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荒野に花を咲かせる人に

2012-02-18 | あなたへの聖書メッセージ
荒野に花を咲かせる人に  


本日は、特に、このマルコの福音書の1章12,13節を学びたいと思います。ここは、40日間の荒れ野での試練に耐えられた、主イエスについて語られています。

さて、イエスは、公生涯を開始されたとき、まず、洗礼者ヨハネから、ヨルダン川で洗礼受けられました。

このイエスの洗礼の意味は、「これは,わたしの愛する子,わたしはこれを喜ぶ」(1:17)という天からの声に現されていました。すなわち、これは、イエスが王であり、神の子である事実を人々に明らかにする神の宣言でありますが、それはイザヤ42:1の苦難と共に人々の罪を担う「主のしもべ」を想起させるものであり、イエスの洗礼は、イエスは王であり神の子でありながら、罪人の一人に数えられ「苦難のしもべ」として、公生涯を歩み始めたことを現すものでした。(そして、私たちの模範としての洗礼の意味もあります)。

次に、驚くべきことが、記されています。洗礼を受けられたイエスは、次に、荒野に導かれ、そこに40日40夜とどまりまして、なんと、サタンの誘惑を受けられます。

マルコ1:12 そしてすぐ、御霊はイエスを荒野に追いやられた。
1:13 イエスは四十日間荒野にいて、サタンの誘惑を受けられた。野の獣とともにおられたが、御使いたちがイエスに仕えていた。


このイエスが、荒野で悪魔の試みを受けられたという記事は、マタイとルカの福音書にもありますが、ルコは自分の立場から、この主イエスの荒野の誘惑の、一番大事なこと点は何か、イエスの戦いの中心は何かを、きわめて簡潔に書き記していると思います。

12節に「マルコ 1: 12 そしてすぐ、御霊はイエスを荒野に追いやられた。」とあります。・・まず、マルコが最も言いたいことは、イエスが洗礼者ヨハネから、洗礼を受けられるとすぐに、聖霊によって、イエスは、「荒野」に導かれたということです。しかも、そこで40日40夜を過ごすことになる。
イエスは、公生涯を始めたとき、まず、40日間、だれもいない荒野に行って、そこで過ごしたのです。しかも、マタイの福音書を見ますと、この40日間、イエスは間断食し、何も食べなかったのです。
なぜ、神の御子が公生涯を始められてすぐ、荒野で40日間も過ごさなければならなかったのでしょうか。そのことには、どんな意味があるのでしょうか。
荒野とは何か

さて、この「荒野」と訳されております言葉は、「人の住んでいない、寂しい、荒涼とした所」という意味がありますが、ここに用いられているギリシア語の言葉は、もとは、「捨てる」という意味の言葉から来ているようです。

「捨てる」、だから、荒れ野とは、捨てられた野ということです。捨てられて、人が住んでもいないところが、荒れ地になるのです。人がいないのです。人に捨てられているところなのです。

日本の地形には、本来、荒野は、ほとんどありません。緑豊かで、水も豊富です。
しかし、イスラエルや中東諸国では、荒野が沢山あります。
緑もない、岩と石、砂の世界です。
荒涼とした世界です。
また、自然界の荒れ野にまさる「人間のつくる荒れ野」もあります。


チェルノブイリ原発事故跡の視察の記事

チェルノブイリ原発の作業員ら5万人が暮らした旧ソ連(現ウクライナ)のプリピャチ市。ホテルや住居はガラスが破られ、室内に家財が散乱していた。事故5日後にオープン予定だった市中央部の遊園地では観覧車がさびつき、20台のゴンドラを風が揺らす。

旧ソ連政府は原発事故発生後、プリピャチを含む周辺の汚染地域を「ゾーン」と呼ぶ立ち入り規制区域に指定し、11万6000人を強制移住させた。ソ連崩壊後、ウクライナ、ベラルーシ両国は住民の帰還を目指し、公共施設などの一部で除染に取り組んだ。しかし、効果的な手法を確立することはできず時間と予算だけが費やされたという。
植物を植えて土壌中の放射性物質を吸い上げる方法も実践されたが、効果は見られなかった。マチは荒野に変わり果てた。
住民の強制移住で無人となった168の村の名を記したプレートが今春、チェルノブイリ市の中央広場に立てられた。
視察した川内村の遠藤雄幸村長は、在ウクライナ大使館職員から立て札の意味を説明され青ざめた。人ごとではないと感じた。

被災地ルポ 南相馬市 車や通行人の姿なし 残っても生活できない

市内では人口7万人のうち、1万数千人はまだ残っているとみられる。しかし、市内で営業している店舗は数店だけだ。
市によると、ガソリン、灯油などは入りつつあるものの、従業員が避難しているため数店しか営業できないという。こうした中、食肉のニューさいとうは3日続けて営業し、肉や揚げ物を買い求める客に応えた。店舗だけでなく、市内の自動販売機の大半はスイッチが切られている。車や通行人の姿はほとんど見られない。さらに、人が居ない家で、多くの盗難があったとのこと。
人の住まない荒野が、日本にもあるのです。


さて、神が天地創造をされた、最初の段階では、最初の人、アダムとエバは、荒野に住んでいたのではありません。ご承知のとおり、神が人のために用意された、すばらしい楽園、エデンの園におかれました。

人が荒野に住むと言うことは、神の計画ではなかったことです。
人は、エデンの園から追放されて、荒野をさまよう、用になったのです。
なぜでしょうか。

創世記に、神は天地をお造りになり、野の獣も造り、最初の人、アダムとエバをお造りになった。そのとき、人は、野の獣と共に生き、人と獣とが、共に仲良く生きていた。

ところが、蛇をあやつるサタン(悪魔)が蛇の姿でやってきた。そして、神が食べてはいけない死ぬから、と言われた「善悪の知識の木」の実を食べれば、あなたがたは神さまのように、賢くなる、食べても死なない、とそそのかした。

つまり、神様に従うわないで、自分の自由に、意のままに生きることができる、と誘惑した。神さまなんかいらなくなる。これが、人間の心を喜ばせた。そして、エバが最初に、そして、一緒にいた、アダムも、その実を食べた。   

その結果、人間はパラダイスのエデンの園から追われた。いばらの地、荒れ野の生活が、そこから始まったのです。そして、人と人、獣と人の仲違いが始まった。

そもそも、「荒野」は、人間の罪が、作り出してしまったものなのです。

神さまなんかいらないと思い、自分たちは、十分に賢いのだと思い込み、自分たちが自然を含む世界を、征服できるものと信じる。自分たちと戦う獣などは殺し、おいしい肉はたべ、自分たちに、役に立つ自然は用い尽くすし、邪魔する自然は、破壊する、できると思うようになった。その結果、そこは、荒野となった。  

原発の問題も同じではないでしょうか。
神さまなんかいらないと思い、自分たちは、十分に賢いのだと思い込み、自分たちが自然を含む世界を、征服できるものと信じる
思いのままになる、何でもして良い、その結果、そこには、荒野が残るのみです。

ですから、荒野と言うのは、神が最初に造った荒野は、問題がなかったのです。問題は、人の心の中の神に逆らう罪の荒野が、自然界に人に、生きるのに辛い、荒野をもたらしたと言えるでしょう。

荒野は、自然界だけでなく、人の中にあります。神に従うことをやめ、サタンのことばに従って、自分の人生は、自分が思いどうりに生きられると、思う、それが、たいえhん、真面目な来方であっても、その人は、「荒野のような人間」であると、言って良いでしょう。

「荒野のような人間」とは、
荒れ野のように人に、捨てられている人という意味です。他の人びとに顧みられない人、孤独な人、という意味であります。

今、日本では毎年2万人余の自殺者が30年続き、3万人余の自殺者がここ8年連続しているのです。

なぜ、でしょうか。それは、本人の意思とは反対に、病気が、そうさせてしまう、ということもありますから、一概に言えませんが、しかし、これだけ、文化、文明、科学、技術、医学、などが、発達した日本で、これが起きている。

日本には、荒野が多いのでは、ないでしょうか。荒野では、人は生きられないのです。
人間にも、緑の牧場が必要です。

神を見失う人生が、いかに「荒野のような人」になってしまうかを示しているのではないでしょうか。

さて、マルコは、イエスが洗礼を受けられたあと、どうしたかと言うと、
マルコ1:12 そしてすぐ、御霊はイエスを荒野に追いやられた。
とあります。
聖霊が、イエスを、エデンの園ではなく、荒野に、追いやったのです。
なぜでしょうか。

イエスは、私たちの真の救い主として、人々が、追いやられた、荒野を経験すつ必要があったからです。
私たちが経験している、荒野の生活を、経験し、そして、私たちの代表として、その荒野に勝利する、必要があったからでしょう。

ですから、主イエスが荒野に導かれたのは、自然界の荒れ野にまさる「人間のつくる荒れ野」に、ご自身をさらしたのだ、考えて良いと思います。
神を失った者がどんなにすさむかということを、荒野で味わったと言えるのではないかと思います。

だからこそ、そのあとで、イエスは、1:15 「時が満ち、神の国は近くなった。悔い改めて福音を信じなさい。」」と、救霊の情熱を持って、人が、罪の荒野から、救い出される道を、大声で、述べ伝えた。宣教を開始したのです。


さて、主イエスは荒野に導かれ、そこでただ断食して、40日間過ごされたのではありませんでした。荒野で、サタンからの誘惑を受けたのです。
1:13 イエスは四十日間荒野にいて、サタンの誘惑を受けられた。
最初の人、アダムとエバも、エデンの園で、サタンの誘惑を受けました。

イエスも、福音宣教に先だって、サタンの誘惑を受けられたのです。

イエスは、この荒れ野において、サタンから三つの誘惑を受けました。サタンはの誘惑をして、イエスを試みました。(誘惑=試)。

第1の誘惑は、「この石がパンになるように,命じなさい」と誘う。自らの飢えを解決し、飢えている人々を助けるなら、メシヤとしての使命を容易に達成出来るではないかと、味方を装って勧めたのです。それに対して、イエスは、「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる。』と書いてある。」と、聖書の言葉で返しました。

次に、悪魔はイエスを聖なる都エルサレムに連れて行き、神殿の頂に立たせて、「あなたが神の子なら、下に身を投げてみなさい。」と奇跡の力で、メシヤになる誘いをします。これにも、イエスは、「『あなたの神である主を試みてはならない。』とも書いてある。」という、聖書の言葉で返しました。

第3の誘惑、サタンは、「もしひれ伏して私を拝むなら、(この世の栄華、権力)を全部あなたに差し上げましょう。」と、富と権力によってメシヤになるように誘います。イエスは、「引き下がれ、サタン。『あなたの神である主を拝み、主にだけ仕えよ。』と書いてある。」と行って、悪魔を撃退しました。

この3つの誘惑の意味は、悪魔の目的は、何だったなんだか。
それは、悪魔は、イエスに、神に従うことをやめて、イエス自身が世界を思いどうりにするよう、誘惑したのです。アダムとエバの誘惑と良く似ています。

サタンのイエスへの誘惑は、全人類にとって、大きな危機でそた。それは、十字架の道を避けて、メシヤ(救い主)になれる方法を示したのです。すなわち、悪魔は、イエスの十字架による、人類の救いの計画を台無しにしようとしたのです。
そして、最終的には、イエスを父なる神にではなく、自分に(サタンに)仕えさせようとしたとのです。

最初の人、アダムとエバは、自分が神のようになれるという、サタンの誘惑に勝利することができませんでした。

荒野に花を咲かせてくださったお方

しかし、イエスは、勝利しました。40日40夜の、荒野での試練、悪魔の試みに、聖書のみことばを信頼することによって、勝利してくださいました。

そして、全人類の救いの道、福音宣教を開始してくださったのです。
1:15 「時が満ち、神の国は近くなった。悔い改めて福音を信じなさい。」
だから、今日、私たちは、イエスの福音を聞くことができ、そして、イエスの福音を信じて、救えわれることができる。死でなく、いのちへ、移される。
私たちの魂は、永遠のいのちを、いただいて、死んでも生きる者となれたのです。
シャローム・パラダイス=英安の園、天国へ入れる者となれたのです。

さらに、荒野でのイエスの勝利は、イエスを信じる私たちの、荒野の心が、花園に変えられることを意味しています、すなわち、イエスは、荒野に花を咲かせてくださった、ということです。
そのことを、イザヤは、イエス誕生の700年前に預言して、こう言いました。
イザヤ 35: 1 荒野と砂漠は楽しみ、荒地は喜び、サフランのように花を咲かせる。

このために、イエスは、聖霊に導かれ、荒野に身をさらし、さらに、サタンの試みを、受けられ、勝利してくださったのです。


主イエスが、荒野に身をさらし、サタンの誘惑、試練に耐えてくださってことを、思いめぐらしましょう。主イエスが、荒野に身をさらし、サタンの誘惑、試練に勝利してくださったことを、感謝しましょう。

イエスは、私たちの荒野の人生に、種をまき、花を育ててくださっているのです。

1:15 「時が満ち、神の国は近くなった。悔い改めて福音を信じなさい。」

このイエスの福音(十字架と復活)を信じるとき、私たちの人生の荒野に、イエスは花を咲かせてくださるのです。

現代の社会は、決してエデンの園ではないでしょう。荒野のようなところです。でも、荒野で勝利されたイエスと一緒なら、そこに種をまき、花を咲かせこともできるということなのです。

私たちは、自分の生き方で、その荒野を広げてしまうこともできれば、その荒野に花をもたらす人にもなれるのです。

まずは、私たちの家族の中に、また、周りにいる、孤独な人、自分は捨てられていると思っている人、痛みをもっている人、その人に優しく声をかけ、祈り、福音を伝え、少しでも慰めを与えることができるなら、荒野に花を咲かせる人にもなれる、と言うことではないでしょうか。


マルコ1:12 そしてすぐ、御霊はイエスを荒野に追いやられた。
1:13 イエスは四十日間荒野にいて、サタンの誘惑を受けられた。野の獣とともにおられたが、御使いたちがイエスに仕えていた。

イザヤ 35: 1 荒野と砂漠は楽しみ、荒地は喜び、サフランのように花を咲かせる。


アーメン。







老いてもなお実を実らせる人生

2011-09-17 | あなたへの聖書メッセージ
老いてもなお実を実らせる人生    


さて、私たちは誰でも、健やかな老い、美しい老いを、迎えられるように願っているのではないでしょうか。 

仏教では、この世を4つの苦しみの場としてとらえています。「生、病、老、死」の4つの苦しみに、人生全体を集約します。「生、病、老、死」の四苦とは、生きることの苦しみ、老いることの苦しみ、病むことの苦しみ、そして、死の苦しみです。この四苦の中に、老いの苦しみが入っています。  

老いていくということは、やはり、喜ばしい事というよりも、苦しいことなのでしょうか。確かに、そうだと言えるかもしれません。若くして死なない限り、すべての人は、老いを経験します。そのすべての人が経験する、老いとは、そんなに、苦しい惨めなものなのでしょうか。 私たちは、老いをどうとらえたら良いのでしょうか。では、聖書は人の老いをどうとらえているのでしょうか。幾つかに絞って見ていきます。 

第1に、年を重ねて高齢者=老人、になることは、神の祝福であると聖書はみています。

そして、老人がその共同体にいるということは、その共同体が神によって祝福されている証拠でした。 
今でこそ、日本は世界一の長寿国ですが、日本も江戸時代末期までの平均寿命は、30歳と言われています。それは、伝染性の病気で大量の死者を出したり、乳児死亡率が高かったからです。5歳までに50%の子供が死んでしまったそうです。これは、大名や将軍の子供でも例外ではなかった。(勿論、例外的に長生きをした人もいた。しかし、平均は30才であった。)。 ちなみに、聖徳太子は48才で死にました。また、源頼朝は52才、足利幕府をつくった足利尊氏は53才、足利幕府3代将軍・足利義満は50才で死に、応仁の乱を引き起こした足利8代将軍・足利義政は54才で死んでいる。

戦国時代に、明智光秀に殺された、織田信長は48才、上杉謙信も48才で死んでいる。武田信玄は52才、豊臣秀吉は62才、徳川家康は75才まで生きました。  

そして、古代イスラエルにおいても、アブラハム、イサク、ヨセフと言った族長時代以降は、戦争や、天災、飢餓、病気など、様々な危機を乗り越えて生きる老人は、ごく少数でした。例えば、旧約聖書における平均寿命を見ると、これは、ダビデ王の家系のその後の王たち14代の王の平均寿命を調べた人がいます。その人によると、平均寿命は43.6才であったと言います。

中には暗殺された王もいましたが、それでも、一般人は、王様のような栄養を取れなかったことえを考えると、古代イスラエルにおいて、一般人の平均寿命は30才代であったろうと言っています。(日本と同じです。)。 

ですから、イスラエルでは、老人が共同体の中にいると言うこと自体が、その共同体が神によって祝福された証しでした。まず、これが、聖書の老人観です。聖書はこう言っています。 
レビ記19: 32 あなたは白髪の老人の前では起立し、老人を敬い、またあなたの神を恐れなければならない。わたしは主である。 

聖書は老人に対しては、敬意を表すべきであることを言っています。→「あなたは白髪の老人の前では起立し、老人を敬い、またあなたの神を恐れなければならない。」。
この言葉は、老人を敬うことは、神を敬うことにつながっていることを示しています。

「あなたの父母を敬え。」ということは、皆、聖書の言葉として知っています。しかし、聖書はさらに、「あなたのおじいさん、おばあさんを敬え」と言っていることも、私たちは、忘れてならないと思います。高齢者を大切にすべきことは、聖書の教えです。 

しかし今、日本は老人が多い国であり、厚生労働省の調査では、今年も100歳以上が、47,756人いる。日本は、聖書的にみると、神に祝福されている国になります。
しかし、高齢者とのゆったりとした会話や交わり、高齢者を愛し、敬う、心の豊かさを持って生活しているかと言うと、そうではなく、むしろ、そういったものを、失ってしまっているのではないでしょうか。どうしてなのでしょうか。 

多くの孤独の老人は、自分に対して興味をしめしてくれる人はいない、と思っているようです。今の時代、私たちは、もっと、もっと、老人を愛することが求められていると思います。 

レビ記19: 32 あなたは白髪の老人の前では起立し、老人を敬い、またあなたの神を恐れなければならない。わたしは主である。 
 

さて、聖書が示す老いの特徴の第2は、知恵と分別があるということです。

高齢者は、自分の弱さは自覚していますが、知恵と慎重さと、分別があるのです。高齢者は若者よりもずっと、相手の言うことを聞き、理解しようとする心を持っていると、聖書は見ています。 

旧約聖書の中の2サムエル記に、ダビデ王が、その子アブシャロムの反乱で、アブシャロムから命を狙われて、王宮を逃げ出して行く、ところがあります。ダビデは突然のことで、着の身着のまま荒野に逃げて行ったわけですが、その時、80歳になるバルジライという人(当時としては相当な老人です)が、逃げてきたダビデをかくまい、養いました。 そして、ダビデ軍はアブシャロム軍に勝利して、王宮に戻るのですが、そのとき、ダビデは、このバルジライへの感謝として、バルジライを一緒に王宮に連れていき、側近に取り立てて、一生面倒みる、と言いました。しかし、バルジライは、「私はもう高齢で、王の役には立ちませんから結構です。」と言って王の申し出を辞退しました。そして、そばにいたキムハムという若者を、自分の代わりに、連れて行ってダビデの家来にしてくれるように、頼みました。 

このように、年をとるにしたがって増してくる、自らの弱さを冷静に認め、他の人の迷惑になることをよしとせず、謙遜に、若者を後押ししている、老人の知恵と分別のある姿を、聖書は示しています。 

また、1列王記には、ソロモン王の子供のレハブアム王のことが出て来ますが、このレハブアム王は、民たちの訴えがあったので、自分の政治判断をするために、長老と若者に、相談しました。老人である長老たちは王に、民の強制労働を軽減して、民に親切にすれば、民は王に従うようになると進言しました。しかし、若者たちは、もっと税金を取り立て、過酷な労働を嫁すように言いました。レハブアム王は、老人の意見を退け、若者の意見を採用しました。そして、失敗してしまいました。若者の意見を受入れて、民を苦しめた結果、国が北王国と南王国の二つに分裂してしまったのです。老人である長老たちの意見を大切にしていれば、こんなことにはならなかったのです。 

このように、老いた者は慎重で、苦しむ者の気持ちを理解できる、また、その判断に分別のあることを、聖書は示しています。 

次に、聖書が示す老いの特徴の第3は、第2のことと反対のことです。さて、聖書から見る、老いの第3の特徴は、それは、年をとれば誰でも、分別のある人になるかというと、そうではなく、「愚かな王様」になる人もいる、言うことです。 

聖書は、知恵と分別は、老いの特徴であると言っています。しかし、同時に、人はさまざまであって、年をとっても、頑固やわがままで、プライドが強く、人を困らせる老人もいると、聖書は正直に言っています。

ヨブ記32: 9 年長者が知恵深いわけではない。老人が道理をわきまえるわけでもない。
伝道者の書 4: 13 貧しくても知恵のある若者は、もう忠言を受けつけない年とった愚かな王にまさる。
 


これは、私たちすべての者への神からの警告でしょう。年をとって生きるが大変になる人は、頑固で、謙遜になれない人だと思います。年をとって、身体もきかなくなと、家族や他者に、お世話になる機会が多くなると思います。しかし、その時、謙遜になれないと、「誰々さんの世話にはなりたくない。」、と言って、ますます自分を孤独にしてしまいます。そして、生きていくのが大変辛くなる。 

私はかつて、中之条で伝道していた頃、沢渡温泉病院に伝道していたことがあります。200人ぐらいの入院患者さんがいたでしょうか。そのベットを一つ、一つを回って伝道していた時、ある付添家政婦さんが、「ぜひ、わたしの患者さんに、話をしてください。」と言われた。行ってみるとその人は、車イスに座ったまま下を向いて、じっとしている。動こうとしない。このままでは、強制退院させられると言う。私は聖書の話をしたが、その人は、ほとんど聞こうとしなかった。その人は、公立学校の校長をした人で、エリート街道を歩んできたそうです。しかし、脳梗塞になり、身体が動かなくなってしまった。とても、プライドが強く、惨めな自分を受入れられず、リハビリをすることについても、誰の言うことも聞かない、と言うことでした。 

聖書は、人が年をとれば、自然に、謙遜で分別のある人になるかというと、そうではなく、「忠言を受けつけない年とった愚かな王」になることもあると、言っております。 私たちは老いても、「忠言を受けつけない年とった愚かな王様」なってはならないのであります。

さて、ここまでは、聖書の中から老いの特徴を3つに絞って、見てまいりましたが、では、私たちが健やかに、老いを生きるための秘訣を、聖書はどう教えているのでしょうか。 

聖書が教える、老いを健やかに生きる秘訣の
第1は、年をとればとるほど、神により頼んで生きると言うことです。 


年をとれば、誰で皆、身体のどこかが痛んできます。自分の弱さがわかります。そのときこそ、自分の力により頼んで生きるのではなく、また、他人の力により頼んで生きるのではなく、神に=キリストにより頼んで生きると言うことです。その人に神は、こう約束しています。

イザヤ書 46:3 ・・胎内にいる時から、担われており、生まれる前から運ばれた者よ。 
イザヤ46:4 あなたがたが年をとっても、わたしは同じようにする。あなたがたがしらがになっても、わたしは背負う。わたしはそうしてきたのだ。なお、わたしは運ぼう。 わたしは背負って、救い出そう。 


ここに神の慈しみ深い約束があります。神は、どんなに年をとっても、私たちを背負い運んでくださると約束してくださっているのです。 

永遠の神、無から天地を創造した神、イエス・キリストに、心からより頼み、望みをおく人は、地上の生活における、身体の不調や弱さに、一喜一憂するのではなく、老いても、人知を越えた神の愛、神の力を体験するというのです。 

次に、健やかに老いを生きる秘訣の第2は、賛美と祈りに打ち込むことです。 

それは、

詩篇71: 8 私の口には一日中、あなたの賛美と、あなたの光栄が満ちています。
詩篇 71:14 しかし、私自身は絶えずあなたを待ち望み、いよいよ切に、あなたを賛美しましょう。


ここには、年老いてもなお、日々、神をさんびする口があります。神を讃美して歌う、とき、心がいつも神に向かいます。・・次に9節です。

詩篇71: 9 年老いた時も、私を見放さないでください。私の力の衰え果てたとき、私を見捨てないでください。
詩篇 71:18 年老いて、しらがになっていても、神よ、私を捨てないでください。


これは、祈りです。このように、老いの大変さをじっと自分の中に閉じ込めないで、率直に、この詩人のように神に祈ることです。このように、老いても日課のように、神への賛美と祈りに打ち込んでいくことができます。賛美と祈りによって、魂はますます元気になり、生きる力が出てきます。

次に、老いを健やかに生きる秘訣の第3は、老年期だからと言って、消極的に生きるのではなく、積極的に生きること、福音宣教に生きることです。


それは、自分に出来ないことがあることを悔やんで、何もしなくなるのではなく、自分に出来ないことは、できないと正直に認め、自分に出来ることを、前向きに行うことだと思います。 教会の礼拝、集会に、できるだけ出席することもその一つでしょう。祈りと賛美もその一つでしょう。祈りは、最後の最後まで、できる主への積極的な奉仕です。 

さらに、詩篇71篇15、17、18節にはこうあります。 

詩篇71:15 私の口は一日中、あなたの義と、あなたの救いを語り告げましょう。私は、その全部を知ってはおりませんが。
詩篇71:17 神よ。あなたは、私の若いころから、私を教えてくださいました。私は今もなお、あなたの奇しいわざを告げ知らせています。
詩篇71:18 ・・・・私はなおも、あなたの力を次の世代に、あなたの大能のわざを、後に来るすべての者に告げ知らせます。 


ここで、詩人は、「年老いて、しらがになっていても、・・私はなおも、あなたの力を次の世代に、あなたの大能のわざを、後に来るすべての者に告げ知らせます。」と、言っています。詩人は、若いころから教えられてきた、神のみわざと義を、次の世代の者へ、告げ知らせる、と言っています。 「年老いて、しらがになっていても」、彼は自分の弱さを認め、自覚しているが、その弱さと、反比例して、神の義と、神の救いの偉大さをますます深く知り、それを宣べ伝えると言っているのです。つまり、老いてもなお、神の救い、キリストの救い、神の御ことばを、生活の中で、次の世代に宣べ伝える、福音宣教をすると、言っているのです。

伝道の仕方には、様々あります。普段の人との会話の中で、教会を紹介したり、集会にさそったり、いろいろな、方法があると思います。キリストを伝えていくこと。「年老いて、しらがになっていても、・・私はなおも、あなたの力を次の世代に、あなたの大能のわざを、後に来るすべての者に告げ知らせます。」。ここに、老いてなお、積極的に生きる、生き生きとした、生き方があると思います。

さて、 老いても神にすべてをより頼んで生きる人。老いても賛美と祈りに打ち込む人。そして、老いても、消極的に生きるのではなく、積極的に生きる、福音を宣教する人。
そして、老いても、神に感謝できる人。こういう人を、聖書は、こうまとめています。

詩篇92:13 彼らは、主の家に植えられ、私たちの神の大庭で栄えます。
詩篇 92:14 彼らは年老いてもなお、実を実らせ、みずみずしく、おい茂っていましょう。

「主の家に植えられた人」「神の多庭に植えられた人」です。こういう人は信仰によって、神(キリスト)に深く根をおろし、神(キリスト)と結びついている人です。

神の庭に、根をはっているがゆえに、キリストから、肉体的いのち、霊的いのち、永遠のいちを、いただくことができます。ですから、老齢になっても、主イエスとともに、賛美しながら、老いの坂を越えていくことができるのです。そして、老いても、なお、みずみずしく芽吹き、葉を茂らせ、そして、実を結び続けるというのです。神の家、神の庭、すなわち、キリストを源泉とする、永遠のいのちが、あるゆえに、この神のいのちに、根をはっているがゆえに、「年老いてもなお、実を実らせる」人生が、ここにあるのです。

詩篇92:13 彼らは、主の家に植えられ、私たちの神の大庭で栄えます。 
詩篇92:14 彼らは年老いてもなお、実を実らせ、みずみずしく、おい茂っていましょう。
 


アーメン。                      

天にいます私たちの父

2011-07-09 | あなたへの聖書メッセージ
      メッセージ 天にいます私たちの父  
 

さて、神は、皆さんにとってどういう存在でしょうか。
主イエスは、こう祈りなさいと教えられました、主の祈りで、イエスはまず、

マタイ6:9 だから、こう祈りなさい。『天にいます私たちの父よ。御名があがめられますように。  
と、呼びかけるように、教えてくださいました。
つまり、イエスは、神は、天にいます、あなたのお父さんですよ、と言われたのです。だから、天にいます私たちの父よ、呼びかけから、祈りを始めなさいと教えられたのです。

「天にいます私たちの父よ」このことばは、弟子達を驚かせました。なぜなら、ユダヤ教では、神を父と呼ぶことは無かったからです。先祖のアブラハムは、信仰の父と呼びました。しかし、神を父と呼ぶことはしなかった。恐れ多い。

ところが、イエスは、神を天のお父様と呼んでいい、と言われました。
皆さんにとって、神が、自分の天にいますお父さん、になっているでしょうか。

人は、すべて、天地万物の創造者なる、このまことの神によって、創造されていますのから、神は、自分の創造者であることは、すべての人に共通です。しかし、だからと言って、この神を、お父さんと呼べる人は、すべての人ではありません。

選ばれた人たちだけです。選ばれた人たちとは、誰のことでしょうか。ここに、いらっしゃる方々が、そうです。それは、イエス様をまことの神として信じ受け入れた方々です。

ヨハネ 1:12 しかし、この方(イエス・キリスト)を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。
と、聖書にある通りです。

イエスは、父が生んだ、神の御子、独り子です。だから、天の神を、いつも「父よ」よ呼びました。
しかし、私たちも、イエスを信じて、神の子どもとされました。だから、天の神を、天のお父様と、呼ぶことができるのです。天のお父様は、お一人ですから、この神を天の父とした、私たちは、お互いに、父の子どもですから、兄弟姉妹となるのです。
(教会における単なる、呼称ではないのです。もっとも、日本人は、あまり、兄弟、姉妹、と言ういい方をこのみませんので、私は、さんづけで呼ぶことが多い。姉、兄、というはいいかもしれません。)

イエス様は、神であり、主でもありますが、神の御子で、父なる神から見れば、長子(長男)になります。私たちは、次男、三男、四男、二女、三女、となとります。ですから、私たちは、天の神を父とする、神の家族なのです。

さて、神を父と呼べることが、どれほどの恵みか、考えてみましょう。しかし、むしろ、神の前に出て、顔をあげる勇気もないのに、どうして、神を父と呼ぶことができるでしょうか。と言われるかも知れません。

しかし、私たちの心が、いかに暗い時でも、天の神は「あなたはわたしの子だよ」、こう呼びかけてくださっているのです。また、ただ単に呼びかけるのではなくて、御自分の御子イエスの十字架の贖い=救い、携えて、私たちの真っ黒い罪を、消すための手段を講じながら、私たちの心を奇麗にしてくださりながら、私たちに対して「あなたはわたしの子だよ」と呼びかけて下さっているのです。 

このように、天の神を父とする、関係の中で私たちは、だんだん心がきれいになっていくのです。また、愛と赦しとを、身につけていくことができるわけです。そして、天の神を父として、いつでも、どんな時でも、「天のお父様」と呼びかけて祈るとき、 

人の心をつい傷つけていた私たちですが、人を傷つける言葉でなく、励ます言葉が出るようになる。それは、「あなたはわたしの子だよ」と呼びかけてくださっている、天の神を父とする、そういう関係に生きる時に、私たちは造り変えられていくのです。 

ところが、中には、自分の父に対して、良いイメージを持っていない人もいる。
きびしく育てられてきたとか、小さい頃、よくお父さんに、殴られたとか。そういう人は、天の神が父だ、と言われても、天の父にも、良いイメージを持っていない人もいると思います。(虐待されて育った子はなおさらです)。

加山雄三のお父さんは、上原謙で、中学生になるまでに、3回、思い切り殴られた経験があり、絶対、親父を3回殴り返してやると、決めたそうで。高校生の時、ボクシングの練習と称して、お父さんを3回、殴ったそうです。上原謙さんは、顔がはれて、次の日の撮影を休んだそうです。晩年は、本当に仲良くなったそうです。

しかし、天のお父様は、地上の父親とは違って、実は、とても、心の広い、寛容で、忍耐深く、愛に満ちている、お方であります。
天にいますお父様が、そいう愛の深いお方であることを、イエスは、あるとき、たとえで、お話ししてくださいました。

これが、有名な、「放蕩息子のたとえ話」です。

さて、イエスはこういう話をされました。ある人に、(この人は、比較的大きな農場の持ち主で裕福な人でしたが)、二人の息子がおりました。兄息子は、家を継ごうとまじめに働いていましたが、弟は、父親と一緒にいて、何不自由のない生活をしていましたが、農場の生活にまた、田舎暮らしにあきあきして、もっと広い世界、もっと自由な世界に行って見たいと考えていました。また、もっと自分の力をためしてみたい、もっと刺激のある楽しい暮らしがしたい、と思っていました。 あるとき、弟息子は、そのつのる気持ちをおさえることができず、お父さんにこう言いました。 
『おとうさん。私に財産の分け前を下さい。』(12節)。

日本では生前贈与というのがありますが、当時、ユダヤ人、アラブ人の間には、生前贈与の法律はなかった。ですから、この弟息子の言葉は、異常な言葉だったのです。
生きている父親に向かって、息子が『おとうさん。私に財産の分け前を下さい。』と言うことは、それは父親に向かって、「お父さん、早く死んで下さい。」と言うことと同じでした。

しかし、その異常な言葉にもかかわらず、このお父さんは、弟息子に財産をわけてやりました。「それで父は、身代をふたりに分けてやった。」 「ふたりに分けてやった」とありますが、平等に、お兄さんにも、父は、あげたのです。これは、実際には、兄は家に留まっているので、土地、家畜は、そのままの状態ですが。

ルカ15:13 それから、幾日もたたぬうちに、弟は、何もかもまとめて遠い国に旅立った。     
お父さんから財産の生前贈与(農家ではおもに、家畜と土地でした)を受けた、弟息子は、それを現金化して遠い国へ旅だったのです。

さて、財産の分け前を現金として持ち、願っていた広い世界、自由な世界へ羽ばたいて行った、弟息子ですが、その後どうしたでしょうか。

ルカ15:13 それから、幾日もたたぬうちに、弟は、何もかもまとめて遠い国に旅立った。そして、そこで放蕩して湯水のように財産を使ってしまった。 

彼は念願の広い世界、自由な世界に出てきましたが、そこで自分の力を試し、一旗揚げようとしたのですが、彼がしたことは、「そこで放蕩して湯水のように財産を使ってしまった」のです。あっという間に、ばく大な財産が消ええていきました。その結果、

ルカ15:14 何もかも使い果たしたあとで、その国に大ききんが起こり、彼は食べるにも困り始めた。 
意気揚々と都会に出てきた弟息子は、あっという間に、父からもらった財産(持ち金)はなくなり、折からの飢饉もあり、毎日の食事にも事欠く有り様になりました。彼は、どうしたか。

ルカ15:15 それで、その国のある人のもとに身を寄せたところ、その人は彼を畑にやって、豚の世話をさせた。15:16 彼は豚の食べるいなご豆で腹を満たしたいほどであったが、だれひとり彼に与えようとはしなかった。 

「豚の世話をさせた」人々は、弟息子を厄介払いしたということです。ユダヤ人は、豚は、宗教上、汚れた動物だった(レビ11:7)。ですから、豚を飼う手伝いとは、彼は、ユダヤ人として、これ以上ない、屈辱を味わったのです。

しかも、「彼は豚の食べるいなご豆で腹を満たしたいほどであったが、だれひとり彼に与えようとはしなかった。」のです。

彼は、人間では、とてもまずくて食べられない、豚の餌の「いなご豆」を食べたいと思ったくらい、お腹がすいて、すいて、どうしょうもなかったのですが、誰も、何も、彼に与えてくれる人はいなかったのです。 

彼は、何、不自由のない父のもとを、飛び出して、自分が考える自由と希望とを求めて、都会に出てきました。しかし、そこで彼が直面した現実は、放蕩の生活と、その後に待っていた、どん底の生活、今まで味わったことのない屈辱の生活でした。彼の人生は、破滅、寸前でした。この時彼の心に変化が起こりました。

ルカ15:17 しかし、我に返ったとき彼は、こう言った。『父のところには、パンのあり余っている雇い人が大ぜいいるではないか。それなのに、私はここで、飢え死にしそうだ。 「我に返ったとき」とあります。

この弟息子は、人生の問題、困難さに直面したとき、その苦しみの中で、彼は、「我に返った」のです。これは、恵みの出来事です。生活の苦しさが、無くなったのではないが、彼は、「我に返った」のです。

つまり、彼は、問題は、困難さは、父にではなく、また、他者にではなく、自分に責任があることに気がつきました。そして、自分自身の中に、問題があることに気付いたのです。
その気付きとは、こうです。
父から離れた生活こそが、自由な生活だと思っていたが、それは、自由な生活ではなく、自分勝手な生活であり、そして、父から離れた者は、破滅に落ち込むことに、気がついたのです。 

さて、この父は、天の神、天の父をあらわしています。そばにいた、父から離れ、遠い国へ旅立った、ということは、天の父=神から心が遠くへ離れていったと言うことです。この弟息子の姿は、天の父から離れ自分勝手な道を行こうとしている、罪人の姿を現しているのです。

しかし、弟息子は、我に返りました。自分が間違っていたことに気がついたのです。同時に、父と共に生活していた時の、数々の恵みを、思い起こしました、そして、彼は、父のもとに帰る気持ちが出てきました。

しかし、彼は、迷いました。いまさら、どういう顔をして父のもとに帰るのか。あれほど、大変ことになるから、よしなさいと、言われた父の言葉を、無視して、まして、父の財産の分け前も、分捕って出てきた、そして、財産の分け前は、ずべて使ってしまい、ホームレスになってしまった。

父は、はたして。こんな自分を赦してくれるだろうか。顔を見たとたんに、何をいまさら帰って来たのか、出て行け!と怒られるのではないか。
様々な、気持ちが、弟息子の心に、浮かびました。考えました。どうしようか。
そうだ、ここにいても、どうせ、死ぬんだ、父のもとに行って、召使いとして、雇ってもらったほうが、まだましだ!そうだ、父のもとに帰ろう!

彼は、決断しました。そして、父の家に帰って行ったのです。

さて、お父さんは、どうしたでしょうか。

ルカ15:20 こうして彼は立ち上がって、自分の父のもとに行った。ところが、まだ家まで は遠かったのに、父親は彼を見つけ、かわいそうに思い、走り寄って彼を抱き、口づけした。

驚くべきことに、父は、誰かもわからないような姿に、落ちぶれていた、みすぼらしい姿での、この弟息子を、まだ、家から遠かったのに、その姿を見つけて、走り寄って行ったのです。そして、彼を迎え抱きしめたのです。

父は、弟息子を見つけ、その放蕩生活を、一切、叱りませんでした。その自分勝手なことを、財産を持って行って、使い果たしてしまったことも、「なぜ、こんな悪いことをしたんだ!」とか言わない。一切、彼を責めていません。父がしことは、「良く帰ってきたね!この日を待っていたのだよ。」とそのみすぼらしい、弟息子を、強く抱きしめてあげることでした。

皆さん、これが、私たちの天のお父様なのです。私たちの天の父は、こういうお方です。

さらに、父は、帰ってきた放蕩息子を、喜び、子牛を料理して、お祝してくれたのです。
ルカ15:22-34節をみてください。

15:22 ところが父親は、しもべたちに言った。『急いで一番良い着物を持って来て、この子に着せなさい。それから、手に指輪をはめさせ、足にくつをはかせなさい。15:23 そして肥えた子牛を引いて来てほふりなさい。食べて祝おうではないか。15:24 この息子は、死んでいたのが生き返り、いなくなっていたのが見つかったのだから。』そして彼らは祝宴を始めた。 

父は、帰ってきた放蕩息子の行状を、いっさい、その責めたりはしませんでした。それどころか、父は、帰ってきた放蕩息子に、「一番良い着物を着」せました。これは、神の義の衣ということができるでしょう。

「手に指輪をはめさせ」とは、指輪は、契約の印です。これは、神との和解のしるし、完全に父の子供として、復権したことを示しているでしょう。 

「肥えた子牛を引いて来てほふりなさい。食べて祝おうではないか。」これは、豊かな神との交わりです。これらは、神に立ち返って来る者に、神が与える恵みの数々です。
 
このお父さんこそ、天にいます私たちのお父さんです。
天にいます私たちのお父様とは、こういうお方なのです。

さて、この父親は、この放蕩息子が、罪の告白を聞いてから、この息子を受け入れたのでは有りませんでした。お父さんが駆けよって、抱きしめたのが先です。ですから、罪が赦されるために、罪を認めて告白することが必要ですが、すなわち、罪を悔い改めることが、必要ですが、この放蕩息子は、自分の悔い改めという、行いを通して、救われたのではないのです。

すでに父が赦していたからこそ、悔い改めができたと、言った方が良いででしょう。 父は、この放蕩息子が帰って来る前に、すでにこの弟息子を赦していたのです。

すなわち、神は、すでに放蕩息子の罪を赦していたのです。ここに、神の愛と罪の赦しがあります。すでに、赦しが用意されていたが、ゆえに、この放蕩息子は、罪を悔い改めることができ、そして、父の元に帰って来ることができたのです。 

人の救いが、全く神の恵みのよるということが、ここからもよく解ります。 
弟息子は、さらに、自分を無条件で受けれてくださった、この父の姿を見て、その心は完全に変えられました。そして、さらに、彼の真実な、告白になりました。

15:21 息子は言った。『おとうさん。私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました。もう私は、あなたの子と呼ばれる資格はありません。』 

放蕩息子がしたことは、真実な自分の姿を、認め、それを、父に告白したことだけです。天のお父様が、救ってくださったのです。

弟息子は、父=神から離れた、自分の問題=罪を認め、自分の罪を告白しました。「私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました。」 

自分が直面している困難な問題を、他者の責任にすることなく、彼は、自分の中にある、罪が原因でることを認めて、その罪を言い表した(告白)したのです。そのとき、天の父は、罪を赦し、自分の生活を破壊している、罪から、開放してくださるのです。

キリストの救いとは、罪の赦しと、罪からの解放です。それは、神が、本来、創造された人間としての尊厳、自由、責任、を取り戻すことです。人は、自由に自己決定ができる者として、創造されました。自由な存在とは、無責任ということではないのです。責任もともないます。人は、自分の生き方に責任をもつ時、真の自由と幸福感のある人生が歩めるのです。

さて、この放蕩息子を迎えたお父さんこそ、天にいます私たちのお父さんです。
天にいます私たちのお父様とは、こういうお方なのです。

この話の中に、イエス様は、どこにいるのでしょうか。
この話をしてくださっているが、イエス様です。
イエス様は、すべての人の罪の身代わりとして、十字架について、死んでくださいました。イエス様は、ご自分が、この放蕩息子のために、十字架について死なれることを、前提として、このお話しをされたのです。

すなわち、父の無条の赦しの背後に、キリストの十字架の死の代価が支払われていたことを、読み取ることができるのです。 

この放蕩息子は、「見つけだし、走り寄って来て抱きしめて」くれた、父の愛に圧倒されて、息子は、真の悔い改めたに至りました。

天にいます私たちのお父様とは、こう言うお方のです。ぜひ、この天にいます父を、自分の父として歩んでください。

ルカ15:20 こうして彼は立ち上がって、自分の父のもとに行った。ところが、まだ家まで は遠かったのに、父親は彼を見つけ、かわいそうに思い、走り寄って彼を抱き、口づけした。

アーメン。

輝く人生への転換

2011-07-07 | あなたへの聖書メッセージ
    メッセージ 輝く人生への転換   



聖書の中の有名な人物、ザアカイの出来事を通して、ともに学びたいと思います。 

1お金持ちでも生きがいのない、孤独なザアカイーむなしい人生

イエスさまがパレスチナの地を歩まれていた頃、エルサレムの都から20数キロメートル離れた、ヨルダン川のほとりに、気候温暖でとても住みやすい、ヘロデ王の離宮(別荘)もあったくらい良い所で、エリコという町がありました。ここに、ザアカイは住んでいました。

このザアカイはお金持ちでした。大変裕福な人でした。なぜ、彼が金持ちであったかと言うと、彼は、取税人(税金取り)のかしらであったからです。当時は、イスラエルはローマ帝国の属国であり、支配下にあったのですが、この取税人という仕事は、ローマ政府のお先棒をかついで、ユダヤ人からの税金の取り立を請け負う仕事です。

この権利は大金を出して買うようです。そこで、取税人のほとんどは、定められた税金額以上のものを取り立てて、しこたま儲けていた、私腹を肥やしていたようです。ですから、当時、取税人は、同国民のユダヤ人から蛇のように嫌われて、罪人呼ばわりされていました。 

当時、ユダヤでは、取税人(税金とり)と言えば、罪人の代名詞のようだった。

ザアカイも、不正な取り立てをして私腹を肥やしていた一人でありました。しかも、彼は、取税人を束ねる、取税人のかしらにまで伸し上がった人でした。ですから、彼は、大金持ちだったのです。 

彼がそこまでお金にこだわったのは、子どもの頃から背が低く、大人になってもそうでしたが、そんために、皆からいじめられた経験があったのか、あるいは、それをコンプレックスとして持っていたために、何とか、金持ちになって、世間を見返してやりたい、と思ったか。そのコンプレックスを忘れ、自分に自信を持ちたいと思ったか。 

いずれにしても、ザアカイは、当時のユダヤ人から嫌われてでも、お金持ちになりたかったのでしょう。その目標を、彼は達成したのです。

ザアカイの不幸

しかし、彼は幸福ではありませんでした。彼は、大金持ちでした。お金で買える欲しいもものは、何でも手に入りました。しかし、彼は幸福ではありませんでした。彼は孤独でした。彼は心を通わせることの事の出来る人が、一人もいませんでした。お金では人の心は買えなかったのです。孤独ほど人生をつまらなくするものはありません。苦しみ、悲しみ、喜びを共に分かち合える人がいることは、辛いことの中にも人生を豊かなものにいたします。しかし、孤独は違います。  

また、ザアカイは、疲れ果てていたと思います。肉体的な疲れではありません。肉体的な疲れでしたら、睡眠をとれば回復します。しかし、彼の疲れは、心の疲れです。それは人間関係の破壊からくる心の疲れです。人の心が本当に疲れを感じるのは、人間関係の不和、破壊からくる疲れだからです。 

人間関係がうまく行っていれば、仕事も、学校も、家庭も、辛いことがあったとしても、全体的には楽しくやっていけると思います。人間関係の破壊、ここに心の疲れがどっとたまる、と言えると思います。ザアカイは、お金もたまりましたが、人間関係が破壊していましたから、その心は疲れはもっとたまっていたと思います。 

さらに、ザアカイが疲れ果てていたのは、重くのしかかる自分の罪の重荷がありました。旧約のダビデという王様は、こう言っています。

詩篇 51: 3 まことに、私は自分のそむきの罪を知っています。私の罪は、いつも私の目の前にあります。
51: 4 私はあなたに、ただあなたに、罪を犯し、あなたの御目に悪であることを行ないました。
詩篇32:3 私は黙っていたときには、一日中、うめいて、私の骨々は疲れ果てました。 32:4 それは、御手が昼も夜も私の上に重くのしかかり、私の骨髄は、夏のひでりでかわききったからです。セラ 

ここでダビデは「罪によって、私の骨々は疲れ果てました」「私の骨髄は、夏のひでりでかわききった」と言っています。「骨々」「骨髄」は、その人を支える中心を意味しています。
しかし、私たちを支える中心が、罪によって疲れ果ててしまう、そして、罪の重荷が心の中に重くのしかかって、心を疲れ果てさせるというのです。 

罪とは何でしょうか。それは根本的には、神を自分の心の中から締め出し、神から離れ、神に従わず、自分が自分の王になって生きることです。  

ザアカイは、神を心から締め出していました。自分が自分の王になり、それがゆえに、強欲ずくで、お金の、がりがり亡者になっていました。そのためなら、不正をして人をだまして税金を取ることもいとわなかったのです。しかし、彼はその自分の罪の重荷に、疲れ果てていました。 

人には、神から与えられた「良心」があります。それゆえ、罪による、自己嫌悪に陥ったり、自分の罪深さに悩むのです。(それは、決して悪いことではないのですが)

神を心から締め出して、自分が自分の王として、生きる時、のどが渇くように、その人の心が渇いていきます。心が渇ききってしまうと、絶望と死がもたらされてしまいます。
渇ききった心に、必要なのものは、命の水です。身体には、きれいな水が必要です。そして、心には、いのちの水が必要なのです。

イエスは、言われました。
john 4:14 しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。」

さて、ザアカイはその渇ききった心を潤すために、この世の者に行かずに(相手にされなかったので行けなかったですが)イエスさまのもとに行ったことは幸いでした。 
ザアカイは、愛、希望、真実なこと、真の生きがいを求めていたのです。心の中のその思いを、打ち消すことができませんでした。お金では、解決できなかったのです。

2 失われた者の名を呼ぶーイエスはザアカイを知っていた
  いちじく桑の木に登ったザアカイー恥も外聞もなく求めた


ザアカイは、エリコの町にイエスさまが来られると言うことを聞き、ザアカイは、イエスさまを一目見たいと思ったのです。おそらく、イエスさまのうわさをすでにザアカイは聞いていたでしょう。そのうわさの中には、イエスさまが取税人や、罪人と言われる人々の友になっていること、それらの人々をイエスさまは受け入れ、イエスさまに出会ったそういう人々が変えられ、とても喜んでいることを、聞いていたと思います。 

そこで、ザアカイは、エリコの町を通過する、イエスさまと弟子達の方へ、駆け出して行ったのです。
→ルカ19:3 彼は、イエスがどんな方か見ようとしたが、背が低かったので、群衆のために見ることができなかった。 

群衆は、背の低いザアカイをさえぎって、イエスさまを見えなくしました。ふだん不正まがいの税金取り立てで、しこたま儲けていたザアカイに、道を空けてくれる人はいません。それどころか、飛んで火にいる夏の虫、のごとく、群衆はこの小さな取税人を小突いたり、蹴ったりしたと思います。彼は孤独でした。 

ここで、あきらめて帰ってもそれまででした。
しかし、ザアカイはそれであきらめることをせず、イエスさまを求めて進みました。木の上からだったたら、イエスが見えるに違いない、そう思うと彼は、大きなイチジク桑(実はイチジクのようで葉は桑の木のよう)の木に、登っていました。
→19:4 それで、イエスを見るために、前方に走り出て、いちじく桑の木に登った。ちょうどイエスがそこを通り過ぎようとしておられたからである。 

イエスは、大勢の群衆に、取り囲まれていましたから、たとえ、イチジク桑の木に登っていても、誰も、ザアカイを認め、ザアカイに気づく人はいませんでした。 

そのザアカイのいる木の下を、イエスさまと弟子達一行と、群衆は通り過ぎようとした時です。その時、イエスさまが突然、足を留め、木の上を見上げたのです。誰も、見なかった木の上を。そして、言われました。
19:5・・「ザアカイ。急いで降りて来なさい。きょうは、あなたの家に泊まることにしてあるから。」 

イエスは、なんと、突然「ザアカイ」とザアカイの名を呼んで下さいました。木の上にいても誰も、ザアカイに気づく人はいなかったのに。そして、イエスは、「急いで降りて来なさい。」「きょうは、あなたの家に泊まることにしてあるから。」とザアカイに、言われたのです。 

群衆は驚きました、しかし、一番驚いたのは、ザアカイでした。まだ、一度も会ったことがないのに、どうして、イエスは、私の名前をご存じだったのだろうか? ザアカイは、身ぶるいしました。それは、恐怖と言うより、聖なる喜びの身ぶるいです。

「ああ、自分のすべてを見通しておられるお方が、ここにおられる。」「このお方は、神、救い主に違いない。」「ああ、誰一人、自分のことを気にかけてくれる人はいなかったに、このお方は、救い主に、私は、覚えれていたのだ。」
19:5・・「ザアカイ。急いで降りて来なさい。
この、イエスの言葉で、ザアカイは、そう悟ったのです。
さらに、イエスは、ザアカイに言われました。
きょうは、あなたの家に泊まることにしてあるから。」

この言葉に、ザアカイは、更に、驚き、また、神の愛が自分の注がれているを悟った。なんという神の愛なのだろう。アメージング・グレイスだ!

ザアカイは、誰にも相手にされない社会の敵、嫌われ者、しかも、取税人のかしら、ユダヤの宗教、律法から行ってもも、ザアカイは、罪人のかしらだ!彼に近づけば、汚れる! とユダヤの人々は、彼に近づかなかったのです。

しかし、イエスは、そんなことは平気です。ザアカイに触れて、汚れるなら、ザアカイの家に泊まって、汚れるなら、それでよい。私がザアカイの汚れを引き受けましょう。「ザアカイ。きょうは、あなたの家に泊まることにしてあるから。」このイエスの言葉の意味は、こういう意味です。
だから、ザアカイは、喜びのあまり、叫んだのです。「アメージング・グレイス、ああ、ななと驚くべき、神の愛なのだろう!」

3 イエスを心に迎え入れたザアカイー輝く人生への転換

ザアカイは、イチジク桑の木から、「急いで降りて来て、そして大喜びでイエスを自分の家に迎えました。」(6節) 
この時、ザアカイは、イエスさまを自分家に迎え入れただけではなく、自分の心に迎え入れたと思います。さらに、迎え入れた家で、イエスさまから直接、神のことばと福音を聞き、ザアカイは、イエスさまを、救い主としてはっきり信じ、その心に迎え入れました。そして、ザアカイは心の王座をイエスさまに明け渡したのです。 

この時、ザアカイの身に大変革が起こりました。彼は、イエスさまを信じて、イエスさまによって全く新しい人に、造り変えられたのです。
ザアカイは、イエスさまに救われたのです。
彼の内面で起こった救いの、新しい人に造り変えられたその変化は、大変革は、外に形となって現されてきました。

→ルカ19:8 ところがザアカイは立って、主に言った。「主よ。ご覧ください。私の財産の半分を貧しい人たちに施します。また、だれからでも、私がだまし取った物は、四倍にして返します。」 

新しくされたザアカイは、その財産の半分は貧しい人に施すことにしました。そして、不正をしてだまし取った税金は、4陪にして返すことにしたのです(ユダヤの律法では2陪にして返す決まりであった)。

おそらく、これを実行したザアカイはほとんどの財産を失ったと思います。 

イエスを信じることによって、全財産を失うなんて、ザアカイは、馬鹿ではないか。今までの苦労は、何だったのか。と言う人がいるかも知れません。

彼は、この時、歯を食いしばって、悔しがって、お金を返したのではないのです。彼の心は、喜びで、満ちていました。
なぜ、でしょうか。なぜ、彼は、全財産を失っても、そんなに、喜ぶことができたのでしょうか。

それは、彼が、本来の自分を取り戻したからです。神のかたちに造られた、
人間の尊厳と自由を取り戻したらからです。
彼は、イエスによって、人間の尊厳と自由(と責任感)をとり戻したのです。だから、彼は、貧しい人の存在に気付き、その人を助けることを喜んだのです。

今までのザアカイは、人が泣き叫ぼうが、苦しもうが、お構いなく、税金だと称して、人々から、お金を奪えるだけ、奪い取っていたのです。そして、自分の財産を増やしていた。これができるのが、自由だと彼は、思っていた。しかし、彼がしていたことは、自由ではなく、欲望の奴隷、罪の奴隷だったのです。だから、人を愛することも知らなかったし、貧しい人の存在にも、目がとまらなかった。

しかし、彼は、イエスを信じて、その罪から救われ、そして、真の自由を得たのです。彼が、「財産の半分を貧しい人たちに施します。また、だれからでも、私がだまし取った物は、四倍にして返します。」これは、
彼に、真の自由が与えられたからこそ、できたのです。
キリストの救いは、罪の赦しと、人としての尊厳と自由と責任を取り戻させます。これが、キリストの救いです。

イエスさまは、そのザアカイを見て言われました。「きょう、救いがこの家に来ました。」(9節)「この人もアブラハムの子なのですから。」「人の子は、失われた人を捜して救うために来たのです。」(10節) 

イエスはザアカイを知っていたのです。いいえ、実は、イエスは、ザアカイを捜していたのです。神と自分を見失っていた、ザアカイをイエスは、捜しておられたのです。99匹の羊を残しても、1匹の迷える羊であるザアカイをを捜して救わんとしているのが、イエスさまであると言うのです。 

人々は、ザアカイは罪人だ、どうしょうもない人間だ、と言いました。しかし、イエスさまは、ザアカイは救われたと宣言したのです。そして、ザアカイだけでなく、救いはザアカイの家、手伝いさんの家、全体に広がった。 
ザアカイの人生は、輝ける人生へと、大変革しました。

イエスとイエスの愛に触れる前に彼の人生は、お金、財産はありましたが、生きがいも無く、人との触れ合いもなく孤独で、暗い人生でした。しかし、イエスとイエスの愛に触れたとき、彼の人生は、輝くものになりました。

みなさん、イエス様は、今も、神の前に、失われた人を捜しておられます。

イエスさまは、今も私たちの名を呼んで言われます。「ザアカイ。急いで降りて来なさい。きょうは、あなたの家に泊まることにしてあるから(心に入るから)。」「ザアカイ。急いで私のもとに来なさい。きょう、あなたを救うことにしていますから。」と。  

ザアカイは、木から急いで下りました。私たちも、しがみついている、自我という高い木から下りて、イエスさまの足下に行き、そして、イエスさまを心に迎え入れる時ザアカイと同じことが、私たちの身に起こるのです。 

ザアカイの救いの出来事は、私たちすべての者の希望です。
イエスは、ザアカイの罪を責めるのではなく、ザアカイの罪、汚れを、自分の身に負い、ユダヤの民、全体を敵にしても、ザアカイの家に、泊まってくださったのです。(19:7「あの方は罪人のところに行って客となられた。」と言ってつぶやいた。」)

これは、十字架のイエスをあらわしています。イエスは、十字架についてまで、私たちを愛されたのです。私たちの罪を責めることをしないで。

ザアカイの人生は、一変しました。イエスをその心に、迎え入れてから。
彼の暗い闇夜のような人生は、輝ける人生へと変えらたのです。

あなたも、イエスによって、輝ける人生へと変えられるのです。

アーメン。







1お金持ちでも孤独なザアカイーむなしい人生
 イエスはザアカイを知っていたー失われた者の名を呼ぶ
2いちじく桑の木に登ったザアカイー恥も外聞もなく求めた
 イエスは求める者を祝福し、その求めに必ず応える
3イエスに出会ったザアカイー輝く人生への転換
 イエスは失われた者を探し求めているーむなしい人生から人の役に立つ人生へと変えられる

永遠に残るもの-信仰と希望と愛

2011-07-02 | あなたへの聖書メッセージ


「永遠に残るもの-信仰と希望と愛」   


日野原重明さんは言う、この方は、今年100歳で、聖ルカ国際病院理事長であり、聖ルカ看護大学の名誉学長を、今なお現役で務めています。また、100歳でありながら、さまざまな活動に活躍している方です。この方がこう言っています。 

「日々患者さんを診察しながら思う。人生に問題をかかえていない人などいない。他人がうらやむような家庭や地位や財産をもち、まさに人生の成功者と見受けられる人にも、はたからは、うかがいしれない、悩みや苦しみある。そして、患者さんは、たいてい、「私ほど不幸な者はいない」と言います。」。 

私たちが生きがいを持って、困難や悩み、問題に負けないで、生きるために、必要なことは何でしょうか。
また、愛に満ちた人生と、憎しみと怒りで、満ちている人生と、どちらが、幸せな人生でしょうか。しかし、意外に、私たちは、憎しみと怒りの多い人生を、過ごしてしまいやすいのではないか。

憎しみや怒り、の原因には、親切にしたのに、お礼を言われなかったとか、自分の思いが裏切られたとか、自分の面子(めんつ)が傷つけられたことが、原因になっていることが多い。それは、結局、自分の存在が、軽んじられた、ということでしょう。

しかし、そういうものを越えた価値あるものを見出したとしたら、どうでしょうか。自分を越えた、大切な価値といっても良いでしょう。
もし、これを見出したならば、自分の立場がないとか、顔に泥を塗られたとか、人がちゃんとお礼を言ってくれないというようなことは、問題にならなくなるんじゃないか。そして、そこに自分の生命をかけて、生き生きと、生きることができるではないでしょうか。

聖書にパウロと言う人が出てきます。
この人は、自分を越えた、大切な価値あるものを、追及した人です。
パウロは、当時の最高の学問をおさめ、あらゆる知識と、あらゆる奥義をおさめ、当時のユダヤの社会では、彼の才能、ユダヤ教の知識、にかなう人はいませんでした。

しかし、彼の人生は、憎しみと怒りで燃えていました。
キリストを信じるクリスチャンたちを赦すことができませんでした。
パウロという人は、自分を越える切なものを知っていた人です。彼はイスラエルの国粋主義者で、旧約聖書の伝統に生きた人だった。神の義のため心が燃えていた。
キリスト信者たちは、神に背くものであると、彼は、堅く信じていたのです。それで、そむく者を赦せなかったのです。

彼らを、迫害し、投獄し、信仰を捨てさせるか、死刑にすることが、自分を越えた、大切な価値あるものだと彼は思っていたのです。その結果、彼の心は、喜びと言うより、憎しみと怒りで燃えていました。

しかし、彼は、幸福ではなかった。なぜなら、自分が得た最高のユダヤ教の知識や、奥義、キリスト者を迫害することが、自分を越えた、大切な価値あるものだと彼は思っていたが、それらのもは、永遠に残らない、過ぎ去って行く、すたれる、ものだと、知ったからです。

1コリント13:8 ・・・預言の賜物ならばすたれます。異言ならばやみます。知識ならばすたれます。 

そして、彼は、ある時、本物の、自分を越えた、大切な価値あるものを見出したのです。彼の人生は、一変しました。憎しみと怒りから、喜びと愛の人生に変えられたのです。そして、彼は、自分が見出した、自分を越えた、大切な価値あるものを、他の人に、伝えずに言えられなくなりました。

パウロが見出した、自分の存在を越えた、本当に価値あるものとは、何でしょうか。
それは、「信仰と希望と愛」だと言います。

1コリント13:13 こういうわけで、いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。その中で一番すぐれているのは愛です。 

「いつまでも残るもの」とは、すたれないもの、なくならないもの、永遠に続くものであると言うことです。永遠に続くものということですから、死で終らないものがここにあるのです。パウロは、これを手に入れたのだと、言ったのです。

「信仰」と「希望」と「愛」、このこの三つだけが、いつまでも残る、すなわち、永遠に残ると言うのです。
この地上にいる時、私たちには、様々なものが、まわりにあります。しかし、この天地が滅びて、この世が終わる時、すべてのものは、無くなってしまします。しかし、「信仰」と「希望」と「愛」は残るのです。つまり、天国には、地上のものは、ほとんどありませんが、「信仰」と「希望」と「愛」があるのです。

ですから、皆さん、私たちが、自分の存在を越えた、本当に価値あるものとは、この「信仰」と「希望」と「愛」なのです。

では、この「信仰」と「希望」と「愛」とは、何でしょうか。
1コリント13:13 こういうわけで、いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。その中で一番すぐれているのは愛です。 
とありますので、「愛」のみが、どうしても、目に止まってしますかもしれませんが、愛が、もっとも大きなものであることは間違いのないですが、実は、「信仰」と「希望」と「愛」、この三つは、切り離すことのできないものです。信仰を持たないで、希望と愛を手に入れることはできません。また、愛を、知らないで、信仰と希望を、持つこともできないのです。  
この三つは、三つで一つにものと言っても良いくらいです。

それでも、「その中で一番すぐれているのは愛です」と、あるように、愛は、中心的なことです。この愛を、握らずして、幸福な人生はあり得ません。

さてまず、
信仰とは、自分が考える神ではなく、神をそのあるがままに、感謝と信頼とをもって受け入れることであります。そのあるがままというのは、イエス・キリストにおいて現わされたまま、ということです。すなわち、イエス・キリストの十字架と復活は、私たちの罪を、一手に引き受けてくださった、ためであった。
このキリストの十字架と復活を、感謝をもって信じ、受けいれ、また、どんな時でも、それを疑わない、ということなのです。 
(この信仰があれば、だれでも、洗礼を受けて良いのです。)

希望は、その信仰において約束されたことが、与えられることを、信じて疑わないことであります。その約束とは、

ピリピl: 3:21 キリストは、万物をご自身に従わせることのできる御力によって、私たちの卑しいからだを、ご自身の栄光のからだと同じ姿に変えてくださるのです。

神から栄光を受けること=復活のからだ、やがて、主と、顔と顔とを合わせた時に、この約束が、成就します。この希望は、決して失望に終わらないものです。
なぜなら、この希望は、私たちに注がれている、神の愛に基づくものだからです。

さて、愛は、信仰と希望に対して愛は、最も大いなるものとされています。
信仰と希望が、愛と共にいつまでも残るのであるけれども、この愛は、この二つよりも大きい、といいます。なぜでしょうか。
それは、神について言えば分かることです。
信仰と、希望は、人に対しては言いますが、神に対しては、どうでしょうか。
神は信仰を持っている、とか、神は希望を持っている、とか言い切ることはない。しかし、神は愛を持っている、神は愛です、と言い切って良いのです。

神が信仰を持つとか、神が希望を持つということは、あり得ないことでしょう。しかし、神は愛を持っておられるのであります。人が持つ、信仰も、希望も、神からきているのですが、特に、愛は、神の持つ愛から来ているのです。

つまり、愛は、 人徳の一種ではないのです、
愛についての間違いは、愛を、人の道徳、人徳、としてだけ、見てしまうということです。確かに、道徳としての一面は、あるのですが、実は、愛は、人の徳ではありません。

愛を徳にしてしまうと、愛ほ律法になってしまいます。そのために、愛は努力すべき徳になってしまって、人を束縛するものになってしまいます。

1コリント13:13 こういうわけで、いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。その中で一番すぐれているのは愛です。 13:8愛は決して絶えることがありません。

この愛は、人が努力して得る、人の徳としての愛ではありません。もちろん、好きとか、嫌い、と言うかの感情から来る、愛でもありません。
永遠にすたれない、この愛は、神の愛によって与えられるものです。

実は、ここに出てくる「愛」は、古代ギリシャ語・アガペー=アガパオウ、と言う言葉です。
ギリシャ語では、愛は、他に、フィリア=フィレオー、エロース、と言う言葉があります。
ギフィレオー、友愛、人間相互の愛、に用いられいる。弟子同士の愛とか。

アメリカのペンシルべニア州にある都市名「フィラデルフィア」、古代ギリシア語で「兄弟愛の市」を意味する(Φιλαδέλφεια、ギフィリア=愛、ギアデルフォス=兄弟、ア=都市名につく語尾形)「フィラデルフィア」と命名した。

エロース、は、肉親愛、性的な愛、を示していますが、聖書では、一切使われていない。

聖書は、愛という言葉、をあらわすのに、ギアガペーという、当時、あまり使われていなかった言葉を、あてたのです。このギアガペーは無償の愛、見返りを求めない愛、すなわち、神の愛を指すのに、使われました。
神が愛です、と聖書が言う時、ほとんどは、このギアガペーが使われてます。

ヨハネ3:16もそうです。

ヨハネ3:16 神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。

ローマ5: 8 しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。

神の愛、それは、焦点を絞っていくと、キリストの十字架を死と復活を、指しています。
私たちを罪から、救わんとして、神は、神の御子イエス・キリストの上に、私たちのそむきの罪、けがれ、をすべて、かぶせて、私たちの身代わりに、御子、キリストを十字架につけて、処罰したのです。なぜ、神は、神に背く罪人の私たちを、さばかずに、御子を、さばいたのか→それは、神が、罪は赦せないが、罪人を愛しているからです。
これが、ギアガペー、の愛です。神の愛です。

ですから、この愛は無償の神の愛からを、受けた人のみが持てる愛なのです。この愛は、神の愛、神の恵みがもとになっている愛です。自分の努力によって、得られる愛ではないのです。

しかし、この世の愛も、美しい愛が、沢山あります。時には、その愛は、自分を捨てて、相手のために生きようとするもののように見えるのです。しかし、親子の愛でも、恋愛でも、その相手というのは、自分の好きな相手で、愛といっても、いつも、自分が好きであるということから離れないのです。

好きというのは、自分のためということで、それでは、どんなに激しくても、結局は、自分を愛している、愛です。愛を考えれば考えるはど、浮び上がってくるのは、自分、自我のことであります。自分を捨てるという愛が、かえって、自我をむき出しにして、憎しみに変る、ということぐらい、悲惨なことはありません。これが、生来の人間の愛の特徴です。 

ですから、私たちには、まず、神の愛が必要なのです。それは、自分の罪、強い自我が赦され、救われることです。神の愛に救われて、始めて、人の中に神への愛が生まれます。また、人への愛がでてきます。
ですから、まず信仰によって、神に、新しく創造されて、新しい人になって、はじめて、この本当の愛を知ることができるのです。

パウロも実は、その経験をしたのです。
パウロは、自分を越えた、大切な価値あるものを、キリスト者を抹殺することだと考えていたのです。ですから、彼は、すごい剣幕でした。
使徒 9: 1 さてサウロは、なおも主の弟子たちに対する脅かしと殺害の意に燃えて、大祭司のところに行き、 9: 2 ダマスコの諸会堂あての手紙を書いてくれるよう頼んだ。それは、この道の者であれば男でも女でも、見つけ次第縛り上げてエルサレムに引いて来るためであった。

しかし、彼は、変えられたのです。

使徒9: 3 ところが、道を進んで行って、ダマスコの近くまで来たとき、突然、天からの光が彼を巡り照らした。 9: 4 彼は地に倒れて、「サウロ、サウロ。なぜわたしを迫害するのか」という声を聞いた。 9: 5 彼が、「主よ。あなたはどなたですか」と言うと、お答えがあった。「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。
と告げたのです。
「パウロはは地に倒れて、「サウロ、サウロ。なぜわたしを迫害するのか」という声を聞いた」パウロも、ザアカイと同じように、会ったこともない、イエスから(復活後のイエス)に、会って、自分の名前を呼ばれ、声をかけられたのです。

彼は、一時、盲目になって、考える時が与えれました。そして、実は、自分が迫害している、イエスこそが、実は、自分が追い求めて来た、救い主であると、悟ったのです。
そして、彼の目は、開かれました。自分を越えた、人生で最も大切な価値あるものが、救い主イエスと知ったのです。

しかも、イエスは、迫害してきたパウロを責めないで、十字架にかかって、その罪えを赦したことが分かった。しかも、イエスは、パウロに、

使徒26:16 起き上がって、自分の足で立ちなさい。わたしがあなたに現われたのは、あなたが{私を}見たこと、また、これから後わたしがあなたに現われて示そうとすることについて、あなたを奉仕者、また証人に任命するためである。
使徒26:17 わたしは、この民と異邦人との中からあなたを救い出し、彼らのところに遣わす。

と、パウロを正解宣教のために、遣わすと言われたのです。
パウロは、これこそ、神の愛だと知りました。パウロは救いを経験しました。
そして、憎しみと怒りの人から、愛の人に変えられたのです。パウロの生きたかは、180度、変えられました。

2コリント5:17だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。

真の愛は、意志であり、生き方です。自分の生き方の全体に関ることであります。
愛とは、信仰によって与えられた全く新しい世界のことである、ということなのです。
その新しく創造された人間の新しい生き方が、愛なのであります。
この愛の特徴は、赦しであります。自分が必ずしも好きでなくても愛す愛は、赦ししかありません。
相手を赦すのです。敵をさえ赦すのです。そのために、赦す方には、どれだ強い力がいることでしょう。その力は、どこから与えられるのでしょう。 

それは、赦されることからくるのであります。自分が赦される必要がないと思っている人は、決して、人を赦すことができないのです。赦されることによって、他の人に対して、くずれることのない善意を持つのです。それが、真の愛であります

パウロは、迫害の中心者である、これほどまで罪深い自分が、キリストの十字架で、赦されたことを知ったのです。
そして、パウロの人生は、自分の存在を越えた価値あるもの、信仰と希望と愛の人生になったのです。

1コリント13:13 こういうわけで、いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。その中で一番すぐれているのは愛です。 
13:8愛は決して絶えることがありません。

そして、この信仰と、希望と、愛こそが、すんべてが消えても、「いつまでも残るもの」、永遠に続くものなのです。それは、死を超えるものです。
それは、キリストによる復活のことであります。キリストの復活による、キリスト者の復活こそ、まことに死に勝つ勝利であります。 

信仰と、希望と、愛は、地上の生活の中心をなすものであるに拘らず、その根拠は、天上にあり、そして、復活信仰にもとづくものであることがわかります。

この信仰と、希望と、愛こそが、自分の存在を越えた、本当に大切なものと言えるでしょう。この信仰と、希望と、愛に、生きるなら、私たちは、憎しみや怒りの人生から、喜びと、希望と愛の人生を、生きることができるのです。

そして、信仰と、希望と、愛は、イエス・キリストの救いゆえに、誰にでも、与えられ、自分のものとすることができるのです。

1コリント13:13 こういうわけで、いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。その中で一番すぐれているのは愛です。

アーメン。

もっとも確かな人生設計

2010-02-14 | あなたへの聖書メッセージ
説教題 主のみこころなら生きていて     
聖 書 ヤコブ書4章13-15節

きょうは、自分の人生設計をどうするか、と言うことを聖書から、考えてみましょう。
私たちは、自分で自分の人生設計をたてます。しかし、現実は、自分で描いているようには、なかなか、ならないのではないでしょうか。しかし、だからと言って、それで、不幸になることではないと思います。

もし、比較的に、順調に、自分の思い描くような、人生を送って来れたとします。そうすれば、確かに、気持ちがいいし、自分に自信がつきます。また、満足することかもしれません。しかし、そこに、大きな落とし穴があると、聖書は言っています。

ヤコブ 4:13 聞きなさい。「きょうか、あす、これこれの町に行き、そこに一年いて、商売をして、もうけよう」と言う人たち。

ヤコブが、ここで描いている状況は、彼の読者たちには、よく知られたものであった、だろう。
ユダヤ人は、古代世界の大貿易商であった。そして、古代世界には、ユダヤ人が、商業的な才能を、駆使できる機会が多くあった。

紀元一世紀は商業活動が大きく展開した時代であり、特にパレスチナにおける、ギリシャ文化の栄えた町、(例デカポリスなど) では、いろいろな種類の商業が栄えていた。
多くのユダヤ人たちは、このような商売で、行き来しており、かなりの数の者たちが、商業的な理由で、地中海世界の町々に住み着いていた。というのも、しばしば、ユダヤ人は、無条件で、市民権を与えられた。ユダヤ人がやってくるとことには、お金も、貿易も集まったからです。

その商売上手なユダヤ人は言います。「きょうか、あす、これこれの町に行き、そこに一年いて、商売をして、もうけよう」と。
つまり、こうです。
「ここは、大貿易ができそうな新しい都市だ。ここへ行こう。そして、都市建設者たちの仲間になり、1,2年、滞在して、商売でひと儲けして帰ってこよう。」と言っているのです。この人たちは、自分のすることに自信があり、人生設計を細かくしています。しばしば、人は、そういう人を、賢者、賢い人だ、と言います。

しかし、神は、その自信に満ちて、自分で自分の人生を計画できると思っている人「きょうか、あす、これこれの町に行き、そこに一年いて、商売をして、もうけよう」に、
「聞きなさい。」と、呼びかけます。この言い方、そのニュアンスに、警告が含まれることがわかります。神はこう言われます。

ヤコブ 4:14 あなたがたには、あすのことはわからないのです。あなたがたのいのちは、いったいどのようなものですか。あなたがたは、しばらくの間現われて、それから消えてしまう霧にすぎません。

「あなたがたには、あすのことはわからないのです」「あなたがたは、しばらくの間現われて、それから消えてしまう霧にすぎません」

自信にあふれたて、自分の人生設計を、自分で思いのままにできると、思っている人に神は、こう言うのです。「あなたがたには、あすのことはわからないのです」「あなたがたは、しばらくの間現われて、それから消えてしまう霧にすぎません」
ここでは、人のいのちが、「霧」になぞらえられています。ここで、ヤコブが、明らかに強調しよぅとするのは、私たちの、この地上で与えられている、いのちの時間が、ごく短いこということです。

先日も、大田原で、雪でスリップした車が、対向車線に出てしまって、そこを通りがかった、乗用車に、正面衝突して、親子4人乗っていた車の中の、お母さんと2男が、死亡した。何の落ち度もなかったのですが、突然、地上のいのちが断たれた。

このように、事故や、病気による死、自然災害など、私たちの、地上における生活を、短縮することもありうる。それは、ちょうど朝の太陽が、あたりの霧を散らしたり、風の方向が変わることで霧も、さっと吹き散らしてしまう、ようなものである。このようにわれわれの周りで起こる実際の出来事を考えると、人のいのちの短さと不安定さは、よく理解できます。

「あなたがたには、あすのことはわからないのです」「あなたがたは、しばらくの間現われて、それから消えてしまう霧にすぎません」
ヤコブが描く、このようなイメージは、たびたび聖書の中に見出されます。

箴言27: 1 あすのことを誇るな。一日のうちに何が起こるか、あなたは知らないからだ。

また、主イエスは、ルカの福音書のたとえ話の中で、やはり、金持ちが、有り余る冨(穀物)を目の前にして、これで、長年分の食料が、蓄えられたので、あとの人生は、食べる心配をしないで、喜び楽しみを中心に、人生を送ろうと、人生設計をした時、こう自分に言いました。

ルカ12:19 そして、自分のたましいにこう言おう。「たましいよ。これから先何年分もいっぱい物がためられた。さあ、安心して、食べて、飲んで、楽しめ。」』

そのとき、神は、この男にこう言ったというのです。

luke 12:20 しかし神は彼に言われた。『愚か者。おまえのたましいは、今夜おまえから取り去られる。そうしたら、おまえが用意した物は、いったいだれのものになるのか。』

さて、ここで、ユダヤの商人たちに、神は、商売が悪いとか、儲けることが悪いとか言っているのではないのです。神が、問題にしているのは、その計画を立てる時の、この世的な考え方にあるのです。人の陥りやすい危険性です。自分の人生は、自分で設計できると思っている、ここに愚かさがあるというのです。

私たちの命も、境遇も、実は、ことごとく、天地創造、我らを創造した神の、ご主権のもとにあるのです。私たちのいのちは、神の御手に握られているのです。私たちの人生の設計、人生計画は、神がお持ちなのです。わたしたちの、この地上のいのちは、神が指一本触れれば、たちまち、消えてしまうのです。

つまり、この神を排除して、いくら、自分の人生計画、人生設計をしたところで、それらは、たちまち、消えていく霧に、過ぎないということなのです。神の前に、愚かなこと、なのです。さらに、いうなら、神を排除して、自分の人生計画、人生設計を、実現できるかに、自信を持って生きることは、自分を神の地位におく、傲慢いきかたであり、これを、聖書は、「罪」と呼んでいるのです。

では、私たしは、どう生きればよいのでしょうか。自分の人生を良く生きるのは、どうしたらよいか 、良く考えること、自分の人生設計を、考えることは悪いことではないんです。その時の、私たちの、根本的な態度が、大切です。その根本的な態度とは、どういうものか、聖書は、こう言っています。

ヤコブ4:15 むしろ、あなたがたはこう言うべきです。「主のみこころなら、私たちは生きていて、このことを、または、あのことをしよう。」

「主のみこころなら、私たちは生きていて、このことを、または、あのことをしよう。」
これが、私たちのとるべき、根本的な態度、スタンス=寄って立つところ、だというのです。
この姿勢は、どんなことがあっても、主の愛を信じ、主の導きにしたうということ。そして、
自分の人生は、神が計画している、人生設計があることを信じて、自分の人生設計のすべてを、希望をもって、主のみこころに委ねる、と言うことなのです。

その時、神が私たちに計画している、人生設計、を自分のものとして、生きることができるのです。その神の人生設計とは、エレミヤ29:11にあります。

エレミヤ29:11 わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ。-主の御告げ。-それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。

神が、私たちに対して、抱いている人生設計は、「れはわざわいではなくて、平安を与える計画であり」「将来と希望を与える」ものなのです。

私たちのいのちが、長らえるのも、神のみこころです。私たちの人生に、神は、みこころをお持ちです。私たちは、自分に対する、神のみこころは何か、訪ねながら、希望をもって、歩んでいくときに、神が、かならず、私たちの人生を、神のみこころのうちに、最善に、導いてくださるのです。そして、どんなことに、出会おうとも、神のみこころに生きようとする者に、神は、その禍をも益に、変えてくださるのです。

ローマ8:28神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。

私たちの人生設計は、未来の不確実性に、おそれおののくのではなく、また、自分の人生を考えずに、ただ、時間のすぎるに任せるような、無気力な生き方になるのでもなく、自分の人生は、神の愛の御手の中にあることを信じて、神が今、与えられた場所、与えれた境遇の中で、神の希望の計画を信じて、自分にできる最善を、尽くしていくことではないでしょうか。私たちは、こうありたいと思います。

ヤコブ4:15 むしろ、あなたがたはこう言うべきです。「主のみこころなら、私たちは生きていて、このことを、または、あのことをしよう。」

私の今の生き方も、これしかないと思っています。
私の高崎開拓伝道。今年は、開拓5年目を迎えます。
「主のみこころのままに、主の導きに従って」 これが、モットーです。

ヤコブ4:15 むしろ、あなたがたはこう言うべきです。「主のみこころなら、私たちは生きていて、このことを、または、あのことをしよう。」

アーメン。


無駄に終わらない人生の秘訣

2009-03-07 | あなたへの聖書メッセージ
説教題 「無駄に終わらない人生の秘訣」
聖 書 コリント人への手紙15章51-58節

美味しいものを食べたり、楽しいことが多い人生であったとしても、自分の人生を振り返ってみとたきに、私の人生は、無駄だった、と思えるとしたら、それは、これこそ、最も辛い人生であり、惨めな人生、と言っても、良いのではないでしょうか。 

「何ごとも 夢まぼろしと思い知る 身にはうれひも よろこびもなし」  
足利8代将軍、足利義政(1436-1490)は、相次ぐ天災、飢餓をもかえりみず、豪奢な趣味の生活に明け暮れて、ついに家督相続問題から、応仁の乱を引き起こしました。それでも、大乱には傍観者の立場をとり、妻の日野富子とも断絶し、晩年には、室町芸術の粋をつくした東山山荘の建築に没頭しました。そして、それの完成を見ずに、1490年に脳溢血の再発で死にました。この足利義政が、死が近づいた時、詠んだのがこの歌です。「何ごとも夢まぼろしと思い知る 身にはうれひも よろこびもなし」・・人生のはかなさを歌っていると思います。

また、戦国時代に天下統一を果たした、豊臣秀吉も、「つゆとをち つゆときえにしわがみかな なにわの事も 夢のまた夢」と辞世の歌を残しています。両方とも、この世の最高権力を握った人ですが、その人生が、はかなかったことを、歌っています。

私たちは、自分の人生を振り返ってみとたきに、私の人生には、無駄だった、と思えるとしたら、これこそ、最も辛い人生、最も惨めな人生だと言っても、良いのではないでしょうか

しかし、聖書には、はっきり、その労苦が無駄にならない人生、があることを明言しております。

1コリコント15:58 ですから、私の愛する兄弟たちよ。堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは自分たちの労苦が、主にあってむだでないことを知っているのですから。

ここで、聖書は、はっきり、「自分たちの労苦が、主にあってむだではない」と言っています。「主にあって」とは、キリストにあって、と言うことです。聖書はここで、キリストにある人生は、決して無駄になることはないと、明言しております。労苦が無駄になることはないので、だから、「堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。」と言っているのです。
本日は3つにしぼって、その理由を見ていきたいと思います。

(1)それは、罪が赦された人生だからです。
ローマ4:25 主イエスは、私たちの罪のために死に渡され、私たちが義と認められるために、よみがえられたからです。

私たちの人生に、不幸を招く大きな原因であるものが、私たちの内にある罪であることを聖書は言っています。

ローマ3:10 それは、次のように書いてあるとおりです。「義人はいない。ひとりもいない。3:11 悟りのある人はいない。神を求める人はいない。3:12 すべての人が迷い出て、みな、ともに無益な者となった。3:23 すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、

犯罪の原因、家庭不和の原因、そして、紛争、戦争の原因は、根本的には、人の罪にその原因があると、聖書は、言っています。
21世になっても、世界から、戦争は消えません。それどころか、アフガン戦争、イラク戦争、など、など、増えています。

昔のこと、アメリカの南北戦争のことですが
これは、アメリカ人にとって、内戦であり、市民戦争でした。奴隷解放という目的はありましたが、北と南に別れて、同じ国の人々が戦い、南北双方で62万人の戦死者を出した、悲劇でした。

南北の教会や信徒は、それぞれ同じ聖書を読み、祈り、自軍の勝利を願っていた。戦争は奴隷制度を悪とするか、善とするかの争いであったが、これもやがて変質し、南北両派の権力閲争に化していったのです。
北軍の兵士たちは、黒人のために命を捨てることを嫌い、逃亡兵も増え軍規は乱れた。そして、連邦大統領のリンカーンは愛息の死と共に、国家の危機に直面し祈りの人に変えられた。

リンカーン大統領の、神の前に祈る姿は、苦痛に満ちていた。そしてリンカーンは国民に、悔改めの日を呼びかけた。「戦うべき相手は、南北ではなく、人間の原罪であったからだ。原罪とは自分を神とすることで、人問性を否定しエゴの奴隷となっている心の状態である。」と。

人を不幸にするおおもとである、人の罪が赦されることは、人生最大の恵みです。イエス・キリストの十字架の死は、私たちの罪の身代わりとしての死です。神は罪を憎み、そのままにしておくことは出来ません。しかし、罪を裁きますが、罪人を愛しています。 そこで、神は神の御子イエス・キリストを私たちの罪の罰として、身代わりとして、十字架につけて処罰したのです。

それは、神が、私たち罪人を愛しているからです。ですから、誰でも、このキリストを信じるなら、罪が赦されるのです。そして、罪のない義なる人と、神から宣言されるのです。罪が赦された生涯を送ることが出来るのです。
エペソ1: 7 私たちは、この御子のうちにあって、御子の血による贖い、すなわち罪の赦しを受けているのです。これは神の豊かな恵みによることです。

(2)それは、死で終らない人生だからです。
すべての人に、死があるのは、人のうちにある罪、のゆえであると聖書は言っています。「罪から来る報酬は死です。」(ローマ人への手紙6章23節)とあります。死は、すべての良きものから、私たちを引き離します。住み慣れた家、生まれ育った町や村、労苦を注ぎ込んできた会社や事業、丹精込めて育ててきた花や樹木、そして、何よりも大切な、妻や夫や子や孫、兄弟姉妹など、死は、愛する人々から、私たちを引き離してしまいます。ですから、死は、人生において最大の敵であり、恐ろしいものです。
聖書も、「へブル2:15 一生涯死の恐怖につながれて奴隷となっていた」と言っています。

しかし、イエス・キリストは、死に打ち勝ってくださいました。 キリストは、その十字架と復活により、「最後の敵である死も滅ぼされま」した。(1コリント15:26)と聖書にあります。また、さらに、こうあります。

ローマ6:23 罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。

つまり、キリストを信じる人生は、死で終わるのではなく、永遠のいのちにつながっているのです。

(3)それは、復活の身体がいただける人生だからです。
キリストは十字架に付けられましたが、3日目に死から復活されました。キリストの復活は、キリストを信じる者にも、死から勝利し、復活することを約束しています。
キリストの復活は、初穂としての復活でした。私たちキリストを信じる者も、自分の死に勝利して、死から復活することを、保証しているのです。そのことを聖書は、はっきり言明しています。

2コリント4:14 それは、主イエスをよみがえらせた方が、私たちをもイエスとともによみがえらせ、あなたがたといっしょに御前に立たせてくださることを知っているからです。

そして、キリスト信仰者に与えられる、復活の身体について、こう言っています。
1コリント15:42-44 死者の復活もこれと同じです。朽ちるもので蒔かれ、朽ちないものによみがえらされ、 卑しいもので蒔かれ、栄光あるものによみがえらされ、弱いもので蒔かれ、強いものによみがえらされ、血肉のからだで蒔かれ、御霊に属するからだによみがえらされるのです。

「復活のからだ」が、どういう「からだ」なのかは、これ以上のことは、はっきわかりませんが、「卑しいもので蒔かれ、栄光あるものによみがえらされ」とあるように、その顔や姿は、栄光で、輝いていることは確かでしょう。それは「キリストの栄光の似姿」であると言えるのです。

パウロはこれを、「神の栄冠」「義の栄冠」と言っていまして、これを得ることが信仰者としての自分の目標で、「ピリピ3:14この目標を目指して一心に走っている」、と言いました。そして、その人生の最後を迎えようとしたとき、「2テモ4:7,8私は勇敢に戦い、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました。今からは、義の栄冠が私のために用意されているだけです。」と言うことができました。パウロが生涯をかけて目指していたものは、この「復活のからだ」でした。

キリストを信じる私たちは、死で終わるわけではありません。やがて、キリストの再臨の時に、復活のからだをいただいて、神のみそばで、永遠に、憩うことができるのです。

主イエスは、罪と死の力を打ち破って、復活してくださいました。そして、終わりの日には、私たち信じる者に復活のからだをお与えになえる、キリストご自身と、同じ栄光のかたちに変えてくださるのです。
「終わりのラッパとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです。」(1コリント15:52)。

さて、このように、聖書は、キリストを信じて生きるとき、この「罪の赦し」と、「永遠のいのち」、そして、「復活のからだ」をいただけるので、私たちの人生は、けっして、無駄にはならないと、明言しているのです。

「雨ニモマケズ」の秘話
宮沢賢治の代表作となった詩『雨ニモマケズ』は、病の床にあった賢治が、手帳に、書きつたものでした。

雨ニモマケズ 風ニモマケズ 雪ニモ 夏ノ暑サニモマケヌ 丈夫ナカラダヲモチ 慾ハナク 決シテ怒ラズ イツモシヅカニワラツテイル 一日ニ玄米四合ト 味噌ト少シノ野菜ヲタベ アラユルコトヲ ジブンヲカンジョウニ入レズニ ヨクミキキシ ワカリ ソシテワスレズ 野原ノ松ノ林ノ蔭ノ 小サナ萱ブキ小屋ニイテ 東ニ病気ノ子供アレバ 行ツテ看病シテヤリ 西ニ疲レタ母アレバ 行ツテ ソノ稲ノ束ヲ負ヒ 南ニ死ニソウナ人アレバ 行ツテ コハガラナクテモイヽトイヒ 北ニケンクワヤソシヨウガアレバ ツマラナイカラヤメロトイヒ ヒデリノトキハナミダヲナガシ サムサノナツハオロオロアルキ ミンナニデクノボートヨバレ ホメラレモセズ クニモサレズ サウイウモノニ ワタシハナリタイ
      
この詩は、実にクリスチャンの生き方、そのものではないか、と思います。
「サウイウモノニ ワタシハナリタイ」ということばでおわっていますが、
この詩にはモデルがいたと言われています。
それは、宮沢賢治と同じころに、花巻にいた、キリスト教徒の、斉藤宗次郎という人が、モデルになっているのではないか、というのです。

斉藤宗次郎は、岩手県の花巻に1877年(明治10年)に、曹洞宗の寺の三男として生まれました。後に、岩手師範学校を出て、花巻の小学校の教員になります。そのころ、新約聖書や内村鑑三の著書に出会い、キリストを信じる信者になり、熱心な内村鑑三の弟子になった。
1900年(明治33年)、23歳のとき、彼は信仰を告白し、宣教師からバプテスマ(洗礼)を受けました。花巻、第一号のクリスチャンでした。しかし、それからが、大きな戦いの始まりでした。

僧侶である父は、彼の行動を許さなかった。当時は、キリスト教は、「ヤソ教」「国賊」と呼ばれていました。彼は洗礼を受けた、その時から、迫害を受けるようになり、石を投げられ、親にも勘当され、教育界からも追放されて、小学校の教師を辞めさせられてしまいました。
それだけではありません。迫害の手は、家族にまで及んできました。近所で火事が起きたとき、全然、関係がないのに、嫌がらせで、放水され、家を壊されたことがありました。何度もガラスを割られることもありました。そして、さらにひどい迫害が起こりました。9歳になる、長女の愛子ちゃんが「ヤソの子供」と言われて、お腹を蹴られ、腹膜炎を起こして、亡くなってしまったのです。亡くなる時、愛子ちゃんは、讃美歌を歌って欲しいと言い、讃美歌を歌うと、「神は愛なり」と書いて、天に召されていったそうです。

斉藤宗次郎はそのような苦しみの中で、神様に祈りました。そして、彼は「御心がなりますように」とくじけることなく神様を信じ、神様に従い続けたのです。
普通なら、迫害のない違う土地へ移るところですが、宗次郎は、むしろ、その土地の人々に、神様の愛を持って仕えることを選びました。
教育の仕事はできませんから、彼は書店を開きながら、新聞配達と牛乳配達をした。1日40キロの道のりを、走っては神様に祈り、歩いては神様に感謝をささげ、木陰や小川のほとりで、祈りを捧げ、迫害する人々に、キリストを宣べ伝えたといいます。

また、斉藤宗次郎は、配達の途中、子供たちに会えば、アメ玉をやり、仕事の合間には、病気の人のお見舞いをし、励まし、祈り続けました。彼は雨の日も、風の日も、雪の日も休むことなく、町の人達のために祈り、働き続けました。

また、このころ、花巻農学校に勤めていた、宮沢賢治と交流するようになり、新聞配達を終わった後に、宮沢賢治が勤めていた農学校に立ちよったり、家に行ったり来たりして、交流したようです。

斉藤宗次郎は、「でくのぼう」と言われながらも、最後まで、迫害する郷里の人々を、愛し続けたのです。そして、1926年(49才)の時、彼は内村鑑三に招かれて、花巻を去って東京に引っ越すことになりました。

花巻の地を離れる日、誰も見送りには、来てくれないだろうと思って、駅に行くと、そこには、町長をはじめ、町の有力者、学校の教師、生徒、神主、僧侶、町の人々、物乞いにいたるまで、身動きがとれないほど集まり、駅長は、停車時間を延長し、させるという配慮をしたというのです。実はその群衆の中に若き日の宮沢賢治もいたのです。
 
この斉藤宗次郎、この人こそ、東に病気の子供あれば、行って看病してやり、西に疲れた母あれば、行ってその稲束を負い、という宮沢賢治の詩にあるようなことを、普通にやっていた人でした。そういう宗次郎の生活ぶりを見ていた、宮沢賢治が、「こういう人になりたかった」という思いを込めて、「雨ニモマケズ」という詩を書いたのではないか、と言われているのです。(確証はないが)。 その後、斉藤宗次郎は、内村鑑三の近くに、鑑三が召される最後まで、いて、お世話した人です。 

斉藤宗次郎は、彼は雨の日も、風の日も、雪の日も休むことなく、町の人達のために祈り、働き続け、キリストを伝道しました。
雨ニモマケズ 風ニモマケズ 雪ニモ 夏ノ暑サニモマケヌ・・・東ニ病気ノ子供アレバ 行ツテ看病シテヤリ 西ニ疲レタ母アレバ 行ツテ ソノ稲ノ束ヲ負ヒ 南ニ死ニソウナ人アレバ 行ツテ コハガラナクテモイヽトイヒ

その情熱はどこから、来たのでしょうか。
1コリント15:58ですから、私の愛する兄弟たちよ。堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは自分たちの労苦が、主にあってむだでないことを知っているのですから。

キリストを信じて、キリストにお従いして、生きるとき、「罪の赦し」と、「永遠のいのち」、そして、「栄光の復活のからだ」をいただけるので、私たちの人生は無駄にはならない、と、彼は、確信していたのではないでしょうか。

私たちも、キリストを信じて、その信仰の歩みを歩み通すとき、その人生は、その労苦が、無駄に終わらない人生、それどころか、最後には、義の栄冠を、いただくことができる人生となるのです。

アーメン。


心の貧しい者の幸福

2009-02-14 | あなたへの聖書メッセージ
              説教題 心の貧しい者の幸福
              聖 書 マタイの福音書5章1-12節

 人には様々な生き方があると思いますが、共通して言えることは、すべての人は幸福を求めて生きていることだと思います。ほんとうに幸福な人とはどういう人なのでしょうか。

日本で始めてノーベル文学賞を受賞したのは、川端康成と言う人です。彼は作家として富みも名声も手に入れた人でした。しかし、彼は74才でガス自殺をしてしまいました。その時、川端康成の友人の作家が、こんなことを言っています。
「世間並みに見れば、川端康成が死ななければならない条件は何もないように思える。……川端康成は文壇に登場し、芸術院会員になり、文化勲章を受け、日本で最初のノーベル文学賞の栄誉に輝いた。若いときから病弱の身を保って70才を越えることが出来た。
鎌倉の自宅には、素晴らしい書庫付の書斎も出来、身辺は国宝級の古美術に満ちあふれ、日本人の多くの敬愛を受け、誠実な夫人の愛情に包まれ、その少し前には、盲腸の手術も無事に済み、どこから見ても満足する状態であり、誰が見てもうらやましい人生だった。なぜ、死ななければならなかったのか。その答えは誰も出せないだろう。しかし、彼は決して幸福な境遇ではなかったようだ。」と川端康成の友人の作家が言っているのです。
 
人は、有名になったり、お金持ちになったりして、表面的には、幸福そうに見える人でもその実、悲惨な中にいることは十分考えられることです。
 また、直面する困難や問題を解決し、人に幸福をもたらすとうたっている、御利益宗教のようなものは、一時的には幸福感をもたらしても、根本的には人を、本当に幸福にしていない。うまい話は決して人を幸福にしない。

さて、イエス・キリストは、このマタイ5章~7章の「山上の説教」と言われて箇所ではっきりと、人が本当に幸福になりたいなら、ここにこそ、人の本当の幸福が有ると言っているのです。
特に、このマタイ5章1-12節には、「幸いです=幸福です」と言うことばが、9回繰り返されて出てきます。ここに9回出てきます「幸いである」(マカリオイ)とう語は、原文では、文章の最初に来ている感嘆詞、でありまして、「幸いだ!」という感嘆のことばです。
文語訳聖書では、「幸いなるかな、心の貧しい者。」というふうに、原語の響きを忠実に伝えています。新改訳聖書のように「心の貧しい者は・・幸いです。」というのはいかにも散文的な表現です。
さて、この「幸いだ」(マカリオイ)という言葉は、「外側から乱されることのない、内側からわき上がる喜び」、「人生の偶然の出来事や、変化に影響されることのない喜びをもつ幸福」を意味する言葉です。
 
英語で幸福を、Happiness と言いますが、その語幹は、HappeningのHapで、「偶然、まぐれ、運」、を意味しています。つまり、英語のことばから言えることは、人の幸福とは、人生の運や偶然に、左右されるものだ、という考えがあることが解ります。

この世にも喜びがあり、幸福があります。しかし、この世の喜びや幸福はHappeningの要素が強いのです。そして、それは過ぎ去っていくものです。運が去ってしまった、健康をそこなった、事業が失敗した、計画が失敗した、時勢が変わった時、この世の喜びはたちんまち消えてしまう、ということがあるのではないでしょうか。

しかし、イエス・キリストが言われている幸福は、イエス・キリストが与える幸福は、この世から影響されないもの、何をもってもその内面の幸福を乱されないものであるということです。イエスは「その喜びをあなたがたから奪いさる者はありません。」(ヨハネ16:22)と言いました。
 
この山上の説教で、イエスが語ったところの幸福は、たとえ苦痛の中に置かれたとしても、心に満ちる喜びであり、痛み、損失、悲しみ、嘆きも消すことが出来ない幸福なのです。そして、死でさえも、奪い取ることができない喜びの幸福なのです。

さて、今日は、その幸福の第1の使信、5章3節の「心の貧しい者の幸福」の意味を学んでみたいと思います。

マタイ5:3心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。
心の貧しい者は幸福だ!とは、意外な言葉だと思います。普通、人は、貧しい者は不幸だと言います。しかし、イエスは、心の貧しい者は幸福だと言うのです。
ここで、この「貧しい」と言う語は、「うずくまる」とか「ちじこまる」という意味を持つことばで、人を委縮させてしまうような貧しさ、を意味する言葉です。イエスは、立ち上がれないほどに貧困に打ちのめされた人、その人こそ幸いであるというのです。

すなわち、今、欠乏と困窮の中に生きている人、あるいは、悩みの中、試みの中にある人、飢餓に苦しむ人、その自分の貧しさを知っている人が、「心の貧しい人」だとイエスは言われているのです。
つまり、イエスが言う、「心の貧しい人」の意味するところは、生きていくための力、資源が自分の中には全くないことを自分で知っている人、認めている人で、そのために、生きるための必要な助けと力を、ただ神に求める人のことを言っているのです。
 
すなわち、自分が全く無力であり、無知であり、人生を生きるのに、自分には限界が有ることを知って、ただ、ひたすら神により頼む人のことです。

しかし、この世は、こういう人を嫌います。この世は、こういう人を賢くない人、として見ています。この世は、自己信頼、自己確信、自己表現への信奉を強調しています。出世したいなら自分自身に自信を持ちなさいと言います。良いセールスマンであることは、自信と確信に満ちている印象を客に与えることであると。この世は、自分を表現する、自分を信頼する、自分に生まれつき備わっている力を自覚し、信じなさい、と言います。そして、それらを世に見せ、知らせることである、と言います。これは「ヒューマニズム」とも言う。ヒューマニズムの落とし穴は、神を否定する考えです。宗教も人間が作りだした文化と考える。人間の上に神はいないとする。これは、根本的な間違いです。(進化論がその背景にあります。)

つまり、人間は自分を幸福にする力を、自分が持っていると言うのです。また、神を信じるなどと言うことは弱い人間のすることだ、人間は自分の力で生きていける、と言います。
そしてこれが、高い教育と知識、高学歴、お金持ちになることが、人を救い、人を立派にし、幸福にするはずだと言う主張になります。世界の貧しい人たちを助ける=これが救いであると言います。(確かに貧しい人を助けることは悪いことではないが。)

しかし、イエス・キリストは、「5:3心の貧しい者こそ幸福です。」と言うのです。そして、その人こそ、本当にその人こそ、幸福な人であると、イエスは言われているのです。
つまり、人がいくら努力して、高い教育を受け、高い文化を築いても、神を神としない、人には、真の幸福はない。真の幸福は、私たちの創造主なる神のもとに立ち返り、その導きた従い、神の力に頼って生きるところにあると、イエスは言っているのです。
 
そのために、人がなすべきことは、自分の我を張って生きることをやめ、自力で生きるのをやめて、謙虚になって、神にすがることなのです。そのためには、心の貧しさが必要なのです。自分が本当に貧しい者であることを、知る必要があるのです。自分の貧しさを知っている人だけが、自己主張をやめ、謙虚になって、神のあわれみに、すがることができるのです。
 
神の御子イエス・キリストは、本当に貧しさを味わったお方です。イエス・キリストは、私たちにために貧しくなられました。天の栄光の御座を捨て、貧しい馬小屋に生まれ、私たちの罪の身代わりとして、十字架について、私たちの罪の罰として死んでくださったのです。これ以上、貧しくなったお方はありません。だから、私たちがイエス・キリストを信じて救われるために必要なことは、私たちが富むことではなく、心を貧しくしてこのキリストを信じ受け入れることなのです。そのとき、私たちの過去、現在、未来のすべての罪が赦され、救われるのです。そして、決して消えることのない、死んでも消えない、幸福が与えられるのです。

だから、イエスは「5:3心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。」と言われたのです。皆さんは、心の貧しさをお持ちでしょうか。
生まれつきの自分の素質に、信頼を置いていないでしょうか。自分の体力や才能に信頼を置いていないでしょうか。自分に与えられている社会的な地位や、お金、財産を頼みとしてはいないでしょうか。自分の受けた教育、卒業した学校、学歴、などを誇りとしてはいないでしょうか。そうでないとしても、「おしん」のように、一生懸命生きてきた、その自分の努力が、自分を生かしている、と思っていないでしょうか。

心の貧しい者こそ、真の幸福になれるだとイエスは言っているのです。
なぜ、こんなに貧しい人こそが、ほんとうの幸福者なのでしょうか。
それは、彼らは、この世で何も、本当に何も持ってはいないけれども、イエス・キリストという神を持つことによって、神にあってすべてのものを、持っている人だからです。イエスは、そのことを、こう言われました。
5:3心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。
→「天国は彼らのものである。」

天の御国を持つということは、神に属するすべてのものを持っているのと同じです。だから、実をいうと、心の貧しいものは、何ももたないものではなく、すべてを持っている人なのです。これ以上富んでいる人はいないのです。イエスは、天国というものは、心の貧しい人たちのものだと言っているのです。

さて、では、どうしたら心の貧しさを持てるのでしょうか。実は、心の貧しさは、神によって神の恵みとして人に与えられるものなのです。
それは、イエスの招きにあります。イエスの招きに応えることなのです。
イエスの招きとその約束のみことばに従う者に、心の貧しさが与えられるのです。そして、そのイエスの招きは、時として、痛い思いや、困難な経験、逆境と呼ばれるような中で、与えられることがあるのです。

R.G.ビビアン氏の証し

もう随分昔の事ですが、今から百数十年前に、英国の鉱業家に、グリーン.G.ビビアンさん、という人がいました。彼は時代の波に乗って成功し、鉱山王と呼ばれるようになりました。彼は財産にものを言わせ、豪華な世界旅行をし、各地の鉱山や炭坑を視察しました。

ところがある日、霧のロンドンの西部街を歩いていると突然、視力の異常を感じました。そして、治療の甲斐もなく彼は失明し、盲人になってしまったのです。
国内はもとより、ドイツ、スイスと名医を尋ねましたが、回復の道はなく、彼は失意のあまり、身体の健康をも害してしまいました。そして、医師の勧めで転地療養することになりました。彼は自分に絶望しました。そして、その時、心が貧しくなったのです。
この時、彼は悔い改めキリストを信じました。

キリストを信じたビビアン氏は、教会堂建築の費用を全額、献金したり、自分が経営する会社の工場には、社員のための伝道館を建て、牧師を招きました。
さらに、彼は世界旅行の時に見た、フランス、ドイツ、スペイン、ロシア、日本、カナダ、南アフリカ、南アメリカの各地で、幾百万の鉱山労働者とその家族の悲惨、霊的な暗黒状態(その日その日を唯暮らしている)を思い起こしました。

そして、彼はそこに重荷を感じて、全財産を投じて、1906年(明治39年)、今から103年前に、グリーン・ビビアン・マイナーズ・ミッション(ビビアン鉱山労働者伝道団)を設立したのです。(これは国際的なもので、今でも数か国の鉱山労働者と金属労働者とその家族のためにその働きは、続けられているそうです。)

そして、このグリーン・ビビアン氏の創設したマイナーズ・ミッションの働きが、1907年に、日本の栃木県の足尾にもたらされたのです。当時足尾は、銅を産出する鉱山として、活気があり、沢山の労働者が集まっていました。鉱毒事件もありましたが、このマイナーズ・ミッションの足尾のおける伝道の働きは進展しました。1908年に鉱山伝道団・足尾教会の会堂が建設されました。(これが、今の福音伝道教教団の足尾キリスト教会)

 そして、日本の宣教のために来日していた、一人の婦人室教師が、この働きを足尾に見に来たです。この婦人宣教師がイギリス人宣教師M.A.バ∵ネット師です(福音伝道教団の創設者)。バーネット師は、足尾に来て、重荷が与えられました。このマイナーズ・ミッションの足尾の働きを引き継ぐ決心をしたのです。
 
そしてさらに、バーネット師は、足尾町、大間々町、境町、太田などに伝道の重荷が与えられたのです。そして、バーネット宣教師は当時日本伝道隊におりました、舟喜麟一牧師(舟書信先生のお父さん)らとともに、群馬、埼玉、栃木県の日本の内陸部3県の田舎町の開拓伝道のために、(1927年に)福音伝道協会を設立したのです。これが今の福音伝道教団となりました。

つまり、福音伝道教団は、グリーン・ビビアン・マイナーズ・ミッションの働きと伝道があったからこそ、生まれたと言っても良いのです。足尾でのマイナーズ・ミッションの働きとがあったからこそ、バーネット師は群馬に伝道を開始したのです。

福音伝道教団は(足利教会もそうですが)バーネット宣教師は創設者のは違いないのですが、実は、さかのぼれば、イギリスの一人の実業家が盲目になり、その心が貧しくなったことによって、すなわち、グリーン・ビビアン氏の心が貧しくなったことによって生まれたと言っても過言ではないでしょう。
このグリーン・ビビアン・マイナーズ・ミッション(ビビアン鉱山労働者伝道団)が設立されてから、4年目に彼は天に召されました。しかし、彼の日本の足尾での働きは、バーネット師に引き継がれ、福音伝道教団が生み出され、そして、多くの人々の救いにつながりました。私の信仰の源流も、ここにあると言えます。

マタイ5:3心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。
イエス・キリストは神の御子であったのに、その天の御座を捨てて、私たちの所に来て下さいました。しかも、私たちのかたくな心、罪の身代わりとして、十字架について死んでくださいました。
2コリント8:9 あなたがたは、私たちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は富んでおられたのに、あなたがたのために貧しくなられました。それは、あなたがたが、キリストの貧しさによって富む者となるためです。

 主イエスを心に信じ迎え入れるとき、人は益々心の貧しい者とされるのです。そして、その人は天国の市民としてふさわしい者とされるのです。
マタイ5:3心の貧しい寺は幸いです。天の御国はその人のものだからです。
そして、心の貧しい人こそ、神の国を持つ、豊かな人、本当に幸福な人なのです。

 アーメン。


恐れてはいけない、しっかり立って、主の救いを見なさい

2009-02-14 | あなたへの聖書メッセージ
     説教題 「恐れてはいけない、しっかり立って、主の救いを見なさい」 
     聖 書  出エジプト記14章5-21節  

 人は誰でも、その人生において最大の危機、不安を、経験するということが、あるのではなでしょうか。しかし、その時はまた、人生において最大の救いを経験するときでもあると思います。 確かに、人の人生には、言うに言われぬ、つらいことや、危機の状況というものがあると思います。本人が病気になったり、家族が病気になったり、また、受験、入社試験など、それに、職場におけるリストラや配置替えや、そういったものや、家庭の問題や、親戚の問題、等々、私たちを不安におとしいれる出来事というものが、人生にはしばしば、起こってくると思います。  

本日の出エジプト記14章ですが。このとき、イスラエルの民は、最大の危機に直面していました。 この14章の背景はと言いますと、約400年間エジプトの奴隷であった、イスラエルの民が、このとき、モーセという指導者によって、奴隷となっていたエジプトから、導きだされて約束の地カナン(現在のパレスチナ)へ出発した、出エジプトの直後のことです。

今から約、3400年ほど前のことです。 エジプトを脱出した、イスラエルの民には、昼は雲の柱、夜は火の柱があって、イスラエルの民を導いていました。そして、エジプトからカナンの地に至には、幾つかのルートがありましたが、神は遠回りの道、葦の海(紅海)にそって、荒野に向かう道を進んで行くよう導かれまました。
この時の出エジプトのイスラエルの民は、女性や子どもや、お年寄りや、また家畜を含む大集団でした。おそらく200万人以上いたと思われます。 ですから、その歩みは、宿営をしながらの、とても、ゆっくりとした歩みであったわけです。そんなに急いで行けません。

そして、最初、意気揚々と、エジプトを出てきたのですが、イスラエルの民の、目の前に、葦の海(紅海)がせまってきた時、実は、何も危害を加えないで送りだす、と言ったはずのエジプトの王パロが、その騎馬隊と全軍を連れて、イスラエルの民を追撃して来たわけであります。そのことが、宿営していた、イスラエルの民に、知らされるわけです。

エジプトの王パロは、えり抜きの戦車600とエジプトの全戦車を出して、全軍を率いて、追撃してきたのです。エジプトの軍隊が津波のように、イスラエルの民に、迫って来たのです。 →出エジプト14:10 パロは近づいていた。それで、イスラエル人が目を上げて見ると、なんと、エ    ジプト人が彼らのあとに迫っているではないか。イスラエル人は非常に恐れて、主に向かって叫んだ。 
とあります。「イスラエル人は非常に恐れた」とあります。これは、当然だったと思います。このとき、イスラエル民は、希望的な観測ではなく、現実の厳しさの正しい、認識をしていたと思います。 後ろから、迫ってくるのは、エジプトの全戦車隊であり、騎馬隊であり、全軍です。武装した軍隊が、津波のように押し寄せて来たのです。イスラエルの民には、高齢者もいれば、女性や、子どももいるのです。若者もいましたけれども、軍隊の経験もないし、とても、勝ち目がありません。しかしまた、逃げおおせれば、何とかなるかもしれませんが、年よりや子どももいて、急いで前進することもできません。

さらに、目の前には、葦の海(紅海)、海があります。それで前にも進めません。後に戻れず、前にも行けない、絶体絶命とは、このことだと思います。 この時のイスラエルの民にとって、自分たちは、人生最大の危機、最大の不安の中に置かれたと思います。「イスラエル人は非常に恐れた」とある通りです。それから、10節後半には、「イスラエル人は・・・主に向かって叫んだ。」とあります。

この叫びは、もともと、とどろきのような、泣き叫びを意味しています。つまり、彼らは、ものすごい声を上げて、神に祈ったと言うことです。こうした祈りをした上で、彼らは、何をしたかというと、彼らは自分たちの指導者、モーセに詰め寄るわけです。指導者のモーセに、文句を言います。神に祈りながら、モーセを責める訳です。 彼らは、自分たちの最大の危機を前にして、神に目を向けずに、自分たちの指導者のモーセを責めています。その指導方針の誤りを批判するわけです。

→出エジプト14:11 そしてモーセに言った。「エジプトには墓がないので、あなたは私たちを連れて来て、この荒野で、死なせるのですか。私たちをエジプトから連れ出したりして、いったい何ということを私たちにしてくれたのです。
14:12 私たちがエジプトであなたに言ったことは、こうではありませんでしたか。『私たちのことはかまわないで、私たちをエジプトに仕えさせてください。』事実、エジプトに仕えるほうがこの荒野で死ぬよりも私たちには良かったのです。」 

こう言って、モーセを責めるわけです。しかも、その中で、自分たちはもう、ここで死ぬしかないのだ、自分たちは「荒野で死ぬ」しかない、と決めつけてしまっている。 モーセに詰め寄りながら、自分たちは荒野で死ぬと、結論づけます。(12節)。

これは、考えてみますと、その時の状況から見れば、その時のイスラエルの民としては、もっともな理解だと言ってもよいかもしれません。せっかく、奴隷であったエジプトから自由の身にされて出てきた。しかし、前には、葦の海があって行けない、そして、後ろからは、エジプトの全軍が押し寄せて来た。もはやこれまで、と言いましょうか。 もし、私たちが、そのとき、そのイスラエルの民の一員だったとしたら、やはり、同じようなことを言ったのではないでしょうか。荒野で死ぬしかない。こ時のイスラエルの民にとって、これ以上の結果、展開は、望める状況ではなかったでしょう。 

ところが、モーセは違っていました。堅く信仰にたっていました。それゆえに、その絶体絶命のこの状況のなかで、確信をもって、神からのことばを告げました。
→出エジプト14:13 それでモーセは民に言った。「恐れてはいけない。しっかり立って、きょう、あなたがたのために行なわれる主の救いを見なさい。あなたがたは、きょう見るエジプト人をもはや永久に見ることはできない。14:14 主があなたがたのために戦われる。あなたがたは黙っていなければならない。」 

こう言ったわけです。そして、事態は、思いも寄らない展開を見るわけであります。少し長いのですが、21-30節まで見ていただきたいのですが。(もうエジプトの戦車隊が迫ってきた時です)。
出エジプト14:21 そのとき、モーセが手を海の上に差し伸ばすと、主は一晩中強い東風で海を退   かせ、海を陸地とされた。それで水は分かれた。(ここは、映画の十戒に出て来る紅海の海が分かれる場面です)14:22 そこで、イスラエル人は海の真中のかわいた地を、進んで行った。水は彼らのために右と左で壁となった。14:23 エジプト人は追いかけて来て、パロの馬も戦車も騎兵も、みな彼らのあとから海の中にはいって行った。14:24 朝の見張りのころ、主は火と雲の柱のうちからエジプトの陣営を見おろし、エジプトの陣営をかき乱された。14:25 その戦車の車輪をはずして、進むのを困難にされた。それでエジプト人は言った。「イスラエル人の前から逃げよう。主が彼らのために、エジプトと戦っておられるのだから。」14:26 このとき主はモーセに仰せられた。「あなたの手を海の上に差し伸べ、水がエジプト人と、その戦車、その騎兵の上に返るようにせよ。」14:27 モーセが手を海の上に差し伸べたとき、夜明け前に、海がもとの状態に戻った。エジプト人は水が迫って来るので逃げたが、主はエジプト人を海の真中に投げ込まれた。14:28 水はもとに戻り、あとを追って海にはいったパロの全軍勢の戦車と騎兵をおおった。残された者はひとりもいなかった。14:29 イスラエル人は海の真中のかわいた地を歩き、水は彼らのために、右と左で壁となったのである。14:30 こうして、主はその日イスラエルをエジプトの手から救われた。イスラエルは海辺に死んでいるエジプト人を見た。  

これが、その後の展開であります。事態は驚くべき方向に急展開したわけです。そして、イスラエルの民は、このとき、最大の危機から最大の救いへと変えられました。絶対絶命のピンチから、最大の不安の状態から、民は救い出されました。

どうして、こう言う展開が起こったのでしょうか。そこには何があったのでしょうか。 まず、12章42節を見ますと、12:42 この夜、主は彼らをエジプトの国から連れ出すために、寝ずの番をされた。 とありまして、このとき、神様は、寝ずに徹夜をされて、その民のために働かれていた、ことがわかります。勿論、神は寝たり、眠ったりしているわけではありませんが、これは、神は常に、イスラエルの民のために、働かれていた、と言うことです。

さらに、今、13節と14節を見ましたけれども、「恐れてはいけない。しっかり立って、きょう、あなたがたのために行なわれる主の救いを見なさい。」これは、13節です。14節は、「主があなたがたのために戦われる。あなたがたは黙っていなければならない。」とあります。 

人生の最大の危機が、最大の救いに変わった、そのわけは、ここにありました。すなわち、神です。 聖書の神、キリストの神は、何も出来ないでいる私たちのために、しかも、何の力もない者のために、私たちに代って一人、戦ってくださる神、救ってくださる神、であると言うことです。

人の人生最大の危機を、最大の救いに一変したのは、神が戦ってくださった、からだと言うことです。「主があなたがたのために戦われる。」。 このことがわかりますと、この神を自分の神とするときに、絶望的な暗黒の人生が、まったく予想していない、明るい方向に、開かれていくことを、私たちは、自分の人生においても体験することができるのです。 

私たちは、自分が生まれ、現に生き、そしてやがて死んでいく、ことを知っています。ほとんどの人は、このことを知っています。そして、人生は運命によって定められているんだから、「人生を切り開いていく、ことなどできないんだ。」と見る人がいます。また、現代は、コンピューターのなどを使って、自分の将来は、こうなって、こうなって、こうなると言うような、先取りする傾向があります。そうすると、未来は開けてくるかと言うと、そうではなくて、私の人生は、だいたい、こうなるんだ、こんなところに就職して、定年になって、死んでいくんだな、とか。先を予測することによって、ますます、無気力になっていまう、という人がいるのと思います。

聖書の神、まことの神、救い主イエス・キリスト、を抜きにした人生は、こう考えざるをえない、のではないでしょうか。 しかし、まことの神、キリストの神は、その運命論にしばられたり、無気力になっている人々のために、夜も寝ないで、徹夜で働く神です。また、ひとり戦って、私たちの人生を切り開いてくださる神、だと言うことです。

人からみたら絶望するしかない、暗い時を、暗い時代を、明るく救いの中に、切り開かれる神です。それがまことの神、イエス・キリストなのです。 本日のテキスト、出エジプト記の14章の出来事には、イエス・キリストは、直接出てきませんが、私たちを救ってくださるイエス・キリストの救いをよく示していると思います。 
出エジプトの際に、イスラエル民が出くわした状況、暗黒の状況、絶対絶命の追い込まれた状況、その時を、切り開いたのは、人ではなく、神でした。 人生の危機の時、不安の時を切り開き、人生の暗黒の時を、切り開かれたお方は、まことの神であると言うことです。 

さて、現代は、どういう時、時代でしょうか。2000年前にイエスさまが、地上におられた時、その時代を、イエスさまは、「悪い姦淫の時代」とか、「邪悪なこの時代」とか、「不信仰な曲がった時代」と言われました。そして、ペンテコステの聖霊降臨日に、ペテロの宣教のことばは、「この曲がった時代から救われなさい。」(使徒2:40)ということばでした。

21世紀のこの時代は、決して明るい時代ではない、神を信じない暗い時代であるとい言えると思います。 まさに、イエスさまが言われたように、今は「悪い姦淫の時代」「邪悪なこの時代」「不信仰な曲がった時代」と言えると思います。もし、人が、神を抜きにして生きるなら、こう言う時代に生きることは、生きる目的と正しい価値観とかは、持てなくなる時代です。こう言う時代を、明るく生き抜くことは、大変難しいと思います。そして、神を抜にした人生は、自分で暗い、邪悪な時代を切り開いて行かなければなりません。しかし、神を抜きにした人生には、出エジプトの民が葦の海を前にした窮地に陥ったように、こういう絶望状況にぶつかる、のではないかと思います。今起きている、いろいろな、凶悪な犯罪や事件も、このことと無関係ではないと思います。 

しかし、まことの神、イエス・キリストを人生に迎え入れるなら、私たちの予測をはるかに越えて、神が、私たちの人生を、切り開いていってくださるのです。 そのことを、この出エジプトの出来ごとは教えていると思います。イエス・キリスト、まことの神は、御自身で働いてくださり、戦ってくださり、私たちの運命を切り開いて下さる神なのです。ですから、この神を、人生に迎え入れるなら、どんな苦しいときでも、どんなつらいときでも、生きていくことができるのです。 

出エジプト14:13「恐れてはいけない。しっかり立って、きょう、あなたがたのために行なわれる主の救いを見なさい。14:14 主があなたがたのために戦われる。あなたがたは黙っていなければならない。」 と言われています。

このことばは、まさに、イエス・キリストによる、十字架の救いに通じるものがあると思います。イエス・キリストのご生涯は、孤独と苦しみと不条理をなめ尽くした生涯でありました。そして、その十字架の死は、イエスさまが、一人で、私たちの神への背きの罪のために、苦しまれ、戦われた、死であったのです。
イザヤ53:5 しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。 
イエスさまの十字架、それは、キリストが私たちに代って、私たちの罪と戦ってくださる、戦いでした。イエスさまは、十字架のその戦いの苦しみの故に、十字架上で、大声で、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」と叫ばれました。 私たちのために、イエスは、十字架でひとりで、私たちの罪のために、戦われたのです。そして、私たちに、救いをもたらされたのです。神に背いていた、根本的な罪の赦しと、神の子どもとする特権、永遠のいのち、そして天国に入る資格を、キリストを信じるものに、与えられたのです。

私たちは、この神の戦い、キリストの血みどろの戦いのゆえに、どんな罪からも救われることが出来るのです。そして、このキリストを人生に迎えれるとき、神が、私たちの人生を戦って下さるのです。キリストを受け入れるとき、この神が戦ってくださるがゆえに、絶対絶命に陥ったときでも、最後まで、人生をあきらめないで、生き抜くことができるのです。そして、人生に訪れるその危機、窮地の状況は、必ず変えられるからです。それは、神の眠らない働きのゆえに、神の血みどろの戦いのゆえに、もたらされる救いです。 

あなたも、今、このまことの神、イエス・キリストを、その心に迎え入れるなら、どんな暗い時代のなかであっても、神が、あなたの人生を切り開いてくださるのです。 絶望的などうにもならない状況を、思いもよらない、喜びの方向に、主イエスが、変えてくださるのです。

だから、「主があなたがたのために戦われる。あなたがたは黙っていなければならない。」「しっかり立って、きょう、あなたがたのために行なわれる主の救いを見なさい。」と主なる神は、言われているのです。

アーメン。