クリスマス・メッセージ 不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君

2012-12-08 | あなたへの聖書メッセージ
  不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君 


今日はそのアドベントの第2週ということで、旧約聖書にあります、イザヤの預言したメシヤ預言(キリストのことを預言していること)を、続けて学びたいと思います。
特に、イザヤ9章6節です。
イザヤ9:6 ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。ひとりの男の子が、私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれる。 

ここは、イザヤ7章14節に続いて、キリストが地上に誕生する約700年前に、キリストの誕生が預言されている箇所です。このイザヤ書9章6、7節がキリストを指していることは、疑いえない事実なのです。

まず、このイザヤ書9章6,7節の時代背景を見てみますと。 
このイザヤという預言者は南王国ユダで活動した預言者(BC.750-700頃)ですが、神の召命を受けて登場してきたのは、すでに、イスラエル王国が北と南に2つに、分裂してから200年後です。
ちなみに、北王国イスラエルは、ヤロブアムによって出来た北方10部族の国。南ユダは、ダビデ王の系図をたどる2部族からなる小国でしたが、都エルサレムを持っていた。  
このように、イエスの誕生700年前に、2つに分裂した、イスラエル王国のその、南王国ユダの中で、アハズ王の時に、活躍した預言者が、イザヤです。

◎さて、当時、北イスラエル王国とその北にアラム王国がありましたが、さらにその北東に、アッシリヤ帝国があり、このアッシリヤ帝国は、南のアラム王国、北イスラエル王国へ攻め込もうと、虎視眈々と、その機会を狙っていた。そのアッシリヤ帝国の脅威に、対抗して、アラムと、北イスラエルは同盟を結び、さらに、南ユダ王国とも同盟を結ぼうとしたのです。

◎しかし、南ユダ王国のアハズ王は、これを拒否しました。そこで、アラムと北イスラエルの連合軍は、南ユダの都エルサレムに攻め上り、アハズ王を滅ぼそうとしました。(これが、BC.743年頃です)。

南王国ユダのアハズの軍隊は、一時は、これを撃退しましたが、アラムと北イスラエルの連合軍は、北イスラエルの地にとどまって、また、ユダを狙っていた。それを、聞いた、アハズ王と民は、どうしたか。
イザヤ7:2 ところが、「エフライムにアラムがとどまった。」という報告がダビデの家に告げられた。すると、王の心も民の心も、林の木々が風で揺らぐように動揺した。 
この時、南ユダのアハズ王と民は、非常に恐れ動揺し、防御のために、あちらこちらと狂奔(きょうほん)しました。

◎アハズ王は窮地に陥ったとき神に信頼せず、神により頼まかったために、その心は動揺し恐れました。そして、こともあろうに、北イスラエルとアラムに攻め込もうとしていた、アッシリヤ帝国に助けを求めたのです。そればかりでなく、このアハズ王(BC.743-716)は、偶像礼拝であるバアル礼拝を積極的に推進したため宗教的、道徳的な腐敗と混乱が国の中に充満したのです。 

◎さて、不信仰なアハズの援軍要請に答えて、アッシリヤの王ティグラテ・ピレセルは、このときとばかり、大軍を率いて怒涛のように、北イスラエルとアラムに攻め寄せてきました。BC.733年、722年にアッシリヤ帝国(ティグラテ・ピレセル)は、アラムの首都ダマシコを攻撃し、アラムの王レツィンは殺されました(イザヤ16:9)。また北イスラエルの王ペカも内部クーデターで殺されて、アッシリヤ帝国に滅ぼされる寸前、大変な窮地に陥ってしまいました。
  
◎さて、アッシリヤに助けを求めたユダ王国でしたが、アッシリヤ軍はこれ幸いとばかり、まずアラムと北イスラエルを滅ばしました(BC.723、722)。しかし、神に頼らずアッシリヤ軍により頼んだ、南王国ユダはこれで一安心できたかと言うと、そんなことはない。
◎アッシリヤ軍は、その猛威をもって、こんどは南ユダを攻撃してきたのです。それは激しい攻撃で、南ユダ王国全土への攻撃でした。そのため、南王国ユダも壊滅状態の寸前まで追い込まれます。この時、北イスラエルと南ユダは暗黒の時代、どん底状態でした。
  
その状況をイザヤは、こう記しています。  
イザヤ8:21 彼は、迫害され、飢えて、国を歩き回り、飢えて、怒りに身をゆだねる。上を仰いでは自分の王と神をのろう。8:22 地を見ると、見よ、苦難とやみ、苦悩の暗やみ、暗黒、追放された者。 
「苦難とやみ、苦悩の暗やみ、暗黒」これは、その時の北イスラエルと南ユダの窮地に陥った、本当に絶望状態をあらわしています。
「苦難とやみ、苦悩の暗やみ、暗黒」

◎今の私たちはどうでしょうか。今の時代、日本は、世界は、やはり暗黒の部分が多いのではないでしょうか。
そして、私たち、個人、個人の人生にも、苦難とやみ、暗黒のような状態に、陥ることが、多々あるのではないでしょうか。
私も多々経験しています。まずは、17歳の時に、病気になり、それこそ、これから青春を楽しもうとした時、将来も希望も無くなってしまいました。

◎EYさんも20歳の時に屋根から落ちて、脊椎を損傷したとのこと、その後、大変な苦しみを味わって、来られたと思います。20歳のその時、おそらく、真っ暗闇に放り込まれた状態ではなかった、でしょうか。まして
身体に障害を持つと言うことは、大変なことです。

◎西村隆さんのこと・・・金沢の岡田仰先生の同窓の方。岡田先生が、関西学院神学部にいた時、一年上に、西村隆さんがいた。目立たない人だったようです。しかし、西村隆さんは、大学卒業後、社会人いなって結婚したが、彼は、ALSを発病し、今も戦っているのです。

◎また、そうした、身体の障害でなくても、人生の壁、生きていく上で人生の障害にぶつかる人は、多くいます、いや、ほとんどの人が、ぶつかっているでしょう。
結婚したいができない、いつも、相手の壁にぶつかる。結婚しても、夫と妻もの間に壁ができる、あるいは、問題がある。親子の間の問題、子供の問題、がある。それが、取り除けない。会社や職場においても、そういう人と人の壁がある。これらは、生きうえでの障害となり、その人を苦しめます。その人にとっては、そういう状態が、「苦難とやみ、苦悩の暗やみ、暗黒」と言えると思います。
◎中村道夫さん、武田恵裕兄のお母さんのこと、これも、暗黒でしょう。

◎人生の、苦悩とくらやみ、の中に落ちいったとき、私たちは、そこで絶望し、悲観し、自暴自棄になって、自分の人生を捨ててしまうか。いや、そういう中でも、心を強め、人生を捨てずに、希望をもって、さらに、喜びすら持って、人生を生きぬいていくには、どうしたら良いでしょうか。

「苦難とやみ、苦悩の暗やみ、暗黒」に共通していることは、闇です。暗みです。暗闇をなくすには、どうしたらよいか。それは、光しかない。
光が、差し込めば、暗みは、消滅するのです。
◎さて、苦難と闇、苦悩と暗やみ、暗黒の中、絶望の闇の中を歩んでいた、北イスラエル南ユダ王国のですが、その時イザヤは、神の託宣、神のことばを、あずかって、こう預言をしたのです。

9章2節を見て下さい。                 
イザヤ9:2 やみの中を歩んでいた民は、大きな光を見た。死の陰の地に住んでいた者たちの上に光が照った。 

「やみの中を歩んでいた民は」→「大きな光を見た」、「死の陰の地に住んでいた者たちの上に」→「光が照った」という、神のことばを語ったのです。

つまり、暗黒、闇を取り除く、光が、もたらせると言う預言です。この光によって、民は、どうなるか。それは、1節です。
イザヤ9:1 しかし、苦しみのあった所に、やみがなくなる。先にはゼブルンの地とナフタリの地は、はずかしめを受けたが、後には海沿いの道、ヨルダン川のかなた、異邦人のガリラヤは光栄を受けた。

9章1節後半と2節 「やみの中を歩んでいた民は、大きな光を見た。死の陰の地に住んでいた者たちの上に光が照った。」 「異邦人のガリラヤは光栄を受けた。」これは預言の言葉です。ここに「大きな光を見た。」「光が照った。」と、「光栄を受けた。」と完了形、で表現されていますが、これは旧約の預言書には、よく見られる用法なのですが、預言的完了形でありまして、まだ起こっていない事なのですが、そのことが必ず起こることなので、あたかもすでに起こったかのように表現する方法です。 

◎しかし、これは当時、このイザヤの預言を聞いていた民たちにとっては、まだ起こっていない、これから起こる事柄です。つまり、これは、そのような暗黒の中にいた民にも、神のあわれみ深い働きが臨んで、民に光が与えられる、大きな喜びが与えられるという約束が示された、ということです。  


◎「苦しみのあった民に、やみがなくなる」「はずかしめを受けた民が、光栄を受ける」、と言うのです。
苦難と絶望からの脱出です。
さらに、イザヤ9:3 あなたはその国民をふやし、その喜びをまし加えられた。彼らは刈り入れ時に喜ぶように、分捕り物を分けるときに楽しむように、あなたの御前で喜んだ。 

この3節には、喜びがあります。
さて、なぜ、喜べるのか。それは、まことの神を信じる者に、勝利と平和がもたらされるからです。北イスラエル王国と、南ユダ王国は、外国の敵に敗北し、また、それは、まことの神から離れ、バアルの神などの偶像礼拝に走った、霊的な敗北もしていたからです。

しかし、神がもらたす、暗黒、闇を追い出す光は、神に立ち返りさえすれば、神が、その神の力のよって、完全な勝利と完全な平和を与えると言うのです。
だから、絶望から希望へ、そして、喜びの人生へと変えれていくのです。

◎さて、では、神が与えると言われた、その完全な勝利と完全な平和は、私たちにどのようにもたらされるか。
それは、「ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる」からだと言います。

イザヤ9:6 ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。ひとりの男の子が、私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれる。    

◎これこそが、私たちの人生の暗闇を追い出す光、私たちの喜びの最高の根拠です。一人の男の子の出生が大いなる喜びを「私たちに」与えられる、もたらされると言うのです。この「ひとりのみどり子」は、「男の子」という意味のことばですが、次に「ひとりの男の子が、私たちに与えられる。」とありますが、これは「私たちのための一人の息子」と訳せることばです。
ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。
ひとりの男の子が、私たちに与えられる。
は、重要なことなので、同じことを繰り返して言っているのです。

◎つまり、ここには明確に「私たちのために生まれる一人の男の子の誕生」が預言されていて、このお方こそが、私たちに、光栄をもたらされる、と言うことなのです。

◎では、この一人の男の子が誰なのか。しかも、この男の子は「私たちのために生まれる。」「私たちに与えられる。」と出生の明確な目的が「私たちのため」と示されています。 
◎さらに「主権はその肩にあり」とあり、この男の子は単なる子供ではなく、実際の統治者であることがわかります。そして、実はこの統治者をイスラエルは求めていたのです。アラムやアッシリヤ帝国と言った圧制から、イスラエルの国を救い出してくれる強い統治者を求めていました。

◎この強い統治者であり、救出者をイスラエルは、油注がれた者=マシ―ァハ「メシヤ」と呼ぶようになり、自分たちの国を救ってくれる「メシヤ」が、やがて「救い主」という意味を持つようになり、メシヤをギリシャ語に直したものが、「キリスト」です。

◎つまり、神は9章6節の、この男の子こそが、メシヤであると、イザヤを通して、ここで預言しているのです。この6節、7節は、イエス様のことを言っているのです。このイエス・キリストの誕生こそ、イスラエルだけでなく、人類の大いなる喜びなのです。

◎さて、救い主イエス・キリストは、6節をよく読んでみると、ここで言われる名前に、その本質が示されています。その男の子は、“その名は「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれる。”とあります。 

◎私たちの救い主は、「不思議な助言者」です。王には、助言者や議官すなわち補佐官がいて、政治を助けました。(イザヤがそうでした)。ところがこの男の子=メシヤは、統治者であり、王であるのに、同時に助言者であります。
◎つまり、「私たちのために」来られるこの方=救い主、キリストは、王でありながら、私たちに助言をしてくださる方であると言うことです。英語の聖書では、この「不思議な助言者」を Wonderful Counselor (NIV)と訳しています。つまり、イエスは、「素晴らしいカウンセラー、相談者、助言者」なのです。

◎次にイエスは「力ある神」です。イエス・キリストが、単なるこの世の王ではない「力ある神」であると言っているのです。イエスは、全知全能の地ある神です。

マルコ10:27 イエスは、彼らをじっと見て言われた。「それは人にはできないことですが、神は、そうではありません。どんなことでも、神にはできるのです。」
◎次にイエスは、「永遠の父」です。
イエス・キリストは、「永遠の父」と言われます。この「永遠」は、歴史の興亡を越えた終末的な、永遠に続く王国の樹立を考えていることがわかります。イエスは、力ある神であるのに、私たちの父となることを示しています。つまり、イエスは、永遠にわたって御自分の民=私たちを、を保護し、支え、愛する方であること、あわれみに満ちた方である、ということです。

放蕩息子の父親こそ、イエス・キリストに他ならないのです。

次に、イエスは、「平和の君」です。
この シャロームは、健康であり、平安であり、平和であり、健全さであり、安全であり、欠けるところの無い十全性であり、繁栄を意味するところの言葉です。人は神との間にこのシャロームが成立するとき、心に真の平和が訪れます。そして、人との間にもシャロームが成立し、個人の生活にもシャロームが成立するのです。イエスこそ、私たちに、シャロームをもたらしてくださるお方のです。
自ら十字架につき、私たちの罪を背負って死なれ、神と私たちを和解させ、真の平和をもたらされました。

コロサイ1:19 なぜなら、神はみこころによって、満ち満ちた神の本質を御子のうちに宿らせ、 コロサイ 1:20 その十字架の血によって平和をつくり、御子によって万物を、御子のために和解させてくださったからです。地にあるものも天にあるものも、ただ御子によって和解させてくださったのです。

さて、イザヤは、このような「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」という名を持つ、すなわち、そういう本質と特質を備えた「一人の男の子」がイスラエルに与えられると、神の託宣、神の約束を、語ったのです。

このようなお方が誰かと考えれば、それは、ただの人間ではない、イエス・キリストにほかならないのです。その証拠に、新約聖書でも、ここをイエス・キリストの預言として記しています。  

◎実はイザヤは、先に7章14節でもすでに、その男の子は処女から生まれることを預言していました。→イザヤ7:14 それゆえ、主みずから、あなたがたに一つのしるしを与えられる。見よ。処女がみごもっている。そして男の子を産み、その名を『インマヌエル』と名づける。 
「私たちのために生まれ」「私たちのために与えられる」この男の子は、7章14節では預言されていた、インマヌエルの神なのです。
主が約束されたインマヌエルの神は、主権者であり、不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君なのです。

◎このイザヤの預言、神からの託宣を聞いた民は、疑ったかも知れません。本当にそんなお方が来られるのかと。しかし、イザヤはそれが必ず絶対に実現すると保証します。 なぜなら、その保証は、預言者の権威によってまたらされるのではなく、9章7節にありますように、「軍の主の熱心がこれを成し遂げる。」からです。つまりこれは、神の民に対する主の愛とあわれみの激しい熱意が、熱心がこのことを必ず来らせるので、これを阻止できるものは何もないという宣言なのです。イザヤはこのことを実現の保証としているのです。 

ルカ 2:11 きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。

◎イエス・キリストのこの地上での誕生は、まさに、暗黒の中にいる私たちへの「光」なのです。イエス・キリストの救いがなければ、この世は暗黒のままです。 

しかし、神は御子イエス・キリストをこの世に遣わしてくださり、私たちの身代わりとして、十字架にかけて私たちを罪の滅びから救って下さったのです。 「やみの中を歩んでいた民は、大きな光を見た。死の陰の地に住んでいた者たちの上に光が照った。」のです。 

◎西村隆さんのこと・・ 彼は今、ALSと戦っている。それでも、2004年に『神様がくれた弱さと微笑み』という本を出版した。
彼は言っています。
「神様からの恵や、語りかけは、私たちのすぐ近くにあります。でもそれに気が付くには人によって様々な道があります。私は病気という弱さが与えられて神様の恵を実感しました。それまでは、出来ないこと、不安や不満を数えていました。ところが出来ること、希望や満足を数えたら、驚くほど恵みに満ちた私たちの生活がありました。」
でも、こうも言っています。
「私は病気を受容で来ているわけでもまく、人生を悟ったり、あきらめたわけでのなく、信仰心があついわけでもありません。泣いて、叫んで、おびえて、そんな自分を情けなく、感じます。でも、ただひとつだけ確信があります。
揺り動く振り子の中心にキリストがいて、切れることのない糸で結ばれている確信。私は投げ出されることはありません。闇の中でも。」

イエスこそ、私たちの人生の道を照らす光です。私たちを救ってくださる救いの光なのです。イエス御自身もこう言われました。 
  
ヨハネ8:12「わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。 
                     
アーメン。