主が家を建てるのでなければーむなしい労苦から喜びの労苦へ   

2012-05-18 | あなたへの聖書メッセージ
  主が家を建てるのでなければーむなしい労苦から喜びの労苦へ    


人生には多くの労苦がありますが、その労苦がむなしいものに終わったら、その人の人生は残念な、むなしい人生になってしまうと思います。
詩篇127篇1~2節には、「働きはむなしい」「見張りはむなしい」「辛苦の糧を食べるのも、それはむなしい」と「むなしい」が、3回も出てきます。こんなむなしい人生は歩みたくないですね。

でも詩篇127篇は、ソロモンが作った、短い詩篇ですが、私たちが、日ごろの生活、信仰生活を送る上で、大きな指針となる、大切な、また、素晴らしいみ言葉の一つだと思います。
生活の上で大変な時、困難な時、仕事がきつい時、労苦が多い時、また、これから、新しい進路を決めたり、結婚、出産、転職、家の建築、建売住宅を買う、マンションを買う、など、様々な、人生の選択、また、決断をしなければ、ならない時、など、このみことばを、いつも思いて祈れば、必ず、主の最善の導きが得られると思います。

そして、実は、この詩篇からは、私たちは、そういう状況の中で、信仰的な確信が得られる、霊的な悟り、励ましが、得られのです。

詩篇127: 1 主が家を建てるのでなければ、建てる者の働きはむなしい。主が町を守るのでなければ、守る者の見張りはむなしい。

ここでソロモンは、家の建築と、町の守りの働き、その労苦について、言っています。この背景には、古代イスラエルの民の開拓地の、激しい労苦と、その社会的な状況があります。
イスラエルでは、畑になるような耕地が少なく、荒野を開拓して耕作地にするには、容易なことではありません。

ゴロゴロとした、岩や石を取り除き、地を掘り返し、そして、そこへ遠方から、水を引いてくる。そして、そこに種を蒔き、手入れをし、草取りをする。そして、今度は、自分の住む家も、テントから、石やレンガの家を作る。これも手作りです。
そして、そこで何とか、食料を確保し、そして、結婚をし、家庭を作る。
「家を建てる」とは、そういうことです。ただ単に、家の建築のことでなく、そのための労働、結婚、出産、などの家庭の建設にともなう、すべてのことが含まれます。

そして、そういう家々が集まって、町を作ります。古代イスラエルでは、自分の家が、何も問題がなく、安心でも、自分のある町が、外敵から攻撃に合う危険が絶えず、あったのです。
そこで、民たちは、町を外敵から守るために、町に城壁をめぐらし、そして、見張りを置いて用心します。攻撃を受けたら、直ちに、町の若者が皆で、外敵と闘い、町を守ります。  「町を守る」「守る者の見張り」とは、そういうことです。

いくら自分の家が立派でも、その町が、滅ぼされてしまったら、その家は、立ちゆきません。今の私たちの日本では、自分の家を守っても、町を守る、という感覚はなかったと思います。しかし、今回の大震災で、私たちも同じだということがつくづく、分かりましたね。

特に、福島の原発の災害では、そうでしょう。新築の立派な家でも、そこを立ち退かなければならない、出ていかなければならない。町がやられてしまったら、どんな豪邸もだめです。
そういう意味では、私たちも、自分の住む町が、村が、県が、さらには、国が、守られないと、私たちの家も会社も教会堂も、無になってしまう。

エレミヤは、バビロンへ捕囚となって、連れて行かれた、絶望の中にいた、イスラエルの民に、対して、手紙を書いて、こう言いました。
エレミヤ29: 7 わたしがあなたがたを引いて行ったその町の繁栄を求め、そのために主に祈れ。そこの繁栄は、あなたがたの繁栄になるのだから。」

私たちも日ごろから、自分が置かれた、町の繁栄を祈ることが大切です。これは、自分が置かれた会社の繁栄を祈れ!とも受け止められます。

さて、古代イスラエルの民と同じように、私たちも、同じ「仕事」、「家庭を築く」、「家を建てる」、労苦があります。
この詩篇の作者ソロモンは、
詩篇127: 1 主が家を建てるのでなければ、建てる者の働きはむなしい。主が町を守るのでなければ、守る者の見張りはむなしい。
と言っています。
実は、この1節は、ヘブル語の原文では、「もし」がついているのです。ですから、直訳すれば、こうなります。

もし、主が家を建てるのでなければ、建てる者の働きはむなしい。
もし、主が町を守るのでなければ、守る者の見張りはむなしい。


つまり、ここで、ソロモンは、私たちの今の働き、労苦が、意味がないとか、決してむなしいものだと、言っているのではなく、「もし、主が家を建てるのでなければ、建てる者の働きはむなしい。もし、主が町を守るのでなければ、守る者の見張りはむなしい。」ですよ、と言っているのです。

つまり、主は、私たちに、大切な、霊的な悟りを得よ、と言っているのです。
私たちが、神なしで、神の祝福なしで、労苦し、家を建て努力をいくらしても、その働き、労苦はむなしい、と悟りなさい、言っているのです。

古代イスラエルの農夫の生活は、貧しいものでした。日本でも昔はそうでした。朝早起き、夜遅くまで働き、食事は粗末なもので、それでも、最後の仕事を終えて眠りに着くのは、かなり、遅くなってからです。
こうした働きは、今でもそうですね。人間の一生は、これの連続、こうして一生が終わる。

もし、神なしで、神の祝福なしで、この人生を送るしたら、それは、
詩篇127: 2 あなたがたが早く起きるのも、おそく休むのも、辛苦の糧を食べるのも、それはむなしい。  ですよ、これを悟ってください、とソロモンは言っているのです。
なぜ、むなしい人生を悟れと!と言っているのでしょうか。
これは、消極面の真理です。積極的な面の真理は、その裏返しです。ソロモンが本当に言いたかった中心のことは、その積極面のことです。

つまり、神になしの人生ではなく、神に信頼する、神により頼む人生、神の祝福を受ける人生があるということです。
神と共にあってなされる仕事は、一見どんな些細な、つまらない仕事に見えても、また、それが労苦に満ちた仕事であっても、神が共にあってなされるなら、神に祝福された仕事になる、神に祝福された家の建築になる、神に祝福された家庭の建てあげになる、ということなのです。

また、神の守りのない人生は、危険にさらされ、自分の努力だけでは、とうてい防ぎきれない。神に信頼していきるならば、そこには一番確かな人生があるという、ことなのです。神なき、努力、辛苦の糧を食べる労苦も、結局は、むなしい、空虚なこのになってしまうが、その反対の、神に信頼して、神と共に、労苦する時、そこには、神の祝福が、大いにあると、悟りなさいと、言っているのです。
その大きな祝福の結論が2節の後半にあります。

詩篇127: 2 ・・・主はその愛する者には、眠っている間に、このように備えてくださる。
「主はその愛する者には、眠っている間に、このように備えてくださる」
これを、みなさん、神の真理のことばと信じてください。
これは、聖書のことば、真理のことばです。
これは、本当に、感謝なことばですね。神は、私たちが眠っている間に、私たちの必要なものは、用意してくださると言うのです。

どんなに、心配なことがあっても、祈って寝ることできる。寝ている間に、主が、問題を解決してくれる、と信じて、眠ってしますのです。この言葉があるので、眠ることができる。
しかし、皆さん、これは、神がみんなしてくだるから、私たちの労苦はいらない、無駄なことだ、という意味ではありません。

これは、要は、私たちの人間の努力、力、能力、権力、お金の力、そうしたものがあれば、神を抜きにして、幸福な仕事ができるか、自分の家をもつこと、結婚、出産、幸福な家庭ができるか、いうと、それはできない。しかし、神の恵みと神の助けがあれば、私たちにお働きと、労苦は無駄にならず、神の祝福にあずかり、幸福な仕事、家を持つこと、幸福な結婚、出産、幸福な家庭の建設ができる、ということなのです。

「主はその愛する者には、眠っている間に、このように備えてくださる」

神は、私たちを「神の愛する者」と呼んでくださいます。
神は、私たちを愛して、私たちのために、すべてを備えてくださるのです。

「主はその愛する者には、眠っている間に、このように備えてくださる」
私たちが朝、目を覚ます時、そこには、私たちのために、神が用意された、新しい世界があります。私たちが生きるに必要なすべてが、神によって、用意されています。
これを信じて良いのです。

無から天地万物を造り出した神です。天創造の時のことえを思い出してください。
神は、無から、光、海、大空、陸地、動物、人を創造されました。その6日間のことを、聖書は、1日事に記していますが、その1日ごとの終わりに、なんとありますか。
「こうして夕があり、朝があった」とあります。
「夕があり、朝があった」です。朝には、それは創造されていました。
朝から始まって、夕方できたのではないのです。夕から夜のうちに、主は、創造されたのです。朝には、できていました。

今もそうです。私たちが眠っている間に、神は、全く新しい、1日を創造し、朝には、私たちに、その全く、新しい1日を下さっているのです。
朝、私たちは、まだ、一度も経験したこのとない、まったく新しい1日を、生きることができるのです。

「主はその愛する者には、眠っている間に、このように備えてくださる」
そして、神は、私たちが知らない時に、いわば、眠っている時に、御子イエス・キリストによる、私たちのために、救いの道を用意してくださいました。

私たちが知らない時に、いわば、眠っている時に、御子イエス・キリストは、私たちの罪のために十字架にかかり、死んでくださいました。
そして、救いの完成のために、死からよみがえってくださった。復活してくださった。

私たちが知らない時に、いわば、眠っている時に、神は、御子イエス・キリストによる、救いの道、永遠のいのち、天国を、私たちのために、用意してくださっているのです。

「こうして夕があり、朝があった」
御子イエス・キリストは、日曜日の朝、復活しました。その生涯は、朝から夕ではなかった。地上生涯の最後は、朝、でした。私たちの人生も同じです。この地上の人生の最後は、夕ではなく、朝、です。キリストにある人生は、夕で終わりません。復活の朝がくるのです。

御子イエス・キリストを、信じてください。
御子イエス・キリストにすべての望みをかけてください。
イエスは言われました。「わたしが生きるので、あなたがたも生きる」(ヨハネ14:19)と。
キリストは生きているので、信じる私たちも生きるのです。
だから、信仰によって、キリストの十字架と復活に、望みをもてば、私たちの人生には、いのちの望みがでてくのです。

しかし、キリストの十字架と復活に、望みを持てなければ、いくら、努力しても、やがて、むなしさが襲ってくる、空虚な人生に思えてくるのです。
詩篇127: 2 あなたがたが早く起きるのも、おそく休むのも、辛苦の糧を食べるのも、それはむなしい。

しかし、救い主、御子イエス・キリストを信じて、神に望みを置き、この神の恵みと神の助けがあれば、私たちにお働きと、労苦は無駄にならず、神の祝福にあずかり、幸福な仕事、家を持つこと、幸福な結婚、出産、幸福な家庭の建設ができる、この詩篇は言っています。これを、悟りなさいと、ソロモンは言っているのです。

最後に、3節、を見てください。
詩篇127: 3 見よ。子どもたちは主の賜物、胎の実は報酬である。

もうすぐ、出産の方もいるでしょう。まさに、子どもたちは主の賜物、胎の実は報酬である
いのちは、神が与える、賜物です。
赤ちゃんが、おギャーと生まれてくるまで、お父さん、お母さんは、その子に、指一本触れることができいのです。
子どもは、神の祝福からくる、両親への贈り物です。

同時に、それは、子どもは、両親だけで育つもではなく、多くの人々のよって、そだてられるものです。一人のいのちの誕生は、それは、共同体に与えれたいのちでもあるのです。そして、その子供は、将来、町を守る者となるのです。
だから、詩篇127: 4 若い時の子らはまさに勇士の手にある矢のようだ。
と言っているのです。
子どもは、神がくださった、神の勇士として期待されいる存在です。ですから、両親だけでなく、共同体、全体の子どもとして、育てていくことが、自然なのです。

さて、御子イエス・キリストを、信じてください。
御子イエス・キリストにすべての望みをかけてください。

その時、私たちの、仕事、子育て、奉仕、家庭の建設、教会の奉仕、伝道、これらの労苦は、むなしいものにならず、神に祝福された、喜びの労苦となるのです。
「主はその愛する者には、眠っている間に、このように備えてくださる。」

アーメン。


 

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