嵐を静める神イエス様

2012-07-21 | あなたへの聖書メッセージ
嵐を静める神イエス様


さて、本日の聖書箇所は、ガリラヤ湖での奇跡の出来事です。
この日の状況ですが、この日一日中、主イエスは宣教、説教をなさった。つまり、救いについて、神の国について人々に語っていました。舟の上からです。というのは、おびただしい数の群衆が、イエスのみもとに集まっていたので、イエスは、舟に乗ってガリラヤ湖に出て、そこから、岸辺にいる群衆に話をしたのです。

そして、やがて夕暮れになり、日が沈み、主イエスはそこで、群衆を帰して、ご自分も舟からおりて、岸に戻ろうとしたのではなく、このまま舟を沖えだすように言われた。「さあ、向こう岸へ渡ろう。」と弟子たちに言われた。

このとき、イエスは、朝からずっと宣教をされていて、疲れていたと思います。おそらく、その疲れた、身体を休めるために、群衆から離なれ、向こう岸に行こうとなさったのかもしれません。
マルコ4:36 そこで弟子たちは、群衆をあとに残し、舟に乗っておられるままで、イエスをお連れした。他の舟もイエスについて行った。

ガリラヤの湖を舟で、対岸に向かう途中、主イエスはきっと疲れが出たんでしょう。うとうとと、しているうちにお眠りになった。

弟子たちは、今まで主イエスは話し続けられた。こちらはただ聞くだけであった。イエス様には休んでいてもらいたい。舟を漕ぐのは、今度は自分たちの仕事だ。そう思って弟子たちは、漕いでいたでしょう。

時は、夕方から、夜になりました。けれども、夜、漁に出た経験は何度もある弟子たち、そしてガリラヤ湖を知り尽くしている、漁師であった弟子たちにとっては、夜の湖を渡ることは、何でもないことでした。
そして、ガリラヤの湖は、周りが小高い山に囲まれていたため、時として、突風が吹くこともよく知っていました。ですから、その時の対処策も心得ていたのです。

すると、どうでしょう。やはり、突風が吹いてきて、どんどん激しくなって嵐になっていった。弟子たちは、またいつものことが始まったと、初めは思ったかもしれません。・・・しかし、このときは、いつもとはずい分違う激しい風です。そのうち今で言う、台風のような暴風=嵐になってきた。あまりの暴風に、舟は波をかぶって、舟の中に水が入ってきてしまった。弟子たちは、プロの漁師でしたが、この時、舟が沈むのではないかという恐怖を感じたのです。
しかし、それでも、イエスは疲れて眠っておられたのです。

マルコ4:38 ところがイエスだけは、とものほうで、枕をして眠っておられた。

舟の「とものほう」とは、船尾のことです。舟は、ともの方が、少し高くなっているから、あまり波がかからない、そこにお客さんを乗せたのだという解説をする人もあります。
イエスは、座布団の類いのものを、枕にして横になっておられたのではないかと考えらます。とにかく船尾で、眠っておられた。

舟を漕くことの専門家である弟子たちは恐れと不安でいっぱいになっている。しかしイエスは眠っておられたのです。

自分たちは非常に困難な目にあっているのに、イエスは、平気で眠っておられる。いままで、自分たちにできることはさせてもらおう、と言う気で舟を漕いでいた弟子たちですが、眠っているイエスを起こしまして、こう言ったのです。

マルコ4:38・・・弟子たちはイエスを起こして言った。「先生。私たちがおぼれて死にそうでも、何とも思われないのですか。」

この言葉は、弟子たちがイエスに腹を立てたのです。なぜ、ひとり、眠っていられるのか、私たちのことは、どうでもよいのか。
これは、信仰とは正反対の、不平、不満、非難のことばです。自分たちの力では、どうしようもないことがわかると、弟子たちの恐れ、不安、不満、批判の矛先は、誰に、集中したでしょうか。イエス様です。

この弟子たちの不満、批判の訴えに対して、イエスは、どうされたでしょうか。
マルコ4:39 イエスは起き上がって、風をしかりつけ、湖に「黙れ、静まれ。」と言われた。すると風はやみ、大なぎになった。
イエスが、嵐をしかりつけると、嵐は、ぴたっとやんだのです。
このことは、私たちにイエスは、何を教えているのでしょうか。

第1の学び
私たちも、人生における悲しみ嵐、生活苦の嵐、困難の嵐、失望と落胆の嵐、疑いの嵐に、ほんろうされることがあるかもしれませんが、イエスは、必ず、助けてくださるということです。
イエスが嵐の中の自分と、共に生きて下さっていることに目を向けるとき、すなわち、その人生の嵐に中に臨在されるイエスを仰ぐとき、イエスは、「黙れ、静まれ。」と言ってくださって、私たちの人生の一番激しい嵐でさえも、イエスは、静めてくださ=窮地から助け出してくださる、ということが、ここに示されています。

詩篇50:15 苦難の日にはわたしを呼び求めよ。わたしはあなたを助けだそう。
詩篇46: 1 神はわれらの避け所、また力。苦しむとき、そこにある助け。
イエスは、私たちが苦しむときに、必ず助けて下る、そこにある助け、だということです。これが、この奇跡から学ぶ第1のことです。

次に、第2学びは、40節のイエスの言葉にあります。
マルコ4:40 イエスは彼らに言われた。「どうしてそんなにこわがるのです。信仰がないのは、どうしたことです。」

イエスは、湖の嵐を静め、弟子たちの窮地を救ってから、この言葉を言われたのです。→「なぜこわがるのか。信仰がないのは、どうしたことか。」と言われた。
イエスへの信仰とは、何もなにもない時だけでなく、突然の事態にも、信仰を働かせる必要があることを、ここで私たちに、教えておられます。

① そもそも、キリストの命令で出発した舟です。だから、だから最後までキリストが責任を取ってくださる、それゆえ、突然、どのような困難な事態に遭遇しても、だいじょうぶだとの信仰をもつことです。
② この舟には、キリストが乗っておられる、だから、仮に自分たちの力では、どうしようもない困難な事態に遭遇しても、キリストが共におられるから大丈夫だ、との信仰。

つまり、イエスは、イエスを信じる者が困ったとき、ほっておいたり、見て見ぬふりをするのではなく、必ず介入して、その困難、窮地から、助けてくださる、救って下さるお方だ、という信仰を、持つことです。

そして、神は愛をもって、キリストに従う者に、最善を成してくださるという、信仰を持ち続けるということです。「神は私たちに最善以下のことはなされない」、この信仰もつことです。これが、大切なのです。

悪い状況が出て来たら、すぐに、躓いてしますことなくです。
ところが、弟子たちのとった行動は、まず、プロの漁師である自分たちの力に頼り、それが、駄目だとわかると、うろたえて絶望し、ついには、自分たちの先生であり、師であるイエス様を、批判し始めたのです。
「先生。私たちがおぼれて死にそうでも、何とも思われないのですか。」

この時こそ、信仰を働かせて、困難に立ち向かうべき時なのに、信仰をよってキリストを見上げなかったので、クリスチャンとしての行動をとることができなかったのです。だから、キリストを信じていない人と同じような反応をしたのです。実は、これが不信仰です。
だから、イエスは、弟子たちに言われました。
「どうしてそんなにこわがるのです。信仰がないのは、どうしたことです。」

次に、第3に、この出来事から、イエスは、誰かと言うことを、教えています。
マルコ4:41 彼らは大きな恐怖に包まれて、互いに言った、「風や湖までが言うことをきくとは、いったいこの方はどういう方なのだろう。」
と弟子たちは言いました。

イエスは、私たちの人生に訪れる風と波とを静め、私たちに新しい道を造ってくださる、力ある神だと、いうことです。
かつて、神は、出エジプトのとき、イスラエルの民のために、前は紅海、後はエジプト軍の戦車、というときに、民の眼の前で、東風を吹かせて、紅海の水を干上がらせ、民の進むべき道を開かれました。

しかし、イエスは、今も、私たちのために、風と波と嵐を越えて、ゆくべき道を造ってくださるということを、この出来事は示しています。

「風や湖までが言うことをきくとは、いったいこの方はどういう方なのだろう。」

私たちの罪をゆるしてくださるイエスは、もともと風と波とを造られた、天地創造の神でした。
弟子たちは、友だちのような、親しみのある、人間イエスを求めていました。
それは、間違いではありません。しかし、イエスは、単なる優しい人ではなかった。嵐さえも、いうことを聞かせることができる、権威あるお方、神のなのです。すなわち、嵐さえも、治めることができる全知全能の神なのです。イエスは、その権威をもって、私たちの人生の嵐を静め、さらに、嵐を乗り越えさえ、そして、私たちが前進できるように、新しい道を用意してくださる神、なのです。

愛と優しさはもちろんあります。しかし、忘れてならないのは、天地万物を従わせることができる権威を、もっておられる神であり、私たちのいのちを、握っておられる神である、ということです。

イエスは、このあと、こう言われました。
マタイ10:28 からだを殺しても、たましいを殺せない人たちなどを恐れてはなりません。そんなものより、たましいもからだも、ともにゲヘナで滅ぼすことのできる方を恐れなさい。
弟子たちは言いました。「いったいこの方はどういう方なのだろう。」
イエスは、十字架と復活のイエス・キリスト 私たちの罪のために十字架で死に、そして、私たちが神から義とされ、聖なる者とされるために、死からよみがえってくださった、イエス・キリストです。このイエスを、信じるなら、私たちも永遠のいのちをいただいて、やがて、死から復活し、永遠に神の国で、神と共に、平安と憩いの日々を、生きるのです。
だから、イエスを信じるということは、死なない人になった、ともいえるのです。
そのことをイエスは、こう言われました。

ヨハネ11:25 イエスは言われた。「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。
ヨハネ11:26 また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。このことを信じますか。」
「このことを信じますか」信じられれば、恐れはなくなります。

さて、皆さん、自分の人生において、この信仰を働かせましょう。
もしも、皆さんが、聖書を読み、キリストの救い、福音のメッセージを聞き、キリストを信じ、キリストに従って生きようとしているならば、みなさんの人生の責任は、キリストがとってくださいます。

だから、突然の嵐、人生の試練にあったとしても、だいじょうぶです。
たとえ、人生において、自分の力では、どうしようもない、と言う時でも、そういう困難に直面しても、キリストが、すぐそばにいて助けてくださいますから、大丈夫です。
私たちは弱くとも、イエス・キリストは、強いのです。全知全能の神なのです。
この天地を無から創造した神なのです。

詩篇 121: 1 私は山に向かって目を上げる。私の助けは、どこから来るのだろうか。
詩篇121: 2 私の助けは、天地を造られた主から来る。

無から天地を創造した神の、その全知全能の力の最大の表れは「復活」でした。死をも乗り越えてしまう神の力です。
私たちに死からの復活をもたらすことができる神、これが、救い主が、イエス・キリストなのです。

私たちは、このイエスを信じるなら、もうだめだ、ということはない、キリストにある人には、常に「将来と希望」の道が開かれているのです。

詩篇46: 1 神はわれらの避け所、また力。苦しむとき、そこにある助け。

エレミヤ29:11 わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ。―主の御告げ―それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。

このガリラヤ湖の嵐を静めるイエスの、この単純なもの物語は、弟子たちの歩みを受け継ぐ、私たちにとって、まことに大きな慰め、励ましです。
人生の航海を進む、私たちが、たとえ嵐中に入ろうとも、キリストは、嵐をしかりつけてまで、私たちを必ず助けてくださる力の神なのです。そして、私たちが進むべき、新しい道、将来と希望の道を、開いていてくださる神なのです。

私たちは「人生丸」という舟に乗って、人生という航海を、続けています。私たちは「人生丸」の船長は、イエス様です。イエス様を船長として、進むとき、私たちのゆ行く手に何が、あろうとも、だいじょうぶなのです。
マルコ4:39 イエスは起き上がって、風をしかりつけ、湖に「黙れ、静まれ。」と言われた。すると風はやみ、大なぎになった。

アーメン。

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