神の気前良さに答えて生きる

2012-10-13 | 教会は初めてという人のために
神の気前良さに答えて生きる

 
マタイ20:1 天の御国は、自分のぶどう園で働く労務者を雇いに朝早く出かけた主人のようなものです。

さて、マタイ20:1-16の、このイエスのたとえ話は、こうです。
大きなぶどう園の農場主が、収穫時期だったので、多くの人手が必要だった。そこで、農場主は、町の広場、市場へ出かけて行って、人々を雇ったのです。
主人は、労働者を、雇うために、朝早くから、市場へと出かけます。

まず、早朝6時ごろです。次にまた、出かけて行って、9時ごろ、次にまた正午ごろ、次にまた3時ごろ、これで終わりかと思ったら、なんと、日没直前の5時ごろにも行って、働き手を雇ってきます。
一日5回も出かけました。
(当時の労働時間は、通常は、朝6時から夕方6時までだったようです)。

この主人は、朝6時に雇われた労働者と、一日1デナリの賃金を支払う、約束事がなされます。その他の時間に雇われた労働者たちにも、ふさわしい賃金を支払うことを約束します。
そして、日が暮れて6時、一日の労働を終えて主人は、最後に5時から雇った人々から順番に、賃金を支払った。すべての労働者たちが見守っていると、なんと、5時から働いた人、1時間しか働かなったんですが、1デナリを支払ったのです。
ほかの人々は、うわーこれでは、自分たちは、これは、1デナリ以上もらえるに違いないと、わくわくさせていましたが、3時、12時、6時と、順々に、1デナリを支払ったのです。

早朝6時から人は、一番早く来て、一番多くの時間を働いたのだから、きっと、そうとうボーナスがついてくるのではないかと期待していた。それで、支払の順番が、最後になったことも我慢していました。ところが、自分の番が来て、受け取った賃金は、1デナリ、ポッキリでした。
すると、不満が爆発します。→12節を読む。
マタイ20:12 言った。『この最後の連中は一時間しか働かなかったのに、あなたは私たちと同じにしました。私たちは一日中、労苦と焼けるような暑さを辛抱したのです。』

しかし、契約通り、賃金を支払った、農園主は、
マタイ20:13 しかし、彼はそのひとりに答えて言った。『私はあなたに何も不当なことはしていない。あなたは私と一デナリの約束をしたではありませんか。
とはっきりおっしゃって、
マタイ20:14 自分の分を取って帰りなさい。ただ私としては、この最後の人にも、あなたと同じだけ上げたいのです。
とおっしゃいました。
こういう話を、イエスがしてくださったのです。

さて、このたとえ話は、何を意味しているのでしょうか。その中心は、何でしょうか。
まず、このたとえは、これが正しい経済的なあり方、また、雇主と労働者の関係の手本として、語られたのではありません。

さて、ここで、このぶどう園の農場主は、神ご自身であり、イエス様、をさしています。

つまり、神とはそのような方であるということである。神は気前良いお方である、ということです。
ここに、このたとえ話の中心があります。
神の気前の良さは、人間の公平さについての考えを超越しています。自分の働きの大きさに、見合った額よりも、少ない額を、喜んで受け取る者はだれもいないが、自分の働きの大きさに、見合った額よりも、はるかに多い場合は、人は、喜んで、それを受け取ります。

当時のユダヤ社会では、労働者の最低賃金の保証もなく、労働者を保護する労働組もなく、雇用者は、労働者を、文字どおり「自分の思うように」していたのです。
ですから、このたとえに出てくる農園の主人は、当時の常識、慣習から言っても、非常に、「思いやりがあり、貧しい者への同情心に満ちた、心の広い、主人であることがわかります。(この話を聞いていた人は、そう思ったに違いない)。

神は気前良いお方である、ということです。ここに、このたとえ話の中心があります。

しかし、この神の気前の良さは、自分の働きに、契約通りに賃金を受け取ったにもあかわらず、朝早くから働いた者たちには、憤慨となり、神の気前良さが、非難されています。
午後5時からの賃金と、朝6時からの賃金と、同じでは、それを知った、朝6時から働いた人は、憤慨しても当然、主人を非難しても、人間的に見れば、当然のように思えます。

しかし、神は気前良いお方である、ということです。そして、ここに、神の救い、イエス・キリストの救いの本質があるのです。

このたとえの中で、「ぶどう園」とは何でしょうか。それは、人々の喜びの場、恵みの感謝の場です。=天国、を指しています。このぶどう園の主人、すなわち主イエスが、
マタイ20:7 彼らは言った。『だれも雇ってくれないからです。』彼は言った。『あなたがたも、ぶどう園に行きなさい。』、と言われること自体、「神の救い、その恵みに導き入れられること」を、お示しになっているのです。

早朝6時ごろ、9時ごろ、また12時ごろ、また3時ごろ、夕方5時ごろ、・・これは、救いに導きいれられる人生の時期を示しています。
子供頃か、高校生か、青年の頃か、壮年か、熟年か、そして、老人になってか、
いづれにしても、主イエスは、その人を救い中に、招き入れ、天国という報酬を与えてくださるのです。

人生のたそがれ時になって、やっと救いにめぐり合うことができた人、それが、午後5時の人です。
でも、その報酬は、子供のころから救われた人と、同じ、天国の報酬がもらえるのです。これを、不公平と言えるでしょうか。
いえ、不公平ではなく、神の恵みが大きいと言うことなのです。

人生のたそがれ時になって、やっと救われても、神のための働きは、ろくにできないのではないか。人の目から見れば、その通りです。
しかし、主イエスは、思いやりがあり、同情心に満ちた、心の広い、お方なのです。この主イエスは、まことの神は、気前が良いのです。
一人一人を、比較はしません。

むしろ、私ちた見なくてはならないのは、忘れてはならないのは、主イエスは、朝早くから、救われる人を探し求め、救いに招いている、ということです。
ぶどう園の主人、イエス様は、朝早くから夜遅くまで、広場に来て、市場に来て、労働者を雇うために=天国への招きに、出かけてくれます。この広場、市場とは、この世の中です。今、私たちが置かれているこの世です。

主イエス・キリストは、昨日も今日も明日も働いて下さるのです。主イエスは、人生の夕暮れ時まで、取り残された者を助けるために、その人の生きがいのある働きの場を与えるために、さびしい広場、市場に、来て下さるのです。夕暮れの広場に、たたずむ、人々の心の底まで、思いやることのできる方なのです。

農園主に文句を言った人、朝6時から働いてきました。一日中労苦と暑さに耐えたことは、感動を与えるものです。しかし、与えられた救いに、文句を言っています。
天国の報いが、社会に貢献した量で決まるのと思っている人々が、天国が示されても、まだ、文句を言っている人々です。
ここに自己義認の姿があります。(自分で自分を正しいとする姿です、また、何が正しいかを自分で決める姿です)。

しかし、キリストの救いの本質は、そこにはありません。
実は、このぶどう園の主人のたとえ話は、放蕩息子のたとえ話、と似ています。

大きな農場主のお父さんに、二人の息子がいて、弟息子の方は、お父さんの農場に嫌気がさして、勝手に家を出て行った。しかも、自分の財産の分け前を、お金にしてもらっていってしまった。このお弟息子は、都会で、放蕩の末、食べるにも困って、そして、気が付いて、お父さんおところへ帰って行った。
お父さん、ごめんなさい、と言って、悔い改めて、お父さんお農場にもどったのですが、お父さんは、この弟息子を、咎めるどこか、帰ってきたことを大いに喜んで、しかも、自分から、豚の糞尿まみれで臭く汚い、この弟息子を、自分から、近づいていって、「良く帰ってきたね」と言って、抱きしめてくれた。
そればかりでなく、すぐに風呂に入らせて、きれいさせ、着物もすべて、新しいものを着せ、しかも、子牛をほふって、料理させ、お祝いをしてくれたのです。
この放蕩息子でも、農場主は、天の神様、イエス様をあらわしており、そして、イエスに救えわれるとは、こういうことだと、示している、お話です。

ローマ4: 5 何の働きもない者が、不敬虔な者を義と認めてくださる方を信じるなら、その信仰が義とみなされるのです。
放蕩息子の話は、この言葉を、示しています。
そして、ぶどう園の主人の報いも同じです。

放蕩息子の話でも、お兄さん息子の方は、家から出ないで、一生懸命、働いていたが、放蕩して、自分の分け前の全財産を使い果たしてきた、弟息子へのお父さんの待遇が、良すぎるので、怒って家に入らなかった、とあります。
ここも、良く似ています。

ぶどう園の主人の報いも、放蕩息子の話での、お父さんの報いも、同じことを意味しています。
それは、まったくふさわしくないが、父のもとに帰ったら、とてつもない報酬が、与えられた、ということです。

これは、イエス・キリストの十字架の恵みが、とてつもなく大きい、ことをあらわしています。

キリストの十字架は、誰のためだったか。それは、優秀な人のためだだけではない。放蕩息子のためであもあり、人生の悲しみと嘆きの中で、死の力に呑み込まれ、信仰も望みも、なえて、しまっているような人のためでもありました。

あの創世記3章にある、人の罪の始まりより、あとに生まれた、私たちは、罪を犯すこともできるが、罪を犯さないこともできる自由が、罪によって、ゆがみ、今の私たちは、罪を犯さなくては、生きていけない人になっているのです。

しかし、主イエスは、私たちの罪をすべてその身に背負い、十字架の死によって罪を贖ってくださいました。ですから、誰でも、救い主イエスの姿を仰ぐとき、死のトゲである罪は抜き取られ、死は、キリストの復活によって、征服され、たとえ、私たちが死んでも、やがて、キリストのように復活します。死は、よみがえりへの通過点として、望みの道につながります。

主イエスに結ばれて死んだ者は、死を超える復活の命の望みの中にいます。天天国で、主イエスのみそばで、憩いを得ているのです。
キリストの十字架は、惨めで無力に見えます。しかし、神の目から見たら、な十字架の姿の中に、神の栄光を見るのです。

私たちは、誰でもすべての人が、主イエスを信じ受け入れるなら、その十字架の贖いのゆえに、罪と死の支配の中から救い出され、神の恵みによる愛と命の支配の中に移されていることを知るのです。

◎神の国、神の支配は、逆らう者を滅ぼし尽くすような激しさをもって現れたのではありません。もしそうなら、私たちは皆、自らの罪のゆえに滅ぼされてしまったはずです。
神の支配は、愛において現されました。逆らう者をも愛し抜き、罪人を義人へと造りかえる恵みの支配として現されました。十字架の愛において現れたのです。
「あなたがたもぶどう園に行きなさい」
ここに、主イエスの愛の招きがあります。救いへの招きがあります。神の選びがあります。

信仰をもってこの招きに答えましょう。その報酬は、天国と言うすばらしい神の御国へはいることの報酬が、与えられるのです。

マタイ20: 8 こうして、夕方になったので、ぶどう園の主人は、監督に言った。『労務者たちを呼んで、最後に来た者たちから順に、最初に来た者たちにまで、賃金を払ってやりなさい。』
マタイ 20: 9 そこで、五時ごろに雇われた者たちが来て、それぞれ一デナリずつもらった。
神とはこのような方であるということです。神は気前良いお方である、ということです。神が与える「報い」は、人の計算とは違います。
神は気前良いお方である、ということです。

では、私たちのこの、気前の良い神に答えて、この残された人生を、このとてつもない大きな恵みをくださった、神のため、主イエスのために、時間を使って行こうではありませんか。

アーメン。

預言者ハバククが示した「救い」

2012-10-05 | あなたへの聖書メッセージ


  預言者ハバククが示した「救い」 

預言者ハバククが活躍したのは, エルサレム神殿の崩壊(前587年)の約20年前、「カルデヤ」人のネブカデネザル王のバビロニア帝国の世界制覇の野望がユダ王国にも及びつつある時代に、ハバククは主の預言者として活動した。

そして、彼の預言が語られて10年も経たないうちに,前597年に,エルサレムがバビロニア軍によって包囲されるという事態が起きたと考えられる。そのような危機的な時代に、まことの神の信仰する人の「救い」は、どこにあったのか。
これが、ハバクク書のテーマであり、メッセージです。

さて、実は、ハバククが語り始めるまでに,すでに20年間の長きにわたってエレミヤが「主の言葉」を語っていたにもかかわらず,民は主の言葉に「聞かなかった」(エレ25:3).このような中で,ハバククの預言活動が行われたのですが、そして、事態は、どんどん悪くなっていく。

冒頭の1章2節において、ハバククは、「暴虐だ!」と叫ぶほかない状況。聖書で最初に用いられるのは,大洪水直前の「暴虐で満ちていた」地の絶望的な状況についてである(創6:11,13)、これは、神によりさばかれ滅びるほかないような「不義」に満ちた極限状態を指しています。即ち、あの大洪水直前の状況(創6:11,13)と少しも変わらない,全く滅んでしまっても仕方がないような事態を憂えて,神に助けを求める。しかし、神は救ってくださらない。
そして、「いつまで」そのような状況が続くのですかと、彼は訴えるのである。

ハバクク1: 2 主よ。私が助けを求めて叫んでいますのに、あなたはいつまで、聞いてくださらないのですか。私が「暴虐」とあなたに叫んでいますのに、あなたは救ってくださらないのですか。

ハバククが、一番問題を感じているのは、苦しいのは、
ハバクク 1: 3 なぜ、あなたは私に、わざわいを見させ、労苦をながめておられるのですか。暴行と暴虐は私の前にあり、闘争があり、争いが起こっています。
ハバクク1: 4 それゆえ、律法は眠り、さばきはいつまでも行なわれません。悪者が正しい人を取り囲み、さばきが曲げて行なわれています
この3-4節から推察できるように,彼が助けを求めて叫んでいるのは、バビロニア帝国と言う、外敵が攻めてくるからよりも、実は、国内のすぐ近くで起こっている「暴行と暴虐」(3節b)のゆえであり,悪者が正しい者を抑圧していて,さばき(神の正義)が行われていない事態(4節)のゆえである。
そこでハバククは神に問いかける。
ハバクク 1: 2 主よ。私が助けを求めて叫んでいますのに、あなたはいつまで、聞いてくださらないのですか。私が「暴虐」とあなたに叫んでいますのに、あなたは救ってくださらないのですか。

この間いかけに対して、神はハバククには想像も及ばない方法で契約の民を裁
くと言われる(5節)。悪者の典型であるカルデヤ人によって彼らを裁くと言う
のである(5-11節)。再び、ハバククは神に問う。

ハバクク1:13 あなたの目はあまりきよくて、悪を見ず、労苦に目を留めることができないのでしょう。なぜ、裏切り者をながめておられるのですか。悪者が自分より正しい者をのみこむとき、なぜ黙っておられるのですか。

激しい訴えとなっている、この、二度にわたる彼の「なぜですか?」という問いは,神の義を問うヨブの問いに通じる。神が正しい方で,この世を支配しておられるとすれば,なぜ悪者が勝ち縛り,正しい者が虐げられているのを,神はただ眺めて許しておられるのか。悪者を裁くためにと言って,神はなぜもっと悪い「強暴で激しい」(6節)カルデヤ人を用いて契約の民イスラエルを裁かれるのか。他の人々が,眠っている中で,預言者はただ一人夜中に起き上がって「いつまでですか?」「なぜですか?」と叫ぶのである。

この訴えは不信仰からのものではない.しらけず,忍耐をもって問い続け,神からの答を待つ信仰者の姿がここにある。

「救い」とは
このことは「いつまで救ってくださらないのですか」という2節の問いに対する答えは、3章に至るまで、直接的には与えられていないが、1章と2章には、その答えの示唆があるのです。

では、ハバククは、神が信仰する民を救ってくださるとは、どういうことかと言っているのか。それは、1:2のことばの中に、その示唆がすでにあります。
ハバクク1: 2 主よ。私が助けを求めて叫んでいますのに、あなたはいつまで、聞いてくださらないのですか。
私が「暴虐」とあなたに叫んでいますのに、あなたは救ってくださらないのですか。
ここに、神が「聞く」ということと、「救い」という言葉が、並んで出てきます。
「救う」と「聞く」とは,旧約聖書の中でしばしばワードペアとして用いられる。例えば,イザヤ59:1
イザヤ59:1見よ。主の御手が短くて救えないのではない。
その耳が遠くて、聞こえないのではない。
ここでは,主なる神が、その力強い「御手」で救うことが,神の、その「耳」で聞くことと対応していることがわかります。

ハバククも、信仰者が、神に助けを求めて、叫ぶ、祈る、その訴えに,神が「聞いて下さる」ことが「人の救い」につながると、理解しているのです。

まず、人の救いとは、主なる神が、悩む者の叫びを聴いてくださることから始まります。そして、神が人の叫び、訴え、祈りを、聞いてくださることが「救い」の始まりであり、神の救いが始まっているから、その人は、大変な状況、また、苦しみから解放をもたらされたと言えるのです。

詩篇では、そのことをたくさん歌っています。(その中の一つ)
詩篇34: 6 この悩む者が呼ばわったとき、主は聞かれた。こうして、主はすべての苦しみから彼を救われた。

イエスが誕生する前に、老人、祭司ザカリヤの祈りを、主は、聞かれて、妻エリサベツは、ヨハネを身ごもりました。
ルカ1:13 御使いは彼に言った。「こわがることはない。ザカリヤ。あなたの願いが聞かれたのです。あなたの妻エリサベツは男の子を産みます。名をヨハネとつけなさい。
もう一度、詩篇145:19では、
詩篇 145:19 また主を恐れる者の願いをかなえ、彼らの叫びを聞いて、救われる。
とあり、主なる神が、私たちの叫びを書くことは、神が私たちを、救うことである、ことがわかります。

◎本気で、主なる神に、叫び求めてください。主なる神は、その叫びを必ず、聞かれます。それは、神の救いにあずかった、神の救いが始まった、と言うことなのです。神が、良くわからないという方は、これを、まず、実行してみてください。
しかしながら,「あなたはいつまで、聞いてくださらないのですか。あなたは救ってくださらないのですか。」という、ハバククの冒頭の問いに対して、ようやく与えられた、主なる神からの答えは、2章4節後半でした。
ハバクク2: 2 主は私に答えて言われた。幻を板の上に書いて確認せよ。これを読む者が急使として走るために。
ハバクク 2: 3 この幻は、定めの時について証言しており、終わりについて告げ、まやかしを言ってはいない。もしおそくなっても、それを待て。それは必ず来る。遅れることはない。
ハバクク 2: 4 見よ。彼の心はうぬぼれていて、まっすぐでない。しかし、正しい人はその信仰によって生きる。

「正しい人はその信仰によって生きる。」=「義人は、信仰によって生きる」。
これが、神の答えでした。

これは、どういうことでしょうか。
次の2章5節以降、のことばの意味から、分かることがあります。
「生きる」に対いて、「生きない」者の姿、すなわち、救いのない人の姿を、描写しています。
ハバクク 2: 5 実にぶどう酒は欺くものだ。高ぶる者は定まりがない。
彼はよみのようにのどを広げ、死のように、足ることを知らない。
彼はすべての国々を自分のもとに集め、すべての国々の民を自分のもとにかき集める。
ハバクク2: 6 ・・・「わざわいだ。自分のものでないものを増し加える者。」
ハバクク 2: 9 わざわいだ。自分の家のために不正な利得をむさぼり、わざわいの手からのがれるために、自分の巣を高い所に据える者

救いのない、生きないものとは、「欺くもの」「高ぶる者」「よみのようにのどを広げ、死のように、足ることを知らない、どん欲な者」「すべての国々の民を自分のもとにかき集める、貪欲な者」すなわち、これが、他人のものを奪い、その弱みにつけ込んで暴虐を行う者たちです。
これは、まさに罪人の姿であって、創世記3章の「堕罪」の時から全然変わっていない人間の本性なのです。

そして、そう言う人の持つ宗教の特徴は、こうだと言うのです。
ハバクク 2:18 彫刻師の刻んだ彫像や鋳像、偽りを教える者が、何の役に立とう。物言わぬ偽りの神々を造って、これを造った者が、それにたよったところで、何の役に立とう。
ハバクク2:19 わざわいだ。木に向かって目をさませと言い、黙っている石に向かって起きろと言う者よ。それは像だ。それは金や銀をかぶせたもの。その中には何の息もない。

「黙っている木や石に向かって目さませ」とか「起きろ」とか言う者であり、その中に「何の息もない」金や銀を被せた木や石を偶像として拝み,拠り頼
む者です。これこそ、聖書が言う、こ「悪者」である。彼らは「物言わぬ偽りの神々を追って」それに頼り、真の神を無視するのである。

そして、私たちの住む世の中の現実が、ここにあります。
このような悪者の罪の世の中にあって、「正しい人はその信仰によって生きる。」=「義人は、信仰によって生きる」とは、どういうことなのか。

生きる、とは、救われるとは、どういうことなのか。
それはまず、2章20節です。
ハバクク2:20 しかし主は、その聖なる宮におられる。全地よ。その御前に静まれ。

信仰によって生きる者は、どこに目を向けるベきであるか。それは、「聖なる官」に座しておられる主なる神にです。

神は今何もなさらないかのように見えても、「とこしえに王として御座に着いておられる」(詩29:10b)のです。悪者が幅を利かせ、世を支配し,好き勝手に振る舞っているように見えても、神である主は、天の王座に座してすべてを治めておられる。
罪人は、やがて、必ず、自分の蒔いた種を刈り取らなければならない。全地よ。主の聖なる御前に「静まれ」。主がこれからどういうことを、なそうとしておられるか、静まって主の「みわざ」を見よ。
と神は、言われます。

そして、神は、天のその聖なる宮から出られて、私たちのところに来られる。

ハバクク3:13 あなたは、ご自分の民を救うために出て来られ、あなたに油そそがれた者を救うために出て来られます。あなたは、悪者の家の頭を粉々に砕き、足もとから首まで裸にされます。セラ

このように神が、出て来られる目的は、「ご自分の民を救うために出て来られ、あなたに油そそがれた者を救うために出て来られます」とあるように、神の民を助け、救うために来られるのです。
さらに、この神の救いは、「悪者の家の頭を粉々に砕き、」とあります。
創世記3章15節のことばを、思い出します。
創世記 3:15 わたしは、おまえと女との間に、また、おまえの子孫と女の子孫との間に、敵意を置く。彼は、おまえの頭を踏み砕き、おまえは、彼のかかとにかみつく。」

つまり、救いは、主の民と主に油注がれた王を「救う」即ち「助ける」ためであるが、さらに、救いと裁きが,神が「出て行かれる」ことによって行使され,同時に実現するのである。悪者の頭が、完全に踏み砕かれることによっても、私たちに、救いがもたらされると言うことなのです。

ハバクク 3:13 あなたは、ご自分の民を救うために出て来られ、あなたに油そそがれた者を救うために出て来られます。あなたは、悪者の家の頭を粉々に砕き、足もとから首まで裸にされます。
これは、天の聖なる宮から、すく主が、この世に来る、ことによって、実現すると言うことです。

さて、ハバククが、示す私たちの救いは、まず、私たちの神に対する訴え、願い、が聞かれ、そこから、神の救いは、始まって、そして、その先にあることは、「神の救い」は「救い主」が天の御座から来られることによって実現する。

それは,悪者=サタン、に対して「神の怒り」が向けられ、悪者=サタンが、すく主によって、完全に踏み砕かれることによって、私たちの救いは、実現する、ことでもある、ということです。

この神のみことばを信じ、信頼する者を、神は、罪びとであっても裁かず、生かしてくださるのです。神の目から見て、正しい人、聖なる人として、生かしてくださるのです。
その姿が、ハバクク書の最後に、示されています。
ハバクク3:18 しかし、私は主にあって喜び勇み、私の救いの神にあって喜ぼう。
ハバクク 3:19 私の主、神は、私の力。私の足を雌鹿のようにし、私に高い所を歩ませる。

これが、「正しい人はその信仰によって生きる。」=「義人は、信仰によって生きる」人の姿であり、救いなのです。
最後に、ローマ1章17、18節を開いてみてください。
ローマ1:16 私は福音を恥とは思いません。福音は、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力です。
ローマ 1:17 なぜなら、福音のうちには神の義が啓示されていて、その義は、信仰に始まり信仰に進ませるからです。「義人は信仰によって生きる」と書いてあるとおりです。

このローマ1:17は、ハバクク書2章4節bの「正しい人はその信仰によって生きる。」の引用です。そして、ハバククは、イエスが来られる、600年前に、ハバククは、このこととを予言していたと言っているのです。
パウロは、ここで、まことの神は、悪を、罪びとを、裁く神であると言いながら、しかし、救い主のイエス・キリストの到来、その十字架と復活による、罪の赦しの福音があるからこそ、「義人は信仰によって生きる」のだと言っています。

私たちの救いは、まず、私たちの神に対する訴え、願い、が聞かれ、そこから、神の救いは、始まって、そして、救い主イエス・キリストが、天の御座からこの世に来られ、私たちの罪の贖いのために、十字架について死なれ、そして、復活し、また、そのことによって、悪者=サタンを、踏み砕くことによって、私たちに、完全な救いをもたらしてくだっさたのです。

私たちが、すべきことは、この真の神のあわれみよって、信仰をもって、すく主イエス・キリストに近づき、そして、信頼して生きることなのです。

その時、私たちは、罪の世にあっても、救いの喜び、に生きることができるのです。
ハバクク3:18 しかし、私は主にあって喜び勇み、私の救いの神にあって喜ぼう。
ハバクク3:19 私の主、神は、私の力。私の足を雌鹿のようにし、私に高い所を歩ませる。
アーメン。