竹島研究室

竹島問題を研究する。

●本邦初公開(8-2)!19世紀以後成立の歴史地図『新羅』:鬱陵島のみ、独島は含まず

2008-07-27 23:42:10 | ●本邦初公開!
●本邦初公開(8-2)!19世紀以後成立の歴史地図『新羅』:鬱陵島のみ、独島は含まず
 ●19世紀以後成立『新羅』
 ●所蔵:嶺南大学校博物館
 ●嶺南大学校博物館編『韓国の古地図 図版篇』所収
 ●注目点
   『新羅』は朝鮮半島の歴史地図『沿革図七幅』の中の1幅である。
   他に、『檀箕以後諸古國』、『渤海(附女眞)』、『百済』、
   『高句麗』、『新羅 景徳王 九州』、『高麗郡邑』の地図がある。

   この地図は新羅時代の歴史地図である。

   朝鮮半島の東側に1島描かれている。
   これは現在の鬱陵島である。

   さらに東側には島が描かれていない。鬱陵島から90km南東に離れた
   独島は描かれていないのである。

   したがって、この地図の作者は、新羅の領域として、
   鬱陵島を地理的に認識しており、独島は地理的に
   認識していないことが明白である。つまり、新羅の領域に
   独島が含まれるという主張は、完全に間違いであるといえる。


●本邦初公開(12)! 1894年『朝鮮地名案内』「于山島:蔚陵島ノ近傍」すなわち=竹嶼≠独島

2008-07-21 22:21:43 | ●本邦初公開!
●本邦初公開(12)! 1894年『朝鮮地名案内』「于山島:蔚陵島ノ近傍」すなわち=竹嶼≠独島
 ●1894年三橋僊史著『朝鮮地名案内』所収
 ●『韓国地理風俗誌叢書』(222巻)で復刻
 ●注目点
   『朝鮮地名案内』は、1894年(明治27)三橋僊史が書いた朝鮮の地名
   辞典である。
 
   鬱陵島、于山島の記載は以下のようにある。
------------------------------------------------------------------------
   蔚陵島 朝鮮ノ東海岸ニアリ

   于山島 朝鮮ノ東方 蔚陵島ノ近傍
------------------------------------------------------------------------

   于山島は「蔚陵島の近傍」とあるので、鬱陵島から約90km離れた現在の竹
   島ではなく、鬱陵島の東2kmにある竹嶼(韓国名竹島=チクトウ)である
   ということで間違いないといえる。

   つまり、『朝鮮地誌略』と同様に、文献の上からも、韓国側の主張、于山島
   は独島であるという主張は、読み取れないといえる。

●本邦初公開(11)! 1888年『朝鮮地誌略』「于山島:鬱陵島ニ隣ス」すなわち=竹嶼≠独島

2008-07-20 23:17:06 | ●本邦初公開!
●本邦初公開(11)! 1888年『朝鮮地誌略』「于山島:鬱陵島ニ隣ス」すなわち=竹嶼≠独島
 ●1888年陸軍参謀本部刊行『朝鮮地誌略』所収(江原道之部)
 ●『韓国地理風俗誌叢書』(102-104巻)で復刻
 ●注目点
   『朝鮮地誌略』は、1888年(明治21)陸軍参謀本部が刊行した文献である。
   解題をみると、編さんの際に『東国文献備考』や『新増東国輿地勝覧』な
   ど各種文献を参考にしたようである。

   「江原道之部」蔚珍県の項目に鬱陵島の記載がある。

   于山島の記載はただ「鬱陵島ニ隣ス」とあるだけである。つまり、于
   山島は鬱陵島に隣接しているとあることから、90kmも離れた独島であ
   るはずがなく、東側2kmに位置する竹嶼(韓国名竹島=チクトウ)で
   あることが確実である。

   またその一方で、鬱陵島の項目に終わりには、「于山、鬱陵、本ト一
   島タリト云フ」ともあることから、鬱陵島と于山島が同じ島、すなわ
   ち、鬱陵島であったという説も載せている。

   つまり、文献の上からも、韓国側の主張、于山島は独島であるという
   主張は、読み取れないといえる。


●本邦初公開(10)! 19世紀後半作製朝鮮地図「八道全図」:対馬は日本領、于山島=竹嶼≠独島

2008-07-16 22:02:03 | ●本邦初公開!
●本邦初公開(10)! 19世紀後半作製朝鮮図「八道全図」:対馬は日本領、于山島=竹嶼≠独島
 ●19世紀後半作製『道里図標』所収「八道全図」
 ●所蔵:嶺南大学校博物館
 ●嶺南大学校博物館編『韓国の古地図 図版篇』所収
 ●注目点
   この朝鮮地図「八道全図」は19世紀後半に作製された『道里図標』に収録さ
   れたものである。「八道全図」のほかに、各道の主要地点間の距離が書かれている。
   
   「八道全図」には、朝鮮半島の南側にわが国の対馬が「対馬島」と書かれて
   いる。韓国側は、各種の八道図に対馬島が記載されていることをもって、
   対馬がかつて朝鮮に属していたと主張している。しかしながら、この地図に
   おいては、対馬島の北に「日本界」とある。つまり、対馬と朝鮮半島の間に
   国境があることが分かる。したがって、対馬は日本に属していたことは、朝
   鮮側で作製された地図でも明白に確認できるのであり、八道図の記載をもっ
   て、対馬が朝鮮に属するという主張は全く根拠がないことが確認できる。

   また、朝鮮半島の東側に2島描かれている。
   そのうち西の島には、鬱陵島であり、東の島は于山島とある。
   韓国側は、この于山島こそ、独島であると主張しているが、
   その位置をみると、鬱陵島に近接していることから、鬱陵島
   の東に隣接する竹嶼(韓国名竹島=チクトウ)であること
   は明白である。鬱陵島から90km南東に離れた独島は描かれ
   ていないのである。つまり、独島は朝鮮王朝の領域には属
   していなかったのである。

   なお、鬱陵島の下には、鬱陵島の説明が記載され、かつて
   于山国であったことなどが記されているが、独島のことは
   一言も触れられていない。つまり、独島は地理的に認識し
   ていないのである。

   したがって、この地図から、対馬島も独島も朝鮮領でないこ
   とが明らかであり、両島を朝鮮領とする主張は、完全に間違
   いであるといえる。

●本邦初公開(9)! 18世紀以後編さん官撰地誌「三陟府邑誌」鬱陵島のみ、独島は含まず

2008-07-15 00:00:37 | ●本邦初公開!
●本邦初公開! 18世紀以後編さん官製地誌「三陟府邑誌」鬱陵島のみ、独島は含まず
 ●18世紀以後成立「三陟府邑誌」
 ●所蔵:ソウル大学校 奎章閣所蔵
 ●注目点 
   「三陟府邑誌」は18世紀以後に編纂されたと推定される
   江原道三陟府の地誌である。編者は三陟府であることから、
   官撰地誌である。

   朝鮮時代後期、江原道の三陟鎮営使道と越松万戸が3年に
   1回ずつ鬱陵島を捜討していた。

   島嶼の項目に、鬱陵島の記載がある。
   本文は、『新増東国輿地勝覧』からの引用で、内容はほぼ同じ
   である。
   
   しかしながら、韓国側が独島と主張する于山島のことは記され
   ていない。東の海には二島あることが書かれているものの、
   島は蔚珍から見えると書かれている。それは鬱陵島だけである。
   つまり、18世紀以後、江原道の三陟府の地理的認識は、当時朝
   鮮王朝が支配していたのは鬱陵島までであり、独島は含まれて
   いなかったことが分かる。

●本邦初公開(8)!19世紀以後『檀箕以後諸古國』:于山國=鬱陵島と竹嶼のみ、独島は含まず

2008-07-13 22:03:25 | ●本邦初公開!
●本邦初公開(8)!19世紀以後『檀箕以後諸古國』:于山國=鬱陵島と竹嶼のみ、独島は含まず
 ●19世紀以後成立『檀箕以後諸古國』
 ●所蔵:嶺南大学校博物館
 ●嶺南大学校博物館編『韓国の古地図 図版篇』所収
 ●注目点
   『檀箕以後諸古國』は朝鮮半島の歴史地図『沿革図七幅』の中の1幅で
   ある。他に、『渤海(附女眞)』、『百済』、『高句麗』、『新羅』、
   『新羅 景徳王 九州』、『高麗郡邑』の地図がある。

   朝鮮半島の東側に2島描かれている。
   そのうち西の島には、「于山國 欝陵島」とあり、現在の
   鬱陵島であることが分かる。

   さらに東の島は、鬱陵島に近接していることから、鬱陵島
   の東に隣接する竹嶼(韓国名竹島=チクトウ)であること
   は明白である。鬱陵島から90km南東に離れた独島は描かれ
   ていない。

   したがって、この地図の作者は、于山國の領域として、
   鬱陵島と竹嶼と地理的に認識しており、独島は地理的に
   認識していないことが明白である。つまり、于山國の領域に
   独島が含まれるという主張は、完全に間違いであるといえる。


●本邦初公開(7)! 18世紀中期官撰地誌『輿地図書』:鬱陵島のみ、独島は含まず

2008-07-12 16:36:16 | ●本邦初公開!
●本邦初公開! 18世紀中期官撰地誌『輿地図書』:鬱陵島のみ、独島は含まず
 ●18世紀中期編集『輿地図書』:江原道蔚珍縣
 ●所蔵:韓国教会史研究所
 ●注目点
   『輿地図書』の各邑邑誌には彩色地図が収録されている。
   鬱陵島は、江原道蔚珍縣に属していた。
   蔚珍縣の地図には、朝鮮半島の東側に「欝陵島」が記されている。しかしな
   がら独島は書かれていない。本文(江原道三陟府)には「云于山欝陵一島」
   とあり、鬱陵島と于山島は同一の島としている。つまり、18世紀中期朝鮮
   王朝では、鬱陵島=于山島と地理的に認識しており、独島は認識していな
   かったことが分かる。

●本邦初公開(6)! 18世紀中期官撰地誌『輿地図書』:于山島=鬱陵島、于山島≠独島

2008-07-12 16:26:20 | ●本邦初公開!
●本邦初公開! 18世紀中期官撰地誌『輿地図書』:于山島=鬱陵島、于山島≠独島
 ●18世紀中期編集『輿地図書』:江原道三陟府
 ●所蔵:韓国教会史研究所
 ●『輿地図書』とは 
   『輿地図書』は朝鮮後期英祖の時全国各邑で編纂した邑誌を集めて総合、
   整理した邑誌である。295個の邑誌と 17個の営誌及び 1個の鎭誌など計
   313個の地誌を収録している。1757年洪良漢の奏逹がきっかけになって王
   命によって弘文官で八道監司に人を下げて各邑で邑誌をあげて送るよう
   にして編纂が成り立った。編纂目的は、編成されてから 270余年が経った
   《新増東国輿地勝覧》を直して続成しようとするところにあった。体制上
   注目される点は坊里·道路·賦税に関する多くの条項と各邑邑誌の書き起こ
   しに収録された彩色地図だ。また一つの変化は新設された項目である道路
   だ。これは当時社会で商業の発達といっしょに道路の大切さが大きくなっ
   て地域間の交流が増大されたことを現わす。このほかにこの本は共時的記
   録という点に意義があり、18世紀中葉の地方社会を全国的に理解するのに
   重要な資料になる。全55冊。結冊年代は英祖40年代(1763~)とされる。
 ●注目点
   鬱陵島の説明は、江原道三陟府の項目にある。
   本文には「云于山欝陵一島」とあり、鬱陵島と于山島が同一の島であると
   している。また鬱陵島の説明には、太宗の時の金麟雨による島民刷還につ
   いて触れられている。つまり、18世紀中期朝鮮王朝では、鬱陵島=于山島
   と地理的に認識しており、独島は認識していなかったことが分かる。

●本邦初公開(5)! 1872年官製地図「三陟鎮営地図」鬱陵島のみ、独島は含まず

2008-07-11 00:31:25 | ●本邦初公開!
●本邦初公開! 1872年官製地図「三陟鎮営地図」鬱陵島のみ、独島は含まず
 ●1872年編集「三陟鎮営地図」(拡大図)
 ●所蔵:ソウル大学校 奎章閣所蔵
 ●注目点 
   「三陟鎮営地図」は1872年に編集された官製地図である。
   朝鮮時代後期、江原道の三陟鎮営使道と越松万戸が3年に
   1回ずつ鬱陵島を捜討していた。
   地図には鬱陵島に「欝陵島 自鎮水路千里」(欝陵島は三陟鎮営
   より水路千里にある)とある。
   この地図でも、朝鮮半島の東側に鬱陵島が記されているが、
   韓国側が独島と主張する于山島は記されていない。
   つまり、1872年当時朝鮮王朝が支配していたのは鬱陵島まで
   であり、独島は含まれていないことが分かる。

●本邦初公開(4)! 1872年官製地図「三陟府地図」鬱陵島のみ、独島は含まず

2008-07-11 00:21:17 | ●本邦初公開!
●本邦初公開! 1872年官製地図「三陟府地図」鬱陵島のみ、独島は含まず
 ●1872年編集「三陟府地図」(拡大図)
 ●所蔵:ソウル大学校 奎章閣所蔵
 ●注目点 
   「三陟府地図」は1872年に編集された官製地図である。
   朝鮮時代後期、江原道の三陟鎮営使道と越松万戸が3年に
   1回ずつ鬱陵島を捜討していた。
   この地図でも、朝鮮半島の東側に鬱陵島が記されているが、
   韓国側が独島と主張する于山島は記されていない。
   つまり、1872年当時朝鮮王朝が支配していたのは鬱陵島まで
   であり、独島は含まれていないことが分かる。

●本邦初公開(3-2)! 1872年官製地図「蔚珍縣地図」鬱陵島のみ、独島は含まず(2)

2008-07-11 00:01:28 | ●本邦初公開!
●本邦初公開! 1872年官製地図「蔚珍縣地図」鬱陵島のみ、独島は含まず(2)
 ●1872年編集「蔚珍縣地図」(拡大図)
 ●所蔵:ソウル大学校 奎章閣所蔵
 ●注目点 
   鬱陵島に「欝陵島 東距水路 千餘里」とある。
   韓国側が独島と主張する于山島は記されていない。
   つまり、1872年当時朝鮮王朝が支配していたのは鬱陵島まで
   であり、独島は含まれていないことが分かる。

●本邦初公開(3-1)! 1872年官製地図「蔚珍縣地図」鬱陵島のみ、独島は含まず(1)

2008-07-10 23:53:26 | ●本邦初公開!
●本邦初公開! 1872年官製地図「蔚珍縣地図」鬱陵島のみ、独島は含まず(1)
 ●1872年編集「蔚珍縣地図」(全体図)
 ●所蔵:ソウル大学校 奎章閣所蔵
 ●注目点 
   「蔚珍縣地図」は1872年に編集された官製地図である。
   鬱陵島は江原道蔚珍の管轄下にあった。
   地図には、朝鮮半島の東側に鬱陵島が記されている。
   しかしながら、韓国側が独島と主張する于山島は記されていない。
   したがって、1872年当時朝鮮王朝が支配していたのは鬱陵島まで
   であり、独島は含まれていないことが分かる。朝鮮王朝の官撰地
   図には1枚も独島が描かれた地図はない。つまり、独島は地理的
   に認識されていないのである。

●本邦初公開(2)! 新羅眞興王10年于山県設置の件:于山県は鬱陵島のみ、独島は含まず!

2008-07-06 23:22:20 | ●本邦初公開!
●本邦初公開! 新羅眞興王10年于山県設置:于山県は鬱陵島のみ、独島は含まず

 ●1959年刊行『江原道誌』上巻 pp.24-25
 ●内容「蔚珍郡沿革」
 ●注目点 「于山県(鬱陵島)」
   新羅第24代の眞興王10年(549年)に蔚珍郡管下に5県を配置したとある。
   その5県のなかに、于山県があり、それは鬱陵島のことと記してある。
   独島のことは全く触れてない。つまり、編者(『江原道誌』の編者)は
   于山(県)=鬱陵島と明確に認識しており、独島は含んでいないと認識
   していたといえる。韓国側は独島は鬱陵島に付属する島と主張している
   が、そのような記載はこの史料に一切みられない。したがって、韓国側
   の主張、独島が西暦512年から韓国領土というのは、史料に立脚しない
   主張であり、戦後新たにつくられたストーリーだといえる。


 

●本邦初公開(1)! 「江原道古地図」:朝鮮半島から竹島は見えない!

2008-07-05 22:56:09 | ●本邦初公開!
 ●1959年刊行『江原道誌』上巻の冒頭に収録
 ●絵図名:「江原道古地図」(朝鮮時代後期の絵図と推定される)
 ●所蔵:文学博士李丙氏
 ●注目点
   朝鮮半島の東側の日本海に、鬱陵島于山島の記載がある。
   以下のような記述がある。 
  「鬱陵于山両島 天気清明蔚三両地登高皆見」
  これは、すなわち、「鬱陵于山両島は天気清明である時、蔚珍・三陟の両地
  から高く登ると皆見ることができる」という意味になる。したがって韓国
  側の主張、「鬱陵于山両島は互いに天気清明な時に見える」という解釈は
  この絵図によって明確に否定される。つまり、鬱陵于山両島は朝鮮半島の
  東側に位置する蔚珍・三陟の両地から天気がよい時に見えるのであって、
  そのような島は現在の竹島ではなく、現在の鬱陵島しかないのである。