.kuri

アジア・アフリカの旅日記と、ネパールの孤児院(おしん)日記。現在は日本での日常生活を書いてます。

playing time

2004-11-29 12:05:36 | Oshin(孤児院)日記
ちょっと前の写真。あいちゃんが折り紙をやってくれた。このときは折り紙カメラを作った。みんな大喜び。






ゲーム中。ビリヤードの原型になったゲームで、キャロムと言う。休みの日には大人も熱中してやっている。

 最近の流行はこのゲームと、アルプス一万尺だ。アルプス一万尺は毎日10回くらいはやらされる。子ども達も日本語で歌いながら出来るようになったから驚きだ。最近ちょっとずつ日本語がでてきた。今日も夜に行ったら突然「ありがとう」と言われた。将来はどうなるのだろう。

絵本

2004-11-26 14:27:52 | Oshin(孤児院)日記

・・・というわけで、結局こっちのサイトも更新している.kuriです。カトマンズも日に日に寒くなっています。僕も毛糸の帽子を買いました。日本もだいぶ寒いみたいですが、皆さんは元気ですか?

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ジェンが英語を教えている写真。英語でクイズをやったり、英語の絵本(今は「小さな家」)を読んだりしている。この絵本は友達が日本から送ってくれた。今はお話ブームで、この間は桃太郎の話をしたらしい。

子どもたちは今日からテストです。

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久しぶりに面白いクリスチャンサイトを見つけた!

聖書解説WEBラジオ「超祈りコム」制作日記


study

2004-11-21 19:50:14 | Oshin(孤児院)日記

勉強時間の写真。学校から帰ってくると、宿題をやる。最近はアーニスにアルファベットを教えている。全くアルファベットを書いたことがない子に、正確にアルファベットを書かせるのは難しい。アーニスは「e」が何度やっても書けなかった。ネパール文字みたいになってしまうのである。自分もこんなんだったけなあと思いながら教えている。ネパール語が出来ないので、周りの子どもたちも教えるのを手伝ってくれる。今さらながらネパール語が出来ないのが悔やまれる。

Everywhere ( when i close my eyes it's you i see)

2004-11-16 13:39:46 | Oshin(孤児院)日記
(写真;シャゴル with 折り紙カメラ)

 どうにも最近BLOGを書く気がしなかった。最近人のBLOGや日記を見る機会が増えてきた。改めて自分が書いたものを見直してみると、そんなに面白くないなと思ってしまい、ショックでしばらく書く気が失せた。


 誰がいつ読んでも面白いものを書けたらいいなと思う。でも自分に文才はないし、面白くするために頑張って書く気もしない。自分の書きたい時にだけ書く、無理して書かないというのが、僕が自分で決めた、このBLOGの原則だ。


 この間けいさんとも話していたが、本当に思っていること、感じていることを書くのは難しい。別に自分を作ってはいないが、なかなか自分をさらけだせない。もともと人に自分の気持ちをいうのが苦手な方だけど、もうちょっとその部分は頑張りたい。日記だしね。もっと気楽に書いてしまえと思った。


 ネパール滞在を延長した。やり残していると感じている部分もあったし、まだネパールを離れるのはもったいないなという気もした。


OSHINは今日新しいボランティアが来た。ジェーンという、日本人とアメリカ人のハーフの女の子だ。外見はアメリカ人だが、日本語も英語もネイティブだ。僕にとってもいい英語の勉強になる。彼女は今日本に住んでいるが、家が意外と近くでびっくりした。2週間のボランティアだ。


 シャウラブとアーニスという新しい子(2人とも男の子)が来て、子どもは全員で11人になった。シャウラブは2度OSHINから脱走した。おじさんの家がOSHINのすぐ近くにあるのだが、「学校に行きたくない」と言って、勝手におじさんの家に行ってしまったのだ。1回目の脱走は数日前の朝だった。結局その日は学校に行かず、夕方になっておじさんがシャウラブを連れてきた。連れてきても玄関から動こうとしなかった。おじさんが何とかみんなのいる2階まで引っ張りあげた。ちょっとし隙におじさんが帰ると、「UNCLE!UNCLE!」と叫んで駆け出した。その彼を僕が掴まえた。「UNCLE!UNCLE!」と叫んで、僕を振りほどこうとした。しばらく抵抗して、文字通り泣き叫んだ。絶叫していた。つらかった。


 ショビンもショビナも来た日は泣いていた。今はもう慣れて、みんな明るい。この子達はタフだなあと思う。子ども達が甘えてくる時、時々せつない気持ちになる。それでも日々は進んでいく。将来はどうなっているのかなとたまに考える。


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・喜ぶものといっしょに喜び、泣くものといっしょに泣きなさい。(新約聖書ローマ人への手紙12:15)




カトマンズのJapanese達

2004-11-09 12:40:46 | Oshin(孤児院)日記
(写真はショビン2とスニタ)

 毎日のように、タメルで知り会った人を連れて、OSHINに向かう。昨日は27才大阪人ゴローさん。10台くらいやり過ごした後のバスは(混みすぎで乗れなかった)、狂ったように混んでいた。そしてバスはリングロードまでの道を狂ったように走った。


 夏の「恋のカトマンズ」メンバーがまだタメルにいる(夏のカトマンズは恋が多かったのです。ふふふ)。一人はIちゃん。E型肝炎で一度日本に帰国したが、僕とほぼ同じ時期にネパール戻ってきた。彼女は今大学を休学して、こちらの学校(昔の寺小屋みたいな学校)で英語や算数を教えている。その前は別の孤児院にも関わっていた。OSHINにも来てくれて、ネパール語に訳した絵本を子ども達に読んでくれた。彼女は今、日本から送ってもらった絵本を、ネパール語に翻訳している。「おおきなかぶ」とか、「裸の王様」とか。


 もう一人はけいさん。無銭旅行3年。新宿のホームレス(本当に無銭)からスタートした強者だ。
けいさん:「無銭旅行、栗さん(僕のあだ名)も出来ますよ。何もなかったら、何でもやりますよ。」
僕:「確かに本当にお金がなかったらごみあさりでもなんでもやると思う」
その他、何も持っていない方が気持ち的に楽だとか、というような話を、けいさんとしたりする。詳しくはけいさんのHPでどうぞ。


 ふらっと、ホーリーランドゲストハウス(日本人宿)や、その隣のチャイ屋さんに行く。けいさんやIちゃんなど知った顔がいて、そしてその友達がいて、そこからまた友達の輪が広がっていく。そうやって知り会った人を沢山OSHINに連れていっている。旅先だと、きさくに話しかけられる。大体旅に出てくるような人は、そういうったことを拒まない、楽しめる人達だ。それが旅を面白くしている。日本でも、山とか特殊なところで会うとこんな感じなんだけどな。どうでもいいが、日本にもチャイ屋が欲しい。道脇に椅子が出ていて、行くと必ず誰か知った顔が座っている。そしてお茶を飲みながら話が始まる、そんな所。日本だといきつけの居酒屋さんとかになるのかな。


 OSHINのホームページが出来たので、昨日はそれをベースに日本語のチラシを作る作業をした。それを日本食屋さんとか、日本人宿とか、僕の行きつけの店とかに貼りに行くのである。ネパール滞在も、日数が少なくなってきたので、ちょっとだけ気合が入った。人間追いつめれれると頑張るものだ。


 では、またね。
 


最近のおしん

2004-11-03 19:37:00 | Oshin(孤児院)日記
 子ども達は朝早く院を出て、18時近くにならないと帰ってこない。僕もこの時間に合わせておしんに行く。この時間帯の23番マイクロバスは混んでいて悲惨だ。1回で乗れればラッキー、時には何台も待つことがある。


 子ども達は帰ってくるとすぐに勉強をする。ほとんどの子はLKGという、日本の年長さんに当たるクラスに入っている。今はイラスト入りの英語のテキストで英単語を覚えている。ページごとに「乗り物」とか「果物」と項目が分かれている。横に座って読めない単語を一緒に読んであげる。今はフランス人の愛称タラ(タラはネパール語で「星」の意)が、一生懸命発音を教えている。この時期にきちんと発音を教えないとダメだという。全くその通りだが、アジアの英語教育環境はそんなに良くないのだ。タラ自身もイギリスに行った時に、自分の発音のひどさにショックを受けたのだという。まだちゃんと教育を受けられれば良しとされている段階だからね。ま、この点に関しては日本も全く同レベルだけど。むしろ日本の方が低いかな。


 僕自身も読めない単語があったりして、最近は発音してくれる電子辞書を使っている。これは本当に素晴らしい。タラはRCDPというボランティア斡旋組織を通してここに来ているが、英語のネイティブスピーカー及びネイティブ並に話せる人はどこでも重宝されている。


 勉強が一通り終わると、みんなでお祈りをする時間がある。始めに歌を歌う。歌は追っかけ歌で、その日のリーダーがみんなをリードする。その横で2人の子どもが踊る。歌詞はおおまかに言うと「神様、弱き僕たちを助けて下さい」というような内容だ。この神様は特定の宗教の神様を指していない。歌が終わると、1分ほど各自で祈る。そして司会者の子が、今日歌をリードしてくれた子と踊り子に感謝の言葉を述べる。そしてある特定の子を励ます言葉をみんなで叫ぶ(この辺はまだよく分からない)。そして全てが終わると一列に並んでキッチンに行く。


 学校に行く時も、一列に並んでスクールバスの待っているところまで行くし、遊びに行く時も一列に並ぶ。どうも僕は一列に並ぶのが好きではないが。この話はまた別の時に書きたい。


 まだ全部できてませんが、OSHINのウェブサイトが出来ました。よかったら覗いてやってください。メインページの写真は時間が経つにつれて変わっていきます。何故か自分の写真も出てくるんだよね。サムライ氏、写真使わせてもらいました。Oshin Child Development Center (OCDC) Nepal (http://www.ocdcnepal.org.np)





おしん

2004-10-30 01:00:54 | Oshin(孤児院)日記

  久しぶりに訪れたOSHIN。子ども達はみんな元気だった。骨にひびが入っていたショビン1も元気になっていた。今はダサインというお祭り中で、子ども達も新しい服を着ていた。新しい男の子ジャネンドラも来ていた。チベット系の顔で、よく笑う子だ。今はフランス人のボランティアが来ていて、彼女が英語を上手に教えている。学校に行き始めて一月ちょっと。英語の語彙が増えている。既に中間テストがあったのだが、ショビン1以外は、誰も赤点を取らなかった。学校から帰ってきても、みんな一生懸命勉強している。みんな疲れて、最近は8時頃には寝てしまうようだ。通学にも往復2時間かかるので、大変である。そのかわり朝は5時くらいから起きている。


  子ども達の人間関係もちょっとずつ変化しているようだ。子ども達同士で、よく声を掛け合うようになった。前よりも雰囲気がいい。学校の影響も大きいのだろう。嬉しかった。


 孤児院の運営の方はいろいろごたごたした問題が起こっていた。HP含めて、なかなか諸計画がうまく進んでいない。もっとも初めから思うように進むとは思っていなかったが。新たな委員や、ハウスマネージャーなど、働き手を見つける作業も難航している。お金の問題も正直頭が痛い。アチュ-トさんと2人ため息をつく。


 とにかく、もう始まっているのだから、子ども達のためにも頑張ろうと思う。大変な時は、子ども達の顔を見ると、頑張ろうと思える。もう少しするとまた新しい子どもが来る。


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とつ情報より、下記情報GETしました。とっつあん、勝手にコピーしてごめんなさい。国際協力・国際交流に興味がある方、とつ情報に面白い情報が載ってますよ。10/27付けのとつ情報にのっていた伊勢崎賢治氏の講演会「紛争後の地に今何が!~紛争の再発防止と兵士の社会復帰~」(参加無料)、僕もすごい行きたいです。


街頭募金 for 新潟県中越地震東京YMCAが主体となり、下記の日時にて街頭募金を実施します。
ご都合が付くようでありましたら、少しの時間でも結構ですのでご協力お願いします。なお、申し込み等は不要ですので直接指定の場所へお越しください。各日ともYMCAのスタッフの方が常駐しております。

■日時:11月1日、2日、4日、5日の平日4日間、午後5時~7時
■場所:東京駅丸の内側の公道
     三菱商事からの協力も得て、三菱商事前でも募金活動を予定
     ※丸の内北口の信号を渡った道路近辺となります。
■関連サイト:
東京YMCA→http://tokyo.ymca.or.jp/

桜美林大学でも学生が中心となり募金活動をはじめました。
詳細はこちらから→http://www.obirin.ac.jp/headline/0126.html





Hallelujah!

2004-09-14 21:54:56 | Oshin(孤児院)日記
 昨日は久しぶりにOSHINに泊まった。とりあえず、最後の夜になる。子ども達は制服の仕上がりが遅れたせいもあり、昨日からやっと学校に通っている。床に寝そべって(机がない)、宿題をやっていた。朝は、6時前から子ども達の声が聞こえた。7時30分、出発。朝の光を浴びたマナマイジュは奇麗だ。サンディップやアシュミタを始めハウスオーナー一家や、プロシャトウさんの奥さんにもしばしのお別れをする。本当に良い人達だった。


 初めてみんながそろって制服を着ているのを見た。皮靴にソックスをはいて水色の制服。なんだか見違える。小さい子にはかばんが大きすぎてちょっとおかしい。LFNの近く、スクールバスが待っている場所まで一緒に歩く。遅れそうになり、川沿いの道を早足で歩いた。バスに乗り込んで、一人ずつと握手をしてから、学校に行くスクールバスを見送った。


 ついにネパールを去る。子ども達が学校に行き始める時を、ひとつの区切りと考えていた。子ども達は土曜日以外毎日、朝7時30分に院を出て、18時頃帰ってくる。学校で一日の大半を過ごすことになる。今までのように、一日中子ども達と一緒に過ごすことはない。


 ホームページの打ち合わせも終わった。アチュートさん、プロシャットウさんとご飯を食べる。お祝いと称した。


 明日の朝、スノウリ行きのバスに乗る。インドを数日ですりぬけて、いよいよあの国へ。


男達

2004-09-11 15:13:28 | Oshin(孤児院)日記
(写真はスニタ。頭がいい。) 

 日本大使館へ。建物があまりにも立派すぎてびっくり。外も中も、周囲の建物とあまりにも違いすぎる。日本国民の血税はこんなことに使われているのだ。日本からわざわざ運んできたような内装物もたくさん目に付く。全く。


 17時からSea & Sky Travel のオフィスでミーティング。メンバー全員(僕以外で7人)がそろったのは2回目だ。全員そろうと迫力がある。まずはポリシーの確認から。詳しくはホームページが近日中にできるのでそちらを見て欲しいが、主な点は

・子ども達にとってのShelterであること
・子ども達を励ますこと(親がいないと嘆いたりしないように)
・子ども達のメンタルヘルスを守ること
・適切な教育を受けること
・定期検診・診療を受けること
・国内外のNGOと協力して活動していくこと。カーストももちろん問わない。
・戦争や災害の犠牲者に医療活動を行うこと。


 OSHINの目指すものは大きい。OSHINの子ども達だけでなく、様々な人々に対して活動を展開していく夢を持っている。例えば、職業訓練や基礎的な健康教育を受けさせる。治療活動をする。将来は、農村にも出向いてawareness educationもしたいとのこと。農村の人々がギャンブルにのめり込んで身を崩したり、子ども達が売られていく現状をなんとか止めたいと思っている。これはアチュートさんの個人的な考えが大きいのかもしれないが、計画が大きすぎて驚いた。正直に驚いたと話すと、「僕たちがやっているのはソーシャルワークだ。ソーシャルワークとはこういうものだし、こうあるべきだと思う。」アチュートさんは言った。確かに子ども達が置かれている現状一つとっても、そこには様々な社会的要因がからんでいるし、すべきことが沢山ある。ひとつのアプローチだけでは到底足りないのだ。彼は大きな視野を持っている。日本にはここまで国を愛して、活動している人がどれだけいるのだろう。


 次は、資金の問題について。目下最大の問題である。一人一人これからの資金調達のためのアプローチプランを発表した。先日遊びに来てくれた純君やあきさんも少なくない額を寄付してくれた。ありがとう。


 その他、ミーティングを月に2回(1回はOSHINで、1回はこのオフィスで)持つこと、12月までに子どもを15人に増やすことなどを確認した。District Officerに出す手紙の原文も確認した。こういった子どもを送って下さいという趣旨の手紙を、ネパール各州に送るのである。ミーティング終了後、7人のコアメンバーが全員そろっているので、記念撮影をした。


 ミーティングが終わると、丁度日が落ちかけていた。オフィスを出て、男達と歩く。仕事の帰り道を思い出す。この人達と俺はずっと付きあっていくのだと思う。気分が高揚する。ネパール人の仲間が沢山出来た。


 夜は偶然知りあった人達と食事をした。その内一人の女の子は大阪でアジアンカフェをやっている人で、仕入れに行く人を通して、ネパールの村に寄付をしたりしているのという。今回は文房具を持ってきていて、寄付先を探しているのだという。「でも自分が物を持ち込むことで、何かが崩れるのが恐いです」と彼女は言う。そういうことを考えるセンスはとても大事だと思う。難しい問題だ。信頼できる寄付先を探すというのも難しい問題だ。食事をしながらそんな話をした。


 明日はこちらで知り会った人とOSHINへ。明後日は子ども達と一緒に学校へ。あさってはホームページのミーティング。



いつかは

2004-09-09 11:39:32 | Oshin(孤児院)日記
 いつかは会うと思っていたが、ついにYのリーダーと出会った。神戸YMCAでキャンプや野外活動をしているビーバーリーダーだ。予想通り、OSHINに興味を示して、一緒に行くことになった。バス中、Y話で盛りあがる。


 これまでも随分沢山の人をOSHINに案内した。話をすると、行ってみたいという人は結構多い。OSHINに着く。「ナマステ!」と子ども達が元気よく言い、いつのように握手を求めてくる。今日は歌をたくさん歌った。 よく歌うのは「TIRO」と「アドベンチャーソング」(2つともキャンプソング)。何回も「歌って」とせがまれるので、何回も歌う。広場に行く道すがらも歌った。サッカー、フリスビー、バレーボールをよくやるが、ネパールのローカルの遊びもやる。日本でみかけるようなものも多い。ローカルの遊びを覚えるのは面白い。


 相変わらず「ボールを貸してくれない」等の理由でけんかが起こる。「一緒に遊ぼう」「それやっちゃだめ」「叩かない」などのネパール語をノートに書いてもらった。僕はは教育に関しては無知な人間だが、人の気持ちを考えることができる人間にはなって欲しいとは思う。しかし言葉のハンデは厳しい。「だめだよ」ということはできても、その理由まできちんと分かってもらうのが難しいのだ。


 子どもをみていると、本質的にはネパールの子どもも、日本の子どもも変わらない気がする。環境や持っているものはだいぶ違うけれど。


 夜はみんなでサッカー観戦。ピルグリムホテルのレストランで日本-インド戦を見た。インドの10番は、ネパールから帰化した人らしい。日本はやっぱりディフェンスがが危ないなと思った。その後、ホーリーランドゲストハウスで語る。日本人のたまり場宿で、僕もしょっちゅう遊びに行く。ホーリーランドのある通りに行くと、たいてい知った顔に会う。本の話をした。旅人は読書家が多い。宮本輝が好きな人ってそんなに多いのか?僕も好きなものがあるが。「うたぼん」がおいてあったので、歌も歌った。COMPLEX、懐かしい。BE MY BABY。恋を止めないで。僕は「1990」が好きだった。キャンプソングも歌った。神戸Yでは「ともだち おひさま やさいいこころ」がはやっているらしい。歌っている歌は東京と神戸で結構違っていた。キャンプや山中湖を思い出す。僕は昨年山中湖のキャンプ場で仕事をしていたのである。


 23時、宿に帰る。笹川美和を聞きながら、日記を書く。明日は12時からOSHINのミーティングだ。



学校にいくこと

2004-09-08 01:05:49 | Oshin(孤児院)日記
子ども達は学校にクラス分けのテストを受けに行った。子ども達はずっと学校に行きたがっていて、今日は朝からかなり興奮していたようだ。本当か嘘か知らないが、朝4時に起きた子もいたとか。 今日は学校の制服を作るために、寸法も計った。いよいよ明後日から学校に行く。子ども達は本当に喜んでいて、瞳を輝かせている。昨日も何度も僕に「明日は学校に行くんだよ!」と言っていた。僕にとって子ども達のこの喜びは新鮮だった。


17時からタメルのSea&Sky trabvelのオフィスで、ミーティングがあった。子ども達の試験の結果も発表された。一人の子を除いて、みんなUKGかLKG(大体4ー5歳児のクラス)であった。一同少なからずショックを受ける。小さな子達の集団に混じって授業を受けることになる大きな子もいる。まあ、英語が話せないし、年度の途中だから仕方がないのだが。ただし、飛び級があるので、学力がつけばどんどん上に上がっていける。


費用は50%の割引だが、こちらもドナー探しをしていくことが条件なので、ずっと50%というわけにはいかない。その他、今日はホームページの原案をチェックしたり、必要経費の確認をしたりした。台所ははっきりいって火の車である。会長のアチュートさんがかなりポケットマネーを使っている。子ども達の数もまだ少なく、ホームページやパンフレットも出来ていないので、まだ大々的にはお金を集めにくいのである。早くなんとかしなくてはいけない部分だ。


あさってにもう一度集まって、OSHINのポリシーを確定する。骨格は出来上がっているが、細かな詰めをして、対外的なものを文章としてしっかりと作り上げる作業だ。大事な作業である。




29-31

2004-08-31 17:14:22 | Oshin(孤児院)日記
 昨日NHKで台風の映像を見てびっくりした。今年はいろいろとすごいね。
バングラの洪水の情報を最初に流してからだいぶ時間が経ってしまいましたが、募金のお願いのページを紹介したいと思います。東京YMCAのページです。僕の元職場です。9月11日には渋谷で街頭募金もやるので、(詳細はこちらで)お時間がある人は是非参加してみてください。街頭で募金を呼びかけるのは、とてもよい経験になると思います。では、ここ数日分の日記、まとめてどうぞ。

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8月29日
 朝、タメルの街角でチャイを飲んでいると、突然大勢の男達が走ってきた。路上のサモサ売りやチャイ屋も、急いでガスバーナーやバケツを持って、横の小道に駆け込んだ。今日はバンダ(ゼネスト)である。ネパーリコングレス党などによるもので、反対派との衝突で負傷者も出たらしい。道の向こうから来たバイクは、その集団を見ると、急いで引き返していった。そのバイクに向かって、スピードを上げて走る男達。翌日のネットのニュースには20台もの車が壊されたと書いてあった。駆り出されたのか、集団の中には少年の姿も目につく。店もほとんで閉まっている。開けているのがストの集団に見つかれば、大変なことになるからだ。5月に来た時は、火(松明)を持って走る集団を見た。公共機関はストップしているし、リキシャもここぞとばかりにふかっけてくるので、歩いてOSHINに行った。午前中はCAFEでバングラに行ったことのある日本人2人と話し込み、さらにそれからOSHINのホームページの作業でネット屋に行ったので、OSHINに着くのがかなり遅くなってしまった。子どもたちは僕が来なくて泣いていたらしい。申し分けないことをした。


8月30日
 午前中にアティティツアーズという日本人向けの旅行会社に行った。ここには日本人サロンがあり、沢山の日本語書籍がある。本を2冊持っていくと、1冊と交換してくれるのだ。竜馬狙いで行ったのだが、面白い本を沢山発見してしまった。ここで本を読むことも出来るし、お茶も出してくれたりする。ここで知り合った女の子がOSHINに興味をもってくれて、今日早速一緒に行くことにした。チベット料理屋ギリンチェでトウクパを食べて、OSHINに向かう。


 最近は子どもたちから「何時にくるの?」と聞かれる。今日は2時に行くと答えていたのだが、アディティで沢山の日本人とあって話し込んでしまったりして、着くのがだいぶ遅れた。アティティでは協力隊員の人とも出会った。日本の旅行会社をやめて協力隊員になった人で、政府が主催するトレッキング会社同士の横のつながりの組織で仕事をしている。いかにして日本人客を獲得していくかという事業等に取り組んでいるとのこと。「観光」という分野での隊員募集もあるとは知らなかった。観光分野で隊員を募集している国は少ないらしい。


 OSHINに着いて、すぐに子どもたちと外に出る。今日は新たに新しい子どもが来ていた。名前はショビン。もう既にショビンという名前の子がいるので、他の子どもたちは「この子はショビン2だよ」と言っていた。あだ名を考えなくてはいけない。ショビン2が来て、こどもは7人になった。しかし今日話題になったのはショビン2ではなく、ショビン1であった。足をひねって歩けなくなってしまったのである。おぶってOSHINに帰り、クリニックに連れていった。ショビン1はいつも明るく素敵な少年だが、足をひねってからは一言も口を聞かなかった。目には涙を浮かべていた。


8月31日
 午前中はCPSへ。再度の料金交渉と具体的な子どもたちの入学日程を決めることが目的であった。料金はやはり50%までしか下がらなかった。しかし、他にコンタクトを取った学校は2人だけ無料とか、5人まで無料といった条件であったので、CPSは良い条件を出してくれているのである。実際、とても協力的である。子どもたちは次の日曜日にクラス決定の試験を受けることになった。ネパールでは年齢でクラスを決めることはない。飛び級もある。写真を沢山撮って帰る。帰りのバスの中で、ホームページの打ち合わせをした。

 これから昨日アディティで知り合った男の子をOSHINに連れていく約束をしている。最近OSHINに興味をもってくれる人が多く、いろんな人を連れていっている。


 いわゆる国際協力活動に関心がある人は多い。最近そういう人達と良い話を沢山しているので、どこかでまとめてシェアしたいと思う。





days

2004-08-27 01:34:50 | Oshin(孤児院)日記
 孤児院からツーリストエリアのタメル地区に拠点を移した。ここから毎日孤児院に通っている。


 OSHINに行くには、タメルから23番のマイクロバスに乗る。マイクロバスといってもやって来るのはただのTOYTOTAのハイエースだったりする。しかしそのハイエースに20人もの人が乗るのだ(一時期毎回人数を数えていた)。チャイルドシート着用の日本とは大違いである。ひどい時はドアから3人くらい人がはみ出している。しかしはみ出している時はまだましで、一番悲惨なのはバンの中で立ち乗りしなくてはいけない時だ。立ち乗りといってもバンだから、腰をL字に曲げて乗るのである。これははっきりいって悲惨である。「早く誰か降りてくれー」と思いながら乗っている。はみ出し乗りは短時間なら爽快である。スケボーやスノボーをやっている時のように、体が横を向いている。これで風を受けて走るのは結構気持ちがいい。ただし長時間乗ると疲れる。


 同じ23番でも途中からルートがいくつかに分かれる。何回か乗ってやっと気が付いた。僕はこの23番のマイクロバスが何故か好きなのである。窮屈だからみんな譲りあって上手に乗る。そこでコミュニケーションがあるのが面白いのだと思う。体は密着している。乗っている人全員の顔が見える。その距離感がいい。生活の匂いがする。「ダイ!(お兄ちゃん!)」と声を掛けて、お金を払う。


 20分ほどバスに乗る。バスを降りて、OSHINへの道を歩く。マナマイジュというエリアなのだが、この辺までくると、カトマンズ中心部と違って、雰囲気が落ち着いていている。細い道を抜け、川を渡り、田んぼを見ながら歩く。この道が好きだ。


 OSHINが見える。たいてい窓から誰かが覗いていて、手を振ってくれる。子ども達はよく窓の外を見ている。「ナマステ!」「ナマステ、サー!(最近はサーとも呼ばれる)」。誰かが外に行こうと言い出す。ペットボトルに水を入れて、フリスビーをもって外に出る。スニタやディペンドラが手をつないでくる。手を握って歩く。今日は岩や石を切り出している工事現場に行って、ちょっとした崖を登った。高いところからカトマンズが見渡せて、景色は最高だ。


 夕方、院に戻ると勉強をする。机がないので、床にノートをひろげる。ある程度できると僕に見せに来る。良く出来ていれば「ラムロ(=good)」と言って、ノートを返す。間違っていたら直してあげる。プロシャットウさんの娘息子たちも、ここで一緒に宿題をやっている。

 
 7時頃、プロシャットウさんの奥さんが呼びに来て、ご飯を食べる。3Fのキッチンの中にゴザを敷いて食べる。僕も子ども達と同じように手で食べる。食べ終わるとお皿を流しに持っていき、歯を磨く。8時半頃が終バス(時刻表はない)なので、僕はここらで院を出る。夜の風が気持ちいい。夜は近くまで来ているバスがないので、リングロードという環状ロードまで歩き、そこからバスに乗る。タメルに着くと、ネットカフェに寄ったり、朝ご飯の買い物(夜になると半額になるベーカリーでパンを買う)をしたりして、ホテルに戻る。フロントでスタッフの人と話す時もある。今の部屋はテレビがないので、本を読んだり、ダウンロードしておいたHPをパソコンで読んだり、この日記を書いたりする。テラスや屋上から夜のタメルを眺める時もある。


 大体こんな一日を送っています。もう完全に生活です。


Sweet Child O' Mine

2004-08-24 14:21:18 | Oshin(孤児院)日記
 昨日はずっと食べたかった酢のものを食べた。感動した。自分には「酢」が必要だったのだと分かった。
日本食万歳!ついでにNHK国際放送万歳!(NHK,見れるんです)

(写真はこの間と同じものですが、子どもの紹介。左からシャガル・赤いペコちゃんシャツはプロシャットウさんの息子・シャビン・ギター持っているのはプロシャットウさんの息子・スニタ・ラム・ショビナ)
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 子ども達同士はとても仲が良いと言うわけではないが、決して悪くはなく、一緒に遊んでいる。女の子が2人しかいなくて、年が少し離れているので、ちょっとかわいそうに思う時がある。上のショビナ(9才)は、みんながボール遊びをしていても、ほとんど参加しない。ハウスオーナーの娘アシュミタ(10才)が帰ってきて、一緒に遊んでくれると嬉しそうだ。ショビナは普段は割とおとなしいが、言うことははっきり言う。


 下の女の子スニタ(多分5or6才)は男の子に混じって仲良く遊んでいる。スニタはアルファベットが言えるし(発音はかなり怪しいが)、なんとか読める。楽しそうに読んでいる。字が読めるのが嬉しいのだろう。CPSに通うことになると、授業で英語を使うので、なるべく僕も英語を教えながら話す。以前も書いたが、この国で英語が使えるというのは、僕たちが考える以上に意味があり、大事なことなのである。それだけ仕事口が増えるのだから。英語熱はかなり熱い(これについてはいろいろ議論も必要なように思うが)。ちなみに日本語熱も結構熱い。ハウスオーナーの子どもたちアシュミタ・サンディップ(13)とは、かなり英語で意志疎通ができる。日本のこどもは、文や単語は読めるが、しゃべることは苦手だ。この違いにびっくりする。OSHINの子ども達も、いつの日か英語を自由に操るようになるのだろう。


 男の子はやっぱりわんぱくだ。女の子もだが、物怖じする子はいない。ネパールの子は、日本の子よりも芯が強いように思う。一番上はショビン(9)。彼は頭がいい。僕の言おうとしていることや、やろうとしていることを理解しようとしてくれる。一番初めに自主的に掃除を始めたのも彼だ。その後にラム(8か9)、シャガル(8)、ディペンドラ(6)と続く。ラムは頭がいい。でもシャガルと共にやんちゃ坊主だ。くすぐりにとても弱い。シャガルはショビナの弟である。今日は外に遊びに行った時に、一人で勝手に帰ろうとして僕に厳しく怒られ(言葉が出来ないので、真剣さを表すために強い調子になってしまう)、しょげていた。ディペンドラは遅れて先日来た子である。他の子に比べてまだ分別がつかないので、調子にのって悪いことをして、他の子に叩かれている。叩くことも含め、子ども達の人間関係やネパールの教育については、もっと子ども達を観察したり、大人達にインタビューをして、別の機会に書こうと思う。


 子ども同士は良い友になって欲しいが、やはりその前にこの子達は家族なのだと僕は思う。帰るところは親戚の家か(親戚もいない子もいる)、ここなのである。僕たちはこの子達が大きくなった時に、新しく入ってくる子達の面倒を良く見てくれることを期待している。子ども達はある一定の年齢(まだ確定はしていない)になったら、孤児院を出なくてはならないが、子ども達の世話してくれる子を、本人が希望すれば孤児院に残そうと考えている。今は一緒に住んでいるアシュミタやサンディップがその役割を果たしてくれている。


 僕は「TAKASHI‐SAN」と呼ばれている。初めは「TAKASHI」だったのに、誰が教えたのか、いつのまにかそうなってしまった。みんなよくなついてくれてかわいい。この間はみんなでダンスパーティをやった。といってもみんな好き勝手に自分の踊りたい踊りを踊るだけだ。僕もメチャクチャな踊りを踊った。とても楽しかった。子ども達は歌うのも踊るのも大好きである。暇になるとやっている。


 夜、子ども達が寝静まると、大人達で話をする。今の一番の課題はお金だ。CPSが無料で生徒を受け入れてくれることを計算してスタートしてしまったので、今になって頭を痛めている。プロシャットウさんが今日もう1度学校に交渉に行ったが、結果は芳しくなかった。粘り強く交渉を続ける予定である。とにもかくにも来週から学校に行けるのは喜ばしいことだ。学期の途中だし、うまく溶け込めるか不安はあるが・・。