チャオプラヤ河岸の25時

ビジネスマンの日記帳

スタン・バイ・ミー

2007-09-28 14:39:55 | インポート

 辰野町出身の彫刻家、瀬戸剛さんが芸術院会員に選出された。最年少、史上最高得票だったと聞く。本当に嬉しい。

 30年ほど前、剛さんは駆け出しの彫刻家で、父親の日展理事、瀬戸団治氏の名声とは比較しようもなかった。その彼と、当時電電公社にいた画家のN・M、鋭い審美眼を持つ税理士のN・Kの同級生トリオ、そして5歳年下の私。奇妙な組み合わせの、今でも続く仲間達だ。

 あの頃、私は父と共に家業の硯作りをしていた。東京での議論の洪水に疲れ果て、町に帰っては来たけれど、何の決意もない跡継ぎだった。そんな、フリーターのはしりのような私を、5歳年上の彼等は様々に心配になったようだ。審美眼は怪しく、良いものは作れないくせ須田国太郎の「リアリズムについて」やエチエンヌ・スリヨの「美学論」は読んでいる、という頭でっかち。そんな奇妙な職人をとにかく可愛がってくれた。

 後の芸術院会員から、私は「作品を売る」という、到って現実的なノウハウの指導を受けていた。彼は、稼ぎ生活する、という部分での甘さを決して許してはくれなかった。何の自信も無く、しかも甘えた考えのままの私を、販売の現場で徹底してしごいた。時には大声で怒鳴られた。「生活を甘く考える奴は許せない」、と。何時しか私も必死になり、どんな照れも気取りも、気持ちの中から消えていた。

 何で在ってもいい、ただし何かで頭抜けたプロにならねばならない。剛さんから受けた薫陶の、それが骨の部分だった。今私が幸いにもフリーターでないのは、きっと彼のおかげなのだと思う。

 そんな20歳代のある夏の日、剛さんとN・M、私と父とで裏山に山の花を探しに分け入った。偶然にも希少植物の大群落を見つけ、皆で大喜びした。蝉が鳴き、空は濃紺に晴れあがり、浮かぶ小さな雲は輝いて白かった。私のスタン・バイ・ミー、素晴らしい日々の記憶だ。

 剛さんの父、瀬戸団治さんは当時既に彫刻家として著名人であった。そんな彼から私たちは小学校で陶芸を教えていただいていた。出来の悪い生徒の作品を、学校に設置されていた窯で何日も徹夜して団治さんが焼き上げていた。その姿は子供の胸にしっかり焼きついた。窯の前で彼と何時間も二人で話しこんだ。何を話したかも忘れてしまったが、多分トンボや蛙のことにちがいない。

 その小学校の私の同級生である小松華功は、その後京都で優れた陶芸家となった。この度迎賓館に飾る為、代表作の「桜大皿」が国の買い上げとなった。10月13日からは伊那食品ホールで、19日からは辰野パークホテルで作品展が開かれる。作品を見る限り、素晴らしい陶芸家に育った。

  長野県辰野町、旧朝日村。特異な密度で優れた芸術家を輩出し続ける、不思議な町である。

               

                                                                                    

                                                                                         川口

 

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凡人と天才

2007-09-19 14:42:24 | インポート

 今をときめくN社のN会長は本当に凄い人物だと思う。プレハブ小屋の工場からほんの数人で起業し、たった二十数年で一部上場企業にまで育て上げた。流行り廃りの激しいIT関連の、得体の知れないソフトビジネスならともかく、地道な製造で零細企業がそこまで登りつめる困難さは、経営を体験した者なら誰でも理解できるだろう。恐ろしく想像力がなくとも、彼の並々ならぬ努力と、その天才をだれしも否定しないと思う。

 天才とは何かを定義しようとするなら、凡人の定義を先にしてしまったほうが分かりやすいだろう。N会長がまだ中小企業のおっさんでしかなかった頃の付き合いの知人が、確固たる実績を残した後の彼にも気安く経営について説教を垂れた、という逸話がある。これはあまりに恥ずかしい。

 凡人とは、きっと居酒屋で隣にアインシュタインが座っていても気がつかない人間のことを言うのだ。得意げにアインシュタインに向かって相対性理論の奇怪な講釈をしてしまったりするのかもしれない。凡人の悲しさというものは、そのような質のものだと思う。

 おそらく、天才は天才を見逃すことはしない。相手の身なりがどうであれ、どんな履歴であれ、じっと聞き耳を立てている事だろう。本当に知っていること以外にはむしろ寡黙で、自分を認めさせようとする会話が、まったく対話にはならないことを百も承知してじっと相手を観察している。自分も知らない、という可能性に対する大きな怖れを持って、現象や現実そのものに拘りなく向き合うことが出来る人間、それが天才と云うものだと思う。

 人物評価というものは難しい。経歴や学歴などを披瀝いただくよりも、直感に頼った方がよっぽど正しい判断だったりする。だれもが天才になり得る機会を放棄している、それが現実の姿かもしれない。衣によりも生身に関心を寄せる、という当たり前のことがなかなかできない。

 権威主義は隠された形で日本の文化に深く根付いている。官庁や銀行などの無能な集団が何か偉そうな物言いをしていると思わず吹き出してしまう。個人としてどのようなアイデアもなく、勝負も出来そうにない者が、職業身分にすがり付いて聞きかじりの言葉で馬鹿げた議論を展開する姿はとても惨めなものだ。

 「あんたが大将」という皮肉も凡人には通用しない。議論など無駄なことだ。N会長ならきっとそう思っていることだろう。

 凡人には違いないけれど、少しましな凡人でありたいとは思う。天才たちにもっと仕事をしてもらいたいからだ。

 現在の日本の企業は強力なTOPダウンでしか救えない。凡人だらけなら二重、三重の権力構造と指揮系統が出来上がってしまう。しかも我が私がと云う割には最終的なリスクを負うポジションからは逃げるような権力志向である。度し難い凡人になるより、自身のアイデアで勝負し、責任を取りきる覚悟のある凡人でありたい。                                

                                                                               川口

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放棄

2007-09-13 18:23:39 | インポート

  安部さんの政権放棄には驚いた。

 会見の様子でもすっかり神経衰弱状態の顔であり、到底職責を果たせる状態にないのは明らかだった。維新から100年余、長州の男も随分と柔になってしまったものだと思う。高杉晋作や桂小五郎が聞いたらもっと驚くに違いない。

 学生時代、さんざん生意気盛りの議論をふっかけていた政治学の教授に、ある日職業的政治家に必用な資質とは何か、を尋ねてみたことがあった。回答はあっさりしていた。「見知らぬ100万人の生存の為になら目の前の10人をためらいなく殺せること」、と。

 そのような神経と使命感なしに政治に下手な踏み込み方をするなと云う意味の、口の廻る若造への厳しい警告であったと思う。

 日本は何かがおかしくなってしまった。浅薄な意思や思想で、本格的な負荷に耐えられるはずはない。なぜそのような人格が政治の表舞台にまで出てしまうのだろう。かっこいいお坊ちゃまと極度に我が儘なお嬢さま、そんな世界になりつつある日本にどんな未来図を描けばいいのだろうか?

 「美しい国造り、戦後レジームからの脱却」、成城のお坊ちゃまの政治目標は何がなんだか分からなかった。会社で「美しい会社造り、先代体制からの脱却」、などと朝礼で言ったら社員はポカンとするしかないだろう。恐ろしく観念的なこのスローガンで現実の政治が引っ張れると考える知力の低さは、本当に恐い。

 小泉の「郵政改革」の意味も、その政権中枢に在りながら安部はまったくその本質を理解していなかった。造反議員を「お帰りなさい」と言って迎えた。皆仲間ではないか、お友達ではないか、と。その曖昧な日本の文化に依存した官僚ヒエラルヒーの解体こそ、小泉が国民の多数の共感を得て進めた「郵政改革」の本質だったにも関わらず。

 郵便局の在り方がどうしたこうしたで国民が燃えることなど有り得ない。何故そんな洞察力が彼には無いのだろう。小泉自身が意図していたかいないかには別にして、それはある種の文化革命になっていたのである。為に選挙で圧勝できていたのだ。 閉塞した日本とその文化、これを造反議員という形で象徴化し、追い出すという国民的セレモニー。それがあの圧勝劇の意味していたものだと思う。

 そのような視点で見れば、安部の「お帰りなさい」が何と稚拙な政治であるかは明瞭になるだろう。

 徹底的なリアルポリティクスのもと、世界戦略を絶えず意識した政治を継続させる米中。失うものは何もないという、最強の立場にある北朝鮮。安部お坊ちゃまが扱う相手は余りに彼とはレベル差がありすぎた。次のリーダーが多少はまともな現実についての勉強をした者で、自身と歴史とを切り刻む思索の痛苦に耐えた人間であることを切に願う。

 男が男ならではの理知と洞察力を鍛え積み上げないのなら、女もまた女ではいられなくなる。ふがいない男と心根に魅力の無い女。奇怪なユニセックス社会が意味する危機は、実はとても深刻な質を持っていると思う。  

                                                                      

                                                                               川口

 

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