郷土の歴史と古城巡り

夏草や兵どもが夢の跡

播磨 中道子山城跡

2020-04-04 08:46:24 | 城跡巡り
【閲覧数】4,707 (2013.1.21~2019.10.31) 
 


 
▼中道子山城全景(西より)              




播磨 中道子山城跡のこと   加古川市志方町岡

 中道子山(ちゅうどうしさん)城は、標高271.5mの地元では城山、ちゅうどうすさんとも呼ばれている山頂部にある。多くの曲輪群・土塁・堀切を備えた東播磨では中世の代表的な山城である。
 西山麓に安楽寺があり、その寺記には、弘仁2年(811)、弘法太師の弟子真紹(しんしょう)上人の開山で無量寿院を創設したのに始まり、本光山中道寺と改号し、赤松氏則が城を築く際、山麓に移されたとある。 「志方荘園古城図附註」には「城は至徳年間(1384〜1386)赤松円心の4男※氏則(範)が築城を始めたとある。しかし、赤松氏則(繁)の死亡は元中3年(1386)であることがわかっているので、もし氏則が築城したのであれば、これ以前となる。ただその頃は、南北朝時代(1336〜92)にあって、山岳の寺院を軍事施設に使ったとしても、城としての普請工事はしていなかったのではないかと言われている。
 
 文献上に登場するのは、中道子山城の城主は孝橋(たかはし)繁廣。以下繁景・景頼・秀光・秀時・時尚・尚秀と続いた。「中道子城 印南郡志方ノ庄岡村 城主ハ赤松新五郎繁廣築キ給フ也、父ハ刑部小輔則繁と号ス」(播陽古城記)とあり「赤松播備作城記」「播磨鑑」にも同様の記述がある。
 城主の孝橋繁廣は赤松則祐の孫満政の三男満直で、則繁の養子に入りその跡を継ぎ孝橋繁廣に改めている。
 嘉吉の乱のあと、一旦は中道子山城は失われ、応仁・文明の乱で、赤松政則が赤松家を再興したが、そのとき従軍したのが孝橋繁廣であり、中道子山城に戻ったとされる。
 その後、赤松の重臣であった浦上の台頭、尼子氏の侵攻、摂津の三次長慶(ながよし)と城主代々にわたって争いが東播周辺で繰り広げられ、羽柴秀吉によって制圧されるまで続いた。
 ・参考 「日本城郭大系」・「ひょうごの城紀行」他

▼赤松氏系図(抜粋)



◆赤松氏則(氏繁)のこと 
 
 氏則(繁)は赤松則村(円心)の四男で、所領は播磨加古郡・印南郡・明石郡他があった。南北朝の時代には父兄に反して終始南朝(宮方)についていた。その後、元中(至徳)3年(1386)に摂津中嶋で反乱を起こし、足利義満の命により実兄の則祐と、従兄弟の光範(摂津守護)の追討を受け、播磨加東郡の清水寺で一族郎党自害し果てた。
 氏則は中道子山城の西にある天神山城(志方町西飯坂)を築いたが、氏則死後は赤松家臣の櫛橋(くしはし)氏が城を守り、その後水の確保が難しいことから、志方城(志方町)に移ったという。
 ちなみに安楽寺は赤松氏の没落後志方城の櫛橋氏によって浄土宗寺院として再建されたと伝えられている。
 
▼天神山城(中道子山城の西)
 
 

◆赤松(孝橋)則繁のこと

 善坊山城主(加西市)則繁は、赤松満祐とはかり、将軍足利義教を殺害した(嘉吉の乱)。赤松居城城山城(たつの市)で一族は自刃し、赤松は没落した。
 
▼縄張図(案内板の図を着色・加筆)



 
アクセス

                             
 
▼中道山城周辺マップ                



▼昭和36年(1961)の航空写真(国土交通省)



 
 志方東小学校から南を進み安楽寺の近くのバス停城山前に案内板があり、山麓に向かって少し進むと、右手に駐車場がある。ここから、舗装された道があるが通常車の乗り入れができない。ここから徒歩で歩くことになる。
 


▼バス停「城山前」近くの案内板           


▼登山入口(舗装道路の入口)




▼少し歩くと関西電力の反射板が見える
 
 10分ほど歩くと、左斜面に毘沙門岩があり、ここからが城山旧道で0.6km、道路で1kmの表示がある。塗装道路を通れば、距離は長くなるが歩きやすい。今回は道路を歩くことにした。
 


▼巨大な毘沙門岩  

                  
▼毘沙門岩横が旧登山道入口  
 


▼旧道 ここから0.6km、途中からクサリ場コースもある

 
 塗装道路は南側の景色が所々から望める。道路の最終地点からは、ややきつい階段を登ることになる。
 

▼塗装道路の終点                  




▼ここから階段がつづく        


▼登山道(遊歩道)からの景色           


▼登山道の終わり 

 


 登山道が終わると、いよいよ城域に入り、正面には大手門跡、右上には、大きく切岸された曲輪が出迎えてくれる。その先に石垣が見える。最初の櫓門(やぐらもん)のあった櫓台だ。
  


▼大手門跡                    


▼最初の大きな曲輪 二の丸                    
 


▼道が上につづく                 



▼二の丸 (反射板がある)     
 
                       
▼櫓門跡                                                



▼櫓台の石垣

                        

 
  さらに登っていくと大きな曲輪(城山公園)の下を抜け、奥まで進むともう一つの櫓門跡がある。
 


▼左に入れば城山公園                 



▼もう一つの櫓門跡
  


 
 櫓門を抜けると、太師堂があり、その左に空堀がある。右の城門跡の石階段を進む。左横には、2m近くの土塁に囲まれた窪状の曲輪跡がある。米倉跡である。なぜ米倉なのかといえば、ここで、焼米が見つかったというのである。
 



▼太師堂の横の空堀                 



▼城門跡 石階段がある



▼高い土塁に覆われた米倉跡                            



▼本丸虎口


 
 このとなりの土塁の間の先がこの城の最頂部。もっとも広い曲輪を有する本丸だ。東西に約50m、南北30mの広さをもつ。北側には風よけであろうが周囲に40cm〜50cmの土塁が巡らされている。本丸の東から南のパノラマ状にひろがる展望がすばらしく、加古川の北部旧印南郡が見渡せる。山間部に水を満々とたたえた権現ダムや南の山並みの先に播磨灘が太陽の光に反射してキラキラと輝いているのがよく見える。本丸周辺には多くの桜が植えられており、春の桜の時期は大勢の人が花見にやってくるのだろう。
 
▼本丸(虎口から東方面)

 


▼本丸から東・南方面のパノラマ

 
 
 
 
太師堂がある裏手に降りると、井戸跡がある。周りはフェンスで囲まれていて覗くことはできないが、この井戸は今も水を湛えているという。
 


お堂の裏の曲輪に掘られた井戸跡 井戸は今も水をたたえている
 
      


城山公園の周囲と三の丸に向かう周辺には、四国88箇所巡りに見立て霊場として石像が数多く並べられている。
 
▼城山公園                    



▼城山公園の次の曲輪
 
 
 三の丸の北側に石垣が組まれた城門(搦手門)跡がある。その先に堀切が2つある。最初の堀切は天然の岩や傾斜をうまく利用した大きなもので、その先にもあり2つの堀切で西尾根筋からの侵入を塞いでいる。
 
 ▼城門(搦手門)跡                



▼東側の堀切

 
 一通り城域をぐるりと歩き、元の大手門跡まで帰り、大手門跡の南東部の平坦部にはパラグライダーの発着場があった。西方面が一望できる見晴らしのよい崖上にある。おそらくこの辺に見張り台があったのだろう。
 
 帰りのコースは大手門より、旧登山道と書かれた大手道を下っていった。途中、右手に2つ並びの大岩があった。その近くに小毘沙門岩の案内板があったのでコースを外れ覗いてみる。急斜面にロープや鎖が用意され小毘沙門岩にたどり着くことができた。
 
▼小毘沙門岩の表示                  


▼小毘沙門岩

 


 そうして元に戻り、舗装道に合流した。この舗装道路に旧道が切られてしまっているが、この舗装道の南に旧道がある。この道は、中才公会堂に続く。


 
 
▼旧道が舗装道で分断                



▼旧登山口

 

雑 感
 
 はじめて東播磨の加古川市志方町にやってきて、この城に出合った。城の構造や展望のよさは、東播磨の中世を代表するすばらしい城跡だという印象をもった。代々の城主は赤松再興の後尼子との抗争、赤松家臣浦上の台頭、摂津の実力者三次との抗争が繰り広げられ、秀吉の制圧まで続いている。城の遺跡に焼け跡が残っており、それは浦上との抗争によるものではないかと言われている。
 古代寺院の中道寺以外にも円満寺という寺があったが、廃寺となったという。安楽寺の近くの道沿いに大きな五輪塔や地蔵、いくつかの五輪が祀られている一角があり、城の興亡に何らかの関係があったのではないかと想像を膨らました。
 赤松惣領家の権威が失われていく中で東播磨で惣領家を支え消え去った孝橋氏・櫛橋氏の足跡が赤松東播磨周辺でつかめたのが収穫であった。
 

▼安楽寺                                                


▼安楽寺の近くの五輪塔・地蔵  



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