちの願いを越えて、与えられる、神が私たちの中に働くと言います。
エペソ3:20 どうか、私たちのうちに働く力によって、私たちの願うところ、思うところのすべてを越えて豊かに施すことのできる方に、
今朝、この私たちの内なる人を強くしてくださる、全知全能の神の力、キリストの力をいただきましょう。そして、「人知をはるかに越えたキリストの愛」をいただきましょう。そのために、こう祈りましょう。
「どうか、天のお父様が、その栄光の豊かさに従い、御霊により、力をもって、私の内なる人を強くしてくださるように。」
「どうか、私が、人知をはるかに越えたキリストの愛を知ることができますように。そして、神ご自身の満ち満ちたさまにまで、弱い私を、あなたの恵みで満たしてください。」と。 アーメン。