さて、また休日が巡ってきたので、何か書くことにしましょうか。
今日は、そうね・・・・・「ジャズに名曲なし、名演あるのみ」って、よく聞くお題目があるでしょ。もう耳にタコができるほど繰り返されてきて、すでに数限りない議論がされているんだろうけど、一応これについて僕が思うことを書いておこうと思う。
かなり古典的で、ベタな話題だけどね(笑)。
最近友人がある席で、この「名曲なし」を高らかに宣言して「だから僕はジャズの曲名はほとんど知らない」って自慢げに語っていたのね。そこでかなり熱い議論になった。
これは一体誰が最初に言った言葉なんだろうね?。是非知りたいね(笑)。
結論から言おうか。
初っ端から毒舌全開で悪いけど、ハッキリ言ってね、あんなもん嘘っぱちだから(ギャハハ)。
あんなこと言ってるヤツってのは、ジャズの曲を全然知らないか、ちゃんと聴いていないかのどっちかだよ。だってさ、どっからどう聴いてもいい曲たくさんあるじゃん。僕だってそんなにたくさんの曲を熟知してるわけじゃないけど、好きな曲の詞とメロディを思い返してみるだけで、「なんつう良い曲なんだろ」って思うのがたくさんあるもん。
名曲なしを喧伝する人の主張を要点だけまとめてみようか。
「ジャズはアドリブの音楽だから」、「スタンダードというのは『ジャズとして書かれた曲はほとんどない』から」、「ジャズミュージシャンのオリジナルは、ほぼ例外なく『即興の題材として』書かれているから、名『曲』とは言えない」、「いくら良くできたメロディでも、ジャズで演奏されてしまえば原形を留めない」とか・・・・・まあこんなところかな?。
バカだよね(笑)。
ざっと並べてみるだけで、そのあまりの内容のなさに失笑を抑えきれない(ニャハハ)。
まず最初に言っておきたいのが、「名曲」という言葉がジャンルに付随して語られる場合、必ずしも「そのジャンルの曲として書かれた」という条件は必要ないということなのね。
ってか、こんな瑣末なことは、ちょっと知性のある人なら考えなくてもわかりそうなことだから、本当は語りたくないんだけどね。
ええとね、だいぶ前に読んだ本に「ジャンルとは個別的な事象をある属性のもとにひとまとめにして呼ぶ名称である。この概念が生じる背景にはそれが指す共通のイメージを育む歴史がなければならない」という記述があって、ハッとしたことがある。なるほどだよね。
ここでは音楽に限るとしても、そのジャンルを決定するのは楽器や地域、音楽の形式や様式のみにその根拠があるのではなく、それらを含めた「共通のイメージ」にこそ、その成立の要件があるわけだ。ここら辺に「ジャンルとは何か」という問いに、なかなか明確な回答がでてこない所以がある。ジャンルってそういうものなわけだ。
じゃあさ、例えばクラシックで古典的名曲とされているものに「これはクラシックの曲として作曲しよう」って書かれた曲ってあるのかな?・・・・・って、ねえよ(笑)。
わかるよね?、どんな事情で誰に書かれた曲であっても、ジャズシーンにおいて定着して受け継がれていったものであれば、それは「ジャズの曲」たりえるということ。
だからジャズには「スタンダード」として括られる曲の数々がある。
「ジャズとして書かれた曲じゃないから」なんて幼稚な議論は恥ずかしいよ。
で本題。
「ジャズはアドリブの音楽だから」「曲は即興の題材である」というやつね。
確かにそういう側面はある。ジャズミュージシャンの書いた曲には、構成が希薄で単純なテーマとコード進行だけあれば良いというものも数多くある。既成のスタンダードにしてって、実際の演奏には歌詞やメロディなんかまったく度外視した奔放なものも多い。
「インプロヴィゼーションの題材」っていえばその通りだよ。
でもね、インストでもより良い演奏をするために必ず歌詞を知った上で演奏するというミュージシャンも数多くいるし、大抵の演奏は頭にテーマを提示するよね。それはなぜかを問わなきゃいけない。
人間がなにかを表現するということは、その原動力になる「情動ありき」「モチーフありき」であって、そうでなければ表現そのものをする意味がない。そして音楽においては、その「情動、モチーフ」っていうのは、メロディ、曲として現れるものなんだよね。例え実際の演奏において、まったくもとの曲、もとのメロディが奏でられることがなくっても、その表現の根拠には「曲」があるものなんだ。
極端な例を挙げればさ、例えばJohn Coltrane(ジョン・コルトレーン、ts,ss)なんてどうよ。最高の傑作といわれる「A Love Supreme」(至上の愛)の1曲目「Acknowledgment」、あれなんてドアタマからベースによる、あの「ターララッ、ターララッ」っていうフレーズの繰り返しから入って、テナーソロのバックでも基本的にこれが鳴ってる。で、ソロのあとテナーも「ターララッ」を吹き始めて、さらにトレーンの「A Love Supreme」っていう唸りがそのメロディで重なってきて、またベースのテーマ提示で終わる。
テナーソロだって決して荒唐なものではないよ。「ターララッ、ターララッ」を前提の上で、調和を旨として吹いてる。
結局演奏の主張はずーっと「ターララッ」なわけだ。
断片的なフレーズの繰り返しを曲として良いのかって?、立派な曲でしょ。手法としてはボレロと一緒よ(笑)。
好みは別としても、あれはまさに「曲ありき」じゃん。
例えばDuke Ellington(デューク・エリントン、p,arr,com)なんてどうよ。
楽団のほとんどテーマソングだった「Take The "A" Train」邦題「A列車で行こう」ね、あれなんて毎回編成やアレンジが変わっても、結局のところ曲が言いたいことは不変で、各ソロを取るソリストたちもそれを前提にほとんどお決まりの雰囲気で吹く。いくらアドリブっつっても足並みを乱すヤツはまったくいない。そりゃそうだよね。あの曲で「あの曲ではないソロ」を取れるヤツなんていないでしょ。そんなことしたら「ふざけんな!」ってなるよね。
ほとんどEllingtonのリーダーシップのもとに執り行われる予定調和の世界なわけだ。
それが曲の力ってもんなんだよ。曲の持つ説得力、ね。
フリージャズはどうなるのかって声が聞こえてきそうだけど、上記の書籍に載ってた著名なフリーのアーティストの言葉を引用しておこうかな。手抜きじゃないよ。僕の言葉より説得力がありそうだからさ(笑)。
「お客さんに『今日は楽しかった。入念に計画され、よく準備してあり、よく書けていてよく演奏された曲が沢山聴けた』っていう気分を味わって貰うことが私たちの責任だと思うの・・・・・あまり偶然に期待しちゃダメよ」、Carla Bley(カーラ・ブレイ、p,com,arr)
「あらかじめ何も用意しない本当の集団即興演奏をずっとやってきたのですが、次第に単なるフリー・インプロビゼィションにあきてきたのです。というのは、自由で何もかも許されたエモーショナルで力まかせの演奏は、その演奏の最中には思いもしないものを与えまた教えてくれますが、本当に音楽の可能性を開く手がかりを具体的に示すということがないからです」、Steve Lacy(スティーブ・レイシー、ss)
だってさ。
ジャズには単純にテーマを題材として、関連のないアドリブソロを事務的に回していく演奏も確かに存在するけれど、最終的に音楽の方向性を決めるのはやっぱり「曲」なんだよ。
僕はそう思う。
どんなジャンルの音楽でも「名演」も「名曲」も存在するさね。決まってんじゃんそんなん(笑)。
「ジャズに名曲なし、名演あるのみ」なんて、メジャーなキャッチコピーを鵜呑みにして軽々しく引用しちゃうのは、かなり赤面ものだと思うんだけどねぇ。
小っ恥ずかしー!!!。
ギャハハハ。
毒舌ばっかりでごめんなさい。今日も酔っ払いです(笑)。
ではではー。
今日は、そうね・・・・・「ジャズに名曲なし、名演あるのみ」って、よく聞くお題目があるでしょ。もう耳にタコができるほど繰り返されてきて、すでに数限りない議論がされているんだろうけど、一応これについて僕が思うことを書いておこうと思う。
かなり古典的で、ベタな話題だけどね(笑)。
最近友人がある席で、この「名曲なし」を高らかに宣言して「だから僕はジャズの曲名はほとんど知らない」って自慢げに語っていたのね。そこでかなり熱い議論になった。
これは一体誰が最初に言った言葉なんだろうね?。是非知りたいね(笑)。
結論から言おうか。
初っ端から毒舌全開で悪いけど、ハッキリ言ってね、あんなもん嘘っぱちだから(ギャハハ)。
あんなこと言ってるヤツってのは、ジャズの曲を全然知らないか、ちゃんと聴いていないかのどっちかだよ。だってさ、どっからどう聴いてもいい曲たくさんあるじゃん。僕だってそんなにたくさんの曲を熟知してるわけじゃないけど、好きな曲の詞とメロディを思い返してみるだけで、「なんつう良い曲なんだろ」って思うのがたくさんあるもん。
名曲なしを喧伝する人の主張を要点だけまとめてみようか。
「ジャズはアドリブの音楽だから」、「スタンダードというのは『ジャズとして書かれた曲はほとんどない』から」、「ジャズミュージシャンのオリジナルは、ほぼ例外なく『即興の題材として』書かれているから、名『曲』とは言えない」、「いくら良くできたメロディでも、ジャズで演奏されてしまえば原形を留めない」とか・・・・・まあこんなところかな?。
バカだよね(笑)。
ざっと並べてみるだけで、そのあまりの内容のなさに失笑を抑えきれない(ニャハハ)。
まず最初に言っておきたいのが、「名曲」という言葉がジャンルに付随して語られる場合、必ずしも「そのジャンルの曲として書かれた」という条件は必要ないということなのね。
ってか、こんな瑣末なことは、ちょっと知性のある人なら考えなくてもわかりそうなことだから、本当は語りたくないんだけどね。
ええとね、だいぶ前に読んだ本に「ジャンルとは個別的な事象をある属性のもとにひとまとめにして呼ぶ名称である。この概念が生じる背景にはそれが指す共通のイメージを育む歴史がなければならない」という記述があって、ハッとしたことがある。なるほどだよね。
ここでは音楽に限るとしても、そのジャンルを決定するのは楽器や地域、音楽の形式や様式のみにその根拠があるのではなく、それらを含めた「共通のイメージ」にこそ、その成立の要件があるわけだ。ここら辺に「ジャンルとは何か」という問いに、なかなか明確な回答がでてこない所以がある。ジャンルってそういうものなわけだ。
じゃあさ、例えばクラシックで古典的名曲とされているものに「これはクラシックの曲として作曲しよう」って書かれた曲ってあるのかな?・・・・・って、ねえよ(笑)。
わかるよね?、どんな事情で誰に書かれた曲であっても、ジャズシーンにおいて定着して受け継がれていったものであれば、それは「ジャズの曲」たりえるということ。
だからジャズには「スタンダード」として括られる曲の数々がある。
「ジャズとして書かれた曲じゃないから」なんて幼稚な議論は恥ずかしいよ。
で本題。
「ジャズはアドリブの音楽だから」「曲は即興の題材である」というやつね。
確かにそういう側面はある。ジャズミュージシャンの書いた曲には、構成が希薄で単純なテーマとコード進行だけあれば良いというものも数多くある。既成のスタンダードにしてって、実際の演奏には歌詞やメロディなんかまったく度外視した奔放なものも多い。
「インプロヴィゼーションの題材」っていえばその通りだよ。
でもね、インストでもより良い演奏をするために必ず歌詞を知った上で演奏するというミュージシャンも数多くいるし、大抵の演奏は頭にテーマを提示するよね。それはなぜかを問わなきゃいけない。
人間がなにかを表現するということは、その原動力になる「情動ありき」「モチーフありき」であって、そうでなければ表現そのものをする意味がない。そして音楽においては、その「情動、モチーフ」っていうのは、メロディ、曲として現れるものなんだよね。例え実際の演奏において、まったくもとの曲、もとのメロディが奏でられることがなくっても、その表現の根拠には「曲」があるものなんだ。
極端な例を挙げればさ、例えばJohn Coltrane(ジョン・コルトレーン、ts,ss)なんてどうよ。最高の傑作といわれる「A Love Supreme」(至上の愛)の1曲目「Acknowledgment」、あれなんてドアタマからベースによる、あの「ターララッ、ターララッ」っていうフレーズの繰り返しから入って、テナーソロのバックでも基本的にこれが鳴ってる。で、ソロのあとテナーも「ターララッ」を吹き始めて、さらにトレーンの「A Love Supreme」っていう唸りがそのメロディで重なってきて、またベースのテーマ提示で終わる。
テナーソロだって決して荒唐なものではないよ。「ターララッ、ターララッ」を前提の上で、調和を旨として吹いてる。
結局演奏の主張はずーっと「ターララッ」なわけだ。
断片的なフレーズの繰り返しを曲として良いのかって?、立派な曲でしょ。手法としてはボレロと一緒よ(笑)。
好みは別としても、あれはまさに「曲ありき」じゃん。
例えばDuke Ellington(デューク・エリントン、p,arr,com)なんてどうよ。
楽団のほとんどテーマソングだった「Take The "A" Train」邦題「A列車で行こう」ね、あれなんて毎回編成やアレンジが変わっても、結局のところ曲が言いたいことは不変で、各ソロを取るソリストたちもそれを前提にほとんどお決まりの雰囲気で吹く。いくらアドリブっつっても足並みを乱すヤツはまったくいない。そりゃそうだよね。あの曲で「あの曲ではないソロ」を取れるヤツなんていないでしょ。そんなことしたら「ふざけんな!」ってなるよね。
ほとんどEllingtonのリーダーシップのもとに執り行われる予定調和の世界なわけだ。
それが曲の力ってもんなんだよ。曲の持つ説得力、ね。
フリージャズはどうなるのかって声が聞こえてきそうだけど、上記の書籍に載ってた著名なフリーのアーティストの言葉を引用しておこうかな。手抜きじゃないよ。僕の言葉より説得力がありそうだからさ(笑)。
「お客さんに『今日は楽しかった。入念に計画され、よく準備してあり、よく書けていてよく演奏された曲が沢山聴けた』っていう気分を味わって貰うことが私たちの責任だと思うの・・・・・あまり偶然に期待しちゃダメよ」、Carla Bley(カーラ・ブレイ、p,com,arr)
「あらかじめ何も用意しない本当の集団即興演奏をずっとやってきたのですが、次第に単なるフリー・インプロビゼィションにあきてきたのです。というのは、自由で何もかも許されたエモーショナルで力まかせの演奏は、その演奏の最中には思いもしないものを与えまた教えてくれますが、本当に音楽の可能性を開く手がかりを具体的に示すということがないからです」、Steve Lacy(スティーブ・レイシー、ss)
だってさ。
ジャズには単純にテーマを題材として、関連のないアドリブソロを事務的に回していく演奏も確かに存在するけれど、最終的に音楽の方向性を決めるのはやっぱり「曲」なんだよ。
僕はそう思う。
どんなジャンルの音楽でも「名演」も「名曲」も存在するさね。決まってんじゃんそんなん(笑)。
「ジャズに名曲なし、名演あるのみ」なんて、メジャーなキャッチコピーを鵜呑みにして軽々しく引用しちゃうのは、かなり赤面ものだと思うんだけどねぇ。
小っ恥ずかしー!!!。
ギャハハハ。
毒舌ばっかりでごめんなさい。今日も酔っ払いです(笑)。
ではではー。
何の意味があるのか?
文章を読んでそのお題目が問題なのではなく、
あなたとその友人(本当に友人?)との関係が
問題だと思わされました。
また、持論を主張したいのはわかりますが、あなたは名曲なしを謳ういーぐるの後藤さんなどと意見を交えたことはあるのでしょうか?
そんなもんにいちいち噛み付いて、全世界に向かって自慢げに叫んでるヤツがいたら、こりゃ相当な◯◯でしょ。
一昨夜、美術館のコンサートで「アレッサンドロ・ガラディ」氏の演奏に魅了されて未だ余韻覚めやらぬところです(^^)
閲覧元URLのページから、ワープして来ましたが、何となく漠然とですが、一昨夜感じたことが理路整然と文章になっていて、「ああ、そうかあ!」と腑に落ちた思い(^^)v
また時々、訪問させていただきます(^^)/^^
管理人をしておりますTAROと申します。
コメントありがとうございます。
ええと、ちょっとShinさんが何を主張されたいのかが、文章から読み取れないのですが・・・・・。
>西洋クラシカル音楽は、約300年の歴史しかない
>約100年の歴史しかないジャズと50歩・100歩の現代音楽の1つです
クラシック音楽の歴史を、器楽、古典派の発生あたり以降であると線引きをしてしまえば、それは極めて便宜的なカテゴライズではりますが、まあ仰るとおりだと思います。
また、クラシック音楽が体系化した記譜法が、その利便性から世界中の音楽シーンを席捲しつつあるというのもその通りです。
ですが、それがなぜ=「ほとんどの音楽は名演ばかり」(これは「名曲なし」ということでしょうか?)という結論に飛躍してしまうのか、Shinさんの書かれている文面だとそこら辺がまったく語られていないので、ちょっと論じようがないというか・・・・・。
>体系的な記録法(楽譜)を発明した結果、アレンジが特別に発展した音楽となった
記譜法に触れられているということは、Shinさんは「曲」そのものを「譜に起こされたもの」と定義されているということでしょうか?。体系化した記譜法によって固定された旋律のみを「曲」として、それ以外は「演奏である」から、「ほとんどの音楽は演奏である」と、仰られているのはそういった意味合いでしょうか?。
「曲の定義」についてはかなり意見が分かれそうなところですが、体系化された西洋音楽の記譜法でなくても、「曲を書き記しておく」という行為は、最古では7世紀くらいから行われていたということに着目しなければなりません。
なぜ旋律を「書き記しておく必要があった」のか、そして記譜法のない多くの民族音楽でも「口伝」「口伝え」という形で、やはり「固定されたリズムや旋律」=「曲」を受け継いできている。記譜しない不確かなものであっても、やはり曲という概念は成立していて、それを伝えていくという行為は厳然と存在するという事実。
もしこれがなければ、世界の民族音楽は「演奏法」しか受け継がれていかないということになります。
現状を鑑みてみると、やはりそうはなっておらず、どんな民族音楽でも、ほとんどは「曲」を受け継いでいる。
ご自身で仰られているように、即興を前面に出す分野であるジャズも、やはり「名曲に基づく」音楽なわけです。
譜面に基づくアレンジにせよ、感覚的な即興にせよ、どんな音楽でもやはり根底には「曲」がある事例の方が、圧倒的に多いのではないかと思いますが。
ではでは。
ご来訪ありがとうございます。
>いかにそのミュージシャンなりに料理するかを聴きたくて、
>ジャズという音楽を聴く
これは、実はジャズだけでなく、すべての音楽がそうなんですよね。
逆にまったくの書き譜で、決められたとおりの曲を演奏するとして、それが各演奏者間に「どう料理するか」という差異がないのであれば、誰が演奏しても同じなわけで(笑)。アドリブなしの演奏であっても、演奏者はそれぞれがそれぞれの解釈で「料理する」、これは間違いありません。
「演奏を聴く」という行為は、「演奏者の料理方法を聴く」と、ある意味イコールなわけです。アドリブがあってもなくても、ですね。リスナー側にそれを聴き分けようという意識がないのであれば、その人は最終的には「何を聴いても同じ」だと(笑)。
まあそんなところです。
>ジャズを歌って(演奏して?)らっしゃったんですね
はるか昔、下手の横好きで(笑)。
今でも歌を歌うのは楽しいですけど、徹底した自己満足の世界ですね。
ニャハハ。
ではでは。
私も詳しくは知りませんが…
今日も女性ヴォーカリストのライブに行ってきましたが、「ミスティ」や「テネシー・ワルツ」などの「名曲」を歌ってくれました。
やっぱり名曲だから歌の素材として取り上げるんだと思います。その名曲を、いかにそのミュージシャンなりに料理するかを聴きたくて、ジャズという音楽を聴くんじゃないかな?と思いました。
「名曲あってこその名演」だと思います。
ところで過去ログを読ませていただいたら、TAROさんってジャズを歌って(演奏して?)らっしゃったんですね。
そうですか、日本人から出てきた言葉なんですね。
結構納得です。
ジャズ創生の現場からは、絶対に出てこない言葉だと思います。
実は音楽の「様式」と「曲」って、イコールではないまでも、ほぼ同義とできるくらい密接だと思うんですよ。
例えばジャズの様式を「4ビート」「スイング」「2-5」「ブルーノート」「アドリブ」の5つと定義づけてみるとします。
ではジャズが生まれてくる上で、上記の様式を「前提にして」創られたのかというと、絶対にそんなことはない。まず「演奏されたもの」(これは「曲」です)があって、それを西洋音楽の理論で分析したうえで定義づけられたのが、上記の5つの様式なわけです。「演奏された音」「出された音」「並べられた音」(イコール「曲」です)が先にあって、「様式の定義づけ」は、それ以降になされるものだ、と。つまり、アドリブだのブルーノートだの、4ビートだのスイングだのというのは、演奏された音(イコール曲)に対して、「それがどう作られているか」「どうやって作られたか」に言及したものに過ぎない。
では様式は後づけとして、音楽は何を根拠として生み出されるかというと、それはそれが生み出される社会背景を前提とした、創造者の「情動」なわけです。
世界各国やそこに暮らす個々人で、異なる「情動」があるからこそ、その国々や個々人独自の音楽が生まれてくる。
様式や方法論があるから演奏や曲(しつこいようですが、これはイコールです)が生み出されるのではなく、「演奏=曲」があるから様式や方法論が定義され、結果としてジャンルが生み出される、ということです。
そもそも民族音楽には楽譜や理論なんてものはなくて、口伝で伝えられてきたものなわけです。これは日本の民謡や長唄、三味線なんてものもそうですね。
音楽ってもともとアドリブ、インプロヴィゼーションの世界だったわけです。もともとは、世界中の音楽は「=アドリブ」だったわけです。
それが近代になって日本に伝わったジャズに対して、日本人が「ジャズはアドリブだ!、名曲はない!、名演だけだぜ!、イエーイ!」みたいなノリになってしまうのは、現在の日本の音楽もしくは音楽教育が、「決められた音を出すこと」を前提とした西洋音楽(クラシック音楽)を鵜呑みにすることから始まっているから、だと思います。
近代の日本人の音楽観が、理論や様式を前提としてなされる西洋音楽に席捲されつくしてしまった結果、即興演奏というものに免疫がなくなってしまい、また欧米の未知の文化ということもあって、アドリブに過剰に恐れ入ってしまったと(笑)。
「ジャズに名曲なし、名演あるのみ」って言葉は、日本人の知性のなさの一端ですよね。
だっていい曲いっぱいあるじゃん(笑)。
こんなもん、ちょっと考えてみれば正しくないことはわかりそうなもんなんですが・・・・・やれやれ(笑)。
ではでは。
「ジャズに名演あって名曲なし」は、野川香文さんという評論家の「名言」だそうです。後藤雅洋『Jazz百番勝負』(講談社)の60ページにはそうあります。本当かどうか、分かりませんが。
kenyama