史記 平凡社発行中巻p335
令尹子蘭は、屈原が自分を憎んでいると聞いて大いに怒り、上官大夫に、屈原について頃襄王に誹謗させた。頃襄王は怒って、屈原を流罪にした。屈原は揚子江岸に着いて、ざんばら髪のまま、沢のほとりを沈吟しながら歩いていた。顔色はやつれて、身体づきは枯れ木のように痩せていた。漁夫が見かけて問うた。
「あなたは三閭大夫(楚の王族を司る官 屈原はかつてこの官についていた)ではありませんか。どうして、こんなところに来られたのですか。」
屈原は言った。
「世の中すべてが濁っていて、私だけが澄んでいる。衆人が皆酔っていて、私だけが醒めている。だから放逐されたのだ」
「そもそも聖人は、物事にこだわらず、世の中とともに推移するのです。世の中すべてが濁っているのでしたら、どうして、その濁流に身をまかせて、濁った波をあげないのですか。衆人が皆酔っているのでしたら、どうして、その糟(さけかす)を食べ、そのうわずみをすすって、共に酔わないのですか。なに故に、珠ともまごうすぐれた才能をいだきながら、自分から放逐されるようなことをなさるのですか」
「聞くところによれば、『新たに頭髪を洗うものは、必ず冠をはじいて塵をはらってからかぶり、新たに入浴するものは、必ず服をふって埃をはらってから着る』とのことだ。誰が清潔の身に汚れた埃など受けようか。それよりも揚子江の流れに身を投げて、魚の腹中に葬られた方がましだ。皓々(こうこう)と潔白な身に、世俗のどす黒い塵埃など蒙ることができようか」
そこで、屈原は「懐沙の賦」(かいさ のふ 沙石をいだいて投身するの賦)をつくった。その辞にいう
「陽気さかんなる初夏
草木はおどろに茂る
わが心いたみて 絶えず悲しみ
南の土地へと急ぐ
瞬きてよく見れど 谷は冥く(くらく)
ひたと静もりて音も無し
心ふさぎて もだえいたみ
禍のいたりて 長く窮す
情(こころ)をなだめて 志を見定め
むりやりに みずから抑えぬ
角なるをけずりて、円やかになすも
定まれる法度は すつるによしなし
初めの道を易えなんは
これ 君子のいやしむところ
計画して墨ひくに
はじめの道を改めず
心なおく性敦厚(さが あつ)きを
大人たたえてやまず
腕利きの匠とて 細工せずば
たれか尺度の正気を知らん
黒き模様の暗処にあれば
盲人は言わん 模様なしと
かの離婁(りる 昔の視力にすぐれたひと)眼をほそめて流し目すれば
彼も盲者と 盲人は思わん
白を変じて黒となし
上をさかしまにして下となす
鳳皇(おおとり)は籠中にあり
雛・雉は空を翔け舞う
玉と石とをつきまぜて
一升に ともに量る
かの党人の賤しくかたくなにして
ああ わが抱く宝を知らざる
荷は重く 載せたるは多く
車落ち込みて動かず
瑾(きん)をいだきて瑜(ゆ)をにぎれども
窮しては誰にか示さん
村犬の群れて吠ゆるは
怪しむとろこを吠ゆるなり
俊れたるを誹り傑(たかき)を疑うは
凡人の常態(つね)なり
外を飾らず質朴なれば
衆人はわが異彩を知らず
削らぬままに材木の多ければ
わが才能を知る人ぞなき
仁をかさね義をかさね
慎みて徳を豊かになせど
かの重華(舜)に逢うことのなくんば
たれか我が本来を知らん
聖君と賢臣 古き世にも並ばぬあれど
そも何故なるやを知らず
湯王・禹王は はるけき昔
漠として慕うによしなし
恨みをとどめ怒りを改め
こころに抑えてみずからつとめ
憂患あれども心動かず
後の世の範とならばや
路を進みて北に宿れば
日は暗くして いま暮れなんとす
憂哀はあれども 口にはいださず
きたるべき死をば待たなん
乱(むすびの歌)に言う
広大なる沅(げん)・湘(しょう)の水
別れ流れて速やかなり
はるけき路 草に覆われ
ゆくては見えず
吟詠してつねに悲しみ
嘆きてやまざること久しきも
世人すでにわが心を知る無く
説くに術なし
真心と素朴な性質をいだけども
証を立てんよしもなし
伯楽のすでに死しては
駿馬の力 たれか量らん
人の生まるるや天命をうけ
おのおの定めに安んずるあり
心根しかと志を広め
われ また などて畏懼(おそれ)れん
されど かさねて傷み哀しみて
長嘆息の絶えざるは
濁りたる世のわが心を知らず
説く術なければなり
死は避け得ずと我は知る
生命惜しまん事なけん
明らかに告げん 世の君子
公らが範とわがなるを
かくて、石を懐に入れて、ついに汨羅(べきら 湖南省)に身を投げて死んだ。・・・・その後楚は日々に領土を削減されること数十年、ついに秦に滅ぼされた。・・・・
私(司馬遷)は離騒・天問・招魂・哀えい(全て屈原の楚辞の篇名)を読んでは、屈原の志を悲しむ。また、長沙におもむいて、屈原がみずから沈んだ淵を観たが、涙を流して屈原の人柄を追想せざるを得なかった。
(私が20年近く前、仕事で中国の北京に滞在していたとき、何人もの中国の友人から、端午の節句にチマキを食べる由来を聞かされた。公の事に全力を注いで非業の死を遂げた屈原を偲んで、揚子江流域の住民が郷土料理の餅を川に投げ入れたことに由来すると。中国の誇る政治家であると、皆さん目を輝かせていたのが昨日のことのようです。日本人の私が読んでも、史記に記された屈原の詩は、心に沁みます。屈原が詩の中で、同時代の人でなかったのを残念に思っている禹は黄河の治水に生涯を賭けた紀元前2070年頃の政治家でした。)
令尹子蘭は、屈原が自分を憎んでいると聞いて大いに怒り、上官大夫に、屈原について頃襄王に誹謗させた。頃襄王は怒って、屈原を流罪にした。屈原は揚子江岸に着いて、ざんばら髪のまま、沢のほとりを沈吟しながら歩いていた。顔色はやつれて、身体づきは枯れ木のように痩せていた。漁夫が見かけて問うた。
「あなたは三閭大夫(楚の王族を司る官 屈原はかつてこの官についていた)ではありませんか。どうして、こんなところに来られたのですか。」
屈原は言った。
「世の中すべてが濁っていて、私だけが澄んでいる。衆人が皆酔っていて、私だけが醒めている。だから放逐されたのだ」
「そもそも聖人は、物事にこだわらず、世の中とともに推移するのです。世の中すべてが濁っているのでしたら、どうして、その濁流に身をまかせて、濁った波をあげないのですか。衆人が皆酔っているのでしたら、どうして、その糟(さけかす)を食べ、そのうわずみをすすって、共に酔わないのですか。なに故に、珠ともまごうすぐれた才能をいだきながら、自分から放逐されるようなことをなさるのですか」
「聞くところによれば、『新たに頭髪を洗うものは、必ず冠をはじいて塵をはらってからかぶり、新たに入浴するものは、必ず服をふって埃をはらってから着る』とのことだ。誰が清潔の身に汚れた埃など受けようか。それよりも揚子江の流れに身を投げて、魚の腹中に葬られた方がましだ。皓々(こうこう)と潔白な身に、世俗のどす黒い塵埃など蒙ることができようか」
そこで、屈原は「懐沙の賦」(かいさ のふ 沙石をいだいて投身するの賦)をつくった。その辞にいう
「陽気さかんなる初夏
草木はおどろに茂る
わが心いたみて 絶えず悲しみ
南の土地へと急ぐ
瞬きてよく見れど 谷は冥く(くらく)
ひたと静もりて音も無し
心ふさぎて もだえいたみ
禍のいたりて 長く窮す
情(こころ)をなだめて 志を見定め
むりやりに みずから抑えぬ
角なるをけずりて、円やかになすも
定まれる法度は すつるによしなし
初めの道を易えなんは
これ 君子のいやしむところ
計画して墨ひくに
はじめの道を改めず
心なおく性敦厚(さが あつ)きを
大人たたえてやまず
腕利きの匠とて 細工せずば
たれか尺度の正気を知らん
黒き模様の暗処にあれば
盲人は言わん 模様なしと
かの離婁(りる 昔の視力にすぐれたひと)眼をほそめて流し目すれば
彼も盲者と 盲人は思わん
白を変じて黒となし
上をさかしまにして下となす
鳳皇(おおとり)は籠中にあり
雛・雉は空を翔け舞う
玉と石とをつきまぜて
一升に ともに量る
かの党人の賤しくかたくなにして
ああ わが抱く宝を知らざる
荷は重く 載せたるは多く
車落ち込みて動かず
瑾(きん)をいだきて瑜(ゆ)をにぎれども
窮しては誰にか示さん
村犬の群れて吠ゆるは
怪しむとろこを吠ゆるなり
俊れたるを誹り傑(たかき)を疑うは
凡人の常態(つね)なり
外を飾らず質朴なれば
衆人はわが異彩を知らず
削らぬままに材木の多ければ
わが才能を知る人ぞなき
仁をかさね義をかさね
慎みて徳を豊かになせど
かの重華(舜)に逢うことのなくんば
たれか我が本来を知らん
聖君と賢臣 古き世にも並ばぬあれど
そも何故なるやを知らず
湯王・禹王は はるけき昔
漠として慕うによしなし
恨みをとどめ怒りを改め
こころに抑えてみずからつとめ
憂患あれども心動かず
後の世の範とならばや
路を進みて北に宿れば
日は暗くして いま暮れなんとす
憂哀はあれども 口にはいださず
きたるべき死をば待たなん
乱(むすびの歌)に言う
広大なる沅(げん)・湘(しょう)の水
別れ流れて速やかなり
はるけき路 草に覆われ
ゆくては見えず
吟詠してつねに悲しみ
嘆きてやまざること久しきも
世人すでにわが心を知る無く
説くに術なし
真心と素朴な性質をいだけども
証を立てんよしもなし
伯楽のすでに死しては
駿馬の力 たれか量らん
人の生まるるや天命をうけ
おのおの定めに安んずるあり
心根しかと志を広め
われ また などて畏懼(おそれ)れん
されど かさねて傷み哀しみて
長嘆息の絶えざるは
濁りたる世のわが心を知らず
説く術なければなり
死は避け得ずと我は知る
生命惜しまん事なけん
明らかに告げん 世の君子
公らが範とわがなるを
かくて、石を懐に入れて、ついに汨羅(べきら 湖南省)に身を投げて死んだ。・・・・その後楚は日々に領土を削減されること数十年、ついに秦に滅ぼされた。・・・・
私(司馬遷)は離騒・天問・招魂・哀えい(全て屈原の楚辞の篇名)を読んでは、屈原の志を悲しむ。また、長沙におもむいて、屈原がみずから沈んだ淵を観たが、涙を流して屈原の人柄を追想せざるを得なかった。
(私が20年近く前、仕事で中国の北京に滞在していたとき、何人もの中国の友人から、端午の節句にチマキを食べる由来を聞かされた。公の事に全力を注いで非業の死を遂げた屈原を偲んで、揚子江流域の住民が郷土料理の餅を川に投げ入れたことに由来すると。中国の誇る政治家であると、皆さん目を輝かせていたのが昨日のことのようです。日本人の私が読んでも、史記に記された屈原の詩は、心に沁みます。屈原が詩の中で、同時代の人でなかったのを残念に思っている禹は黄河の治水に生涯を賭けた紀元前2070年頃の政治家でした。)
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