§ 昨日、「tan君の行動範囲が狭くなって…。」とコメントしましたが、本日はその具体例をお示しすることとします。
現職時代の通勤時には自転車・バスを除けばその殆どは「軽4輪」を利用していましたが、退職後の平成11年4月に人生最後の車のつもりで「軽4輪」に一番近い「ヴィッツ」を購入しました。「軽4輪」よりはハイ・レベルの居住性を念頭に県外へのドライブも夢見ていましたが、残念ながら未だに県外には一歩(?)も出ておりません。現在、約11年半経過していますが、その走行距離は昨日現在、あと数十キロで38,000キロに届きますから、1年間の走行距離は約3,400キロ程度となります。その上、購入当初は健康には問題がなかった関係で県の生涯学習センターで「パソコンボランティア」活動をしていましたので、その当時はそれなりに走行距離が伸びていたであろうことを勘案すると、最近の走行距離数は微々たるものとなってしまいます。その結果、マイカーを所有していることの意味を見出すことは困難であり、自動車税・車検代・任意保険等の維持費を考えると、「ペイ」しないことだけは歴然としています。
§ 戦時中は、世の中の「働き手」が殆ど軍隊に召集されて不足していたので、確か中学2年生のときに(1日だけでしたが)生まれて初めて「勤労奉仕」に動員されました。奉仕場所は岡山駅で、仕事の内容は「米俵」を貨車から米穀倉庫まで運ぶ作業でした。貨車上の大人が2人がかりで「米俵」を1俵ずつ私達中学生の背中に載せてくれます。それを、俵の重さに耐えながら運びました。同じ学年の他の各組も「1日交代」で動員されましたが、我が校が済んだら次の中等学校等にバトンタッチしながら完了させたのではないかと思います。
当時は、お国のためにというよりは自分たちの名誉のためにという気持ちが強く働いて、組全員が心を一つにして本気で頑張ったことは今では懐かしい思い出の1つになっています。1日の終わりにあたり、運輸会社の係りの方から「今日の組はよく頑張ってくれたな。」と褒めてくださいましたが、今思えば毎日同じ台詞だったのではないでしょうか。(加齢雑学講座第80回)