竹島研究室

竹島問題を研究する。

韓国海洋水産開発院:海洋水産動向1260号「「石島」は「独島」だ」(8)

2008-07-13 09:31:02 | 韓国海洋水産開発院
7.今後記事が出るようになった経緯の研究が必要

 独島を示す呼称で旧韓国末までずっと登場したのは于山島だった。これは皇城新聞の 1899年記事でも証明される。皇城新聞 9月23日付記事には「蔚珍の東海に一島があり、鬱陵と言う。その付属した六個の島のなかで一番目立つのは于山島と竹島で、「大韓地誌」で鬱陵島は昔の于山国と言った」と言った。ここで竹島は今日の竹嶼で、于山島は独島を示すことが分かる。またこの時だけでも相変わらず于山島が登場していた。ところでどんな理由で一年もならない勅令41号には于山島の代わりに石島が登場するようになったのだろうか?
 その間文献では于山島が一貫するように登場した。1882年高宗が李奎遠と対話を交わす時も于山島が登場したし、1899年の「輿載撮要」にも于山島が登場した。そうであったのが 1年で「于山島」は影をひそめて代わりに「石島」が登場した。これは 1899年と1900年の間に于山島に対する認識上の変化が生じたとかそれとも他の重大な歴史的変化があったということを示している。ところでこの時期にあった鬱陵島関連事件や変化を見ようとすると、1899年末から 1900年 5月にわたって論議された鬱陵島官制改編とそれによる 6月の禹用鼎の現地調査が目立つだけで他の事件はなかった。したがって「于山島」が「石島」に変わるようになった過程にはたぶん禹用鼎の報告が影響を及ぼしたはずだと推定するしかない。
 勅令でドルソムは石島と表記したが、こうした呼称が現地でもそのまま使われたわけはない。むしろドルソムないしドクソムという呼称が勅令発布後にもそのまま使われた可能性が高い。現地住民が石島と称しなかったのはその後沈興澤が「本郡所属独島」と言うことでも立証されるのに、沈興澤の「独島」呼称は石島という呼称が 1900年以後ずっと使われていなかったことを示す事例だ。
独立新聞や皇城新聞は 1890年代の末、鬱陵島で行われる日本人による不法伐木とロシア軍艦の鬱陵島寄港及び測量、島監季周による日本での裁判などに対して持続的に関心を持って報道していた。そうするうちに 1900年 7月に不意に統監府と内部の間の仕事を報道しながら勅令 41号にはない距離関係を言及した。しかしこうした記事が出るようになった背景が明らかではない。禹用鼎の記録で石島に対する言及が一つでもあったら、皇城新聞の記事は今どんな問題にもならない。日本の主張は皇城新聞記事に対する解釈の間違いに起因すると考えられるが、あとこうした事がないためにも石島に関する史料を持続的に発掘する必要がある。そして皇城新聞記事が出た時期を前後して関連する他の記録も発掘することでこの記事が出るようになった背景を明らかにしなければならないだろう。


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