The Geba Incident
The Kamakura Murders of 1864
(Major Baldwin and Lieutenant Bird)
At the end of the Tokugawa shogunate there were several incidents involving violence against foreigners, the most famous of which is the Namamugi incident. In 1864 two Britons were slashed to death at this intersection by some Japanese men.
On November 22, 1864 British cartoonist Charles Wirgman and photographer Felice Beato were in Enoshima near Fujisawa, where they met Major Baldwin and Lieutenant Bird of the British garrison in Yokohama.Wirgman invited the two men to join them, but they declined because they wanted to go and see the Kamakura Daibutsu. On November 22 the two men were sketching near Wakamiya Ōji when they were stopped and murdered by some samurai.Three men were arrested and executed for the crime, and the head of their leader was publicly displayed in Yokohama.Baldwin and Bird were laid to rest in Yokohama's Foreign Cemetery.
鎌倉事件
鎌倉でも起きていた英国士官殺傷事件
https://www.city.kamakura.kanagawa.jp/kankou/korearata-geba51200.html より部分転載
・・・元治元年(1864年)10月22日、鎌倉において外国人の殺傷事件が起こります。殺傷されたのは、横浜から遠乗りで鎌倉見物に来ていた、横浜駐屯のイギリス陸軍第二〇連隊二大隊の、ボールドウィン少佐とバード中尉の2名で、前者は即死し後者はその晩まで生きていたと記録が残っています。彼らは8月の下関砲撃事件の緊張から解放され、休暇が取れて秋の金沢、江ノ島、鎌倉見物に訪れたのではないでしょうか。
この時の二人の様子については、次のように記録されています。
幕末・明治の日本を撮った写真家F.ベアトと画家ワーグマンが江ノ島でこの二人に会って、写真を見せたり会話もしていたようです。彼らは、まだ大仏を見ていないのでと言ってベアトと別れました。(The Daily Japan Herald. Nov. 24,1864,p.626)
その後訪れた大仏の老僧の証言には、午後2時頃二人の外国人が来て、静かに大仏を見物していたとあります。(Rutherford Alcock to Earl Russell, Nov. 29,1864)
彼らが大仏を出て、金沢へ向かおうと、馬に乗って六地蔵を通り過ぎ八幡宮に通じる松並木に差しかかったとき、事件が起きます。イギリス外交文書に残っている図面(R.Alcock’s.No.98.of 1864)が『鎌倉市史 近世通史編』P694に掲載されていますが、現在の下馬四つ角北西隅の家の前に小さく二つの死体らしきものが書かれており、この二つがこの事件の被害者、二人の英国士官と考えられます。
この辺りは、八幡宮寺(Temple of Hachiman)境内の段葛が海へ続く若宮大路沿いで、当時は鎌倉10ヵ村の内大町村に属しており、偶然この場面に遭遇した11歳の子供の証言や名主や近辺の住民の調書が残っています。
少年は、二人の侍が、馬に乗ってゆっくり進んで来た最初の外国人を下から斬り付け、すごい叫び声とともに落馬するのを目の当たりにして、あまりの驚きと恐怖で、二日間食事がのどを通らなかったようです。また、午後3時半頃仕事から帰ってきた大町村の百姓が二人の外国人が倒れているのを見つけて、近くの家の者に知らせ、まだ生きている人の手当をしたと証言しており、大町村の漢方医錦織三益も呼ばれて手当をしたと証言しています。
この事件は、鶴岡八幡宮の社役人の指示で大町村の名主と年寄が相談し、年寄が夜道を歩き通して、その日の午後9時過ぎ、横浜の神奈川奉行所に伝え、翌午前1時過ぎにイギリス横浜領事に知らされました。さらに上官のイギリス公使オールコックに急報するとともに、まだ重傷の士官は生きているとの報に外科医2名、騎馬報兵隊25名、通訳を鎌倉へ派遣しました。しかし、彼らが夜明けに鎌倉に着いたときには、重傷だった士官も亡くなり、二人の遺体はムシロをかけられて横たわっていたようです。
二人の遺体は、金沢から海路横浜に運ばれ、盛大な葬儀がいとなまれ、軍艦や陸上部隊の分遣隊、非番の全士官、横浜居留民全部、数多くの日本人高官が臨席しています。日本に駐留していた外国人たちはこの事件を聞き、恐怖につつまれました。
彼ら二人は、横浜山手の外国人墓地に葬られ、今も眠っています。
山手外国人墓地二一区三五番 GEO.W.BALDWIN
同 二一区三六番 ROBERT.N.BI
The Kamakura Murders of 1864
(Major Baldwin and Lieutenant Bird)
At the end of the Tokugawa shogunate there were several incidents involving violence against foreigners, the most famous of which is the Namamugi incident. In 1864 two Britons were slashed to death at this intersection by some Japanese men.
On November 22, 1864 British cartoonist Charles Wirgman and photographer Felice Beato were in Enoshima near Fujisawa, where they met Major Baldwin and Lieutenant Bird of the British garrison in Yokohama.Wirgman invited the two men to join them, but they declined because they wanted to go and see the Kamakura Daibutsu. On November 22 the two men were sketching near Wakamiya Ōji when they were stopped and murdered by some samurai.Three men were arrested and executed for the crime, and the head of their leader was publicly displayed in Yokohama.Baldwin and Bird were laid to rest in Yokohama's Foreign Cemetery.
鎌倉事件
鎌倉でも起きていた英国士官殺傷事件
https://www.city.kamakura.kanagawa.jp/kankou/korearata-geba51200.html より部分転載
・・・元治元年(1864年)10月22日、鎌倉において外国人の殺傷事件が起こります。殺傷されたのは、横浜から遠乗りで鎌倉見物に来ていた、横浜駐屯のイギリス陸軍第二〇連隊二大隊の、ボールドウィン少佐とバード中尉の2名で、前者は即死し後者はその晩まで生きていたと記録が残っています。彼らは8月の下関砲撃事件の緊張から解放され、休暇が取れて秋の金沢、江ノ島、鎌倉見物に訪れたのではないでしょうか。
この時の二人の様子については、次のように記録されています。
幕末・明治の日本を撮った写真家F.ベアトと画家ワーグマンが江ノ島でこの二人に会って、写真を見せたり会話もしていたようです。彼らは、まだ大仏を見ていないのでと言ってベアトと別れました。(The Daily Japan Herald. Nov. 24,1864,p.626)
その後訪れた大仏の老僧の証言には、午後2時頃二人の外国人が来て、静かに大仏を見物していたとあります。(Rutherford Alcock to Earl Russell, Nov. 29,1864)
彼らが大仏を出て、金沢へ向かおうと、馬に乗って六地蔵を通り過ぎ八幡宮に通じる松並木に差しかかったとき、事件が起きます。イギリス外交文書に残っている図面(R.Alcock’s.No.98.of 1864)が『鎌倉市史 近世通史編』P694に掲載されていますが、現在の下馬四つ角北西隅の家の前に小さく二つの死体らしきものが書かれており、この二つがこの事件の被害者、二人の英国士官と考えられます。
この辺りは、八幡宮寺(Temple of Hachiman)境内の段葛が海へ続く若宮大路沿いで、当時は鎌倉10ヵ村の内大町村に属しており、偶然この場面に遭遇した11歳の子供の証言や名主や近辺の住民の調書が残っています。
少年は、二人の侍が、馬に乗ってゆっくり進んで来た最初の外国人を下から斬り付け、すごい叫び声とともに落馬するのを目の当たりにして、あまりの驚きと恐怖で、二日間食事がのどを通らなかったようです。また、午後3時半頃仕事から帰ってきた大町村の百姓が二人の外国人が倒れているのを見つけて、近くの家の者に知らせ、まだ生きている人の手当をしたと証言しており、大町村の漢方医錦織三益も呼ばれて手当をしたと証言しています。
この事件は、鶴岡八幡宮の社役人の指示で大町村の名主と年寄が相談し、年寄が夜道を歩き通して、その日の午後9時過ぎ、横浜の神奈川奉行所に伝え、翌午前1時過ぎにイギリス横浜領事に知らされました。さらに上官のイギリス公使オールコックに急報するとともに、まだ重傷の士官は生きているとの報に外科医2名、騎馬報兵隊25名、通訳を鎌倉へ派遣しました。しかし、彼らが夜明けに鎌倉に着いたときには、重傷だった士官も亡くなり、二人の遺体はムシロをかけられて横たわっていたようです。
二人の遺体は、金沢から海路横浜に運ばれ、盛大な葬儀がいとなまれ、軍艦や陸上部隊の分遣隊、非番の全士官、横浜居留民全部、数多くの日本人高官が臨席しています。日本に駐留していた外国人たちはこの事件を聞き、恐怖につつまれました。
彼ら二人は、横浜山手の外国人墓地に葬られ、今も眠っています。
山手外国人墓地二一区三五番 GEO.W.BALDWIN
同 二一区三六番 ROBERT.N.BI