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82歳からの旅

私の記録

  ̄~ 秋山 静美君に学ぶ ~

2013年02月08日 09時51分25秒 | 随筆
   2月8日 金曜日  
 
 秋山 静美君は豊津中学校を卒業後、労働基準監督局に勤務し
退職後は過疎化した村の応援団長をしている。
 彼の育った30戸余りの、小さな集落は棚田の連なる山の中腹
にある。その集落からは山道を30分も歩かないと平地にある村
の集落には辿りつきません。自転車では登れないし、バスも通ら
ないのです。
 その集落には村の小学校の分校があり、4年生までは分校で勉
強をし5年生になると本校で学びました。。
 今は村全体が過疎化して、皆町に出て住んでいます。彼は其れ
を愁いて、村の応援団を作り自ら団長になっています。
 その後は応援団の組織をつくり、棚田を守る会・伝統文化の祭
りである「松会」の応援も積極的に活動しています。
 その他色々なイベントなどもして、村起こしに取り組んでいま
す………
 本来の教育の郷土愛・祖国愛の基本の精神は彼の生き方の中にあ
ると思う。
 郷土の人たちは彼を中心にして、力を合わせて村の発展を願うべ
きだと思うのです。

 政治家は郷土愛・祖国愛の規本を理解した上で、村や町の産業の
開発をするべきです。
 こんな簡単なことが分かる、政治家はいないものでしょうか?…
淋しい日本の政治ですね?………

   ………… 未完ですがここまでで …………









    
彼は

 ~ 我が故郷 「苅田町」 人・山・川・一木・一草皆恋し ~ 人物について

2013年02月07日 18時15分34秒 | 随筆
      2月7日木曜日    
          石田 比呂志 (読売歌壇の選者)
 彼との出会い・昭和19年中学一年生の時、陸軍幼年学校受験の時最初の
出会いであった。其の時の試験会場は、京都の平安中学校であった。
 行橋駅で汽車に乗り、門司駅で九州の他の県から来た、受験生を軍が各車
両毎に纏めて引率していた。車両が門司駅を出て関門トンネルの入った。間
もなく電気の切り替えの為一時停電して後、すぐに電気がついた。
 下関駅を過ぎたころ、急に車内がざわめいて来た。 初めは何のことかは、
分からなかった。暫くして大分県の受験生と、福岡県の受験生の間でトラブ
ルがあり、石田 比呂志君が大分県の受験生を、ドスで突いたのである。
 其の時と言い、場所と言い、早業と度胸の良さに驚いた。引率の隊長からの
説明で、今から「軍隊に入るものが、日本人同士で喧嘩をしてはいけない米英
軍と戦う時にしなさい。」この時に比呂志君と出会った。
 石田君は名門豊津中学校、私は苅田中学校で「石田君の噂は、聞いては
いた」もののその後の事は殆ど知らなかった。
 ある日妹から「兄さんと幼年学校の試験に一緒だった、石田 比呂志さんの
事が新聞に出ているよ」と言って、1980年2月10日の新聞の切り抜きを
送ってくれた。
 その記事は 続・夢違庵雑記の選者として,又読売歌壇の選者である。あれ
から35年有余、石田君は相当努力したんだなあと感心した。
 昨年6月27日ミラ・モーレ行橋で、前苅田町長 沖 勝次君の旭日双光章
受賞記念の祝賀会に出席した折に 沖 ッ辺に光輝く旭日の 勝れし功 治政
に勲ると、沖 勝次の文字を入れて…石田 比呂志君の祝いの歌詞が寄せら
れていた。石田君も沖君とは、親しいのだなあと思った。
 北九州市と苅田町で進めていた、北九州空港建設の為の空港視察に、韓国
の仁川空港視察した時に,沖君の高校の仲間も数名同行して旧交を温めた。
沖君は町長を辞めてからも、ライ病の罹患者や其の家族の名誉回復の為今も
頑張っている。沖君とは進む道は違ったが、毎年行うクラス会には欠かさず
参加している。 

 今回は石田 比呂志君についての人物なり、人となりを期して……
次回は等學寺応援団長の 秋山 静美さんについて……





     









 

「本当の教育」古い記録を整理して想う

2012年11月19日 05時44分54秒 | 随筆
            11月19日月曜日    

  1000人もの大規模校の朝の職員室は、とても忙しい状況です。四月初めの授業前の朝のこと、私が職員室に入っていくと一年生の先生が電話をしている。傍で聞くとはなしに聞いていると「友達がいじめるので学校に行かない」という保護者からの電話である。 

  そんな筈はないと私は思ったので、先生に電話を切らせ、授業に行かせた。そうして直ぐにその子の家庭訪問をした。その子は母子家庭の子です、家について玄関を開けて驚きました。何と親子三人が未だ、布団の中で寝ているのです。それで母子ともに起こし、子供をみると聞くまでもなく元気でした。

 其処で先ず妹を幼稚園に送り、それから小学校に行こう誘いましたが拒否するので、止む無く道端に腰かけて話をしました。
 
 
お母さんが子供の頃に母親は、どんな事をしてくれたか聞きました。毎日の学校の弁当の事や、遠足の時のおやつなどについても聞きました。はっきりとは応えませんでしたが、その頃の母親は貧しくとも何とか子供には学校に行かせていた事は理解されました。

 そんなことを話しながら「学校だけは行かせましょう。」「私と約束をしましょう。」と言うが母親からの返事はない、いろいろなやり取りの中で「あしたは、必ず学校に行かせますか。」と言うと首を縦に振り頷きました。
   

 毎日学校に行かせる約束出来ない、母親の気持ちが分かるような気がした。明日一日学校に行かせる約束が出来たので、母親と別れ児童を連れて学校は帰りました。

 五年生の児童が病気で欠席すると言う電話、これも私が家庭訪問に直ぐ行きました。(この子の場合以前何回かかかわっていたので、ピーンときました。) すると五年生の児童は家で元気で弟の守をしています。子供に問いただすと返事があいまいでした。
 

 其処で弟も車に乗せて、一緒に母親を探しに行きました。子供は知っていると思いました、いましたいましたA店にいました。弟を母親に渡して兄を学校に連れて帰りました。

 
 こんな親達の現状に接して、私はとても辛い思いになります。貧困で救いようのない母子家庭、自分の趣味や遊びの為に子供を犠牲にする不届な親たち。子供の教育権が親の無理解の為に、握り潰されているのです。こんなことは絶対に許されないことです、憲法に書いています断じて許してはいけません。

 小さな問題でも午前中から・そして午後は良く校区内に出回り色々な人と話をしました。校区の人は私が校区内を回っていると、何かあったんだと直ぐ分かります。
 もう古い古い記憶ですし今校長は、こんなのんびりした事はとても出来ないでしょう。

 こんな事をしていると他に多くの大事な仕事があって、処理出来なくてお手上げでしょう。その代りが出来る人を是非校内に、配置して欲しいと思います。


 「環境は人をつくる」とか「朱に交われば赤くなる」の諺のごとく、こんな事例がほかにもいくらでもあるのです。
 
 此処には子育てに無理解な親の教育問題、親戚や友人とこれから目を反らす今の地域社会・社会教育の問題・等々の問題の解決が先ずなされるべきです。こんな問題から目を反らして、いじめ問題等だけを取り上げても、本質的な解決はなされ無いと思います。

 視野の狭い「浅学菲才」な一教育者の僅かな経験をもとにした、独断と偏見を一つの私見としてお聞きください。

 ある日六年生の保護者が、児童を伴って相談に来ました。それで話を聞いてみると「五年生の児童から、殴られたので仕返しをしていいか」と言う六年生からの相談である。

 これを放置すると、殴られた児童は目に見えない侮辱を受ける・又は一種の「いじめ」に進む事も考えられる。それを阻止する為の相談である。其の訳は「五年生から殴られる」と言う事は六年生にとって侮辱である。若しこれが皆に知れ渡ったら、下級生からも舐められるわけである。

 これは体験した人にだけ,分かる惨めさである。其処で両方の担任を読んで其の対処について話し合った。その結果五年生の児童を読んで継続して指導することにした。

 此の問題は指導者が,六年生の児童の気持ちを,「どの様に理解し把握しているか」によって対応の仕方が変わるのである。

 教師たるべきは、弱い立場の人の気持ちを速やかに、しかも適格に把握することが出来なければならない。その上に立って指導を適切に行う事である。いじめは、「体の大小や、見かけの柔軟に非ず」見えない心の世界を見抜く慧眼が必要である。
 
 心の世界を見抜く慧眼のない教師には「いじめ」を防ぐ事は出来ない。まして事件が浮上したのに、指導者の側が「いじめではない」と勝手な判断をして対処しない事は「教育を放棄することである」これは教育以前の問題であると私は考える。