Anteeksi.

すみません、ちょっといいですか。フィンランド留学の見聞録。

続・プラハぶらり歩き

2009-06-04 | 中東欧の旅
プラハの公共交通機関の券売機は、お札が使えない。小銭しか受け入れない。つまり、日本にいるときのような発想で、買い物の度に小銭を減らそうと考えると、地下鉄の券が買えない(あと、トイレに入れないとか)、ということになる。
昨日、空港で両替してもらった中に小銭がなかったので、いきなりバスの券が買えず、しかたなく、その辺のキオスクで別に欲しくもない水を買った。
その数時間後、またやってしまった。つい小銭を減らす方向で使っていたら、地下鉄に乗ろうとしたときに券を買えるだけの小銭が無い。そして、またまた別に欲しくもない、その辺の出店で売っていたビワのような果物を買った。

「どうでもいい」公衆サービスにお金をかけられるのが、本当に豊かな国だと、誰かが言っていた。


本日のぶらり歩きスタート。

通りがかりのヴァーツラフ広場。今でこそプラハ随一の繁華街だそうだが、1968年、当時のチェコスロバキアの民主化の動きを抑圧するため、この場所は、国境を越えて侵入してきたソ連軍の戦車に占拠された。これに抗議し、ここで焼身自殺をした若者がいる。彼の死は、20年の時を経て、ようやく報われる。1989年、再びこの場所を起点にして革命が起こり、社会主義体制が崩壊したのである。
なんだ、つい最近のことじゃないか(何と言ったって、子供の頃に買ってもらった地球儀には、まだチェコスロバキアという国が存在していたのを覚えている)。

 

というようなあらすじをほんの少し頭に入れて、今日まず出かけた場所、共産主義博物館。
共産主義とは一体どういうもんか。それは、この国が、紛れもなく現実として体験してきたものなのである。第二次大戦前後から、そのついこの間の民主化革命までのチェコスロバキア社会のありようを、様々な資料とともに追う。

そこで見たものは、一つの大いなる狂気だった。
労働者は英雄である、とされながら、囚人(法律など関係ない、ただ反政府主義者であったり、無実でも密告の対象とされたりした人たち)には誰よりも厳しい労働が与えられる。プラハの歴史的町並みを修復、修繕する金などない、と言いながら、バカでかいスターリンの銅像を作らせる。世界平和を謳いつつ、初等教育から敵(つまり西側諸国)を認識させる。もう何もかも矛盾だらけだ。

1968年に起こった民主化運動の波を、「プラハの春」と言う。プラハの春は、上に書いた通り、ソ連軍の侵攻により、あえなく潰されてしまうのである。プラハの街において、ソ連軍の戦車が闊歩する。このときの市民の心情とは、一体どのようなものであったか。その疑問に答えるがごどく、その様子を写した一枚の写真の下には、こうキャプチャーが付されていた―We welcomed Soviet tanks with tears in our eyes.
圧巻は、映像資料であった。1989年のビロード革命は、無血革命だった、と手元のガイドブックには一言記されている。しかし、映像はそうは語っていない。同じ国の人どうしが、つまり国家の警官隊と市民デモの参加者たちとが、本気のぶつかり合いをしている。血なまぐさい。ちっとも、無血どころじゃない。死人が出なかった、という意味で無血という表現を借りているだけだ。デモ隊には私服警官も紛れ込んでいて、少しでも周囲におかしな動きをする人がいると、いっせいにリンチを加える。だが、そのリンチを加えている警官たちもまた、同じ国民なのだ。みんな、血を流している。それも、たった今さっき歩いて来た、あの広場で!

共産主義博物館は、マクドナルドに包囲されていた。

この場所は、なかなか衝撃的だった。ここに入る前と出た後では、この街、そこにいる人々を見る目というものが、すっかり変わっていた。

   

本日のランチは、すごいボリュームのトンカツ。そして昼間からビール。食事と一緒にソフトドリンクかビールがつきますが、と言われたら、ビール、と答えないわけにはいかないというものだ。



時間帯のせいか、カレル橋は昨日よりだいぶ賑やかだった。さらに、天気が良い。どんよりとしていた昨日と違い、おかげでプラハの街もより鮮やかに色彩を帯びているように映る。
モルダウ川を渡り、少し山登り。プラハ城を横目に、まずは丘のてっぺんにある修道院を目指した。ここからは素晴らしい街並みが一望できる。休憩がてらテラスのベンチに腰掛けてアイスクリームをほおばり、しばし目の前に広がるこのパノラマ風景を堪能。

 
 

続いて、プラハ城。大統領府も兼ねているそうだ。
ここは、歴史的な価値や、建造物としての存在感、色んな意味で、プラハの中でも間違いなく最重要ポイントの一つであると思われるが、しかしそれにしても、この「見せ方」は何だろう。ディズニーランドみたいなところだな、というのが感想だ。つまり、あからさまなくらいに、作り込まれ過ぎている。
正直、ちょっとがっかりした。とは言え、そもそも自分が何を期待していたのか、それ自体必ずしも明確であるわけではないが、少なくとも実際に目にしたものとは違う気がする。つまり、ここでは、例えば70年ほど前にヒトラーがここからプラハの街を見下ろしていた、というような歴史からの連続性といったものが、全くリアル感を伴わないのである。



もちろん、「観光地化」ということは、多かれ少なかれ、このような要素を伴うことは避けられない。それは、日本で旅行をしてもそれを感じることはあるし、どこだってそうだ。しかし、節度というものがある。

実は、このことは、旧市街全体についてうすうすと感じていたことであったのだが、それをもっとも象徴的に感じたのが、このプラハ城だった。
旧市街という名の通り、たしかに古くから物理的な構造としての街はあったのだろうが、精神的なコンセプトとしてのつながりはどうなのであろう。それは、全く新しく作られたディズニーランドのようなもののように思える。
このことは、この国が辿ってきた歴史の必然なのかもしれないが、どうも、まだ実験段階というか、この先の道を模索しているような印象も受ける。資本主義が流入したのは、わずか20年ほど前のことだ。「歴史的街並」の中には、この後に修復されたものが少なくないらしい。民主化し、資本主義を取り入れることとなったものの、さてどうしようか、というときに、とりあえず観光立国の道を選んだ。その結果、多くの外国人観光客が、マクドナルドやスターバックスと一緒に、やってきたのだ。したがって、プラハの街を歩くと、例えばウィーンが比較的自然なプロセスを経て「老いた貴婦人」と呼ばれるようになったのとは、かなり異なった印象をそこに認めたい衝動に駆られる。そこかしこで観光客に媚を売る人々を見ると、なんだか、彼らはそういう方向に追いやられたのか、という気もしてくる。

この直感がある程度的を射ていたとしても、別にそこに価値判断を挟むつもりはないが、次のことを言いたい。
今、チェコの民族的アイデンティティの拠り所としてのプラハというものがあるとして、それを「プラハ」と書き、一方でこのディズニーランド的なプラハを<プラハ>と書くことにしよう。<プラハ>は、実に楽しいところである。かく言う自分も、短い時間に<プラハ>を相当満喫したつもりである。しかし、それを「プラハ」での思い出としてしまうことは、いささか傲慢ではないだろうか。「プラハ」は、どこか別の場所にあるような気がしてならない。

価値判断をしないと言ったけど、どうだろう。例えば、東京や京都の真ん中がこんな風になっていたらと考えると、いくら経済的に潤うことの近道であるとは言え、手放しで快いとは言えないのではないだろうか。

この国の歴史に大いに興味を持った。


夜は、室内楽の演奏会で音楽鑑賞としたが、色んな意味でうんざりして、途中で出てきた。
観光客相手のイベントなので元々ある程度は割り切っていたものの、一言で言えば、それはもう完全に「見せ物」なのである。そこには奏者と聴衆のインタラクションなるものが一切ない。演奏中であろうとお構いなしに、十秒置きにカメラのシャッター音が響く。隣のカップルはやたらいちゃいちゃしている。さらに、演奏者の側も、もちろんプロだから下手だということはないのだが、明らかにやる気がない。それでも、曲の終わる度に熱狂的な拍手である。なんだこりゃ。

だけど、これは別に、誰の責任ということもないのである。これが<プラハ>なのだ。

まぁ唯一の良かったことと言えば、スメタナホールで音楽が聴けたことである。素晴らしいホールだと思った。ホールもまた一つの楽器であるということを改めて思い知る。

 

ホールを背にして、しばらくふらふらしていたのだが、どこからともなく聞こえてきたバイオリンの音色に誘われ、ちょうど夕食にと、イタリアンレストランに入った。そこでは、バイオリン、ギター、ベースからなるバンドが、タンゴのような音楽を演奏していた。うまい料理、酒、音楽。コミコミでさっきの「見せ物」より安いときた。


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