Jazzを聴こうぜBLOG版

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「ジャズ構造改革~熱血トリオ座談会~」感想②

2006-04-07 17:47:08 | ジャズの話題
はい、、「ジャズ構造改革」感想の続きね。
今回は多分この本の一番の焦点であるところの「ウィントンでジャズは終わった」っていう歴史観について、ちょっと触れてみようと思う。
彼ら(というか主に中山康樹)の主張はこうね。
「リンカーン・センターというクラシックの牙城みたいなところをウイントンは押さえちゃった」そして「ピュリッツァー賞をとったわけですよウイントンは、ジャズ・ミュージシャンの分際で」すなわち「アカデミックな方向で黒人の地位をこれ以上ないところまで向上させた」わけで、「黒人の側からしてみると、そういう地位に着くための闘いがジャズという音楽の歴史だった」んだから、以降のジャズは「あとは、そのウイントンが手に入れた地位を誰が引き継ぐかということだけ」であると。
んでウイントン個人については、「ウイントンはジャズを闘う手段として活用してる。目的と手段が入れ替わっちゃってる」、つまり音楽で表現することが目的でなく、音楽は黒人の地位向上のツールで、内容は二の次にしているってことね。
んでジャズシーン全体も「以降の黒人ミュージシャンは押しなべてそれを目指し始めた」だから「ウイントン以降の黒人ジャズは面白くなくなった」んだと。
つまりウイントンの「その影響力っていうのは純粋に音楽的な影響力じゃない。「成功」という甘い2文字がもたらした影響力」である。
これ以降は黒人のプロパガンダとしてのジャズが発展していくことはないだろうと、その意味でウイントンはジャズの歴史を終わらせた「最後の巨人だった」と。
まあ要点だけを抜き出して繋げればこんなところでしょう。
んで、それにかこつけて、「ウイントンがああいうことをやってダメになったジャズを、キースであり、あるいはジョンゾーンが、つまり白人が引き継いでよりレヴェルの高いものにしてる」なんてことも言ってるか(笑)。
(「」で括ってあるところが本文からの引用ね)

これねぇ・・・・・ジャズを「=黒人の闘うための音楽である」と限定してしまえばまあその通りかもしれない。ってか、ウイントンの成功が中山康樹の言うところの「アカデミックな方向で黒人の地位を向上」という意味では、ひとつの大きな区切り、前例を成し遂げたということはいえると思う。あくまで音楽業界において、ね。
だけど別にジャズがあるから黒人の地位が向上したんじゃないわけでさ。アメリカの社会と民主主義が歴史を経て成熟して、人権感覚が育ってきたということでしょ。黒人でも成功を収める手段が色々とできてきたってことであって、ウイントンみたいなのが出たってのは、その現象の一つにしか過ぎないんだよ。
今でも黒人差別に限らずどこの国でも差別ってのは存在していて、被差別側が地位を向上する闘いってのはどこにでもある。人類の発展にともなって緩和されてきてはいるけれど、それは今でも続いてる。音楽以外のどんなジャンルでも「成功をもって」黒人の地位向上に貢献する人ってのは出てきてるわけでさ・・・・・ウイントンが黒人を差別から開放した(少なくともその道筋は示した)なんてのはかなり頓珍漢な幻想だし、差別が厳然とある以上は、これからも音楽で黒人意識を訴える人ってのは絶対出てくるって。ジャズでもね。
彼ら3人がジャズを愛してるのはわかるけど、ジャズそのものに誇大な妄想を押し付けるのはちょっと・・・・・しらけるよね(笑)。
そもそも自国の歴史の短いアメリカ人ってのは、ヨーロッパには文化的にコンプレックスを抱いてるところが多々あって、だからクラシック音楽に対して「ジャズはアメリカが生み出した偉大な芸術への貢献だ」なんて論調がまかり通ったりする。
でもジャズってのは、アメリカで社会的にも文化的にも水準の低い(と位置づけられ、差別される)黒人たちを中心に生み出されたもので、音楽においてアメリカ(の白人社会)がヨーロッパの音楽に対してアイデンティティを示すことができるジャズが、本質は下級階層の音楽であるという・・・・・このジレンマをズーッと抱えてきてるわけ。少なくとも白人の側から見ればね。
そこにきてウイントンを中心とする、所謂「新伝承派」ってのは、黒人の地位向上にともなって、ジャズの本来の様式や音楽性、つまり「アメリカの生み出したトラディショナルな文化」としての位置づけを、あらためて示しなおしたというところに、その意義があったわけ。
つまり「黒人は決して卑しくはないんだ。だからジャズもアメリカのアイデンティティとして大いに誇るべきものなんだ。それを生み出したのは我々黒人なんだ」と。だから彼らは自分たちの身なりやステージマナー、さらには子供たちへのジャズの普及や交流を目的としたセミナーとかね、そういった社会的な地位や活動ってことに拘ってたりするわけ。
それが打算的な政治手法だっていえばその通りなんだけど、アメリカの文化のなかでジャズがどういった位置づけだったか、それがウイントンの出現でどう変わったのか、変わりつつあるのか、そこに着目しなくちゃさ、その上でマルサリスファミリーを中心としたシーンの活性化があるわけ。
ジャズは闘う音楽じゃなくなったから面白くなくなった、なんて、ジャズの歴史内だけで短絡にウイントンを語っても意味がないのさ。
そんな単純な話じゃないんだよ(笑)。

そこにどんな思想性やエモーションがあっても、音楽って言うのは「音を一定の規則性に則って出す」っていう、ひとつの現象に過ぎないんだよ。基本的には「音」なの。
彼らがウイントンをはじめとした現代の黒人ジャズを否定して、過去の名盤、名演が優れているということを主張したいなら、音という「現象そのもの」に言及して、その差異を取り沙汰しなきゃ独り善がりになっちゃうんだよ。
ジャズは戦わなきゃダメとか、音楽のスケールが違うとかっていう彼らの名盤賛美ってのは、根拠を提示しない感情的な抽象論でしかないし、音楽の優劣を語る上で何も立証しないじゃん。
ボロクソに批判されてるジョシュアにしたってさ、彼らは「妙にフニャフニャした音」、「演奏は悪くないし、高級な音楽だと思うけれども『ぬるい』」、「人間としてはエリートかもしれないけど、ジャズ・ミュージシャンとしては落第生」、「中途半端なジャズ」なんて言ってるけど、このなかで音そのものに言及しているのは「フニャフニャした音」ってのだけだよね。
たしかにジョシュアの音はメタリックでジャキッとエッジの効いた音ではないよ。演奏に黒人のドロドロとした情念や憤り、熱気を感じないのも確か。どちらかというと「豊かな世代のジャズ」という印象だよね。
音楽に込められるエモーションなんて、時代や世情の変遷、さらには演奏される土地柄によってもね、どんどん変わっていくのが当たり前であってさ、じゃあ過去の名演と、具体的にどこに演奏の質の優劣があるか、「現象として」どこに違いが現れているのか、そしてそれを優、劣と位置づける根拠は・・・・・これを語れないなら評論家なんていらないじゃん(笑)。
リスナーはシビアだよ。
そこにジャズに対する理解や良い耳が介在するかどうかは別としても、基本的に「何を聴く」「何を聴かない」てのはきちんと自分の耳で聴いて判断する・・・・・いや、そうじゃないヤツもいるか(笑)。
評論家が100万語を尽くそうとも、「実際に音を聴いた」っていう事実には及ばない。だから気を引こうとしてああいった挑発的な書き方をするんだろうけど、ヨーロッパのピアノトリオや澤野工房を聴いているリスナーってのは、彼らが何を言おうとそれを聴き続けるでしょ。だって聴いてみて良いと思ったんだから(笑)。それを抽象的な文章だけで覆すことってのはできないよ。
逆にパーカーやマイルス、コルトレーンだって聴く人は聴くでしょ。彼らが何かを言う以前に、聴いてみて良いものは良いんだし、興味が広がって知識をつけていけば自然に聴いてみたくなるもんなんだから。
彼らが書いているように、後期のマイルスやフリージャズとかね、たしかに「その演奏がなにをやっているか」を理解してないと面白くないような難解なのもあるよ。じゃあ彼らがその「なにをやっているか」を「具体的に」説明してる文章ってあるかっていうと・・・・僕は見たことないなあ(笑)。
音楽を「現象として」具体的に語ろうとするなら、音楽理論や音響学に踏み込まざるを得ないでしょ。多くの評論家にはそんな能力なんてないし、また、実際にそこに踏み込んで論評を書いたとしても、読み手にも知識がなければ理解することはできない話になっちゃうよね。
結局さ、無理なのよ。
過去の名盤や名演に対する理解ってのは、ジャズへの理解、歴史の理解、そこに存在した社会背景や音楽的な様式の発展といったものを啓蒙することで、だんだんと自然に生まれてくるものであって・・・・・一足飛びに「聴き方を教える」っていったってさ。
だからね、評論家っていうのは無理して優劣を語らなくてもいいんだよ。リスナーの啓蒙のために、通り一遍の名盤解説、歴史解説を書いていればいいと思うんだよ。リスナーが「もっと知りたい」「ジャズってカッコイイよな。何でこんなカッコイイ音楽があるんだろう」って思ったときに、その知識欲の受け皿になることがあなたたちの一番の仕事でしょ。とことん知識欲を満足させるデータを提供するのがプロってもんでしょ。評論ってものは通り一遍で良いんだよ。それが一番価値があるんだよ。
音楽を言葉で伝えることができない以上、それだけが評論家としての存在意義、価値なんだからさ、挑発するような書き方してわざと反感買ったりしてる場合じゃないよ(笑)。
もうちょっとがんばれよ評論家!。

あとね、リスナー側に関しても、まあ僕の友人にもこの本を読んでカンカンに怒ってスンゲェエキサイトしてるヤツがいたんだけど、何もそんなにエキサイトしなくたってさ(笑)。
あなたが良いと思ったものっていうのは、あなたがきちんと耳で聴いて判断したものなんでしょ?。それはあなたのなかで確かなことなんでしょ?。それに評論家や専門家の「それは正しい!」っていうお墨付きがいるものなのかな(笑)。
ある演奏に対して、良いってヤツも悪いってヤツも、そりゃいるさ。
それにいちいちエキサイトするってのは、自分の耳で聴いた判断に自信がないってことなのかな?(笑)。
この本に関してだってさ、ふーんって、自分のなかに知識として持っていて、以降ジャズを聴く上でプラスにできるところは活用していけばいいじゃん。そんなにメチャメチャは言ってないよこの人たち。
逆にこの本を読んでカチンと来るんなら、彼らに弟子入りしてジャズをきちんと「お勉強」したほうがいいのかもしれないよ。そんなに自信がないならね。
彼らに対する反感から「パーカーやトレーンなんて聴きたくない」なんて感じちゃうようじゃ、それは彼らの挑発に踊らされちゃってると思うんだけど・・・・・(笑)。
って、僕の言い方もかなり挑発的かな(笑)。

なげーな。
このくらいでやめとこう。
まぁこんだけだらだらと感想を書けちゃうんだから、この本はエキサイティングな名著かもしれないよね。
ギャハハハ。

ではでは。


9 コメント

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ご来訪有難うございます (Akira)
2006-04-09 00:35:21
こんばんは。私のブログにコメント有難うございます。

実はTAROさんのブログを、ちょっと前から知っておりました。いつも楽しませてもらっております。デザイン変えられたみたいですね。



さてさて、「ジャズ構造改革」についてのご意見も面白いですね。この本へのネット上の批判は結構感情に任せたものが多いんですが、

TAROさんの感想は辛口ながら説得力がありますね。

この本は結構売れてるそうですが、やっぱりイントロでネットユーザーを叩いたことが売り上げ増の大きな要因かも知れませんね。

これからも楽しませていただきます!

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>Akiraさん (TARO)
2006-04-09 01:33:29
こんにちは。

わざわざのご来訪、いたみいります。



ネット上の方々の書評を見ていて僕が思うのは、感情的なリスナーが彼らの言うことに反発して「あんなヤツらの誉めてるアルバムなんか誰が聴くか!」なんて、自身の感性を狭めてしまうのはいただけないなってことです。

それはあまりにももったいないし、理性的な判断じゃない。

リスナーはリスナーとして「耳で聴いて判断する」ということにシビアでいて欲しいものですよね。

「ジャズを楽しむ」ということに貪欲でいて欲しい。評論に踊らされることなく、ですね(笑)。



しかし・・・・・そうですか、この本は売れているんですか。

もしネット上のジャズサイトの批判をすることでこの本が売れたのだとするなら、それは彼らの勝ちですね。

過剰に反応しているネットユーザーは、これは僕も含めてですが、いくら感情的に反発しようとも「ジャズを考える」「ジャズを書くことを考える」ということに、否応なしに向き合わされてしまっているわけですから。

そりゃ彼らの勝ちだ。やるな!。プロの仕事って感じですね。

ニャハハハ。



ではでは。

コメントありがとうございました。

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一緒に作り上げる (penkou)
2006-04-09 15:51:07
TAROさん

今回も最後のギャハハハが効いていますね。

TAROさんの評論家批判はいつものことながら厳しいですね。僕はこの本は読んでいないし、TAROさんの論考を聞きますと読みたいとも思いませんが、でも評論家はアルバムやプレイヤーの紹介だけではなくて、やはりジャズ論を戦わせてもらいたいとも思います。そこで僕がTARO論を聞いて常に感銘受ける(今回も同感)ように、彼らもたとえ見解が違っても相手を考え込ませるような戦いをすべきだと思うのですが・・・



マイルス自叙伝に心打たれているのですが、マイルスはウイントンを全く認めていませんね。「音楽は協調だ、競争ではない。一緒に演奏してお互いに作り上げていくものなのだ」といっています。音楽を模索し戦いながらも敬意を持って接する、マイルスの生き様を評論家全てが感じとり、感銘受けていると僕は思うのですけど。音楽を論ずるのはある意味人を論ずることでもあると思うのです。

そうすると自ずと謙虚になるはずだと思うのです。そう単純には言えないのかもしれませんが!



ジョシアの音楽をどう捉えるか、今の時代を考察する(評論家がどう考えているかということでもあるのですが)と共に、ジョシアの生き様をどう考えるかということにもなるのではないでしょうか。

ところでウイントンの生き方、つまり音楽との取り組み方ははマイルスとは違うのでしょうか。気になってきました。



とはいえ、建築の世界でも色々ありますからね!なんか言っていることが支離滅裂、失礼しました。
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>penkouさん (TARO)
2006-04-09 17:40:32
こんにちはです。

もうすっかり暖かくなってきましたね。





>もたとえ見解が違っても相手を考え込ませるような戦いをすべき

>音楽を論ずるのはある意味人を論ずることでもある



ええと、僕は音楽評論が最終的に行き着く先ってのは「感想文」か「詳細なデータ」、このふたつしかないと思っているんですよ。だからあんまり読まない。純粋な評論畑の人というのをはなっから馬鹿にしているところがあるので、どうしても肯定的な評価を書くのは難しいんですね(笑)。

ええと、なかなか難しいんですが、本文で書いたように、音楽って最終的には「音」なんですよね。どんな情動や動機があったとしても、結果として現されるのは「音」でしかないわけです。「空気が振動する現象」でしかないわけです。

そこに「お前らそんなもん聴いてるのか。ダメダメ、こっちを聴かなきゃ。こっちの方が優れてるんだから」という論旨を述べたいのであれば、やはり「音以外」すなわち「歴史」「社会背景」「動機」「情動」ではなくて、「音そのもの」すなわち「様式」「形式」「方法論」「理論」「測定」といった領域に踏み込まなくては無理だと思うんですね。

もちろん「音そのもの」、「様式」や「方法論」「測定された結果」を「評価する」のは社会総体であるわけで、その意味では音楽を歴史、社会背景を含めた「音以外」から語ることはまったく否定しません。単純に楽しいですし、音楽を理解する大きな一助になることも間違いないと思います。

ただ「音以外」だけで「優劣の決定」やろうとすると、その論旨がどんなに事実に合致していようとも、受け手から見ると「抽象論」に陥らざるを得ない。

結果として出された「音そのもの」の、どこに「現象としての差異」が現れているのか。それを具体的に述べなければ、結局何も意味を持たない、何も語っていないのと同じになってしまうんですね。

それはどんなに技巧こ凝らした文章であれ、です。

その意味で、ジャズの評論家の中で「何か意味のある」ことを書いている人ってのは、圧倒的に少ないです。

そもそもプロが書いている文章が抽象論だから、それをパクッて自分の意見として披露しているネットユーザーの論考も、通り一遍のベタなものになっているという、その構造を無視してアマを叩いても・・・・・アマチュアなんてプロの模倣から始めるのがどんな業界だって当たり前であって、あなたがた評論家たちがもうちょっとマシなこと書くようだったら、アマチュアのネットユーザーの文章だってちょっと変わるんじゃないの?、って、僕みたいなひねくれた人間は思っちゃうんですよね(笑)。





>マイルスはウイントンを全く認めていませんね

>ウイントンの生き方、つまり音楽との取り組み方ははマイルスとは違うのでしょうか



そうですね。

少なくともコンポーザー、バンドリーダーとしてはボロカスに言ってますね(笑)。

Wyntonの動機が「アメリカにおいて、ジャズをクラシック音楽に比肩し得るアカデミックな文化としての位置づけを獲得する」ところにあった以上、コンポーズする能力、バンドの音楽性をプロデュースする求心力っていうのは必要ないものだったんだと思います。やるべき音楽性(トラディショナルなジャズ)は彼の中ではもうすでに決まっていて、みんなで作り上げるものではなかったということでしょう。

だから「黙ってそれをやれ」と。「お前らオレよりヘタクソなんだから、俺の言うこときけ!」と(笑)。それくらいの傲慢さがなければ「文化としての位置づけを変える」ことは出来ないんでしょうね。また、まだ若かったろうし(笑)。

逆にMilesは、ジャズのアメリカにおけるアカデミックな位置づけなんてものはどーでもいい人だったし(笑)。

「アカデミックな文化としての位置づけを獲得する」ことに価値があるかないかというのは、これはもう難しいです。簡単には語れないですね。

また別の機会に(笑)。





>ジョシアの音楽をどう捉えるか



これは以前書いたので、まあそういうことです(笑)。

評論家の100万語より、彼のあの短い文章に、僕は説得力を感じると、だから常に一定の視線というか、アンテナは張っておこうと、そういうことですね。





いかんいかん、語りだすと切りないや(笑)。

まあそんなところです。



ではではー。
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>penkouさん (TARO)
2006-04-09 19:51:25
追記



penkouさんが書かれている「建築の世界でも色々ありますからね!」といったあたりを、penkouさんのブログで書いていただけたら、かなり面白いのではないかなぁと、ちょっと期待してしまいますね。

温厚そうなpenkouさんが「!」までつけられているというのは、かなり憤慨している部分があるのではないかと・・・・・なんて(笑)。



ぼくがジャズ評論に対してこんだけボロクソかけるのも、実際にジャズ評論の業界とは無関係だからなんですよね。

penkouさんは実際に建築業界で暮らしている以上は、口にできない難しい事情もあるのでしょうが・・・・・って(笑)、見当ハズレかもしれませんが、ちょっとおねだりしてみました。



ではでは~。
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音、音楽、人の生き方 (penkou)
2006-04-09 23:06:54
確かに`音`つまり音楽そのものなんですよね。まさしくそうなのだと思います。

しかし旨くいえないのですが、それが生み出される根源のようなことを探る、コルトレーンがフリーをやり、マイルスがエレキ、フュージョンになぜシフト(シフトという言い方はまずいですね)していったか、アカディズムなど歯牙にかけなかったあのマイルスが、ある意味で社会を変えて行ったというようなことを論考するのも、評論家として大切な役割なのではないかとも思うのですけど。つまり音楽とは何か、音楽家とは誰か?といったことを論ずる、人が生きていくこととは何かが僕のテーマのような気がするものだから、どうもそのあたりが気になるのです。



TATOさんに言われると建築のその世界も書いてみたいという気持ちになります。今僕は建築をきちんと批評する評論家がいないことが問題だと思っています。論考しても批評が出来ない、褒めても貶せない、チョット言い方が悪いのですがそんな感じなのです。

うーん!この僕がどこまでトライできるか?
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>penkouさん (TARO)
2006-04-10 18:56:40
>生み出される根源のようなことを探る

>論考するのも、評論家として大切な役割

>音楽とは何か、音楽家とは誰か?といったことを論ずる



そうですね。おっしゃるとおりだと思います。

そういった「音以外」の背景を考察して、読者に正しく知らしめるというのは、音楽を理解する上での大きな一助になると思います。

単純に楽しいし、興味深いですよね。

つまりそういった外周円上の知識、考察を知らしめることこそ、評論家の役割だと僕は思うんですね。

通り一遍というとちょっと語弊があるかもしれませんが、その「外周円上の知識、考察」を、僕は「通り一遍の名盤解説、歴史解説」「知識欲を満足させるデータ」と呼んだということです。



そこからさらに踏み込んで「これを聴くべきで、これは聴くべきじゃない」、「これは優れている、これは劣っている」ということを結論づけるのは、もう大多数の評論家の手には余ると思うんですね。

なぜなら、外周円上の考察から「音そのものの優劣」を導き出すのは、基本的に不可能だからです。

歴史的にどんなに由緒があって、モニュメントとして意味のある音源も、どんなに功績のある演奏者でも、どんなに激しい情動が込められた演奏であっても、それがジャズ史、音楽史においてどれだけ正当な様式を踏襲した演奏であっても、基本的には出された音がどういう現象であったか、「どういう音であったか」に踏み込まない限りは、その優位性を立証することはできない。

「この演奏はスゲェンだぞ」といくら主張したところで、理由として「だって歴史的に重要な役割を果たした名盤なんだぜ」とか「これはこれこれこういうイデオロギーの込められた、深みのある内容の演奏なんだ」という論旨をいくら述べても、演奏の優劣を立証する根拠には、最終的にはなりえない、ということなんです。

逆に、どんなに有名なアーティストの、どんなに話題性のある演奏でも、「音そのもの」「演奏そのもの」の出来が悪ければ、それは出来が悪いということです。

音楽は「音が出された瞬間に、その音そのものによって、内容が決定される表現方法」であると、そういうことなんですね。



だから、評論家は外周円上のジャズ概論を語っていてくれれば良い、それが役割だと。

もしそれ以上踏み込んで、演奏間の優劣を提示したいのであれば、「音そのもの」にきちんと言及して、根拠を持った説得をしてくださいよと。

で、僕がジャズ評論家をドアタマから軽視しているのは、「音楽の優劣の決定」を「音以外」から導こうという、はなはだ頓珍漢なことをしている人が圧倒的に多いからなんです。

全員とはいいません。外周円上の考察を抑えて、さらに「音そのもの」に妥協せずに踏み込んでいく、優れた人もいます。

極めて少ないですけどね(笑)。
返信する
こんな本があったとは。 (cocoa tea)
2006-09-02 17:31:36
Wyntonがそこまで書かれている本があったとは知りませんでした。

1983年以来Wyntonのファンとしては、

あまり喜ばしい内容ではありませんね。

だいぶ誤解しているようですし。

Wyntonの祖父は黒人奴隷解放運動のリーダー的存在でだったそうで、その環境から、

きっと幼少の頃から、黒人であるから受ける差別とその矛盾を嫌と言う程、実感してきていると思います。

そして、ニューオリンズに育ち---

Jazzを自分の生きる手段として使っても、

それこそ自然な成り行きだと思います。

教育熱心で、知的な人格者の父に育てられれば、

今の道は、当然とも言えるのでは。。と思います。

マイルスとウイントン、

サウンドこそ違いますが、

根底に流れている熱い思いは、

共通したものと、私は思っています。



まぁ、カトリーナでも露呈したように、

まだまだWyntonの目立った活動が必要な世の中のようですね。
返信する
>cocoa teaさん (TARO)
2006-09-03 00:47:38
こんにちは。

再びのご来訪、ありがとうございます。





>Jazzを自分の生きる手段として使っても、

>それこそ自然な成り行きだと



ジャズの歴史が、黒人解放運動の思想に密接にリンクしているというのは、これは否定できませんよね。

そもそもアメリカ南部の黒人中心に生まれてきた音楽ですものね。

ただ「黒人が音楽を通して差別撤廃を訴える方法」がイコール「ジャズ」である必要はないと思います。

歴史的な背景はどうあれ、ジャズが世界中の国々、民族、人種、社会に広がっていくのは、とても喜ばしいことだと感じますし、また、何かのプロパガンダとイコールで語られているうちは、その音楽はまだ世界中の「共通言語」として確立されきっていないんだなぁと思います。

はやく差別なんてものがなくなって、ジャズが堂々とした世界の共通言語として認識される日が来てほしいものですね。





>マイルスとウイントン、サウンドこそ違いますが、

>根底に流れている熱い思いは、共通したものと、私は思っています。



やっぱりジャズを原点に持つ黒人ミュージシャンは、皆誰も強烈な黒人意識を持っているんでしょうね。

ジャズを原点として同じ基盤を持つこの2人が、片やジャズを黒人の音楽と位置づけてジャズを高めることに邁進し、片やジャズに帰属することに意味を見出さず自身の表現を突き詰めて前進し続けた。

この生き方の違いはとっても面白いですよね。

僕ら鑑賞する側としては、どちらの音楽が正しいかではなく、どちらもひとつの音楽の形として、素直に受け止めて楽しんでいきたいですよね。

だってどっちも凄いんだもん(笑)。

「ジャズの正しいあり方」なんてのは馬鹿げてる・・・・・そんな風に思います。



ではでは。
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