人知を越えたキリストの愛 

2012-08-25 | 牧師の窓
人知を越えたキリストの愛   



8月も、いよいよ、今週で終わります。
8月は、暑いので、毎月のゴスペルや賛美歌を歌う会をお休みにして、少し、身体を休めてもらおうと思っていましたが、また、私自身も、少し、休みたかった、というのもありますが、休むどころか、むしろ、8月は、

8月第1週、5日(日)には、米田さんを招いての礼拝、そして、チャリティー・コンサートがあり、また、第2週は、12日に、打ち合せや祈りあり、15日~16日まで、チャイルド・パラダイス・プロジェクトの実施、これは、3日間あり、みなさんも、かなり疲れたと思います。
そして、第3週は、千田先生をお招きしての特別礼拝、そして、午後のオープンチャーチでの学び会、と続きました。

そして、本日が、第4主日礼拝です。
8月は、暑くて休むというより、むしろ、より多くの奉仕をささげた月になったのではないかと、思います。
皆さんも、この8月には、多くの時間と力をささげ、祈りに励み、労してくださったと思います。その労苦に対して、心から、感謝を申し上げたいと思います。ありがとうございました。

特に、チャイルド・パラダイス・プロジェクトの実施は、全員が初めての経験で、かなり、疲れたと思います。

さらに、8月は、教会に来ている男性ののお父さんの事故のことがあり、危機感を感じたこともあります。
私の母も、チャイルド・パラダイス・プロジェクトのあと、すぐに、入院したり、また、「胃ろう」の手術があったりと、いろいろ、ありました。

この8月は、労苦の多い、また、とても霊的な戦いの激しい月だったと思います。
しかし振り返ってみると、市川さんのお父さんの事故のことでは、みんなで心を合わせて、真剣に祈ることを、体験し、そして、意識不明の重体が、翌日には、意識が戻り、4日後には、退院して通院で良くなるとは、本当に、驚くべき、主のみわざを、拝させていただきました。

米田さんのコンサートも、私たちも恵まれましたし、また、千田先生の礼拝メッセージ、午後の学び会では、本当に多くの恵みをいただきました。

振り返ってみると、この8月は、霊的戦いの激しい月でしたが、主の恵みもまた、大きな月だったと思います。
「数えてみよ主の恵み」という賛美歌がありますが、あれも恵み、これも恵みと、言えるのではないかと、思います。
この8月の恵み、霊的戦いを振りかって見るとき、そこには、主が、私たちに語らろうとしていること、また、教えようとしてることが、示されてくるように思います。

そして、その主の教えは、エペソ教会の人々に対する、パウロの祈りの中に、示されているように思います。
このエペソ3:14-21は、パウロの祈りが書かています。
エペソ 3:14 こういうわけで、私はひざをかがめて、
エペソ 3:15 天上と地上で家族と呼ばれるすべてのものの名の元である父の前に祈ります。
このパウロの祈りは、とても真剣な、力強い祈りです。ユダヤ人は、もともとは、立って祈るのが普通でした。(これも主の前に立つ、と言う意識があってよい)。しかし、ここでパウロは、ひざまづいて、祈ると言っています。
「私はひざをかがめて・・父の前に祈ります」
これは、真剣さがでています。イエス様も、十字架を前にして、その前の夜に、ゲッセマネの園で、ひざまづいて祈りました。

ここでのパウロの真剣な、一生懸命の祈り、願いは、どんなものだったのでしょう。それは、イエスを信じる者の、生活での困難な戦いでの、勝利の秘訣でもありますが。

その秘訣は、こうです。16節を見てください。
エペソ3:16 どうか父が、その栄光の豊かさに従い、御霊により、力をもって、あなたがたの内なる人を強くしてくださいますように。

「あなたがたの内なる人を強くしてくださいますように」
クリスチャン生活を強めるために、必要不可欠なことは、私たちの内なる人が、強められることです。
「内なる人」とは、私たちの心であり、意志であり、たましい=霊です。これは、人格の最も深い部分であり、霊的な戦いの勝利には、ここが、強くなること、強められることが不可欠なのです。

そのためには、どうしたらよいか。
第1に、それは、私たち信じる者に働く、神のすぐれた力によって、強められることであり、そして、聖霊によって、強められることだと、パウロは言います。
「御霊により、力をもって、あなたがたの内なる人を強くしてくださいますように」と。
パウロは、エペソ1章では、
エペソ1:19 また、神の全能の力の働きによって、私たち信じる者に働く、神のすぐれた力が、どのように偉大なものであるかを、あなたがたが知ることができますように。
と祈っていますし、エペソ6章の方では、
エペソ6:10 終わりに言います。主にあって、その大能の力によって強められなさい。 と言っています。
キリストを信じる者は「神の全能の力」「その大能の力」によって、強められると言っています。

「神の全能の力」「その大能の力」とは、それは、キリストを死者の中からよみがえらせた力だと、聖書は言っています。この復活の力が、弱い私たちを強めてくださる、というのです。
ですから、私たちは、自分の力にたのまず、また、自分の弱さに落胆する前に、この神の全能の力、大能の力によって強められることを、祈り求めるなら、私たちの内なる人、は強められ、力が与えられるのです。

さらに、また私たちの内なる人が、強められ、力が与えられる秘訣は、聖霊を、内なる人にいただくことにあると、パウロは言います。
「御霊により、力をもって、あなたがたの内なる人を強くしてくださいますように」と。

誰でも、自分の罪を悔い改め、イエス・キリストを信じるときに、その人の内なる人に、聖霊が宿ります。私たちの身体が聖霊の宮となるのです。そして、この聖霊が、私たちの内なる人を、強くしてくださるのです。
2テモテ1: 7 神が私たちに与えてくださったものは、おくびょうの霊ではなく、力と愛と慎みとの霊です。
そして、それは、別の視点から見ると、イエス・キリストが、内なる人に、住んでくださることと同じなのです。
だから、パウロは、17節でこう言っています。
エペソ3:17 こうしてキリストが、あなたがたの信仰によって、あなたがたの心のうちに住んでいてくださいますように。

心にキリストが内住されることと、内なる人に入ってこられる聖霊によって強められることは、二つの別々な体験ではないのです。同じ体験です。

すなわち、人がイエスを信じる時、その「内なる人」、人格の最も深い部分に、聖霊がご自身の住まいを見つけ、そして、キリストも内住し、そこからその人全体を変えていかれるのです。

すでに、イエスを信じている人は、その内なる人に、聖霊と、キリストが内住していると、信じてよいのです。
エペソ3:17 こうしてキリストが、あなたがたの信仰によって、あなたがたの心のうちに住んでいてくださいますように。
信仰とは、これを信じ続けることです。
そして、その内住のキリストと聖霊が、私たちに神の全能の力、大能の力をもたらし、弱い私たちを強くしてくださるのです。
ですから、これは、大きな恵みです。

さて、私たちが信仰を強くし、心を強くしてもらう、勝利の秘訣の、
その第2の秘訣のは、なんでしょうか。
それは、人知を越えたキリストの愛を知ることだと、パウロは言います。
エペソ 3:19 人知をはるかに越えたキリストの愛を知ることができますように。こうして、神ご自身の満ち満ちたさまにまで、あなたがたが満たされますように。

ここ19節に「人知をはるかに越えたキリストの愛」とあります。パウロは、キリストの愛を知ることこそ、生きる力だと言います。霊的な戦いの激しい信仰者の内なる人を強め、霊的な戦いに勝利する秘訣は、なんといっても、キリストの愛を知ることだと言います。

キリストの愛、すなわち、キリストがどれほど私たちを愛したか、また、今も愛しているか、を知ることです。知ることとは、頭で知識として知るだけではありません。生活の中で、体験し、その愛の、「広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する」ことを意味しています。

キリストがどれほど私たちを愛したか、今も愛しているか、を知ること、これは、自分の心を探り、自分の心の動きに敏感にならねば、知ることができません。つまり、自分は、本当に罪深い人間だなー、とか、自分の罪深さを認めざるを得なくなって、悔い改める必要があることがわかる、こういった、自分の心の動きに敏感になって、初めて、キリストの十字架の重み、私のために、十字架にかかって死んでくださった、その愛の、広さ、長さ、高さ、深さ、を知るに至ります。

とは言っても、やはり、キリストの愛を、すべて知ることは、なかなかできません。ですから、聖書は、矛盾した言い方ですが、「人知をはるかに越えたキリストの愛」と言っているのです。

「人知をはるかに越えた」とは、人が知ることをはるかに越えている、知ることができていない、ということです。つまり、人の知性では理解できない愛だということです。
キリストの愛とは、人が知り、人が思うことよりも、はるかに偉大です。

すなわち、人には悲しみでしかない中にも、人には困難や苦しみとしか思えない中にも、キリストの愛は、現れているということです。
悲しみの中にいるとき、苦しい、困難な中にいる時、悪い状況が少しも良くならない時、私たちは、そこにキリストの愛を、知るとは、到底できません。

しかし、パウロは、そういう時にこそ、「人知をはるかに越えたキリストの愛を知ることができますように」と祈りなさいと、言うのです。
必ず、その時、人知をはるかに越えたキリストの愛を、知ることができるからだと言います。

金沢の金沢独立教会の岡田意先生が、こういう話をしておられます。
昨年のことですが、島崎正冶さんと言うおじいちゃんが、天に召されました。
この方は、キリストを信じる以前、尋常でない厳し試練と苦難を経験してこられた人だった。
初めに、この方の息子の嫁にあたる島崎律子さんと言う人が、キリストを信じたようです。この律子さんが礼拝に出始めた。ですから、キリストの十字架の救い、福音を聞いてはいたのですが、まだ、キリストを信じる前に、律子さんの実家で、大変な経済的困窮する出来事が起きたそうです。
取り返しがつかない損失をこうむった。心が苦しくなった。
そんな中で、礼拝に出ている時、この律子さんの心に、キリストが御手を差し伸べてくれるような感じを持ったそうです。キリストの愛を感じたそうです。
そして、キリストを信じた。
彼女は、祈った。そして、律子さんの心に、人知を越えたキリストの愛と力が、
注がれた。彼女の内なる人は、強められた。

その結果、どうなったか。まず、おしゅとめさん(ご主人のお母さん)が救われ、洗礼を受け、そして、その人生では、尋常でない厳し試練と苦難を経験してこられた、おしゅうとさん(ご主人のお父さん)が救われ、受洗したというのです。

そのおしゅとうとさんの、島崎正冶さんが、昨年、天に召されて、召天式をおこなったが、それは、「人知をはるかに越えたキリストの愛」を証する、召天式であったということです。
その人生では、尋常でない厳し試練と苦難を経験してこられた、おしゅうとさん(ご主人のお父さん)の、島崎正冶さんも、そういう経験が、キリストの愛を否定することにはならなかったのです。

すばらしですね、キリストの愛は。そして、困難の中にこそ、「人知をはるかに越えたキリストの愛」を知ることができるんですね。イエス・キリストは、素晴らしいお方です。

キリストの愛を知る、それは、また、キリストを信じた者が、キリストの愛と力によって、他者を愛するという、行動に出るとき、「人知をはるかに越えたキリストの愛」を、自分も相手も、知ることができるのです。

そして、忘れてはならないことは、愛には、犠牲がともなう、ということです。
今回の、チャイルド・パラダイス・プロジェクトの働きでも、3日にわたって、or2日にわたって、自分の休みを返上して、福島の人たちをお世話してくださいました。そこには、自分の時間をささげる犠牲、思いジュース持って、重いスイカを持って、暑い中を歩いて、運んでいく、ある人は車を出す、ガソリン代を出す、犠牲がともないます。
犠牲のない愛なんてありません。犠牲があるから愛なのです。(久場先生と話しました、今回来た、お母さん方が、私たちのおもてなしを見て、とても感動した、と言っていたそうです。)
しかし、犠牲の愛には、喜びがあるのです。恵みがあるのです。人生が豊かになるのです。

イエス様は、罪の中に死んでいた、私たちを探し出し、そして、死から命へと引き上げ、永遠のいのちを与えて、神の子としてくださった。今や、天の御国を相続する権利まで与えてくださったのです。私たちにそれだけの善い行いがあったからか。それだけ、すばらしい良い人間だからか。いいえ、そうではないのです。
「人知をはるかに越えたキリストの愛」が、私たちに注がれたからです。今も注がれているからです。

私たちは、弱い、力がない、愛がない、しかし、神には、キリストには、全知全能の力があり、人知をはるかに越えた愛があるのです。そして、それは、無限です。売り切れたということはないのです。無限の力、無限の愛です。誰でも、求める人には、与えられるのです。もうないよ、というこうことは、誰も、言われません。

そして、この、全知全能の力があり、人知をはるかに越えた愛が、キリストを信じる人の内なる人に、働くときのこそ、その人を強くし、愛のある人に、造り変えるです。

それは、私たちの思いを越えています。私たちの願いを越えて、与えられる、神が私たちの中に働くと言います。
エペソ3:20 どうか、私たちのうちに働く力によって、私たちの願うところ、思うところのすべてを越えて豊かに施すことのできる方に、

今朝、この私たちの内なる人を強くしてくださる、全知全能の神の力、キリストの力をいただきましょう。そして、「人知をはるかに越えたキリストの愛」をいただきましょう。そのために、こう祈りましょう。
「どうか、天のお父様が、その栄光の豊かさに従い、御霊により、力をもって、私の内なる人を強くしてくださるように。」
「どうか、私が、人知をはるかに越えたキリストの愛を知ることができますように。そして、神ご自身の満ち満ちたさまにまで、弱い私を、あなたの恵みで満たしてください。」と。   アーメン。

キリストが第一となる時、人生が満ち満ちたものに

2012-08-11 | 牧師の窓
キリストが第一となる時、人生が満ち満ちたものに
  


古い本ですが、宗教改革者ジャン・カルヴァンが子供たちのためのキリスト教教育のために書いた『ジュネーブ教会信仰問答』という本があります。これは、子供のために書かれたものですが、しかし、この信仰問答書は、優れたもので、その後、様々な教会で書かれていく信仰問書の基になりました。 

この『ジュネーブ教会信仰問答』の問い1は、「人生の主な目的は何ですか。」と質問し、その答えは、「神を知ることであります。」と答えます。そして、さらに、「神を知ることは、イエス・キリストにおいて知ることです。」と答えていきます。 

人生の目的は、神を知ることであり、イエス・キリストを知ることは、神を知ることだと、カルヴァンは言うのです。
キリストを知ることが大切です。皆さんは、キリストをどれだけ知っていますか。キリストを信仰するには、キリストを良く知らなければなりません。

このコロサイ人への手紙は、パウロが書いた4つの獄中書簡のうちの一つです。パウロは、3回の伝道旅行をした後、捕らえられて、ローマに連れていかれてそこで、2年間の幽閉生活をしました。ローマ皇帝カイザルの裁判を受けるためでした。そのローマの獄中の中で、パウロは、信仰について、また、イエス・キリストについて熟考し、そのことを手紙として書いたのです。エペソ書、ピリピ書、コロサイ書、ピレモン書の4つの手紙が、そうなのです。

獄中から書かれた、このコロサイ書から、本日は、キリストとその救いについて、学びたいと思います。

キリストとは、どういうお方でしょうか。
第一に、イエスは、神を見える形にした、神のあらわれである、ということです。
パウロは、コロサイ書で明確に語っています。まず、3つの箇所を見ていただきたい。

コロサイ1:15 御子は、見えない神のかたちであり、造られたすべてのものより先に生まれた方です。

コロサイ 1:19 なぜなら、神はみこころによって、満ち満ちた神の本質を御子のうちに宿らせ

コロサイ 2: 9 キリストのうちにこそ、神の満ち満ちたご性質が形をとって宿っています。

御子イエスは、まず「神のかたち」そのものであり、神であると、パウロは言っています。
そして、キリストの中に、父なる神の満ち満ちた神の本質、神の性質、があふれている。キリストの中に、神の恵が、形をとって宿っていると言うのです。キリストにこそ、一切の神の徳が形をとって、宿っている。「形をとって宿っている」とは、「肉体をとって、住んでいる」と言うことです。ですから、イエスは、「わたしを見た者は、父を見たのです。」(ヨハネ14:9)と言われました。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。」(ヨハネ14:6)とも言われました。イエスこそ、目に見えない神の現れなのです。
だから、キリストを知ることは神を知ることになるのです。 

そして、驚くべきことに、私たちが、キリストを心に迎えいれることを通して、神のあふれるばかりの恵が、私たちにも、満ち満ちていくのです。 

第2に、イエスは、万物の創造者である、ということです。

コロサイ1:16 なぜなら、万物は御子にあって造られたからです。天にあるもの、地にあるもの、見えるもの、また見えないもの、王座も主権も支配も権威も、すべて御子によって造られたのです。万物は、御子によって造られ、御子のために造られたのです。

この16節で、「万物は御子にあって造られた」「万物は、御子によって造られ」たとあります。キリストは、創造主でもあります。キリストは、「天にあるもの、地にあるもの、見えるもの、また見えないもの、王座も主権も支配も権威も、すべて御子によって造られた」と、ここに明記されています。

つまり、キリストによる創造が、今、存在する一切のものを含んでいたことを強調しています。とくに、「見えるもの、また見えないもの」という言葉を加えることによって、キリストの創造によらないものがないことが、強調されています。  

第3に、キリストは、私たちすべての人の救い主です。
では何から、私たちを救い出してくれる、救い主か。これも、コロサイ書に、明確に記されいます。

コロサイ 1:13 神は、私たちを暗やみの圧制から救い出して、愛する御子のご支配の中に移してくださいました。
コロサイ1:14 この御子のうちにあって、私たちは、贖い、すなわち罪の赦しを得ています。
① 私たちを暗やみの圧制から救い出す。
② 私たちを贖う、すなわち罪の赦しを得させる。

私たちは、生まれながらにして罪を持っており、その罪によって、神との敵対関係にありました。そのことがコロサイ1:21には、 
コロサイ1:21 あなたがたも、かつては神を離れ、心において敵となって、悪い行ないの中にあったのですが、 とあります。 

エペソ書にも、エペソ2:3 私たちもみな、かつては不従順の子らの中にあって、自分の肉の欲の中に生き、肉と心の望むままを行ない、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。 

とあり、神に背く罪のゆえに、生まれながらにして、神の「御怒りを受けるべき」者であったとあります。また、同じエペソ書で、 
エペソ2:2 そのころは、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊に従って、歩んでいました。 
とあって、「空中の権威を持つ支配者」「不従順の子らの中に働いている霊」、」これは、サタンのこと。サタンの支配の中にいたとあります。 

しかし、御子イエス・キリストの十字架の血が、イエス・キリストを信じるも者に対して、その神の怒りをもたらす、私たちの罪を赦し、サタンの圧制から解放したのです。そのことを、その事実を、コロサイ書で、こう言った、のです。
コロサイ1:13 神は、私たちを暗やみの圧制から救い出して、愛する御子のご支配の中に移してくださいました。 1:14 この御子のうちにあって、私たちは、贖い、すなわち罪の赦しを得ています。 

すばらしいですね。
これが、イエス・キリストの救いです。福音です。そして、その救いは、私たちの行いによる救いではなく、イエス・キリストの中にすべてあり、キリストのみわざ、すなわち十字架の血に、すべて依存しています。

この福音を、コロサイ1:19、20でこう言っているのです。 
コロサイ1:19 なぜなら、神はみこころによって、満ち満ちた神の本質を御子のうちに宿らせ、1:20 その十字架の血によって平和をつくり、御子によって万物を、ご自分と和解させてくださったからです。地にあるものも天にあるものも、ただ御子によって和解させてくださったのです。 

ここで、「神は、御子の十字架の血によって平和をつくり、御子によって万物を、ご自分と和解させてくださった」とあります。ここから、「和解の福音」ということばが成り立ちます。 神との和解は、御子キリストの十字架の血によると、聖書は言っています。私たちの罪が私たちに負わされないのは、キリストの十字架の血によるのです。つまり、罪のない御子キリストのからだが、十字架につけられて犠牲とされたゆえなのです。このことなしに、罪の赦し、神との和解はありません。 

さて、ここに「その十字架の血によって平和をつくり、御子によって万物を、ご自分と和解させてくださった」とありますが、万物とは、何でしょうか。
これは、次の「地にあるものも天にあるものも」であることがわかります。

さて、イエスは、何を創造されたか。1章16節に「1:16 なぜなら、万物は御子にあって造られたからです。天にあるもの、地にあるもの、見えるもの、また見えないものも・・・すべて御子によって造られた」とありますから、地上のものだけなく、天上界のものも、すべて、イエスが創造したのです。

では、サタンも、イエスが創造したのか。いいえ、違います。
イエス。キリストの十字架の血が、イエス・キリストを信じるも者に対して、その神の怒りをもたらす、私たちの罪を赦し、サタンの圧制から解放したのです。これが、救いで、福音ですから、サタンを、イエスが創造するはずがありません。

コロサイ2章15節では、 
コロサイ2: 15 神は、キリストにおいて、すべての支配と権威の武装を解除してさらしものとし、彼らを捕虜として凱旋の行列に加えられました。 
とあり、ここでは、「すべての支配と権威の武装」とは、明らかに、悪の霊、サタンについて言っています。
ですから、こう要約することができると思います。
目に見えない天上の諸霊(天使)は、本来キリストによって創造されたものであったが(1:16)、(含みとして)その後、自ら、神に敵対する悪しき霊となったものがいる。(サタンをキリストが造ったのではないが、聖書は天使の堕落がサタンになったことを示唆しています。2ペテロ2:4,ユダ6) しかし、そうした悪の諸々霊を、キリストはその十字架で、征服したので(2:15)、キリストを信じた私たちは、彼らの力から救い出された(1:13)。 

そこで、もう一度、創造の秩序に、目をとめていただきたい。
万物の創造の目的は、御子イエス・キリストのためでした。「万物は、御子によって造られ、御子のために造られたのです。」
さらに、聖書は、はっきりこう言っています。
コロサイ1:18 また、御子はそのからだである教会のかしらです。御子は初めであり、死者の中から最初に生まれた方です。こうして、ご自身がすべてのことにおいて、第一のものとなられたのです。

万物は、キリストによって、キリストのために創造され、キリストが、その中で、第一のものとなる=キリストがすべてを支配する、これが、創造の秩序、万物の秩序、です。そして、この状態こそが、「神との和解」「万物が和解」している状態、すなわち、「平和」な状態、なのです。

しかし、天使は、堕落して、神に背きサタンになり、人は、神に背いて、罪を犯し、この、キリストを第一にする世界の、秩序が崩れました。
その結果、サタンが人を支配する、人が人を支配する、敵対関係、戦いの状態になったのです。

これが、実は、現実の世界なのです。
しかし、神は、その愛と恵みにより、
コロサイ1:20 その十字架の血によって平和をつくり、御子によって万物を、ご自分と和解させてくださったからです。地にあるものも天にあるものも、ただ御子によって和解させてくださったのです。 
その結果、「コロサイ 1:14 この御子のうちにあって、私たちは、贖い、すなわち罪の赦しを得ています。」そして、「コロサイl 1:13 神は、私たちを暗やみの圧制から救い出して、愛する御子のご支配の中に移してくださ」ったのです。

キリストを信じて救われる、と言うことは、こういうことです。
つまり、神と和解し、罪が赦され、愛する御子キリストのご支配の中に、もう一度、生きるものとされた、ということです。

キリストを第一にする秩序の回復、これこそ、「万物の和解」の意味であり、救いです。
すなわち、キリストの救いとは、神との和解であり、それは、
第1に、神から離れていた人が、その罪が赦され、神のところに戻り、神との良き関係を回復することです。

第2に、今まで、自分を支配して来た、自我や悪の霊(サタン)の支配から、解放されて、キリストが自分の主人となて、御子キリストの愛の支配の中に入ることです。  

そして、最終的には、万物がキリストの支配に服して、救いの完成にいたるのですが、その完成にあすかること、すなわち、復活の身体をいただいて、永遠に生きることなのです。

神と和解し、罪が赦され、愛する御子キリストのご支配の中に生きる、キリストを第一として生きるとき、私たちの、地上の人生は、どうなりますか。
聖書は、こう言っています。

◎コロサイ 2:10 そしてあなたがたは、キリストにあって、満ち満ちているのです。キリストはすべての支配と権威のかしらです。
キリストの支配に中に生きる、キリストを第一にして生きるとき、その人の人生は、満ち満ちた、ものとなると、聖書は言っているのです。
すばらしいですね。

キリストの支配に中に生き、キリストを第一にして生きましょう。その時、満ち満ちた、人生がくるのですから。

キリストの支配に生きる、というとき、これは二つの支配と権威があると思います。一つは、出来事や事態そのものを変えてくださる、キリストの支配と権威です。すなわち、病気になってイエスに癒されることを、真剣に祈るとき、癒しを経験したり、経済的に行き詰まり、イエスに祈った結果、経済が好転したりします。それは、キリストの権威と支配の結果です。キリストの支配と権威が、私たちの状況を変えてくださるのです。また、私たちの問題を解決してくださるのです。 

しかし、どんどん良い方に変えれない場合でも、あきらめてはいけないのです。キリストの支配に、身を置くことが大切です。事態が、状況が、好転しないからと言って、人に頼って、右往左往してはならない。

そのような時でも、キリストの支配を信じて、キリストの支配の中に、自分を、置き続けるとき、神は、直ちにその境遇を、良い方向へ変えないかもしれませせんが、そして、ある期間、私たちを困難な場所に、置き続けるかもしれませが、その場合でも、私たちは決して、そこで、そこなわれることはないのです。 
かならず、守られます。
これは、キリストの支配の、もう一つの恵の面です。

パウロは、ローマの獄中から、このコロサイ人への手紙を書きましたが、しかし、最後まで、獄を出ることはできなかったです。しかし、そこで、4つの手紙を書きました。それが、今、聖書となって私たちが手にしているのです。

神の意図は、その困難な状況の中で、私たちがキリストに信頼することを通して、困難の中で、キリストの支配をさらに、体験していくためなのです。

キリストの支配に自分の人生を置くこと、キリストを第一にする人生、それは、アブラハムの信仰と同じです。そして、アブラハムに与えれた、神の祝福に生きる人生でもあります。

創世記12: 3 あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたをのろう者をわたしはのろう。地上のすべての民族は、あなたによって祝福される。

キリストを第一にする人生、それは、私たちが、今生きている、周りの人々を祝福する基となる、人生になる、と言うことなのです。

北海道に、矢部喜代子さんとう方がおられました。小さいときから寝たきりの方です。その矢部さんが、聖書を読み、イエスのことを知るのですが、どうして自分だけが、こんな身体なんだろうと疑問で、神を信じられない日々が続いた。ある日、一人の牧師先生が、矢部さんを訪問し、イエスのことを丁寧に話した。矢部さんは、その時からイエスの十字架の救いを信じるようになった。 

その後も、全身麻痺で寝たきり状態はかわらないけれども、自分にできることで、イエスに感謝をしたいと思うようになった。そこで、考えた。身体は麻痺してう動かないが、口は動かすことが出来る。話ができる。そこで、大人には伝道できないが、子供になら、イエスの素晴らしさを伝えることができる。そうだ、この家で、教会学校をやりたいと考えた。しかし、自分は動けないから、子供たちを集めにいくことはできない。そこで、子供たちが自分の家に来てくれるように祈った。  

そうすると、近所の子供がくるようになって、矢部さんが語るイエスの話を、喜んで聞いてくれた。次第に、集まってくる子供の数が増えてきて、50人、100人と集まるようになり、そのうち、子供の親も来るようになった。そうことが10数年続いた。その結果、そこが一つの教会になり、牧師を迎えてやっていると言います。 

矢部さんは、全身麻痺で寝たきりという事態の中で、その事態は、変えることができなかったが、しかし、その中ですべてを支配される、イエスを信頼して行ったとき、矢部さんの身体は、変えられなかったけれども、その困難な状況の中で、キリストの支配を体験し、そこにおいて、周りの人々を祝福する基となったのです。ここに、キリストの支配と権威があると思います。 

神の恵というものは、安全な平和な場所だけに、現されるのではない。いや、むしろ、私たちが困難な事態や、どうしようもない事態の中に立たされることによって、自分たちの知恵や力に、まったく、より頼めなくなったとき、キリストに信頼することによって、その中に、神の祝福と恵が、現されるということが多いのです。

コロサイ 2:10 そしてあなたがたは、キリストにあって、満ち満ちているのです。キリストはすべての支配と権威のかしらです。
アーメン。

主を待ち望む者は新たな力を得る 

2012-08-04 | あなたへの聖書メッセージ
主を待ち望む者は新たな力を得る 

今、ロンドン・オリンピックが、開催されている真っ最中です。オリンピックには、ドラマがありますね。
銀メダル10個取るのと、金メダル1個取るのと、どちらが価値があると思いますか。考えてみますと、それは、一個のその小さなメダルです。これを取れた人は、大喜びし、また、取れなかった人の中には、泣き崩れて、悲しみ、くやしさ、また、応援してくれた人に、申し訳ないと思う。
世界中から、選ばれた、優れた人たちが、国を代表して、集まってきて、金、銀、銅のメダル、を目指して、競い合っている、闘ってる。この場合、ライバルとの戦い、もありますが、何よりも、自分との戦いも大きいのではないでしょうか。
メダルを取ることは、戦いです。

私たちの人生も、ある意味、オリンピック選手が金メダルを目指しているようなものです。パウロと言う人は、こう言いました。
2テモテ 4: 7 私は勇敢に戦い、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました。
2テモテ4: 8 今からは、義の栄冠が私のために用意されているだけです。かの日には、正しい審判者である主が、それを私に授けてくださるのです。私だけでなく、主の現われを慕っている者には、だれにでも授けてくださるのです。

私たちの人生も、最後に、栄冠を手するか、しないかの、人生なのです。ですから、私たちの人生もまた、戦いです。霊的な戦いです。しかも激しい戦いです。時には、疲れ、たゆみ、つまづき倒れます。それでも、また、立ち上がって、前進してかねばなりません。天国へ行くその日まで、私たちの信仰の戦い、霊的な戦いは、続きます。

この夏も暑いですね。群馬県は、猛暑日とかそういうニュースには、必ず、出てきます。暑いです。ぐたっと来ます。弱さを感じます。この暑さ中で、疲れ、たゆみ、つまづき倒れ、それでも、また、立ち上がって、前進して行くためには、力が、必要です。信仰の力、心の力、魂の力が必要です。どうしたら、その力を得ることができるでしょうか。

力を得る最善の方法は、これだと、聖書は言っています。
イザヤ40:31 しかし、主を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように翼をかって上ることができる。走ってもたゆまず、歩いても疲れない。

生きる力、魂の力、信仰の力、霊的な力を得る秘訣がここにあります。
「主を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように翼をかって上ることができる。走ってもたゆまず、歩いても疲れない。」
これは、どういうことでしょうか。これは、まず第一に、心と身体を休ませ、そこで、主イエス・キリストを待ち望むことだと、聖書は言います。
休むことが大事です。でも、それだけではダメで、天地創造の神、主を待ち望むこと、キリストを待ち望むことが、大切なのです。なぜなら、私たちの弱った身体、弱った心、弱った信仰、弱った魂を、真に、強くできるのは、私たちの創造者、無から天地を創造され、私たちを創造された、神しか、できないのです。

イザヤ40:28 あなたは知らないのか。聞いていないのか。主は永遠の神、地の果てまで創造された方。疲れることなく、たゆむことなく、その英知は測り知れない。イザヤ40:29 疲れた者には力を与え、精力のない者には活気をつける。

私たちの信仰の旅、信仰の戦いは、この「永遠の神、地の果てまで創造された方。疲れることなく、たゆむことなく、その英知は測り知れない」生ける神=イエス・キリストによって、回復が与えられるのです。
イエスは、「疲れた者には力を与え、精力のない者には活気をつける。」お方なのです。

新約聖書の中に、イエス・キリストがいかに、私たちの疲れをいやし、回復を与えるかが、次の二つの言葉で、良くあらわされています。
 
第一のことばは、ヨハネ4: 13イエスは答えて言われた。「この水を飲む者はだれでも、また渇きます。ヨハネ4: 14しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。」

まず、最初に、イエスは、イエスを信じる者に、「永遠のいのちへの水がわき出る泉」(ヨハネ4:14)となる水を、私たちに与えると言われます。そこで強調されていることは、この世の普通の水は、飲んでもまた、乾きますが、イエスが与えてくださる水は永遠のいのち、永遠の回復、をもたらす、ということです。
次に、イエスの第二のことばは、
ヨハネ6:35 イエスは言われた。「わたしがいのちのパンです。わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません。

イエスは、「いのちのパン」を与えると言われています。これは、荒野でイスラエルの民に与えられたマナとは違って、このパンを食べる者は、十分に満足し、永遠に生きます。普通のパンを食べてもいずれは死にますが、このパンは永遠のいのちが、その人の中に、生まれるのです。
イエスは私たちに、「永遠のいのちへの水」下さり、また、「いのちのパン」を下さって、私たちの信仰の戦い、信仰の旅路を、支えられ、養われるのです。

では、「キリストが与える水を飲む」とは、「パンであるキリストを食する」とはどのような意味でしょう。これは、イエス・キリストを信じ、イエスにすべてをより頼むことです。自分の身をゆだねることです。また、イエスに従うことです。

そして、それは、第一に、教会で、また、個人でも、神を礼拝することによって、キリストが与える、「永遠のいのちへの水」と「いのちのパン」をいただくことができます。礼拝とは、神の前にひざまづくことです。輝きと栄光に満ちた神に対する、人間の応答です。
私たちは、礼拝を通して目を天に向け、私たちの造り主であり、贖い主であるイエスを、礼拝する時、方の、私たちの魂と、心と、身体は、回復させられるのです。礼拝を通して、元気づけられて、「新しく力を得」新しい献身の思いと、新しくされた力が与えられて、「鷲のように翼をかって」再び信仰生活を、始めることができるのです。
公の礼拝に出ることは、主を待ち望んでいる証拠です。だから、礼拝に出ることによって、力が与えられる、回復が与えられるのです。
(個人の家で、また、野原で、電車を待つ間でも、神を礼拝することができます、礼拝は、神の前にひざまづくことから始まります)

預言者イザヤも、神殿の中で、礼拝してた時に、主の幻を見ました。その幻の中で神の栄光が輝き、イザヤを圧倒します。神の栄光に満ちた輝きの中で、イザヤは、自分はこれほど素晴らしい主の栄光の中にいる、ことは許されていない罪人だと知って、イザヤは突っ伏し、愕然としました。しかし、その時、誰がわたしのために働くのか、と言う主の言葉を聞いたのです。その時、イザヤはこう言いました。「ここに、私がおります! 私を遣わしてください!」
神の素晴らしい栄光に満ちたご臨在は、イザヤに、新しく立ちあがっていく力をもたらしたのです。

そして、主は、イザヤにこう約束をしてくださったのです。
イザヤ40:30 若者も疲れ、たゆみ、若い男もつまずき倒れる。
イザヤ40:31 しかし、主を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように翼をかって上ることができる。走ってもたゆまず、歩いても疲れない。

これは、今は、私たちに与えれた約束です。

さて、主を待ち望むことで、もうひとつのことを考えましょう。それは、私たちは、また、この信仰の旅路を行くためには、自分より前に旅をして、今は、神の国へ行き着いた人々の足跡から、学ぶことによって、主からの励ましを与えられる、ということです。

私たちのキリスト信仰は、一朝にして私たちに、伝えられて、私たちの所にきたのではありません。信仰の先人たちがいたのです。(私が信仰を持てた恩人がいます)
マーガリット・エミー・バーネットは、今から131年前、1878年 イギリスのノリッチ市で英国教会の牧師の一人娘として生まれた。 1891年 母が死去(バーネット13歳) 。1904年 26歳の時、聖霊の満たしを経験し、献身を決意して、宣教師としてインドか中国へ行くことを祈る。 1908年30歳 日本伝道隊に関心を持つ。 1909年31歳 ケズィック・コンベンションに出席して、日本でのバゼット・ウィルクスの働きを聞き。ロンドンで行われた日本伝道隊の集会に出席し始めた。 1917年 39歳の時、父が死去する(84歳)、その年末に日本伝道隊の宣教師として日本に向けて旅立ち、横浜に着いた。有馬聖会に出席して、鉱山宣教団の宣教師のアピールに答えて立ち上がった。 1920年42歳のとき、 舟喜麟一と共に足尾町で伝道活動を始める。大間々町、境町に伝道を拡大して行った。 1923年45歳のとき、 舟喜麟一と共に、セントラル・ジャパン・パイオニア・ミッションを設立した。栃木県、群馬県、埼玉県への伝道のビジョンを持った。イギリスに一時帰国する。 1927年 前橋に移り伝道を開始する。戦争中は戦時中敵性国民として軟禁されていた。 1950年 福音伝道教団理事長に就任する。 1951年 73歳で、日本で、死去、日本の土になった。
バーネット26歳の時、村の小学校の校長をしていた。霊的には、信仰があるのかないのか、最悪の状態。また、心は罪の葛藤で苦しみ続けていた。父の留守中の代理牧師としていらっしゃった宣教師のおくさんは、一ケ月の滞在期間中、インドにおける働きの暗いところばかりを話して下さいました。恐ろしい砂あらし、酷暑、熱病、夜の物音、けんかしている宣教師たち。この方は、六年間の苦しい宣教活動の中で一人も悔い改める人がおこらず、自分の健康もそこなわれましたが、少しも落胆している様子もなく、私には彼女の気待がわかりませんでした。 

その夏、一つの大事な霊的ステップがありました。それは、私がもし本当のクリスチャンになるなら、キリストの為にどこへつかわされても、どんなことでも我慢しなければならないということに気づいたことです。もし、この事を主に告白するなら、エスキモーの所へつかわされるかもしれないし、その寒さが恐ろしく思われましたが、それでも主の為なら従がわねばならないと思いました。

この霊的ステップは、あの宣教帥のおくさんが去られる数日前のことでした。おくさんが去ってしまい、悲しく、淋しくなって、彼女の使用していた部屋に入ってみました。すると、テーブルの上に白い本がおいてあり、それはリーダー・ハリス夫人の″聖霊のみたし″はどういうふうに受けるかという本でした。おくさんは私のように幾分恥しがりやで、私に直接渡す大胆さがなかったので、そこにおいていったのでした。私は、溺れるものはわらをもつかむ人のように、その本を真剣に読みはじめ、すぐにわかったことは、この本の著者は私の問題の解決方法を知っているということでした。それで夜の十一時まで息もつかずに読み通し、聖霊のみたしの道をはっきりと見い出しました。
 
そこで、私はひざまづいて本に書いてある三つのステップを行ないました。
第一に、神に無条件に降伏しました。このことは数日前にしたことでしたが、更に深く心の中の思いにおいても全く降伏しました。
第二は、ロマ書六章、ガラテヤニ・十にあるように、自分はキリストと共に十字架につけられ、葬られ、甦えらされたものだと計算しました。このことは充分わかりませんでしたが、御言葉どうりにしました。
第三は、ルカ十一・十三の約束にしたがって、聖霊を求め、聖霊が私のうちに入られたことを信じ、聖霊が私を占領して下さったことを感謝しました。
 
以上のことは私にとって本当に新しい光でした。なぜなら、今迄なにか神秘的な経験によって分かると思っていましたのに、ここには神のことばをただ信じて、安息することが書かれてあったからてす。私は、主が静かに私の中に入られたことを信じて、その夜、床につきました。
 
次の朝、新しい世界の中に目がさめました。ようやく、私の経験の中で″古いものが過き去って、みよ、全てが新しくなった〃という思いが入って来ました。なにかわくわくさせる経験ではなく、静かで平安と力に満ちた経験でした。

神のことばへの疑い、高教会の考えに傾くこと、世的な考え、などが夜の霧か朝日のまえに消えるように、私の心の中から消え去っていきました。私にとって聖書は新しい本になり、祈りは楽しいものになりました。
心の底から、まだ福音が伝えられていない人々に神の愛を伝えなければならないという思いが、非常に強く燃え始めました。

この年、バーネットは、宣教師になる決心をし、そして、準備をして、39歳のとき、日本の横浜に着いたのです。
私(金井)はこのバーネット先生の信仰をとても感謝していますし、こうした自分の一生を、日本の宣教のために献げてくださった方がいるから、自分がいることを思いますし、こうした先人達の献身と信仰の歩みを、思うときに、勇気と力がわいてくるのです。

イザヤ40:30 若者も疲れ、たゆみ、若い男もつまずき倒れる。
イザヤ40:31 しかし、主を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように翼をかって上ることができる。走ってもたゆまず、歩いても疲れない。

このみ言葉は、私たちのキリスト信仰の人生の旅では、どんな時でも、どんなに戦いが激しくても、それに疲れ果てても、キリストは、私たちに力を与え、もう一度、立ち上がっていくことができる、ことを約束しています。
私たちは、疲れた時には、ゆっくり身体を休ませ、キリストを想い、キリストを礼拝して、新しい力をいただいて、天国への旅を、この道を上っていきましょう。
そして、2テモテ 4: 7 私は勇敢に戦い、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました。 2テモテ4: 8 今からは、義の栄冠が私のために用意されているだけです。かの日には、正しい審判者である主が、それを私に授けてくださるのです。と、天国での金メダル、義の栄冠、をともに頂きましょう。
 アーメン。