70年安保を控え、ベトナム反戦運動が空前の盛り上がりを見せていた頃、、、。木枯らしが吹き、街にはメアリー・ホプキンの「悲しき天使」がいつも流れていた。
原語盤では「Those were the days」、とてつもないヒット曲だったのだろう。喫茶店に入っても、街角に立っていても、長野でも東京でも、深夜放送のラジオからも、それは聞こえてきた。リズミカルだがもの悲しいイギリス・ポップス、ウェールズの片田舎のシンガーだったメアリーはポール・マッカトニーに見出され、「悲しき天使」で一躍世界的シンガーになった。木枯らしの季節に、その曲はとてもよく似合った。
やがて高校の卒業式を終え、私は行方も定まらない自身を扱い兼ねていた。なぜあんな子供に進路を決める、などということができるのだろう。私は、分からないものは分からない、その事実と心中することを決めていた。迷いの中に三昧することを選んだ。自分とは何か、最早、それにしか興味はなかった。
卒業式の後、就職も進学もせぬまま、伊豆半島を一人で回る小旅行に出かけた。西伊豆の入江の民宿を訪ねては、周辺の山道を随分と歩いた。修善寺の小道で擦れ違った大学生のカップル、海岸の釣り人、民宿のおばさん、、、。18歳の迷いに気付き、様々に声をかけてくれた。それは、有り難いばかりのものだった。思い出せば、ただ胸が詰まる。苦しかったのだ。そんな自身の心象風景にかかわりなく、温暖な三月の伊豆はマーガレットが美しく咲いてもいた。
ただ自身と向き合うだけの、大事な時間だった。
外れてしまった軌道ではあるけれど、他のどんな選択も不可能に思えた。機械的に偏差値で大学を選ばれても、あるいは就職口を世話されても、気持ちがまったくついていかないことだけがはっきりしていた。この列車にだけは乗れない、そんな内面の声だけが明確だった。
列車から飛び降りるのも、飛び乗るのも、無傷というわけには行かない。自分の足で歩くということは、どうもそのようなことらしい。
大学はその年、東大の入試が中止になるほどに全国で紛争が過激化していた。親の世代の価値観念体系は無残に揺さぶられたが、代わりの軸になる、信ずるに足る何ものにも私はまだ出会えていなかった。党派の教条には、辟易としていたのだ。
動揺する秩序と理念のなかで、自分のスタンスを持ってから、間違いのない私自身としてでのみ、社会と正対することを望んでいた。全てのややこしい思念を放り投げ、ノンポリの水準で生きることは到底考えられなかった。かといって、似非思想の下では生きないぞ、と。
自分とは何者であり、何を為すべき者なのか。そのしつこい内面からの問いかけに答えを持たねば、一歩も進むことはできなかった。否、曖昧にしたままでは前には進まない、そのことを決意するための旅行だった。自分に、自身の過去史と魂とに関わりないジャンプをさせることに、耐えられそうもなかった。
同輩はそれぞれに進学し、あるいは就職して行った。教師も、何時しかお前はどうするつもりなのか、とは聞かなくなっていた。見捨てられていたのだ。取り残されるように一人残った自分には、ただ、とてつもない迷いが広がるばかりに思えた。
長い内面の旅が、続いた。
賢く、輝くような若さの魅力的な女友達も去り、賑やかな友も大半は縁が無くなった。外れた人間に未来などない、そう思われても至極当然だった。何の恨みつらみもない。
ヘーゲルとフッサールの哲学、社会心理、経済学史に日本思想史、エチエンヌの美学に法学概論、フロイトとユング、、膨大な読書だけが自身を支えていたように思う。詰め込むべき知識は受験以外の部分に山積し、そこにしか内面の疑問に対する回答の手掛かりが無かった。
ラジオからはまだ「悲しき天使」が流れ、それに時折ダニエル・ビダルの「天使の落書き」が加わるようになった。巷では党派のアジテーションと、深い傷を刻むはずの同棲時代とが同居していた。
奇妙な、許された範囲内のブームとしての逸脱、その流行りの文化に付いていくつもりは更々なかった。彼らは列車から降りてなどいない。ただ抵抗が、スタイルやファッションのようなものだったのだ。戻ることのない橋を渡った者は、ほんの一握りでしかない。個々の魂の内奥の問題であるはずの変革が、長髪やゲバ棒、増してや意味不明の同棲ごっこで達成される筈は、最初からなかった。
自問自答する苦悶の日々、それを若さというなら、若さとは間違いもない地獄だ。それでも、正面からその地獄を受け止めること以外では、私はきっと生まれなかったろう。第二の出生をその時、私は既に約束されていたに等しかった。
極限の不安の中で、密やかにそんな自信の芽が育ち始めた。働いて学費の全額を貯め、卒業を目的にしない自費での進学を実行したのは二年後のことだった。自分が必要とする講義以外は一切出席するつもりがない、そんな奇妙な決意の進学だった。世間の無責任な価値評価の中をでなく、自身の価値軸を確立しそれを生き切ること。迷いの果ての、自分にとってはとてつもない転換だった。疑いもなく、そこが自身の原点だ。
走っている列車から飛び降りれば、骨折くらいは当たり前だ。だが、心が死に、自身の可能性の開花を閉ざし、軽いだけの快楽に燥ぐのがいやなら、凡庸な列車に乗って進むことがこれ以上できないと感じたのであれば、やはり君は其処を飛び降りるしかない。そして、列車の中の人々の数倍を学ぶのでなければ、それは単なる脱落に過ぎないものになる。花は去り、世間の中で異化されようと、その悲しみには耐え、醒め切った意識で学び続けるしかない。何かを得るということは、多分、それ以外の全てを諦めるということに等しいから。
若さという煉獄、自己放棄することなく若さを乗り切るという至難、それを通過してきたというだけで、きっと生は生に値するものになる。ただ一点、当時、何一つ私自身を説明できなかった貧しい表現力について、深く同輩達に詫びるばかりだ。申し訳ない。
メアリー・ホプキンの「Those were the days」、曲調以上に胸詰まらせる想いが、そこにぎっしりと詰まっている。
川口