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すべての音楽はフリージャズである

2005-02-13 23:18:30 | ジャズの話題
ウイルス騒動がひと段落して、ようやく何か書こうという気になってきた。
で、どうすっかな・・・・・今日本棚の整理をしていて、数年前に買って放り出してあった「200Jazz語辞典」という本が出てた。まぁよくありがちなバンド用語集とかそういった類の本で、用語の定義が書いてあって、その下に識者の解説が入ってるようなやつね。
そういやこんなもん買ったなぁと、何気にペラペラとめくってたら「フリージャズ」の項が目に止まった。
読んで唸った。
ひさびさに唸ったので、今日はその事について書こうと思う。
気になったところを引用ね。

すべてのジャズは、いや、すべての音楽はフリー・ジャズである、という当たり前の事を人類が悟る境地にまでたどり着くために、あの「フリー・ジャズ・ムーブメント」は存在したのだった。
~中略~
それはすべての音楽家に、それまで他のいかなる分野の音楽も問いかけ得なかった否定的な設問、「あなたが発する音にあなたは責任が持てるのか?/あなたが発する音はあなたによって選ばれたものか?」を問い掛けたのだ。もちろん「持てません/選んでません」が正解だったわけだが、それ以降すべての音楽は、様々な「フリー・ジャズ」の差異の体系となったのである。
~中略~
もはや我々は、音楽における「主体性」のような概念は必要としないし、やっと自由に「響きと沈黙の戯れ」として音楽を楽しむ事ができるようになったのだ。そこで、あの喧しい音響をどうしても連想させる「フリー・ジャズ」という言葉はもう要らなくなってしまったというわけである。

以上。
唸ったね。これ、わかりますか?。
ジャズを含めた世界中ほとんどの音楽が西洋音楽の様式に侵食され尽くしているって事はしばらく前にしつこいくらいに書いたよね。
で、フリージャズの基本姿勢ってのは、反差別や反戦平和なんかの思想的なプロパガンダとしての側面を省けば「世界中のすべての音楽の様式から解放されて、演奏者の主体のみによって音を出す事」にある。
「この音に対して、和音としてよい響きが得られるのはこの音である」とか「この楽器はこういう演奏法でこう鳴らすものである」とか一切なし。極端な話「音を出さない事をもって演奏とする」という馬鹿げた試みまでなされたりする(笑)。まぁこれはフリージャズではなく現代音楽の流れにおいてだけど、様式と秩序の否定という観点から見れば同義でしょう。
楽典や様式、果ては演奏自体の概念すら否定して、個々人の「何物にも影響を受けていない純然たる主体から発せられる音」、その追求がフリージャズの思想だといっていい。つまり「自分で責任を持って音を出そう/自分で選んで音を出そう」この試み。
この追求の果てにどんな結論が見出されたか・・・・・それは「やっぱ無理でした」というものだった(笑)。
僕は60年代に於けるフリージャズの隆盛と衰退をそう見てるのね。
これはね・・・・・これを簡略に書くのは難しい・・・・・もうね、例えばOrnette Coleman(オーネット・コールマン、as,tp,vn)がアルトサックスを吹いている事、さらにはCecil Taylor(セシル・テイラー、p)がピアノという楽器を用いている事。そしてそこから脱却しなかった事。もうこの時点で、フリージャズの旗手であったこの2人でさえも、無意識のうちに西洋音楽の様式に染まりまくっている事を如実に物語っているのさ。
いや、なんの楽器を使うかという事だけでなくね・・・・・。

音楽ってさ、音で何かを伝えるため、もしくは音に言葉を乗せて伝えるための試みから始まってるよね。太古の昔から「音で何かを伝えたい」「伝えよう」という試みが数え切れないくらい積み重なって、たくさんの主体(個人)とその関係性において、気の遠くなるような数の試行錯誤が積み重なって、そして「普遍性」を持つに至った。その果てに音楽の「様式」や「方法論」が存在してる。
現在のどの音楽もこの「普遍性」の延長線上の末端で瑣末な変化を繰り返しているに過ぎなくて・・・・・上手く言えないな・・・・・だから要するに、みんな根っこは「普遍性」の上に固定されてるのさ。
演奏しようとした時にね、いくらこの「普遍性」をぶっ壊して自由にやろうとしても、なそうとしていることが音楽である以上は土台からして無理な話でさ・・・・・演奏者は各々それに気づいてしまったんだよね。「ああ、音楽をやろうとしたら本当の自由なんてないんだな」って。
そもそも音楽の発祥が「本当の自由」「無秩序」から始まっていて、そこに秩序や原則、規制を置く事で音楽は音楽になってきた。
フリージャズの発想というか試みは、フリージャズという言葉が生まれるはるか昔からすでになされていて、その結果現在の音楽が存在している。もちろんこれからも新しい試みはなされていくだろうし、音楽はさらに発展していくと思うよ。でもそれは、過去のフリージャズ・ムーブメントにおいてなされたような、音楽を音楽たらしめる普遍性を否定したところには、もはや在り得ないでしょう。
そこまできて、冒頭引用した結論にたどり着くのさ。
「すべての音楽はフリージャズである」
「もはや我々は、音楽における『主体性』のような概念は必要としない」
「『フリージャズ』という言葉はもう要らなくなってしまった」
ってね。

ちょっと分かりづらいかな・・・・・ひさしぶりなんで上手くまとめられなかったかも(苦笑)。
言葉があまりにも足りないような気がするので、この件に関しては気が向いたらまた書きます。

本日の安眠版、Cassandra Wilson(カサンドラ・ウイルソン、vo)の「Blue Light Til Down」
ではでは。

7 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
本当の自由は存在しない (ヨックタイ)
2005-02-18 02:49:12
 心理学の話で恐縮ですが、B.F.Skinerというアメリカの心理学者は、「人は本当の自由を得ることは出来ない」といったようなことを述べています。例えば、梅干を見ると唾液が出るといったことも、人が環境から学ばされたことであり、いわば環境の拘束であるということらしいです。

 人は自由を求めがちですが、拘束されねば生きることが出来ないことにはなかなか気づきません。人が快適と感じるときは、「ほどほどの拘束」が必要なのだと思います。迷わず拘束されましょう。コードに縛られましょう。スイングしましょう。だからジャズは気持ちいい。

※強引な展開でした。
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まるほど (TARO)
2005-02-20 19:17:50
>ヨックタイさん



考えてみれば、何かの決まりごとを置いて行われるのが文化である以上、完全に束縛を逃れた上で文化が行われるという事はありえないですよね。

文化という観点を除いてみても、生理的な欲求や本能なんかは否応なしに人間を拘束するだろうし・・・・・。



「自由」という概念そのものが、人間の嗜好性から生み出された、本来不自然な考え方なのかもしれないですね。
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自由とは (グラントアンド画芦ュ院)
2005-04-27 02:07:51
存在は拘束か?と聞かれたら勿論そのとおりですが、我々はいつも選択の自由について悩むではないんでしょうか、自由はいつもポジティブなイメージで語られるけれど、人は自由について苦しい思いをする。もし人間が与えられた環境条件を黙って受容するだけの生物なら、なんで他の生物のようにものごとをありのままに受け入れないのでしょう?
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理論展開の末路 (アートブレーキ大好き)
2005-04-27 12:07:27
フリージャズは聞いて楽しいものじゃなくあれはプレイヤーサイドの問題ですよ、音楽は実は聴く人はどうでもよいのです。ビジネスとしての音楽じゃなくフリージャズは演奏者自身のための真の創造行為だったわけで、最後のコルトレーンは神のためにと良く言ってじゃないですか、あれは我々聴き手のためにやってるんじゃないと言う意味じゃないですかねぇ。
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レス2発! (TARO)
2005-04-27 20:21:29
■グラントアンド画芦ュ院さん



これは音楽というよりも認識論の話ですね。

僕は人間が与えられた環境条件を黙って受容するだけの生物だとは思っていません。また、それは人間だけでなく、他のどんな生物も同じではないでしょうか。

人間の場合、知性や感情を他の生物より高度に発展せしめた分、環境を受容する事を良しとしないという「認識」がある、この「認識がある」というところが他の生物との違いであって、それ以外に差異はないと思います。

どんな生物も環境に対して宜わない事で生を得ています。



どんな文化であれ、まったくの無秩序、自由という状況に対して、規制、原則、ルールや方法論といった「拘束」を設ける事で成立しています。これは音楽も含めてですね。

まったくの無秩序な音の羅列に、秩序という「拘束」を課したものが音楽であるというところを認識すれば、それは容易に理解できる事柄ではないでしょうか。つまり音楽、ひいては文化における「拘束」は「もとから与えられた環境」では決してなくて「人間が自ら選び取ってきた不自由」なんですね。

フリージャズはその「拘束」をどこまで排除できるかという試みです。上記の本文では、結局「拘束を排除したら音楽じゃなくなっちゃう」という結論が最終的には見えてきてしまい、結果フリージャズは主流にはなれなかった、ということを述べているんですね。

お分かりになりますでしょうか?。





■アートブレーキ大好きさん



>フリージャズは聞いて楽しいものじゃなく

>あれはプレイヤーサイドの問題



プレイヤー側の実験的な試みだったという側面は多分にありますよね。だから聴き手側もある程度知識を持って「この演奏は何をやってるか?」を踏まえたうえで聴かないと、不快なだけでチンプンカンプンになる。

ただ、すべてのフリー奏者が歌っていないかというとそうは思いません。

僕はCecil Taylor(セシル・テイラー、p)結構好きなんですよ。この人はこの人の語法で歌ってるんだなぁってのを「Conquistador!」を聴いていた時に感じたからなんですね。

それから一部のフリーのアルバムは聴くようになりました。頻繁にではないですけどね(笑)。



>音楽は実は聴く人はどうでもよいのです。



この点に関しては同意しかねます。

というより、今まで接してきた音楽をやる人は基本的にみんな「出たがり」「目立ちたがり」で、自己主張したくてたまらない奴らばかりだと感じています。

これは歌を勉強している人が最初にぶつかる壁なんですが「自分が気持ち良く歌っているのと、人が聴いて心地よい歌は違う」というのがあります。これは歌を勉強する人なら誰でもくる。

そこで「じゃあどうやったら人に聴いてもらえるだろう」と、技術を磨いたり試行錯誤するんですね。



Coltraneに関してですが、この人がフリーに手を染めたのは「Ascension」からでしたけ。「A Love Supreme」(至上の愛)の約半年後くらいですね。

これ以降のアルバムは僕も数枚所持していますが、これらの演奏がもし「神のため」であればその演奏を録音として残す必要はないし、単なる崇拝や典礼であれば音として出す必要すらないんですね。

彼のあの時期の演奏が「布教」であったのか「自己主張」であったのかわかりませんが、愛だか神の慈悲だかといった、他の人間に訴えたい動機は確かにあって、それはそれだからこそ音になっているのだと思います。

没年の「Stellar Regions」「Interstellar Space」「The Olatunji Concert」など、特に遺作の「The Olatunji Concert」は、死への恐怖を荒れ狂う事で紛らわせているような悲壮感を、曲によって感じる事があります。

死ぬのが嫌で人にすがりついて泣き喚いたり、自暴自棄になって無茶をしたりとか、そういった感情の発散の方法として、Coltraneには音楽があったのかもしれないですね・・・・・なーんて(笑)。
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バップの次の段階 (tazzy)
2005-05-19 14:20:04


レニー トリスターノは1947年にメトロノーム誌に「バップの功罪」についての意見を発表している。。。

まず悪い点として、「・・・大抵のバッパーはイディオムになにも貢献してはいない・・・どれもガレスピーのコピーである・・・」と語り、つづいてよい点として、「・・・バップは、巧みなビートが複合し、アクセントが効果的に生み出される・・・ディキシーの限られたコレクティヴ・インプロビゼイションを放棄し一本の線に重点をおいた・・・」

さらに予言めいたことを語り、的中させている。レニー曰く「バップの次の段階では、ずっと高度のコレクティブ・インプロビゼイションになるだろう・・・」

60年代のジャズシーンを見据えていたのだ。

レニーは現代音楽に触れる中で、無調的ハーモニー(変な言葉だが)の中においては、どのような音列でのインプロビゼイションも可能なことに気づいていた・・・続きはブログで掲載する予定です。。。

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もうそれはフリーですね (TARO)
2005-05-19 19:14:52
>tazzyさん



コメントありがとうございます。





>大抵のバッパーはイディオムになにも貢献してはいない



そういう談話があったのですか。

そりゃそうですよね。イディオムに貢献したジャズミュージシャンって、歴史的に見て全体の何パーセントいるんだろう・・・・・。





>無調的ハーモニー(変な言葉だが)の中においては、

>どのような音列でのインプロビゼイションも可能なことに気づいて



貴ブログ、拝見しました。

僕はクールはバップイディオムの延長線上にあって、それ以降の新しいコンセプトではないという印象を持っています。

特定の個人の演奏者が「クールスタイル」を提唱したというよりは、当時のジャーナリズムが勝手にクールクールと乱発していたというところでしょうか・・・・・演奏法の括りではないと思っているんですね。だからMilesの「クールの誕生」後も、誰もMilesをクール派だとは思ってない(笑)。



Tristanoは曖昧なところから入ってくる変則3連が多いですよね。

あれは感覚的なものなのか、それとも譜割りを意識してのものなのか・・・・・耳で聴いて譜に起こすのはちょっと無理ですよね(笑)。

僕は「Lennie Tristano Continnity」というアルバムは知らないのですが、64年ですか?、お話を伺っている限りだと、協和音程に拘らず調性とコードを追わないという点は当時のジャズとしては画期的だったんでしょうね。

僕が所持しているTristanoのアルバムは「Tristano」「New Tristano」ですが、オーバーダブやテープの早回しなどを用いていて、現代音楽の超前衛の雰囲気がプンプンです。またソロにおいても、コードチェンジごとにフレーズを追うのではなくて、1コーラスごとにひとフレーズと捉えているという印象があります。

実際にコード無関係に演ってるという事はないのでしょうが、そこにどんなコンセプトや計算があったのかは僕には分かりません。

クール以降に主流になるモードでは、コード単体ではなくある区間の進行をひと括りに捉えて演奏しますが、基本になるコードに基づくスケールは一定していますから無調性というわけではないですし、モードとも異なるそれはもうクールではなくフリーに近いですねぇ。

Tristanoのピアノスタイルは、彼が盲目だった事がその形成に大きく関わっているという話を聞いた事があります。大きな跳躍を嫌って常に鍵盤に五指が接しているように弾く事で、ああいったホリゾンタルなフレーズが強調されたという・・・・・なるほどですね。



Tristano学派に関しては、一般的にいうほど他の派閥への影響力があったのかというと少々疑問、というか離れ小島で一派を形成していたイメージがあります。

個人的にはアルバム2枚所持しているだけで、はまだまだ掘り下げが足りません。もっともっと聴かないといけませんなぁ。



ではでは。
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