tan君の後期高齢四方八方帖

先輩諸兄が歩んだのと同じ小径を踏みしめながら、その都度感じたことを綴ります。

「 わ ら べ ― 26 」

2010-08-31 07:22:22 | Weblog

§ 夢二の「長崎十二景」の内の「燈籠流し」(大正9年)を模写しました。記憶に間違いなければ、現在までに登場した「長崎十二景」は「眼鏡橋」「青い酒」の2点だけでしたので、本日が3点目となり、当然のことながら、残りの作品への出会いを楽しみにしています。

「 夢 二 ― 42 」

2010-08-28 07:48:40 | Weblog

§ 「切支丹波天連渡来之図」(大正3年)の模写ですが、縦長の絵画のため上部をカットし、更に、飾り罫を付けました。「ばてれん」をパソコンで入力すると「伴天連」に変換されますが、原画には「波天連」と記してあり、愛用している「広辞苑」には両者とも表記されていました。
※ また、「広辞苑」には「バテレン」とは、「神父」のことで「キリスト教が日本に伝来した時、宣教に従事した司祭の称号」との記述がありました。

§ 来週は「わらべ」シリーズを投稿する予定です。

「 夢 二 ― 41 」

2010-08-27 07:29:56 | Weblog

§ 吉井勇著「新訳 伊勢物語」の中の挿絵「井筒の段」(大正6年)の模写です。勉強不足でお恥ずかしいところですが、「広辞苑」には「伊勢物語は平安時代の歌物語。作者未詳。ある男性(業平か)の一生を中心に、多くは男女の情事を叙した約125の説話から成る。」とありました。

「 夢 二 ― 40 」

2010-08-26 08:47:32 | Weblog

§ 「露地の細道」挿絵(大正8年)の模写です。夢二は「挿絵について、内より描くものと外より描くものと二種類に分かちたい。内より画く絵といふのは、自己内部生活の報告だ。感傷の記憶だ。外より描くといふのは小説や詩歌の補助としての、或いは絵画専門の雑誌へスタデーとしてのスケッチだ。」というコメントが残っているそうですが、tan君のような素人ではその違いの判断は到底出来ません。

「 K A O ― 156 」 

2010-08-25 08:26:01 | Weblog

§ シリーズを終わるに当たり、パソコン描画について触れたい箇所がありますのでコメントします。
「WORD」で仕上げた「KAO」を「PAINT」に貼り付けるときにはいろいろのテクニックがありますが、このシリーズを描いていた当時はまだ理解のレベルがそこまで到達していなかった関係で、淡々と「切り取り」と「貼り付け」の操作を繰り返していました。その結果、どうしても「WORD」で描いた「描画線」の両サイドに僅かですが「白色や灰色・その他の色」の部分が付着してしまいます。
その始末の仕方についていろいろと試してみましたが、第1作目は「補修せずにそのままの姿」で、第2作目は「描画線と同色で補修」し、第3作目は「描画線とは異なる色で補修」して、その仕上がり具合を比較してみました。その結果は、tan君が想定していたほどの差は認められませんでした。その理由として考えられることは、「goo」では描画をアップロードするときの「ファイル形式」には制約があり、tan君は「jpg」を利用しています。ところが、御存知のお方も多いと思いますが「jpg」は時間の経過と共に画像が劣化しますので、それが原因で気になるほどの差が現れなかったのかも分かりません。(PAINT基本のき講座第30講)  

§ 今週は引き続き明日から「夢二」シリーズを投稿する予定です。

「 K A O ― 155 」 

2010-08-24 08:25:49 | Weblog

§ 副院長先生のお話の中に「癌の部位の摘出は『腹腔鏡(ふくくうきょう)手術』なので開腹の必要はありませんが、癌の部位を切除した後の2つに分かれている大腸の端と端とを縫い合わせる処置だけはどうしても体外でしなければならないので、少しだけですが開腹をする必要があります。」との御説明を受けました。その時点では、予備知識は皆無の状態でしたので、「どうせ開腹をするのなら従来の開腹手術でも構いません。」と申しましたが、当院の治療方針に従っていただきますとの強い御意思を感じ取りました。
なお、話は変わりますが、毎年定期的に受診している「狭心症の術後の定期検査」でお世話になっている「心臓病センター」で検査技師さんに診ていただくのが通常の流れなのですが、全くの偶然な成り行きで院長先生に「内臓のエコー検査」を担当していただくという幸運に恵まれたときのことです。院長先生が、「そのお腹の傷は何ですか?」とお尋ねになられたので「大腸癌の摘出手術を受けました。」とお答えすると、「どこの病院か知らないが、綺麗に手術してもらっていますね。」と言われました。検査技師さんからは一度も話題にもされなかった大腸癌の小さな手術跡を一瞬の内に意識される院長先生の観察眼には舌を巻いてしまいました。(加齢雑学講座第83回)

「 K A O ― 154 」 

2010-08-23 07:03:35 | Weblog

§ 「内科」での思いもよらない「癌宣告」に戸惑いましたが、「院内紹介」というシステムならレベルの高い先生に執刀していただけるのではないかと期待しました。そして、「外科」の診察室で副院長先生の御所見をお聞きして、「覚悟を決めて」というよりは「観念して」手術日を予約し、今までに経験したことのないような空虚な気持ちを抱きながら家路につきました。
しかし、知らないということは不安なもので、初耳の「腹腔鏡(ふくくうきょう)手術」が気になり、帰宅後、早速手元の医学書を紐解いてみました。家庭医学書程度の低いレベルの記述のため、医学的にはあまり正確なものではないと思いますが、「腹腔鏡手術」の解説を試みます。
「①従来の開腹手術のように大きく切開しないので患者への身体的な負担が軽く、その結果、入院日数も開腹手術と比較して短期間で済むこと、②腹部の数ヵ所に開けた小さな穴から、内視鏡と手術器具を挿入して行う手術であること」です。ただ、「③腹腔内を映し出す内視鏡のモニターの映像を手掛かりにしながらの手術のため、習熟した技術が求められること」とあり、どこの病院でも出来る手術ではないことは御理解いただけるものと思います。(加齢雑学講座第82回)

「 デッサン ― 50 」

2010-08-18 08:25:42 | Weblog

§ 今回の「デッサンシリーズ」で模写した原画三点は、明治末期から大正年間にかけて当時の口絵・挿絵の「美人風俗画」で人気を二分した「鏑木清方」と「鰭崎(ひれざき)英朋」の内、偶然なことから最近入手した「鰭崎英朋」に関する美術書に載っており、数々の作品をこの「シリーズ」に活用させていただくこととしました。(松本品子著「妖艶粋美」¥2940国書刊行会)
作品の大部分は美人画であり、模写に当たっては「WORD」と「PAINT」の両ソフトでは到底手に負えるものではないため、「デッサン風」にまとめようと考えています。なお、この手法は以前に「上村松園」の作品を模写したときにも同じ方法で模写しています。

§ 昭和20年8月15日の天皇陛下の「玉音放送」は、動員先の航空機製作工場で聞きましたが、tan君の職場ではラジオに雑音が入って放送内容が理解できませんでした。しばらくして、他の職場の友達が「日本が戦争に負けたらしいよ。」と伝えに来てくれましたが、その場に居合わせた皆は怒り出してしまいました。「そんな馬鹿なことがある筈がない。」と、伝えに来てくれた友達に殴りかかる者もいましたが、皆で止めました。
当時、子供達は「小国民」と言われて「分相応の国家への奉仕等」が期待され、また、「欲しがりません、勝つまでは。」という標語を繰り返し叩き込まれるような世の中だったため、一部の知識人を除いて、殆ど全ての国民は「日本は絶対に勝つ。」と信じていました(と言うよりは信じさされていました)という状況でしたから、日本が負けたなどと口にするような者は「非国民」であるということで、殴りかかる者が居ても何の不思議もないような一種の張り詰めた雰囲気の世の中でした。
なお、戦中戦後の「思い出」の続編は期日未定ですが、次回の「デッサン」シリーズで投稿する予定にしています。(加齢雑学講座第81回)

§ 来週は「KAO」シリーズの投稿を予定しています。

「 デッサン ― 49 」

2010-08-17 07:34:58 | Weblog

§ 昨日、「tan君の行動範囲が狭くなって…。」とコメントしましたが、本日はその具体例をお示しすることとします。
現職時代の通勤時には自転車・バスを除けばその殆どは「軽4輪」を利用していましたが、退職後の平成11年4月に人生最後の車のつもりで「軽4輪」に一番近い「ヴィッツ」を購入しました。「軽4輪」よりはハイ・レベルの居住性を念頭に県外へのドライブも夢見ていましたが、残念ながら未だに県外には一歩(?)も出ておりません。現在、約11年半経過していますが、その走行距離は昨日現在、あと数十キロで38,000キロに届きますから、1年間の走行距離は約3,400キロ程度となります。その上、購入当初は健康には問題がなかった関係で県の生涯学習センターで「パソコンボランティア」活動をしていましたので、その当時はそれなりに走行距離が伸びていたであろうことを勘案すると、最近の走行距離数は微々たるものとなってしまいます。その結果、マイカーを所有していることの意味を見出すことは困難であり、自動車税・車検代・任意保険等の維持費を考えると、「ペイ」しないことだけは歴然としています。

§ 戦時中は、世の中の「働き手」が殆ど軍隊に召集されて不足していたので、確か中学2年生のときに(1日だけでしたが)生まれて初めて「勤労奉仕」に動員されました。奉仕場所は岡山駅で、仕事の内容は「米俵」を貨車から米穀倉庫まで運ぶ作業でした。貨車上の大人が2人がかりで「米俵」を1俵ずつ私達中学生の背中に載せてくれます。それを、俵の重さに耐えながら運びました。同じ学年の他の各組も「1日交代」で動員されましたが、我が校が済んだら次の中等学校等にバトンタッチしながら完了させたのではないかと思います。
当時は、お国のためにというよりは自分たちの名誉のためにという気持ちが強く働いて、組全員が心を一つにして本気で頑張ったことは今では懐かしい思い出の1つになっています。1日の終わりにあたり、運輸会社の係りの方から「今日の組はよく頑張ってくれたな。」と褒めてくださいましたが、今思えば毎日同じ台詞だったのではないでしょうか。(加齢雑学講座第80回)