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音楽における自由とは

2006-03-07 21:55:50 | ジャズの話題
うーん、正直ネタがないんだよね。いくつか考えてはいたんだけど・・・・・内容のない記事を書いても仕方ないからやめようかとも思ったんだけど、あんまり間が空くのもね・・・・・。
ええと、しばらく前に「完全なる創造なんて在り得ない?①」「完全なる創造なんて在り得ない?②」って記事を書いたでしょ。その中で「本当の創造性とは既成の概念から自由であることだ」なんてことを言ったよね。
その、音楽において「自由である」ってことについてもうちょっと語りたくなったので、今回はそれでいこうと思う。

先週末さ、Ornette Coleman(オーネット・コールマン、as,tp,vln)を聴いてたのさ。名盤といわれてる「At The Golden Circle」とかね。
でさ、あの人って本職のアルト以外にトランペットとかヴァイオリンまで演っちゃったりするじゃん。上記のライブ盤でもやっててさ・・・・・これは聴くたびに毎回なんだけど、なんだかなぁって思った。批判を覚悟で正直に言っちゃうと「どーしようもない音出してるなコイツ」って(笑)。
バイオリンを使う必然性がないっていうか・・・・・系統だった演奏でなくて、ただ鳴らしてるだけって印象なんだよね。「なんでもいいから音が出ればいいや」みたいな。
彼のアルトは、まぁノイズィーだけどコントロールされた「演奏」になってると思う。だけどそれ以外の楽器に関しては、一流の演奏者によってコントロールされた一流の演奏には聴こえない。なんでこんなことすんのかな?って思う。アルトでやりゃぁいいじゃん。もしくはどうしてもアルト以外の音が必要なら、きちんと演奏できる奏者を加えるとかさ・・・・・。
「バイオリンを”楽器として”使わなくてもいいだろうし、練習しなくたっていいだろう。ある種のスペースを埋めるような使い方なら、ちゃんと演奏できなくたってなんとかなる。ソロとか、そういうことじゃなくて、あちこちにいくつかの音をばら撒くような使い方ならな」
これはOrnetteを評してのMiles Davis(マイルス・デイヴィス、tp)の弁なんだけど、うーん、そっかぁ。

MilesがOrnetteやフリージャズに関して語った言葉で、僕の印象に残っているものをいくつか挙げてみる。
①「Ornette Colemanがすばらしかったところは、音楽的なアイディアとメロディがスタイルに頼ったものじゃなく、スタイルから独立して、自発的に創造されたように見えたことだ」
②「音楽における自由というのは、自分の好みや気持ちに合わせて、規則を破れるように規則を知っている能力だ」
③「オーネットは、トランペットでスタイルは演奏できなかった」
やっぱりMilesってスゲェな。

どんなジャンルでも、大抵の作曲者は、まず「スタイルありき」さらに「楽器ありき」から出発する。
作曲にあたって、モチーフを膨らませてメロディを考え、必要な楽器編成を考え、和声楽にもとづいて編曲を施し、各旋律を割り振っていく。つまり、「既成の楽器の既成の音」を前提に曲が書かれ、編曲が施されるわけだよね。出てくる音色や楽器の演奏法は、すでにできあがった「既成の範囲から選択される」んだ。
そもそも曲を書く、演奏を行うという行為の「発想の出発点」が、既成の音楽の範囲に位置しちゃってるんだよね。メロディが浮かんだ瞬間、もうそれは頭の中で既成の楽器の音で鳴っている。
このことの良し悪しはともかくとしてもね・・・・・極端な例えをしてみると、アマチュアでバンドやり始める学生たちが、大抵ボーカルとギターとベースとドラム、それにできればキーボード、とメンバーを探し始めるのと似てるかな。本来楽器編成はやりたい音楽と必要な音に基づいて模索されるはずのものなのに、まず「フォーマットありき」からスタートしてしまう不条理。
もっとバカバカしい話、ほとんどの宇宙人の目撃例が手足が2本に目が2つに口がひとつっていう人間型か、もしくは地球上の既知の生物、例えば蛸とかね、そういったものに類似しているのにも似ているよね(ギャハハ)。
僕は宇宙人だのの超常現象関係の番組好きなんだけど、ああいったものを見るといっつも「ああ、やっぱり人間のありふれた想像力で創造描写できる範囲に収まってるなぁ」って思う。
対して、Milesはキャリアを重ねるごとにどんどん自由になっていったように思うんだよね。
凡百のアーティストが「こういう楽器とこういう演奏法があって、そいれでこういったことができるから、こういう曲を書いてみよう」からスタートするのに、Milesは頭の中で必ずしも既成の範囲に縛られない音が鳴っていて「どんな楽器を用いれば、そしてその楽器をどうやって鳴らしたら、自分の頭の中で流れる音に一番近づくことができるか」というところからはじまってる。
バップからはじまって、当時のジャズでは一般的でない楽器を大幅に導入したノネットの試み、それ以降エレキを大幅に導入していくのも、常にこの「頭の中で鳴っている音」を現実にするための手段だったってことね。
そもそもの出発点が全然違うんだよ。
①の発言はそういう意味で、Ornetteは音楽における発想の自由さを持っていた、ということでしょう。
それがどんなに難しいことかわかるかな?。
これを読んでくれてる人、試しに自分の頭の中で自分が生まれてから聴いたことのない音を鳴らすことができる?。
これは結構難しいよ。どんなに奇異な音を想像しても、冷静に考えると自分の経験の中から類似したものを見つけられちゃうはず。
いや、これだとちょっと語弊があるかな。もちろんMilesの音楽だって、彼自身の経験から導き出されたものだと思うよ。でも自身の経験も既存の音楽も含めて、「そこに縛られてはいなかった」よね。

でね、自由な上に、さらにそれが「音楽として」「演奏として」成立するために、②が必要だってことなんだと、そういう意味だと思うのね。
②で言う「規則」ってのは、音楽では「理論」だったり「演奏法」だったり、それらをひっくるめた「様式」「概念」だよね。
これらを身に着けるためには、やっぱり既成の音楽を深く学んで、楽器の演奏法に関しても気の遠くなる修練を経なければいけないでしょう。既存の様式を身に着けている人は、必要に応じていつでもそれを用いることができるし、さらにそれを破って飛翔することもできる。そして「まったくの自由」ではないために、それは秩序だった音楽として成立するんだ。
電化以降のMilesが賛否両論分かれるのは「既存のスタイルから自由に懸け離れていった」ところに理由がある。でも「音楽としての秩序」は一度たりとも失ってはいない。きちんと様式を踏まえていたからね。
③の発言は、Ornetteにはその②が足りなかったんだと。
僕も、少なくとも彼のトランペットとバイオリンには「修練を経た演奏法」は感じられない。秩序だった演奏には聴こえない。これがOrnetteに関する現時点での僕の評価ね。
「まったくの自由」って「まったくのデタラメ」と同義かもしれないよね。

「様式を踏まえていること」「自由であること」「スタイルとして成立していること」、これらをすべて兼ね備えているというのは、これは本当に凄いことなんだよね。
現在のジャズシーンの中にも、そしてジャズ全史を通してもそんなにいない。
Miles以外で僕が頻繁に聴いている中では・・・・・うーん・・・・・うーん・・・・・大御所として、Pat Metheny(パット・メセニー、g)のレギュラーグループでの活動とかChick Corea(チック・コリア、p,key)のReturn To Foreverなんかにには、音色の選択という点で微かに自由さを感じるかな・・・・・あとは・・・・・うーん、Milesくらい飛び抜けてる人はちょっと思いつかないね(笑)。

長いね。この辺でやめます。
音楽における自由について書くつもりが、なんだかまたMiles賛歌みたいになっちゃったよ(笑)。
まぁいいや。
文章にあまりにもまとまりがなさ過ぎるので、この件に関してはまた続きを書くかもしれません。

ではではん。