久しぶりに辻井伸行の「コルトナの朝」を聴いた。クライバーン・コンクールでの優勝以来、辻井の名は瞬く間に世界に響き渡った。その盲目のピアニストの心の透明さ、それが如何に人を感動させるものかを知りたければ、彼自身の作曲によるコルトナの朝、と云うことになる。天才の定義がしたい向きには簡単な答えがある、辻井の音楽に触れることだ。惑いの中にある者には、一体何のハンデで悩んでいるのか、囚われの心の全てをコルトナの朝で洗い流し、生きる意味をそれこそ再定義してみるべきだろう。辻井伸行のような天才を産みだす日本という国の天恵に感謝する他ない。
辻井と云えばプロコフィエフの2番辺りが定番になるのだろうか、それともショパンのエチュードか、ラ・カンパネラも凄い。だが、イタリアを旅した折の作曲である「コルトナの朝」には再現芸術の枠がなく、彼そのものが世界を聴き感じ、音楽として産みだしたもの。単純ながらその感受性の豊かさは比類なく、もはや表現する言葉はない。
今年もサントリーホールで辻井のコンサートが行われたが、チケットの入手には失敗した。発売後数時間で売り切れてしまうのはいつものことだ。来年1月のチケットも即日完売になった。
盲目のピアニスト、そんな枕詞にはどんな意味もない。人の感性はここまで豊かにすることができる。他人をとてつもなく感動させる力は受験秀才には獲得できないもの、エミールの教育論はそんな次元に見向きもしていない。驚くべきイノセンスと研ぎ澄まされた自然との共感能力、それを表現する手段として音楽に匹敵するものは何処にもない。偉大な日本の天才、辻井伸行。
川口
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます