えつこのマンマダイアリー

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西山美術館 ~ユトリロの世界~(2)

2007年09月09日 | アート
 「西山美術館」の2回目は、館長西山氏のギャラリートークの内容をご紹介します。


西 西

 毎週日曜日の午後に館長の西山氏によるギャラリートークが開かれ、所蔵品の解説以外にもロダンやユトリロの人物像や逸話を聞くことができます。

 ギャラリートークより先に展示と庭園を見た私...実は、西山氏にあまり良い印象を持ちませんでした。収集している高価な鯉が博覧会で取ったトロフィーなどをも展示してあるし、自宅用の畑と隣り合わせで裏庭にいる鵜骨鶏やら鯉を見て、正直なところ「成金趣味」を感じてしまっていたのです。マイセンのカップを使ったカフェしかり...。

 マイセンのカップでお茶を飲みながら、ギャラリートークを聞かずに帰ろうかとさえ思っていたところ、カフェに突然西山氏が現れました。綿のベレー帽をかぶった頭を深々と下げ、小柄で愛嬌のある、親しみやすいおじさまでした。

 その日はユトリロの解説しかありませんでしたが、「日本一の収集を誇るからには、それなりに研究したい」というだけのことはあり、ユトリロへの熱き思いが溢れた実にわかりやすく楽しい解説で、思わず引き込まれてしまいました。展示だけしか見ていなかったら、西山氏の人柄を誤解したまま帰途に着いていたかもしれません。
 
 前置きが長くなりましたが、トークの中で印象に残ったことをつれづれに綴ってみます。

ユトリロと祖母 
 後に画家として名を馳せる母、シュザンヌ・ヴァラドンが、まだドガやルノアールなどの画家のモデルをモンマルトルでしていた18歳のときに、その画家たちの誰かを父として産んだのがモーリス・ユトリロだそうです。父親がその画家たち11人のうちの誰だかはわかっていません。
 ユトリロは敬虔なクリスチャンである祖母に育てられました。その影響で、彼の絵には教会や風車のような高い建物が多く登場します。祖母が「天の神に近い場所」として、それらをユトリロに認識させていたからだそうです。
 母のヴァラドンは、ユトリロに与う限りの画材を与え続け、それが彼の才能の開花につながったのでした。  

14歳からアル中に...
 3歳頃からワインを飲み始めるというワイン王国フランスのこと、ユトリロは14歳にしてすでにアルコール依存症になってしまい、その治療のために医師に絵を描くことを奨められました。

 実は、私はユトリロについて「白の時代」のことくらいしか知らず、それこそ白紙の状態で、西山氏の解説を聞く前に作品を見ていました。で、同じ年代に描かれた絵にもかかわらず、同一人物の作品とはとても思えない画風の違い、波があることに当惑しながら、ときには混乱しながら見ておりました。躁うつの気があるのではないかと思いながら見ていたのです。
 果たして、「アルコール中毒による躁うつ病は生涯続いた」と西山氏から聞いて、溜飲が下がりました。作品の明暗の波は、病気によるものだったのですね。

病院での豪華な???生活
 アル中の治療で入院したとき、病院で出されるごく普通の食事を、「王侯貴族のような食事」とユトリロは形容しました。なんとなれば、それまで家庭では2皿以上の食事を食べたことがなかったからだとか。また、当時シーツは白と決まっていたにもかかわらず、「シーツでさえ白い」と表現したのは、一度も洗わず干さずの薄汚れたシーツで寝かされていたからだそうです。

風景画というより想像画
 全作品約2,600点のうち約2,300点が、モンマルトル周辺2キロ以内の風景を描いたものです。それらは風景画と称されることが多いのですが、西山氏によると、むしろ「想像画」だとか。写実を好まず、そのときの気分で実際にあるものを描かなかったり、逆にないものを描いたりしたからだそうです。建物の影と人物の影をわざと逆に描く、というようないたずら心も、ときには発揮したようです。
 有名な「白の時代」と称される時代は、彼の58年間の画家生活のうちのたった4年間だけ、というのも印象的でした。

ずた袋が宝物!?
 いろいろな白色を出すために、ユトリロは絵の具にさまざまな物を混ぜました。卵の黄身、くだいた貝殻、タバコの灰...どこに行くにも持ち歩いていたずた袋に、画材のために拾い集めたガラクタを入れ、ユトリロは何よりも大事にしていたそうです。

3分の1!
 ユトリロは、生涯に3つだけ花瓶に絵を描きました。1つはエジプトで保管され、1つはドイツで行方不明に...残る1つがこの西山美術館に所蔵されています。
 ただし、西山氏が手に入れた時点ですでに保管状態が悪く、絵は色褪せていて、作品そのものの価値は高くないとのこと。ただ、稀少だということですね。

ユトリロはマザコンだった!
 ユトリロは、50歳を過ぎて、13歳年上の押しかけ女房と結婚生活を始めました。ところが、ユトリロはこの妻のことを「生涯で一番嫌いな人」と言ってはばからなかったようです。ユトリロの中で理想の女性像は、生涯、母シュザンヌ・ヴァラドンだった...そう、ユトリロはマザコンだったのです。
 「悪妻」として名高い彼女は、ユトリロの名声を上げるのに貢献した反面、ユトリロの才能の芽をつんでしまうという大罪を犯した、とも言えるのだそうです。アル中で暴れるユトリロを、「絵を仕上げたら飲ませてやる」とアルコールで釣り、その結果駄作を量産させてしまったのだとか。結婚後の作品に子どもが描くような稚拙なものが多いのは、そのためなのだそうです。
 「皆さんも、ユトリロの絵を求めるときは、1933年以降の作品には気をつけた方がよろしいですよ」と、氏のトークは結ばれました。


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