説教題 主のみこころなら生きていて
聖 書 ヤコブ書4章13-15節
きょうは、自分の人生設計をどうするか、と言うことを聖書から、考えてみましょう。
私たちは、自分で自分の人生設計をたてます。しかし、現実は、自分で描いているようには、なかなか、ならないのではないでしょうか。しかし、だからと言って、それで、不幸になることではないと思います。
もし、比較的に、順調に、自分の思い描くような、人生を送って来れたとします。そうすれば、確かに、気持ちがいいし、自分に自信がつきます。また、満足することかもしれません。しかし、そこに、大きな落とし穴があると、聖書は言っています。
ヤコブ 4:13 聞きなさい。「きょうか、あす、これこれの町に行き、そこに一年いて、商売をして、もうけよう」と言う人たち。
ヤコブが、ここで描いている状況は、彼の読者たちには、よく知られたものであった、だろう。
ユダヤ人は、古代世界の大貿易商であった。そして、古代世界には、ユダヤ人が、商業的な才能を、駆使できる機会が多くあった。
紀元一世紀は商業活動が大きく展開した時代であり、特にパレスチナにおける、ギリシャ文化の栄えた町、(例デカポリスなど) では、いろいろな種類の商業が栄えていた。
多くのユダヤ人たちは、このような商売で、行き来しており、かなりの数の者たちが、商業的な理由で、地中海世界の町々に住み着いていた。というのも、しばしば、ユダヤ人は、無条件で、市民権を与えられた。ユダヤ人がやってくるとことには、お金も、貿易も集まったからです。
その商売上手なユダヤ人は言います。「きょうか、あす、これこれの町に行き、そこに一年いて、商売をして、もうけよう」と。
つまり、こうです。
「ここは、大貿易ができそうな新しい都市だ。ここへ行こう。そして、都市建設者たちの仲間になり、1,2年、滞在して、商売でひと儲けして帰ってこよう。」と言っているのです。この人たちは、自分のすることに自信があり、人生設計を細かくしています。しばしば、人は、そういう人を、賢者、賢い人だ、と言います。
しかし、神は、その自信に満ちて、自分で自分の人生を計画できると思っている人「きょうか、あす、これこれの町に行き、そこに一年いて、商売をして、もうけよう」に、
「聞きなさい。」と、呼びかけます。この言い方、そのニュアンスに、警告が含まれることがわかります。神はこう言われます。
ヤコブ 4:14 あなたがたには、あすのことはわからないのです。あなたがたのいのちは、いったいどのようなものですか。あなたがたは、しばらくの間現われて、それから消えてしまう霧にすぎません。
「あなたがたには、あすのことはわからないのです」「あなたがたは、しばらくの間現われて、それから消えてしまう霧にすぎません」
自信にあふれたて、自分の人生設計を、自分で思いのままにできると、思っている人に神は、こう言うのです。「あなたがたには、あすのことはわからないのです」「あなたがたは、しばらくの間現われて、それから消えてしまう霧にすぎません」
ここでは、人のいのちが、「霧」になぞらえられています。ここで、ヤコブが、明らかに強調しよぅとするのは、私たちの、この地上で与えられている、いのちの時間が、ごく短いこということです。
先日も、大田原で、雪でスリップした車が、対向車線に出てしまって、そこを通りがかった、乗用車に、正面衝突して、親子4人乗っていた車の中の、お母さんと2男が、死亡した。何の落ち度もなかったのですが、突然、地上のいのちが断たれた。
このように、事故や、病気による死、自然災害など、私たちの、地上における生活を、短縮することもありうる。それは、ちょうど朝の太陽が、あたりの霧を散らしたり、風の方向が変わることで霧も、さっと吹き散らしてしまう、ようなものである。このようにわれわれの周りで起こる実際の出来事を考えると、人のいのちの短さと不安定さは、よく理解できます。
「あなたがたには、あすのことはわからないのです」「あなたがたは、しばらくの間現われて、それから消えてしまう霧にすぎません」
ヤコブが描く、このようなイメージは、たびたび聖書の中に見出されます。
箴言27: 1 あすのことを誇るな。一日のうちに何が起こるか、あなたは知らないからだ。
また、主イエスは、ルカの福音書のたとえ話の中で、やはり、金持ちが、有り余る冨(穀物)を目の前にして、これで、長年分の食料が、蓄えられたので、あとの人生は、食べる心配をしないで、喜び楽しみを中心に、人生を送ろうと、人生設計をした時、こう自分に言いました。
ルカ12:19 そして、自分のたましいにこう言おう。「たましいよ。これから先何年分もいっぱい物がためられた。さあ、安心して、食べて、飲んで、楽しめ。」』
そのとき、神は、この男にこう言ったというのです。
luke 12:20 しかし神は彼に言われた。『愚か者。おまえのたましいは、今夜おまえから取り去られる。そうしたら、おまえが用意した物は、いったいだれのものになるのか。』
さて、ここで、ユダヤの商人たちに、神は、商売が悪いとか、儲けることが悪いとか言っているのではないのです。神が、問題にしているのは、その計画を立てる時の、この世的な考え方にあるのです。人の陥りやすい危険性です。自分の人生は、自分で設計できると思っている、ここに愚かさがあるというのです。
私たちの命も、境遇も、実は、ことごとく、天地創造、我らを創造した神の、ご主権のもとにあるのです。私たちのいのちは、神の御手に握られているのです。私たちの人生の設計、人生計画は、神がお持ちなのです。わたしたちの、この地上のいのちは、神が指一本触れれば、たちまち、消えてしまうのです。
つまり、この神を排除して、いくら、自分の人生計画、人生設計をしたところで、それらは、たちまち、消えていく霧に、過ぎないということなのです。神の前に、愚かなこと、なのです。さらに、いうなら、神を排除して、自分の人生計画、人生設計を、実現できるかに、自信を持って生きることは、自分を神の地位におく、傲慢いきかたであり、これを、聖書は、「罪」と呼んでいるのです。
では、私たしは、どう生きればよいのでしょうか。自分の人生を良く生きるのは、どうしたらよいか 、良く考えること、自分の人生設計を、考えることは悪いことではないんです。その時の、私たちの、根本的な態度が、大切です。その根本的な態度とは、どういうものか、聖書は、こう言っています。
ヤコブ4:15 むしろ、あなたがたはこう言うべきです。「主のみこころなら、私たちは生きていて、このことを、または、あのことをしよう。」
「主のみこころなら、私たちは生きていて、このことを、または、あのことをしよう。」
これが、私たちのとるべき、根本的な態度、スタンス=寄って立つところ、だというのです。
この姿勢は、どんなことがあっても、主の愛を信じ、主の導きにしたうということ。そして、
自分の人生は、神が計画している、人生設計があることを信じて、自分の人生設計のすべてを、希望をもって、主のみこころに委ねる、と言うことなのです。
その時、神が私たちに計画している、人生設計、を自分のものとして、生きることができるのです。その神の人生設計とは、エレミヤ29:11にあります。
エレミヤ29:11 わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ。-主の御告げ。-それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。
神が、私たちに対して、抱いている人生設計は、「れはわざわいではなくて、平安を与える計画であり」「将来と希望を与える」ものなのです。
私たちのいのちが、長らえるのも、神のみこころです。私たちの人生に、神は、みこころをお持ちです。私たちは、自分に対する、神のみこころは何か、訪ねながら、希望をもって、歩んでいくときに、神が、かならず、私たちの人生を、神のみこころのうちに、最善に、導いてくださるのです。そして、どんなことに、出会おうとも、神のみこころに生きようとする者に、神は、その禍をも益に、変えてくださるのです。
ローマ8:28神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。
私たちの人生設計は、未来の不確実性に、おそれおののくのではなく、また、自分の人生を考えずに、ただ、時間のすぎるに任せるような、無気力な生き方になるのでもなく、自分の人生は、神の愛の御手の中にあることを信じて、神が今、与えられた場所、与えれた境遇の中で、神の希望の計画を信じて、自分にできる最善を、尽くしていくことではないでしょうか。私たちは、こうありたいと思います。
ヤコブ4:15 むしろ、あなたがたはこう言うべきです。「主のみこころなら、私たちは生きていて、このことを、または、あのことをしよう。」
私の今の生き方も、これしかないと思っています。
私の高崎開拓伝道。今年は、開拓5年目を迎えます。
「主のみこころのままに、主の導きに従って」 これが、モットーです。
ヤコブ4:15 むしろ、あなたがたはこう言うべきです。「主のみこころなら、私たちは生きていて、このことを、または、あのことをしよう。」
アーメン。
聖 書 ヤコブ書4章13-15節
きょうは、自分の人生設計をどうするか、と言うことを聖書から、考えてみましょう。
私たちは、自分で自分の人生設計をたてます。しかし、現実は、自分で描いているようには、なかなか、ならないのではないでしょうか。しかし、だからと言って、それで、不幸になることではないと思います。
もし、比較的に、順調に、自分の思い描くような、人生を送って来れたとします。そうすれば、確かに、気持ちがいいし、自分に自信がつきます。また、満足することかもしれません。しかし、そこに、大きな落とし穴があると、聖書は言っています。
ヤコブ 4:13 聞きなさい。「きょうか、あす、これこれの町に行き、そこに一年いて、商売をして、もうけよう」と言う人たち。
ヤコブが、ここで描いている状況は、彼の読者たちには、よく知られたものであった、だろう。
ユダヤ人は、古代世界の大貿易商であった。そして、古代世界には、ユダヤ人が、商業的な才能を、駆使できる機会が多くあった。
紀元一世紀は商業活動が大きく展開した時代であり、特にパレスチナにおける、ギリシャ文化の栄えた町、(例デカポリスなど) では、いろいろな種類の商業が栄えていた。
多くのユダヤ人たちは、このような商売で、行き来しており、かなりの数の者たちが、商業的な理由で、地中海世界の町々に住み着いていた。というのも、しばしば、ユダヤ人は、無条件で、市民権を与えられた。ユダヤ人がやってくるとことには、お金も、貿易も集まったからです。
その商売上手なユダヤ人は言います。「きょうか、あす、これこれの町に行き、そこに一年いて、商売をして、もうけよう」と。
つまり、こうです。
「ここは、大貿易ができそうな新しい都市だ。ここへ行こう。そして、都市建設者たちの仲間になり、1,2年、滞在して、商売でひと儲けして帰ってこよう。」と言っているのです。この人たちは、自分のすることに自信があり、人生設計を細かくしています。しばしば、人は、そういう人を、賢者、賢い人だ、と言います。
しかし、神は、その自信に満ちて、自分で自分の人生を計画できると思っている人「きょうか、あす、これこれの町に行き、そこに一年いて、商売をして、もうけよう」に、
「聞きなさい。」と、呼びかけます。この言い方、そのニュアンスに、警告が含まれることがわかります。神はこう言われます。
ヤコブ 4:14 あなたがたには、あすのことはわからないのです。あなたがたのいのちは、いったいどのようなものですか。あなたがたは、しばらくの間現われて、それから消えてしまう霧にすぎません。
「あなたがたには、あすのことはわからないのです」「あなたがたは、しばらくの間現われて、それから消えてしまう霧にすぎません」
自信にあふれたて、自分の人生設計を、自分で思いのままにできると、思っている人に神は、こう言うのです。「あなたがたには、あすのことはわからないのです」「あなたがたは、しばらくの間現われて、それから消えてしまう霧にすぎません」
ここでは、人のいのちが、「霧」になぞらえられています。ここで、ヤコブが、明らかに強調しよぅとするのは、私たちの、この地上で与えられている、いのちの時間が、ごく短いこということです。
先日も、大田原で、雪でスリップした車が、対向車線に出てしまって、そこを通りがかった、乗用車に、正面衝突して、親子4人乗っていた車の中の、お母さんと2男が、死亡した。何の落ち度もなかったのですが、突然、地上のいのちが断たれた。
このように、事故や、病気による死、自然災害など、私たちの、地上における生活を、短縮することもありうる。それは、ちょうど朝の太陽が、あたりの霧を散らしたり、風の方向が変わることで霧も、さっと吹き散らしてしまう、ようなものである。このようにわれわれの周りで起こる実際の出来事を考えると、人のいのちの短さと不安定さは、よく理解できます。
「あなたがたには、あすのことはわからないのです」「あなたがたは、しばらくの間現われて、それから消えてしまう霧にすぎません」
ヤコブが描く、このようなイメージは、たびたび聖書の中に見出されます。
箴言27: 1 あすのことを誇るな。一日のうちに何が起こるか、あなたは知らないからだ。
また、主イエスは、ルカの福音書のたとえ話の中で、やはり、金持ちが、有り余る冨(穀物)を目の前にして、これで、長年分の食料が、蓄えられたので、あとの人生は、食べる心配をしないで、喜び楽しみを中心に、人生を送ろうと、人生設計をした時、こう自分に言いました。
ルカ12:19 そして、自分のたましいにこう言おう。「たましいよ。これから先何年分もいっぱい物がためられた。さあ、安心して、食べて、飲んで、楽しめ。」』
そのとき、神は、この男にこう言ったというのです。
luke 12:20 しかし神は彼に言われた。『愚か者。おまえのたましいは、今夜おまえから取り去られる。そうしたら、おまえが用意した物は、いったいだれのものになるのか。』
さて、ここで、ユダヤの商人たちに、神は、商売が悪いとか、儲けることが悪いとか言っているのではないのです。神が、問題にしているのは、その計画を立てる時の、この世的な考え方にあるのです。人の陥りやすい危険性です。自分の人生は、自分で設計できると思っている、ここに愚かさがあるというのです。
私たちの命も、境遇も、実は、ことごとく、天地創造、我らを創造した神の、ご主権のもとにあるのです。私たちのいのちは、神の御手に握られているのです。私たちの人生の設計、人生計画は、神がお持ちなのです。わたしたちの、この地上のいのちは、神が指一本触れれば、たちまち、消えてしまうのです。
つまり、この神を排除して、いくら、自分の人生計画、人生設計をしたところで、それらは、たちまち、消えていく霧に、過ぎないということなのです。神の前に、愚かなこと、なのです。さらに、いうなら、神を排除して、自分の人生計画、人生設計を、実現できるかに、自信を持って生きることは、自分を神の地位におく、傲慢いきかたであり、これを、聖書は、「罪」と呼んでいるのです。
では、私たしは、どう生きればよいのでしょうか。自分の人生を良く生きるのは、どうしたらよいか 、良く考えること、自分の人生設計を、考えることは悪いことではないんです。その時の、私たちの、根本的な態度が、大切です。その根本的な態度とは、どういうものか、聖書は、こう言っています。
ヤコブ4:15 むしろ、あなたがたはこう言うべきです。「主のみこころなら、私たちは生きていて、このことを、または、あのことをしよう。」
「主のみこころなら、私たちは生きていて、このことを、または、あのことをしよう。」
これが、私たちのとるべき、根本的な態度、スタンス=寄って立つところ、だというのです。
この姿勢は、どんなことがあっても、主の愛を信じ、主の導きにしたうということ。そして、
自分の人生は、神が計画している、人生設計があることを信じて、自分の人生設計のすべてを、希望をもって、主のみこころに委ねる、と言うことなのです。
その時、神が私たちに計画している、人生設計、を自分のものとして、生きることができるのです。その神の人生設計とは、エレミヤ29:11にあります。
エレミヤ29:11 わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ。-主の御告げ。-それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。
神が、私たちに対して、抱いている人生設計は、「れはわざわいではなくて、平安を与える計画であり」「将来と希望を与える」ものなのです。
私たちのいのちが、長らえるのも、神のみこころです。私たちの人生に、神は、みこころをお持ちです。私たちは、自分に対する、神のみこころは何か、訪ねながら、希望をもって、歩んでいくときに、神が、かならず、私たちの人生を、神のみこころのうちに、最善に、導いてくださるのです。そして、どんなことに、出会おうとも、神のみこころに生きようとする者に、神は、その禍をも益に、変えてくださるのです。
ローマ8:28神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。
私たちの人生設計は、未来の不確実性に、おそれおののくのではなく、また、自分の人生を考えずに、ただ、時間のすぎるに任せるような、無気力な生き方になるのでもなく、自分の人生は、神の愛の御手の中にあることを信じて、神が今、与えられた場所、与えれた境遇の中で、神の希望の計画を信じて、自分にできる最善を、尽くしていくことではないでしょうか。私たちは、こうありたいと思います。
ヤコブ4:15 むしろ、あなたがたはこう言うべきです。「主のみこころなら、私たちは生きていて、このことを、または、あのことをしよう。」
私の今の生き方も、これしかないと思っています。
私の高崎開拓伝道。今年は、開拓5年目を迎えます。
「主のみこころのままに、主の導きに従って」 これが、モットーです。
ヤコブ4:15 むしろ、あなたがたはこう言うべきです。「主のみこころなら、私たちは生きていて、このことを、または、あのことをしよう。」
アーメン。