辰野町出身の彫刻家、瀬戸剛さんが芸術院会員に選出された。最年少、史上最高得票だったと聞く。本当に嬉しい。
30年ほど前、剛さんは駆け出しの彫刻家で、父親の日展理事、瀬戸団治氏の名声とは比較しようもなかった。その彼と、当時電電公社にいた画家のN・M、鋭い審美眼を持つ税理士のN・Kの同級生トリオ、そして5歳年下の私。奇妙な組み合わせの、今でも続く仲間達だ。
あの頃、私は父と共に家業の硯作りをしていた。東京での議論の洪水に疲れ果て、町に帰っては来たけれど、何の決意もない跡継ぎだった。そんな、フリーターのはしりのような私を、5歳年上の彼等は様々に心配になったようだ。審美眼は怪しく、良いものは作れないくせ須田国太郎の「リアリズムについて」やエチエンヌ・スリヨの「美学論」は読んでいる、という頭でっかち。そんな奇妙な職人をとにかく可愛がってくれた。
後の芸術院会員から、私は「作品を売る」という、到って現実的なノウハウの指導を受けていた。彼は、稼ぎ生活する、という部分での甘さを決して許してはくれなかった。何の自信も無く、しかも甘えた考えのままの私を、販売の現場で徹底してしごいた。時には大声で怒鳴られた。「生活を甘く考える奴は許せない」、と。何時しか私も必死になり、どんな照れも気取りも、気持ちの中から消えていた。
何で在ってもいい、ただし何かで頭抜けたプロにならねばならない。剛さんから受けた薫陶の、それが骨の部分だった。今私が幸いにもフリーターでないのは、きっと彼のおかげなのだと思う。
そんな20歳代のある夏の日、剛さんとN・M、私と父とで裏山に山の花を探しに分け入った。偶然にも希少植物の大群落を見つけ、皆で大喜びした。蝉が鳴き、空は濃紺に晴れあがり、浮かぶ小さな雲は輝いて白かった。私のスタン・バイ・ミー、素晴らしい日々の記憶だ。
剛さんの父、瀬戸団治さんは当時既に彫刻家として著名人であった。そんな彼から私たちは小学校で陶芸を教えていただいていた。出来の悪い生徒の作品を、学校に設置されていた窯で何日も徹夜して団治さんが焼き上げていた。その姿は子供の胸にしっかり焼きついた。窯の前で彼と何時間も二人で話しこんだ。何を話したかも忘れてしまったが、多分トンボや蛙のことにちがいない。
その小学校の私の同級生である小松華功は、その後京都で優れた陶芸家となった。この度迎賓館に飾る為、代表作の「桜大皿」が国の買い上げとなった。10月13日からは伊那食品ホールで、19日からは辰野パークホテルで作品展が開かれる。作品を見る限り、素晴らしい陶芸家に育った。
長野県辰野町、旧朝日村。特異な密度で優れた芸術家を輩出し続ける、不思議な町である。
川口