ここしばらくネット上の某所で「音楽に優劣は存在するか」といった議論をしてたのね。
論点としては「音楽の優劣は個人の嗜好によって判断される。個人の嗜好以外に絶対性を持つパラメータはない。したがって優劣は存在しない」という主張に対して「優劣はその文化における普遍性において測られるべきで、確実に存在する。個人の嗜好を優劣と位置付けるのは間違いだ」といったもの。僕はもちろん後者、優劣肯定派ね。
先の議論も「優劣とは何か」「認識とは何か」といった面白い議論だったんだけど、議論しながら「音楽はどこまでの情念を表現しうるツールであるんだろうか」なんて事が浮かんでは消え浮かんでは消えしてた。
で、今日は久しぶりに Mingus Ah Um / Charles Mingus を聴いてる。邦題で「フォーバス知事の寓話」ね。
これは57年のアメリカで起こった「リトルロック事件」を題材にしたものなのね。
以下リトルロック事件のあらましを簡単に。
57年、アメリカ連邦裁判所で「公立学校における人種の分離は違憲」であるという認定が出されて、それにともなってアーカンソー州リトルロックで9人の黒人がそれまで白人専用だったリトルロック高校に入学を許可されるのね。
で、その黒人生徒たちの当校初日に、人種差別丸出しの当時の白人たちが黒人の生徒たちを学校に入れないように学校を取り巻いてしまい、暴動寸前の騒ぎになっちゃったのさ。
当時のアーカンソー州知事フォーバスは「治安維持」と称して州兵を派遣するんだけど、州兵は白人たちが黒人生徒の当校を阻止するのを傍観。州兵自体が黒人生徒を追い返すために派遣されていたようなものだったのね。
で、大統領アイゼンハワーはこれを「合衆国憲法への反発」ととらえ、フォーバス知事との会談の末にアーカンソー州軍を連邦軍の指揮下へと編入してしまい、州兵を事実上フォーバスから取り上げちゃう。
フォーバスは黒人生徒を追い返して「治安維持」をする役目を地元警察官へと変更するんだけど、これが裏目に出る。
黒人の生徒が学校へ足を踏み入れた時に白人が堰を切って暴動を起こして、警察官では収拾がつかない事態になっちゃうのね。
この時の黒人が白人に暴行を受ける、なんか黒人が石でぶん殴られてぶっ倒れたりする場面とか、そういったところが大々的に報道されちゃって、大騒ぎになっちゃう。
大統領は、黒人生徒たちの登校から校内での生活に至るまでを連邦軍約1000人を派遣して護衛するという断固とした処置をとる。
天晴れアイゼンハワー(笑)。
フォーバスは「リトルロックは連邦国軍によって占領されている」とかなんとかバカな声明を出す。
で、軍隊に護衛されて黒人生徒たちが登校する場面が全米にテレビ中継されるたという・・・・・前代未聞の大事件。
顛末は、フォーバスは高校を閉鎖してそれ以降の黒人の入学を阻止。バカな白人の票を集めて再選したという・・・・・まぁクソふざけたお話ね。
で、「フォーバスってのはどうしようもないバカなヤツだ」なんて諷刺を込めて作られたのが「Fables of Faubus」(フォーバス知事の寓話)という曲。
この曲を筆頭として、ジャズにはアメリカの公民権運動に深く関わった曲が結構たくさんあるのさ。
なんつうか・・・・・公民権運動なんて虐げられてきた黒人たちの情念の迸りが社会現象としてアメリカ全土に広がっていった、半端じゃないリアリティを持った社会現象でしょ。
だからなんだっていわれればそれまでなんだけど(笑)、音楽はそういったものの表現手段になりえるツールなんだなと・・・・・凄いよね。
直面している苦痛や怒り、生死を踏まえた感情の迸りといったもの・・・・・そういったものを形にするために音楽を用いる事ができるんだなぁって・・・・・僕たちが普段何気なく聴いて心地良く感じてるだけの音楽と比べると、そこに感じられるであろう皮膚感覚からして違う、なんというリアリティの隔たりがあるんだろうって。
どっちがいいとかいってんじゃないよ。ただ音楽にはそういった側面も存在していて、必ずしも耳に心地良い、大衆性を獲得し得るものばかりではないという事なのね。
じゃぁこのMingusの音楽は優れている音楽でしょうか?、劣っている音楽でしょうか?(笑)。
僕は優れている音楽だと思うなぁ・・・・・。
音楽総体を単純に「嗜好」を基準に優劣を判断してしまうのは、それはもう人間の奢りだと思うのね。
個々人の嗜好を超えた「文化としての普遍性」といったものは確かに存在していて、そこに「音楽の優劣」は見出せると僕は思う。
皆さんは音楽に優劣は存在すると思いますか?。
論点としては「音楽の優劣は個人の嗜好によって判断される。個人の嗜好以外に絶対性を持つパラメータはない。したがって優劣は存在しない」という主張に対して「優劣はその文化における普遍性において測られるべきで、確実に存在する。個人の嗜好を優劣と位置付けるのは間違いだ」といったもの。僕はもちろん後者、優劣肯定派ね。
先の議論も「優劣とは何か」「認識とは何か」といった面白い議論だったんだけど、議論しながら「音楽はどこまでの情念を表現しうるツールであるんだろうか」なんて事が浮かんでは消え浮かんでは消えしてた。
で、今日は久しぶりに Mingus Ah Um / Charles Mingus を聴いてる。邦題で「フォーバス知事の寓話」ね。
これは57年のアメリカで起こった「リトルロック事件」を題材にしたものなのね。
以下リトルロック事件のあらましを簡単に。
57年、アメリカ連邦裁判所で「公立学校における人種の分離は違憲」であるという認定が出されて、それにともなってアーカンソー州リトルロックで9人の黒人がそれまで白人専用だったリトルロック高校に入学を許可されるのね。
で、その黒人生徒たちの当校初日に、人種差別丸出しの当時の白人たちが黒人の生徒たちを学校に入れないように学校を取り巻いてしまい、暴動寸前の騒ぎになっちゃったのさ。
当時のアーカンソー州知事フォーバスは「治安維持」と称して州兵を派遣するんだけど、州兵は白人たちが黒人生徒の当校を阻止するのを傍観。州兵自体が黒人生徒を追い返すために派遣されていたようなものだったのね。
で、大統領アイゼンハワーはこれを「合衆国憲法への反発」ととらえ、フォーバス知事との会談の末にアーカンソー州軍を連邦軍の指揮下へと編入してしまい、州兵を事実上フォーバスから取り上げちゃう。
フォーバスは黒人生徒を追い返して「治安維持」をする役目を地元警察官へと変更するんだけど、これが裏目に出る。
黒人の生徒が学校へ足を踏み入れた時に白人が堰を切って暴動を起こして、警察官では収拾がつかない事態になっちゃうのね。
この時の黒人が白人に暴行を受ける、なんか黒人が石でぶん殴られてぶっ倒れたりする場面とか、そういったところが大々的に報道されちゃって、大騒ぎになっちゃう。
大統領は、黒人生徒たちの登校から校内での生活に至るまでを連邦軍約1000人を派遣して護衛するという断固とした処置をとる。
天晴れアイゼンハワー(笑)。
フォーバスは「リトルロックは連邦国軍によって占領されている」とかなんとかバカな声明を出す。
で、軍隊に護衛されて黒人生徒たちが登校する場面が全米にテレビ中継されるたという・・・・・前代未聞の大事件。
顛末は、フォーバスは高校を閉鎖してそれ以降の黒人の入学を阻止。バカな白人の票を集めて再選したという・・・・・まぁクソふざけたお話ね。
で、「フォーバスってのはどうしようもないバカなヤツだ」なんて諷刺を込めて作られたのが「Fables of Faubus」(フォーバス知事の寓話)という曲。
この曲を筆頭として、ジャズにはアメリカの公民権運動に深く関わった曲が結構たくさんあるのさ。
なんつうか・・・・・公民権運動なんて虐げられてきた黒人たちの情念の迸りが社会現象としてアメリカ全土に広がっていった、半端じゃないリアリティを持った社会現象でしょ。
だからなんだっていわれればそれまでなんだけど(笑)、音楽はそういったものの表現手段になりえるツールなんだなと・・・・・凄いよね。
直面している苦痛や怒り、生死を踏まえた感情の迸りといったもの・・・・・そういったものを形にするために音楽を用いる事ができるんだなぁって・・・・・僕たちが普段何気なく聴いて心地良く感じてるだけの音楽と比べると、そこに感じられるであろう皮膚感覚からして違う、なんというリアリティの隔たりがあるんだろうって。
どっちがいいとかいってんじゃないよ。ただ音楽にはそういった側面も存在していて、必ずしも耳に心地良い、大衆性を獲得し得るものばかりではないという事なのね。
じゃぁこのMingusの音楽は優れている音楽でしょうか?、劣っている音楽でしょうか?(笑)。
僕は優れている音楽だと思うなぁ・・・・・。
音楽総体を単純に「嗜好」を基準に優劣を判断してしまうのは、それはもう人間の奢りだと思うのね。
個々人の嗜好を超えた「文化としての普遍性」といったものは確かに存在していて、そこに「音楽の優劣」は見出せると僕は思う。
皆さんは音楽に優劣は存在すると思いますか?。
曲だと色々な要因が絡んできて煩雑なので、スケールか分散和音を使って調べることになりそうです。今度調べてみようかな?
「パソコンのデータなんて実生活には関係ない」とか思ってたいしたバックアップもとっていなかったので、もう感染前とは別世界になってしまいました。
トホホ・・・・・。
>ヨックタイさん
アフォーダンスですか、なるほど。
例えば一定以上まとまった数の実験用のマウスを2つのグループに分けて、Aグループに長調の特定の曲を一定期間聴かせる、Bグループに短調の曲を一定期間聴かせる。
それで2つのグループ間に反応の差、行動の差が統計的に見られるか・・・・・こういった実験などは行われているのでしょうか?。
いや、マウスが音楽をどれだけ認識できるか分からないので、猿とかでもいいや。
これをやってみると面白いですね。
>風野さん
言語に例えるというのも面白いですね。
僕は言語というものの最終的な目的は「他者と完全な共通認識を得る事」だと思っています。
そのためには「定義」がとても重要で、つまりひとつの単語やひとつの会話で用いられたすべての言葉に対して「その言葉の定義は何?」と、すべて突き詰めていけば「完全な共通認識」にかなりのところまで近づくことができると・・・・・その道具として言語があると思っています。
音楽の場合、ある曲を聴いた万人がすべて一定の共通認識を持つかというと、これはかなり難しい。
伝えたいモチーフがあって、それを聴いた人すべてに共通認識してもらう事。これは作り手、演り手にとって理想であるか否か、音楽は共通認識を目的としたツールであるか・・・・・この答えは正直僕にはわかりません。
ただ、単純に共通認識を目的とするのであれば、音楽はかなり効率の悪い方法論だとは思います。
ここら辺は難しいところで、また音楽の面白いところですね。
>民謡とかわらべ歌とか
そうですね。
曲全体が明るいか(楽しい曲か悲しい曲か)は民族によって違うと思うし、どれがいい曲だいうチョイスも違っているようです。例えばロシア民謡は我々が聞くとたいがい悲しい曲に聞こえますが、日本の民謡は西洋人にはたいがい悲しい曲に聞こえるらしいですよね。現在日本の歌謡曲がアジアに広く広まっている状況ですが、どの曲が売れるかは国によって違うそうです。
>音楽は料理のようなもの
「料理」に例えるのも秀逸だと思いましたが、私はむしろ「言語」に近いのではと思います。・・・おんなじか(汗)。
>音楽に優劣は存在するか
音楽には優劣が有ると思います。しかしスポーツや仕事とは違い芸術なので、美術と同様に技巧で万人をうならせるものと特定の体験(個人・民族的に)をした人としか共鳴しないものという二種類があり、区別するべきだと思います。後期のピカソなんて私には良いものとはとても思えません(笑)。
以上、音楽の素人の意見でした。
>TAROさん
ウイルス感染お悔やみ申し上げます。お大事に。
このことについては長くなりそうなので、私のブログに書いてみました。
※感情価の説明に不備がありました。用語についても私のところに載せてあるのでご覧ください。
感情価ですか。
これって、感情価というものが設定されているものって、心理学的にはすべて先天的に人間が備えているとされているんですか?。
心理学には詳しくないのですが、最近の興味が「音楽の起源」「音楽がいかにして成立したか」といったところへ向いているので大変に興味があります。
よろしければ個々へのコメントなり、ヨックタイさん御自身のブログなりで教えていただけたらと思います。
は感情価の研究には影響を与えませんでした。よって、ただのたわいもない議論です。すいません。
感情価という概念があります。これは「ある物事が持つ、感情への影響力」です。音楽に感情価があるという前提でなされた研究はあるのですが、もしTAROさんのおっしゃる通り、「悲しい音」などの感性が後天的に得られたもの(学習性)だとすると、これらの研究はクソの役にも立たないことになるんですよ。というのは、「音が悲しい要素を持っているのではなく、われわれがどれだけ強く、悲しい感情と音とを結び付けているか」を考慮に入れて研究せねばならないのですから。私たちがしていることはたわいもない議論だけれど、心理学界は震撼を受けるかもしれない(笑)
実はパソコンがウイルスに犯されており、OSの再インストールからウイルス対策にいたるまで再構築を余儀なくされて、しばらくネットにつなぐことができませんでした。
ああ・・・・・疲れた。
とりあえず今までのノートン先生とはおさらばして、マカフィーという新興のメーカーの「インターネット・セキュリティ・スイート」というやつをチョイスして入れました。
やれやれ・・・・。
>文化云々でなくて、遺伝で決まっているのかな
どうなんですかね。
たとえば生粋の雅楽しか聴いた事がない時代の日本人には、メージャーもマイナーもなかったんですよね。
渾然一体とした、明るいんだか暗いんだか判断がつきかねるような音律だったわけで・・・・・そこに持ってきていきなり「これは長調だよ、明るいでしょ」っていっても、はたして「うん、明るいね」と返ってくるかどうか・・・・・逆に、どんな人種でもメジャーは明るい、マイナーは暗いと感じるであろうと思う事自体が、西洋音楽に圧倒的なまでに影響され尽くしているということのように思います。
これは僕も含めてですね。
ただ、たとえばペンタトニックやハーモニックマイナーなどのスケールを聴くと「お!」ってピンときたりして、僕らの場合だと民謡とかわらべ歌とかね・・・・・そういった郷土の文化の影響って、もう血に刷り込まれているといっていいところまで、体の奥深くに根付いているんだなぁって思うことはありますよね。
>犬にマイナーコードをきかせると
これは多分思わないでしょう。でも飼い犬は多少思ったりするのかな・・・・・。
たとえば、人間一人に生まれた時から音楽を一切聴かせずに育てて、20の時にある曲を聴かせる。
で、その曲が短調だった場合、その人は悲しい曲だと思うのかどうか・・・・・僕個人的には思わないんじゃないかなぁって、そう感じています。
「こういう曲は悲しい曲だよ」とか、「こういう曲って楽しいよね」とか、感性も他者との関係の積み重ねで作られるものだと僕は思うんですが・・・・・。
これは面白い仮定ですね。
こういった事って生物学的に解明されてるんでしょうか?。
ところで、犬にマイナーコードをきかせると、悲しい音だと思うんでしょうかね?
や、お久しぶりです。
音楽を料理に例える・・・・・確かに似てるかもしれないですね。
スンゴク美味しい料理でも、舌が肥えていない人にとってはファーストフードに引けを取ってしまう事も・・・・・。
音楽も同様に、耳や感性が育っていない人は聴き取れる表現に限界があるという・・・・・ムハハハハ、確かに似てる!!
まずい音楽を売ってるお店も多いですなぁ(笑)
私は嗜好を考えに入れても音楽に優劣はあると思います。
TAROさんほど考えられないから、かる~い意見だけど。
常々私は音楽は料理のようなものだと思っているのです。
「趣味もあるけど、おいしいものはやっぱりみんながおいしい。でも自分のお母さんの料理ほどあったかくておいしいものはない。」
料理を音楽に変えるとぴったりじゃないかな、と。
おいしい店とまずい店ってあるもの。
おいしい音楽とまずい音楽もあると思う。