(写真は昨年9月、バングラデシュ・ビリシリにて。夏に起きた洪水のため、政府が食料配給をしている写真)
うっかりしていると、前の更新からあっという間に日にちが経っている。goo blogのメインページで写真でピックアップされてから、見る人が随分増えた。ありがたいことだ。感想など残していってもらえると嬉しいです。相互リンクもしますので、HP持っている方は教えてください。
バングラ(バングラデシュ)日記は途中で終わりになっていた。僕の日記は「この話はまたの機会に」などと言って終わっているのが多く、先日も友達にそれを突っ込まれた。書く気はあるんだけど、そういうやつに限ってテーマが壮大だったりして、なかなか書き出せなかったりする。旅が終わる前に書いておきたいやつがいくつかあるんだけど。
昨年の春まで毎年、僕はある団体の引率者として、主に若い学生たちを連れてバングラデシュの農村でトイレを作るワークキャンプに行っていた。その後仕事をやめ、去年(もう去年か)バングラデシュを旅していた時に、沢山のキャンプに参加していたバングラデシュ人に会ってきた。今回はその一人に会った時の話だ。
彼はキャンプで沢山の日本人に会って、自分たちと日本人の違いに愕然としたという。僕たちは高い参加費を払い、バングラデシュにやってきた。バングラデシュの大多数の人々は、もちろん飛行機に乗る機会などない。バスや電車を使って首都ダッカに出ることさえ、大変な出来事である。そんな人たちが僕らと出会い、日本の話を聞き、そして僕らが持ち込んだ沢山の物を見た。
何故彼らと僕らはこうも違うのか。彼のショックはキャンプが終わった後も、長い間続いたらしい。
Only when the last tree has died
And the last river has been poisoned
And the last fish has been caught
Will we realaize that we can`t eat money. Can you???
そんな時彼はこの詩に出会い、今いるこの場所で自分は頑張ろうと思ったのだという。
日本人には日本人でいろんなことがある。彼はキャンプで出会った日本人や、TVなどの情報から日本の悪い部分も聞いて知っているので、手放しで日本を賛美しているわけではない(彼は自分の故郷をとっても愛していて、将来は故郷に住みたいと言っている)。
彼の話に関する感想は書かない。ただ、僕は本音の部分を書きたいと思って書いた。旅で訪れる土地の人も、自分の土地を、自分の国をどう思っているのか、本音を聞きたがる。僕はなるべく正直に話すようにしている。僕もやはり本音が聞きたい。それが、汚い部分でも、耳にしたくないようなことでも。それも僕が旅で求めていることである。
・・・・・・・・・・・・・・・
BOOKMARK2、更新しました。
旅する日記 旅日記
旅日記とは旅する日記帳のこと。ある旅人が日記を書いたら次の旅人に渡して、毎回違う旅人に日記を書いてもらい、旅人の力をかりて旅する日記。僕がインド・バラナシで受け取った日記を、ケニアのナイロビまで運びました。旅日記の主催者の加倉さん(ネパール・カトマンズで会った)のホームページはこちら→Hello World! 世界旅行
写真だけってヤツをやってみようと思っていて、今日やってみた。この写真はみはる提供のバングラデシュ・ゴパルゴンジの写真です。これは漁と呼べばいいのでしょうか?おじさんが2人頑張っていますが、実は見事なくらい釣れていません。スタイルはただ網を投げる、引く、また投げるの繰り返し。それにしてもバングラって景色が濃いね、何でだろう?その濃さが僕の中で、バングラの一つの魅力になんだけどね。昨日知り合った人が(@ホーリーランドゲストハウス)、パキスタンに行くかバングラに行くか迷っていたので、現像したばかりのビリシリの写真を見せながら、猛烈にバングラをプッシュした。別にお金もらっているわけでもないのにな。俺はバングラに惚れたな。
(gooブログは、一見写真が小さそうに見えますが、タイトルをクリックすると、大きな写真付で記事が見れます。もしくは写真クリックでも写真拡大。携帯だとどう見えるんだろう?gooブログはちょっと不便が多いです。)
(gooブログは、一見写真が小さそうに見えますが、タイトルをクリックすると、大きな写真付で記事が見れます。もしくは写真クリックでも写真拡大。携帯だとどう見えるんだろう?gooブログはちょっと不便が多いです。)
もうちょっと続くバングラ編・・・ 9.23
朝はGBC(Garo baptest convension)へ。オロックのお父さんがここで働いているので、ちょっとインターネットを使わせてもらった。一つメールを送る作業をするのに20分くらいかかった。
その後ビリシリYMCAへ。スタッフがだいぶ変っていて驚いた。僕が2003年のワークキャンプで訪れた時の総主事、コーネル氏も、今はビリシリYMCAにはいない。歓迎を受ける。しばらくスタッフと談笑。
午後はビリシリYMCAの近くの村に遊びにいった。ワークキャンプでは村にトイレを作ったのだが、僕のことを覚えてくれている人達が沢山いた。子ども達と一緒に遊ぶ。「TOTO便器」の歌も覚えていた。村でトイレを作った時に、「トイレの後には手を洗おう」「食事の前には手を洗おう」といった内容の歌を作って振り付きで歌った。TOTOの影響力、おそるべし。
トイレもいくつか見学。ゴパルゴンジで作ったトイレを違い、フェンスが竹を編んでつくったものなので、フェンス自体はほとんど壊れていた。それを補強したり、フェンスを取り換えたりして、トイレを使い続けてくれていた。嬉しいものである。
夜はやっぱり停電。教会に向かう小さな橋の上で、オロックと過ごす。彼はたばこを吸っている。僕は何もしていない。ただ夜の景色を見ている。それが心地良い。ビリシリはそんな場所だ。それ以外になんと表現したらいいか分からない。
朝はGBC(Garo baptest convension)へ。オロックのお父さんがここで働いているので、ちょっとインターネットを使わせてもらった。一つメールを送る作業をするのに20分くらいかかった。
その後ビリシリYMCAへ。スタッフがだいぶ変っていて驚いた。僕が2003年のワークキャンプで訪れた時の総主事、コーネル氏も、今はビリシリYMCAにはいない。歓迎を受ける。しばらくスタッフと談笑。
午後はビリシリYMCAの近くの村に遊びにいった。ワークキャンプでは村にトイレを作ったのだが、僕のことを覚えてくれている人達が沢山いた。子ども達と一緒に遊ぶ。「TOTO便器」の歌も覚えていた。村でトイレを作った時に、「トイレの後には手を洗おう」「食事の前には手を洗おう」といった内容の歌を作って振り付きで歌った。TOTOの影響力、おそるべし。
トイレもいくつか見学。ゴパルゴンジで作ったトイレを違い、フェンスが竹を編んでつくったものなので、フェンス自体はほとんど壊れていた。それを補強したり、フェンスを取り換えたりして、トイレを使い続けてくれていた。嬉しいものである。
夜はやっぱり停電。教会に向かう小さな橋の上で、オロックと過ごす。彼はたばこを吸っている。僕は何もしていない。ただ夜の景色を見ている。それが心地良い。ビリシリはそんな場所だ。それ以外になんと表現したらいいか分からない。
レマ家出発。小雨が降っている。ダッカ・モハカリバスターミナルから北へ、ネトロコナ県ビリシリへ向かう。といっても、バスはビリシリまでは行かない。夏の洪水で橋と道が壊れているからだ。マイメンシンを通過して、1時間半ほどのところでバスを降ろされた。船着き場に向かって歩き出す。おじいちゃんが隣に並んできて、話しかけてきた。昼ご飯を食べたくてあるお店に入ろうとしたら、「そこはおいしくないから」といって、僕を別の店に連れていってくれた。予想通りすぐに人だかりができた。もう慣れたもので、30人くらいに見られようと、僕は一人で悠々とご飯が食べられる。しっかり食後のチャイも飲んで店を後にする。
小船で川を渡る。渡り終えてから、崩壊してしまった橋を写真に収めた。そして振り返るとそこにオロックがいた。前にも書いたが、オロックはレマのお兄さんで、僕は2002年のワークキャンプで彼と会っている。ルーズな奴なので、ひょっとしたら来ないんじゃないかと思ったが、ちゃんとバイクで迎えに来てくれた。再会を喜ぶ。汚いザックをHONDA(みんなバイクのことをこう呼んでいた)に括りつけて出発。快適なドライブだったが、途中でエンジンがおかしくなり、ストップ。店があるマーケットまで引き返す。
修理の間、僕は近くにある鉄道駅を見に行った。この地方の終着駅だ。2人の男達が、たいこと歌に別れて演奏をしていた。これが噂の吟遊詩人だろうか?しばらく聞いていたが、どうやら歌うたいがうまくないらしく、たいこ男から突っ込みが入る。なかなか良かったけどね。人だかりを抜けて、鉄道の写真を撮っていたら、こちらも人だかりになってしまった。吟遊詩人なみの人だかりだ。適当に脱出する。修理も終わったので出発する。
ビリシリの手前のグランドでサッカー大会をやっていた。地域対抗の試合のようだ。チャイを買ってしばらく観戦。盛りあがっている。日没で終了。ビリシリへ。
ビリシリは停電中だった。毎晩2時間くらい停電する。一番電気が必要な時間なのに・・。だから停電してしまうんだろうけど。まっすぐ家に行かずに、オロックいきつけのチャイ屋に行く。停電の時はよくここに来るのだという。彼の仲間もここに集まってくる。確かに停電の家の中にいるよりも、こっちの方が全然良い(チャイ屋はみんなオープンエアです)。ま、ようするに毎晩のように来るのである。みんなの憩いの場である。確かに停電の家の中にいるよりも、こっちの方が全然良い。こういう場所があるのはうらやましい。チャイを飲み終わると、近くの草むらに座り、星を眺める。時間がゆったりと流れる。蛍が沢山見える。
しばらくまったりした後、オロックの家へ。今日からここでホームステイをするのである。そういえば僕にとっては生まれて初めての外国でのホームステイである。オロックのお父さんは、以前ビリシリYMCAの総主事をしていた方で、2003年の春にもお会いしている。今はGBC(Garo Baptest Convension)という、クリスチャンの団体で働いている。ガロ族はみなクリスチャンであり、ガロ族がいるところには必ず教会やキリスト教系の団体がある。GBCの敷地には、クリニックやホステル、教会などがある。オロックのお父さんは牧師さんでもある。お母さんもよく笑う素敵な方だ。個室を与えられて、快適に眠った。
小船で川を渡る。渡り終えてから、崩壊してしまった橋を写真に収めた。そして振り返るとそこにオロックがいた。前にも書いたが、オロックはレマのお兄さんで、僕は2002年のワークキャンプで彼と会っている。ルーズな奴なので、ひょっとしたら来ないんじゃないかと思ったが、ちゃんとバイクで迎えに来てくれた。再会を喜ぶ。汚いザックをHONDA(みんなバイクのことをこう呼んでいた)に括りつけて出発。快適なドライブだったが、途中でエンジンがおかしくなり、ストップ。店があるマーケットまで引き返す。
修理の間、僕は近くにある鉄道駅を見に行った。この地方の終着駅だ。2人の男達が、たいこと歌に別れて演奏をしていた。これが噂の吟遊詩人だろうか?しばらく聞いていたが、どうやら歌うたいがうまくないらしく、たいこ男から突っ込みが入る。なかなか良かったけどね。人だかりを抜けて、鉄道の写真を撮っていたら、こちらも人だかりになってしまった。吟遊詩人なみの人だかりだ。適当に脱出する。修理も終わったので出発する。
ビリシリの手前のグランドでサッカー大会をやっていた。地域対抗の試合のようだ。チャイを買ってしばらく観戦。盛りあがっている。日没で終了。ビリシリへ。
ビリシリは停電中だった。毎晩2時間くらい停電する。一番電気が必要な時間なのに・・。だから停電してしまうんだろうけど。まっすぐ家に行かずに、オロックいきつけのチャイ屋に行く。停電の時はよくここに来るのだという。彼の仲間もここに集まってくる。確かに停電の家の中にいるよりも、こっちの方が全然良い(チャイ屋はみんなオープンエアです)。ま、ようするに毎晩のように来るのである。みんなの憩いの場である。確かに停電の家の中にいるよりも、こっちの方が全然良い。こういう場所があるのはうらやましい。チャイを飲み終わると、近くの草むらに座り、星を眺める。時間がゆったりと流れる。蛍が沢山見える。
しばらくまったりした後、オロックの家へ。今日からここでホームステイをするのである。そういえば僕にとっては生まれて初めての外国でのホームステイである。オロックのお父さんは、以前ビリシリYMCAの総主事をしていた方で、2003年の春にもお会いしている。今はGBC(Garo Baptest Convension)という、クリスチャンの団体で働いている。ガロ族はみなクリスチャンであり、ガロ族がいるところには必ず教会やキリスト教系の団体がある。GBCの敷地には、クリニックやホステル、教会などがある。オロックのお父さんは牧師さんでもある。お母さんもよく笑う素敵な方だ。個室を与えられて、快適に眠った。
9.26(昨日の続き)
その後ニューマーケットとモティジールへ。リキシャ&ローカルバスを乗りこなす。汗にまみれた車掌さんが、出入り口から半身を乗り出して(安いバスに扉はない)、早口で行き先を叫んでいる。クレイジードライバー達(どれくらいクレイジーかは行けば分かる。恐い人はバスの中で前を見ない方がいい)のクラクションとエンジン音、それにリキシャのベルとおやじ達の怒号が混じって、周囲は大喧騒だ。この中で、自分の目的地を叫んでいるバスを聞き分けるのである。汗にまみれたおじさんが低い声で「モハカリファームゲートカックライルグリスタン」などと、息継ぎなしに早口で叫んでいる(ちなみに、モハカリ・ファームゲート・カックライル・グリスタンと叫んでいる)。日本ならさしずめ、新宿代々木原宿渋谷恵比寿五反田-と早口息継ぎなしで叫んでいるようなものだ。余談だが、息継ぎなし早口攻撃は、バス内の物売り(ローカルバスにも乗り込んでくる)も一緒である。数ある単語の中で、今日はナビスコという単語だけが聞き取れた。おじさん達の低い声の早口攻撃は印象深く耳に残っている。
バスによっては、バス停付近でも止まらずにかなりのスピードを出したままである。バスはきちんとバス停になんか止まらず(そもそもバス停の看板はなく、人だかりがあるところがバス停である)、すぐに発車してしまうので、お目当てのバスが来るとみんなバスに向かって走る。特に満員に近いバスは、バス停に止まらずに逃げようとするが、それに人々がくらいつくのだ。僕が乗ろうとしたバスも込んでおり、目の前に繰り広げられるその光景に呆然として、しばらくバスに乗れなかった。
明日はいよいよビリシリへ移動する。
その後ニューマーケットとモティジールへ。リキシャ&ローカルバスを乗りこなす。汗にまみれた車掌さんが、出入り口から半身を乗り出して(安いバスに扉はない)、早口で行き先を叫んでいる。クレイジードライバー達(どれくらいクレイジーかは行けば分かる。恐い人はバスの中で前を見ない方がいい)のクラクションとエンジン音、それにリキシャのベルとおやじ達の怒号が混じって、周囲は大喧騒だ。この中で、自分の目的地を叫んでいるバスを聞き分けるのである。汗にまみれたおじさんが低い声で「モハカリファームゲートカックライルグリスタン」などと、息継ぎなしに早口で叫んでいる(ちなみに、モハカリ・ファームゲート・カックライル・グリスタンと叫んでいる)。日本ならさしずめ、新宿代々木原宿渋谷恵比寿五反田-と早口息継ぎなしで叫んでいるようなものだ。余談だが、息継ぎなし早口攻撃は、バス内の物売り(ローカルバスにも乗り込んでくる)も一緒である。数ある単語の中で、今日はナビスコという単語だけが聞き取れた。おじさん達の低い声の早口攻撃は印象深く耳に残っている。
バスによっては、バス停付近でも止まらずにかなりのスピードを出したままである。バスはきちんとバス停になんか止まらず(そもそもバス停の看板はなく、人だかりがあるところがバス停である)、すぐに発車してしまうので、お目当てのバスが来るとみんなバスに向かって走る。特に満員に近いバスは、バス停に止まらずに逃げようとするが、それに人々がくらいつくのだ。僕が乗ろうとしたバスも込んでおり、目の前に繰り広げられるその光景に呆然として、しばらくバスに乗れなかった。
明日はいよいよビリシリへ移動する。
9.25
みはるついに帰る。結構な期間を一緒に旅してきたので、さすがに寂しいものがある。レマも寂しそうだった。その後オットウの家に行く。オットウの家は、3分の1くらいが池の上にせり出していて、途中から小船を使って行った。10人位が一緒に住んでいる。みんなガロ族の人達である。みんな僕をガロ族だと思ったようだ(ガロもモンゴロイドで、日本人と良く似ている)。日本人だと説明しても信じてくれない人もいて、のちのちまでレマはそのことで笑っていた。
夜は、もう一人のレマの家へ。2003年のワークキャンプに参加した、(ショ)ログナ・レマである。前述のレマのいとこ。このレマ(女の子)も兄とダッカのミルプールというところに住んでいる。仕事を止めてしまって、現在求職活動中とのこと。いい話も聞いてしまった。みんなで話し込んでいたら盛り上がってしまい、プロック・レマ家の門限を過ぎてしまった。というわけで、みんなで雑魚寝。夜はトランプ大会白熱。
9.26
午前はダッカ大学へ。ダッカ大はバングラの東大のようなものだ。キャンパス内にホステルがある。レマの友達キショルの部屋に行く。キショルはシンガーで、自分で曲も作っている。他の部屋もいろいろ見せてもらったが、どの部屋も恐ろしく汚い。キショルの部屋は個室でまだ良かったが(それでも汚かったが)、ドミトリーは悲惨だ。もともと建物が古くて汚い上に、誰も掃除や整理整頓なんかしていないのだ。本や服がいたるところに放り投げられたまま。壁には映画女優のポスターなどが沢山貼ってあった。こんなところに絶対住みたくない。やっぱり男はこんなもんか?
現在は本当はテスト期間中なのだが、政情不安で延期になっている。ダッカ大学は結構物騒なところで、政治政党がらみで教授が襲われたり、生徒が殺されたりしている。3日前にも、爆弾事件があったという。みんながTVを見る部屋の屋上で、爆弾が爆発したのだ。カフェのテーブルは、学生達の政治組織によっていつも占領されているようだ(日本の大学サークルのテーブルみたいにされている)。
レマの友達オシムが(彼もガロ)、大学内を案内してくれた。総合大学でキャンパスはとんでもなく大きい。普通の道もキャンパス内を沢山走っており、移動のため何度かリキシャを使った。日本語コースもある。なかなか面白かった。(続く)
みはるついに帰る。結構な期間を一緒に旅してきたので、さすがに寂しいものがある。レマも寂しそうだった。その後オットウの家に行く。オットウの家は、3分の1くらいが池の上にせり出していて、途中から小船を使って行った。10人位が一緒に住んでいる。みんなガロ族の人達である。みんな僕をガロ族だと思ったようだ(ガロもモンゴロイドで、日本人と良く似ている)。日本人だと説明しても信じてくれない人もいて、のちのちまでレマはそのことで笑っていた。
夜は、もう一人のレマの家へ。2003年のワークキャンプに参加した、(ショ)ログナ・レマである。前述のレマのいとこ。このレマ(女の子)も兄とダッカのミルプールというところに住んでいる。仕事を止めてしまって、現在求職活動中とのこと。いい話も聞いてしまった。みんなで話し込んでいたら盛り上がってしまい、プロック・レマ家の門限を過ぎてしまった。というわけで、みんなで雑魚寝。夜はトランプ大会白熱。
9.26
午前はダッカ大学へ。ダッカ大はバングラの東大のようなものだ。キャンパス内にホステルがある。レマの友達キショルの部屋に行く。キショルはシンガーで、自分で曲も作っている。他の部屋もいろいろ見せてもらったが、どの部屋も恐ろしく汚い。キショルの部屋は個室でまだ良かったが(それでも汚かったが)、ドミトリーは悲惨だ。もともと建物が古くて汚い上に、誰も掃除や整理整頓なんかしていないのだ。本や服がいたるところに放り投げられたまま。壁には映画女優のポスターなどが沢山貼ってあった。こんなところに絶対住みたくない。やっぱり男はこんなもんか?
現在は本当はテスト期間中なのだが、政情不安で延期になっている。ダッカ大学は結構物騒なところで、政治政党がらみで教授が襲われたり、生徒が殺されたりしている。3日前にも、爆弾事件があったという。みんながTVを見る部屋の屋上で、爆弾が爆発したのだ。カフェのテーブルは、学生達の政治組織によっていつも占領されているようだ(日本の大学サークルのテーブルみたいにされている)。
レマの友達オシムが(彼もガロ)、大学内を案内してくれた。総合大学でキャンパスはとんでもなく大きい。普通の道もキャンパス内を沢山走っており、移動のため何度かリキシャを使った。日本語コースもある。なかなか面白かった。(続く)
9.24
午前中は、CHURCH OF BANGLADESHというNGOや、エディルプールYMCAの理事長の家を訪問。その後、ダッカへ向けて出発する。まずはリキシャに乗って、モディプールへ。ラジブがここまで見送りに来てくれた。今日はここで市があるので、その買い出しもあるらしい。
ダッカへ。エディルプールを出る前に、レマに電話をした。彼も2004年のワークキャンプの参加者で、今日は彼の家泊まることになっている(僕は今日だけじゃなくて、かなり長い間お世話になったが)。指定された場所でバスを降りると、レマと彼のいとこオットウが待ってくれていた。CNGという、ひどい排気ガスをあまり出さない新しいトックトックに乗る。しかしこの車が排気ガスをあまり出さなくても他の車がバンバン排気ガスを出す。CNGだとそれをもろに吸ってしまうので、あまり好きではない。
レマはアメリカ大使館に勤めるお姉さんベリーと、家事手伝いの女の子パビタの3人で暮らしている。ダッカ、バリダワのエリアにあるマンションだ。近くに住む仲良しのオットウも毎日泊まっていた。ラーメンを頂く。みはるは今日がバングラ最後の夜なので、アーロンというバングラデシュの手工芸品を売っているお店に買い物に行った。手工芸品はNGOのプロジェクトで現地女性が制作したもので、女性が職を得ることが難しいバングラデシュで、彼女たちの貴重な現金収入源となっている。人工の約90%がイスラム教徒のバングラデシュでは、女性の地位はとても低い。女性が賃金を得、力を得ていくことが、地域や家庭での女性の地位向上につながっている。手工芸品制作は、各NGOがこぞって取り組んでいるプロジェクトで、お店もアーロンだけではなく、沢山ある。いくつかのお店を回ったが、アーロンのものはやはり質が高い。アーロンはバングラデシュ最大手のメガNGO、BLACが運営しているお店である。全館冷房、喫茶店もある(アーロンHP→http://www.brac-aarong.com/)。
帰宅後、ご飯を食べながらビールを飲む。疲れていたので、僕は早々と寝た。みはるは朝までレマと語り合っていた。
午前中は、CHURCH OF BANGLADESHというNGOや、エディルプールYMCAの理事長の家を訪問。その後、ダッカへ向けて出発する。まずはリキシャに乗って、モディプールへ。ラジブがここまで見送りに来てくれた。今日はここで市があるので、その買い出しもあるらしい。
ダッカへ。エディルプールを出る前に、レマに電話をした。彼も2004年のワークキャンプの参加者で、今日は彼の家泊まることになっている(僕は今日だけじゃなくて、かなり長い間お世話になったが)。指定された場所でバスを降りると、レマと彼のいとこオットウが待ってくれていた。CNGという、ひどい排気ガスをあまり出さない新しいトックトックに乗る。しかしこの車が排気ガスをあまり出さなくても他の車がバンバン排気ガスを出す。CNGだとそれをもろに吸ってしまうので、あまり好きではない。
レマはアメリカ大使館に勤めるお姉さんベリーと、家事手伝いの女の子パビタの3人で暮らしている。ダッカ、バリダワのエリアにあるマンションだ。近くに住む仲良しのオットウも毎日泊まっていた。ラーメンを頂く。みはるは今日がバングラ最後の夜なので、アーロンというバングラデシュの手工芸品を売っているお店に買い物に行った。手工芸品はNGOのプロジェクトで現地女性が制作したもので、女性が職を得ることが難しいバングラデシュで、彼女たちの貴重な現金収入源となっている。人工の約90%がイスラム教徒のバングラデシュでは、女性の地位はとても低い。女性が賃金を得、力を得ていくことが、地域や家庭での女性の地位向上につながっている。手工芸品制作は、各NGOがこぞって取り組んでいるプロジェクトで、お店もアーロンだけではなく、沢山ある。いくつかのお店を回ったが、アーロンのものはやはり質が高い。アーロンはバングラデシュ最大手のメガNGO、BLACが運営しているお店である。全館冷房、喫茶店もある(アーロンHP→http://www.brac-aarong.com/)。
帰宅後、ご飯を食べながらビールを飲む。疲れていたので、僕は早々と寝た。みはるは朝までレマと語り合っていた。
朝。今日もYMCAで朝食を用意してくれていた。シャゴルと一緒に食べる。食べていると、なんとラジブがやってきた。彼は今年の春のゴパルゴンジのワークキャンプに参加している。嬉しい再会である。半年前だから、別に大して変わっていない。
今日は、予定がある。エディルプールYMCAが運営している、NFPE(Non Formal Primary Education)スクールの見学である。「働く子ども達のための学校」と説明していた。仕事を持つ子ども、家事手伝いをしなければならない子ども達のために、授業を一日3時限だけにしている。公立の学校は授業料は無料だが、入学しても仕事のためにドロップアウトしていく子ども達が多いのだ。そんな子ども達のために、最低限のことを3年間で教えていく学校である。詳しくは東京YMCAのホームページで。
エディルプールYMCAのNFPEには、40人の生徒がおり、1人の女の先生が教えている。カコリ・ソレン先生。元気な若い先生だ。シャゴルとラジブに通訳になってもらい、子ども達にインタビューをする。名前・年齢・趣味・将来の夢など。みんなちょっと緊張気味。そりゃあ、そうだよね。写真も沢山撮った。みはるがみんなに日本の写真を見せ、解説する。みんな興味津々だ。その後授業も見せてもらった。
その後、村を見学。エディルプール、本当に何にもない田舎だけれど、きれいなところだ。時間の流れがゆったりしている。ここはパイナップルの産地である。おじさん達がパイナップルをバンの荷台に載せていた。あぜ道を歩く。ラジブの家を訪問。ラジブもシャゴルもガロ族である。ここには75世帯のガロの家がある。ガロのことはこれまであんまり詳しく説明していなかったが、今回のバングラ旅はガロとの関わりが濃いので、ちょっと説明しておく。マンディのホームぺージから文章を拝借。
****************************************
ガロ族とは、チベット・ビルマ語族のモンゴロイド系民族でチベットやビルマから移住してきた人々であると言われています。もともとアッサム地方やベンガル地方にいくつかのグループに分かれて生活していて、山地(主に現在のインド側)の人々を「アチック」平地(バングラデシュ側)を「マンディ」と呼んでいました。
【歴史】
ガロ族は古代からアッサム地方や「ガロの丘」で生活をしてきましたが、1947年、イギリス領インドからインドとパキスタンに分離独立したことで、ガロの居住区は国境を隔てて2つに分けられてしまいました。インドとパキスタンに分離独立した時に、イスラムでもヒンドゥーにも属さないガロ族は迫害され、多くの残虐行為にさらされたため、多くのガロ族がインドへと退去していきました。
その後も、多くの入植や暴力を受けつづけ、極貧と窮乏の中で生活をしていくことを余儀なくされています。
【母系社会制】
ガロ族は、子どもは母親の血族に属し、財産や負債、地位や姓もが母から娘へと承継される社会です。ただし、土地および財産は個人のものではなく、財産をコントロールするのは母性の一族です。
ガロの場合、相続人には娘の家の一人が選ばれます。父方の姉妹の息子と結婚することが好まれ、結婚すると夫は妻の家に入る習慣になっています。またガロ族には「サングマ」と「マラク」という二大系統があり、結婚する場合には同系族間の結婚はタブーとされてきました。
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ガロの家は、泥で作られた家が多い。mudと言っていたので泥と訳したが、ただの泥ではなく、いろいろな物を混ぜているのではないかと想像する。きれいな壁である。彼の家もクリスチャンであり、イエスの絵が飾られていた。
今日はシャゴルの家も訪問。新婚の奥さんとも対面。素敵な方だ。シャゴルがどことなく変った気がするのは、結婚のせいだろうか。
夜。今日はこの孤児院を運営しているCHURCH OF CHIRDRENのスタッフ、さんの家に夕食に招かれていた。敷地内の僕らが泊まっているゲストハウスのすぐ近くに、彼の家はあった。ちょっとお金持ちな感じである。彼はエディルプールの出身ではない。食事はとてもおいしかった。なんでトルカリはこんなにもうまいのか。
夕食後、六角形の面白い形をした礼拝堂で、生徒達が音楽会をやっていた。ちゃんと司会がいて、生徒の名前を呼ぶのである。呼ばれた生徒達がでてきて、アカペラ歌を歌う。歌はゴスペルソングが多い。ソロで歌う子もいる。恥ずかしそうに出てくるが、みんなきちんと歌う。歌い終わりの方は早口になって、終わるとすぐに自分の席に戻ろうとする。上手だとアンコールがかかる。
僕らも呼ばれて歌った。アドベンチャーソングとTIRO。先生はみんなに覚えさせて、歌わせたかったらしく、僕らは何回も歌った。みんなばっちりメモっていた。それで歌えるたからすごい。楽しい夜だった。
今日は、予定がある。エディルプールYMCAが運営している、NFPE(Non Formal Primary Education)スクールの見学である。「働く子ども達のための学校」と説明していた。仕事を持つ子ども、家事手伝いをしなければならない子ども達のために、授業を一日3時限だけにしている。公立の学校は授業料は無料だが、入学しても仕事のためにドロップアウトしていく子ども達が多いのだ。そんな子ども達のために、最低限のことを3年間で教えていく学校である。詳しくは東京YMCAのホームページで。
エディルプールYMCAのNFPEには、40人の生徒がおり、1人の女の先生が教えている。カコリ・ソレン先生。元気な若い先生だ。シャゴルとラジブに通訳になってもらい、子ども達にインタビューをする。名前・年齢・趣味・将来の夢など。みんなちょっと緊張気味。そりゃあ、そうだよね。写真も沢山撮った。みはるがみんなに日本の写真を見せ、解説する。みんな興味津々だ。その後授業も見せてもらった。
その後、村を見学。エディルプール、本当に何にもない田舎だけれど、きれいなところだ。時間の流れがゆったりしている。ここはパイナップルの産地である。おじさん達がパイナップルをバンの荷台に載せていた。あぜ道を歩く。ラジブの家を訪問。ラジブもシャゴルもガロ族である。ここには75世帯のガロの家がある。ガロのことはこれまであんまり詳しく説明していなかったが、今回のバングラ旅はガロとの関わりが濃いので、ちょっと説明しておく。マンディのホームぺージから文章を拝借。
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ガロ族とは、チベット・ビルマ語族のモンゴロイド系民族でチベットやビルマから移住してきた人々であると言われています。もともとアッサム地方やベンガル地方にいくつかのグループに分かれて生活していて、山地(主に現在のインド側)の人々を「アチック」平地(バングラデシュ側)を「マンディ」と呼んでいました。
【歴史】
ガロ族は古代からアッサム地方や「ガロの丘」で生活をしてきましたが、1947年、イギリス領インドからインドとパキスタンに分離独立したことで、ガロの居住区は国境を隔てて2つに分けられてしまいました。インドとパキスタンに分離独立した時に、イスラムでもヒンドゥーにも属さないガロ族は迫害され、多くの残虐行為にさらされたため、多くのガロ族がインドへと退去していきました。
その後も、多くの入植や暴力を受けつづけ、極貧と窮乏の中で生活をしていくことを余儀なくされています。
【母系社会制】
ガロ族は、子どもは母親の血族に属し、財産や負債、地位や姓もが母から娘へと承継される社会です。ただし、土地および財産は個人のものではなく、財産をコントロールするのは母性の一族です。
ガロの場合、相続人には娘の家の一人が選ばれます。父方の姉妹の息子と結婚することが好まれ、結婚すると夫は妻の家に入る習慣になっています。またガロ族には「サングマ」と「マラク」という二大系統があり、結婚する場合には同系族間の結婚はタブーとされてきました。
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ガロの家は、泥で作られた家が多い。mudと言っていたので泥と訳したが、ただの泥ではなく、いろいろな物を混ぜているのではないかと想像する。きれいな壁である。彼の家もクリスチャンであり、イエスの絵が飾られていた。
今日はシャゴルの家も訪問。新婚の奥さんとも対面。素敵な方だ。シャゴルがどことなく変った気がするのは、結婚のせいだろうか。
夜。今日はこの孤児院を運営しているCHURCH OF CHIRDRENのスタッフ、さんの家に夕食に招かれていた。敷地内の僕らが泊まっているゲストハウスのすぐ近くに、彼の家はあった。ちょっとお金持ちな感じである。彼はエディルプールの出身ではない。食事はとてもおいしかった。なんでトルカリはこんなにもうまいのか。
夕食後、六角形の面白い形をした礼拝堂で、生徒達が音楽会をやっていた。ちゃんと司会がいて、生徒の名前を呼ぶのである。呼ばれた生徒達がでてきて、アカペラ歌を歌う。歌はゴスペルソングが多い。ソロで歌う子もいる。恥ずかしそうに出てくるが、みんなきちんと歌う。歌い終わりの方は早口になって、終わるとすぐに自分の席に戻ろうとする。上手だとアンコールがかかる。
僕らも呼ばれて歌った。アドベンチャーソングとTIRO。先生はみんなに覚えさせて、歌わせたかったらしく、僕らは何回も歌った。みんなばっちりメモっていた。それで歌えるたからすごい。楽しい夜だった。
路上にたむろする子ども達とも遊んだ。貧しい身なりの子ども達だ。どうしてもああいう子ども達が気になってしまう。グルシャンの辺りは子どもの物乞いが沢山いる。ポットとバケツを持って巡業している移動式チャドカン(チャイ屋)から、クッキーとチャイを買って、子どもと遊ぶ。僕を指さして何だか汚い言葉を言っているのが分かるが、本気ではない。「おまえはバロナーだ(良くない奴だ)」とか「カラップだ(悪い奴だ)」などと言って遊ぶ。最後は僕をつねってきた女の子をぶんぶん振りまわて終わりにした。彼らにはぶんぶん振りまわしてくれる人が必要なのだと思って、いつも路上にいる子と遊ぶ。ほうって置かれることが一番最悪なことだ。彼らが使う汚い言葉にめげてはいけない。それで判断しちゃいけない。ただ彼らはそういうところで生きてきたということだ。悪いことをする子には、忍耐強く、本気で対面する。
あるベンガル人と話していた時。国の話や政治の話、未来の話をしていた。「この国は良くなると思う?」との質問に、「良くならないよ」と彼はきっぱり答えた。彼はNGOで働いている人である。彼だけではない。みんながそう言う。政府は腐りきっている。選挙も金で動く。何もかも金で動く。学生達の運動も大人達と同じくただ醜く、泥沼化しているように見える。志を持った人はいないのだろうかと思う。政党ではなく、国や民を思う人。独立を勝ち取った(1971)ベンガル人達の熱い魂は、今はもうないのだろうか。誰もが政治を語りながら、理想を語りながら、自分達の国は貧しいと言いながら、あきらめている。あきらめきっている。そして自分のことだけを考える。困難の中であきらめてしまう気持ちは理解できる。日本人である僕には想像もつかない状況であろう。それでも、志を持った人に出会いたい、そんな人の話を聞きたいと思う。
と書いた後に、上記のような思いを友人のバングラデシュ人にぶつけてみた。かなり長い話になった。それもここでシェアしたいが、とてもすぐには書けない。近いうちに頑張って書こうと思う。
エディルプールⅠ(22.sep) 写真はゴパルゴンジのトイレ
いよいよゴパルゴンジとお別れ。今日はひたすら移動だ。まずはゴパYスタッフが予約してくれた豪華バスでダッカへ。快適だった。長距離バスはけちらないで良いバスに乗った方がいい。背もたれ角度90度のジャンピングバス長時間はつらいからね。一度バスごとフェリーに乗った。のんびりお茶飲んでたら置いてかれそうになってあせった。走って飛び乗る。危なかった。バスは途中一度パンクしたものの、ほぼ予定通りダッカに着いた。バスと乗り合いテンプーを乗り継ぎ、モハカリバスターミナルへ。近くのローカル食堂でトルカリを食べる。ここでただのトルカリ550タカ請求事件が起こった。ライス2皿、チキントルカリ1、フィッシュトルカリ1・5、これで550タカ要求された。確かにチキンも魚も大きかったが、普通だったら80タカもしないくらいだ。しかも普通の汚いローカルレストランだ。あほか、と思い、70タカくらいをテーブルに置いて店を出た。おやじが俺のザックを掴んだ。なかなか店の外に出してくれなかったが、強引に外に出た。おやじは僕のザックを離さず、ついにポリスにところにいくことでお互い合意。ポリスは店のおやじの言い分を聞いて、最初は僕に550タカ払えといった(おやじ、どんな説明したんだ)。次に僕が食べたものを説明すると、300タカになった。周囲は既にものすごい人だかりだ。僕は更に文句を言った。結局最後のポリスの一言で150タカになった。おやじはものすごく不服そうだった。ここまで食い下がられるとは思っていなかったのだろう。しかし150タカでもおおいに不満だ。不愉快な気分になる。
ついでにバスターミナルもどろだらけで最悪だった。すでに5時近くになっていた。全く。泥だらけの足でバスに乗る。北へ。夕日が奇麗だった。8時過ぎ、モディプールに到着。誰かが迎えに来てくれることになっていたので、バスを降り、辺りを探す。いた。シャランシンだ。彼は2002年のディナチプール・ワークキャンプの参加者だ。FUNNYな奴で、キャンプ中みんなの人気者だった。彼もガロ族で、現在はワールドヴィジョンというNGOで働いている。みはるは彼のことををずっと木梨(憲武)だと言っていた。うーん、確かに、そうかも。リキシャ&バンに別れて乗り、エディルプールへ向かう。辺りは一面たんぼである。家もほとんどない。沢山の蛍がいた。その中をリキシャは進む。きれいなところだ。40分ほどでエディルプールYMCAに到着。総主事シャゴルが待っていた。再会を喜ぶ。彼は2003年のビリシリワークキャンプの参加者だ。僕と同い年である。結婚したとの知らせに驚く。これは奥さんに会わないとなあ。YMCAでご飯を用意してくれていた。すでに10時過ぎ。シャランシン・シャゴルと食べながらいろいろ話す。みはるは2人とも初対面である。近くに宿も用意してくれていた。ある孤児院のゲストルームである。良い部屋だ。ちょっと竜馬を読み、その後快適に眠った。明日が楽しみだ。
いよいよゴパルゴンジとお別れ。今日はひたすら移動だ。まずはゴパYスタッフが予約してくれた豪華バスでダッカへ。快適だった。長距離バスはけちらないで良いバスに乗った方がいい。背もたれ角度90度のジャンピングバス長時間はつらいからね。一度バスごとフェリーに乗った。のんびりお茶飲んでたら置いてかれそうになってあせった。走って飛び乗る。危なかった。バスは途中一度パンクしたものの、ほぼ予定通りダッカに着いた。バスと乗り合いテンプーを乗り継ぎ、モハカリバスターミナルへ。近くのローカル食堂でトルカリを食べる。ここでただのトルカリ550タカ請求事件が起こった。ライス2皿、チキントルカリ1、フィッシュトルカリ1・5、これで550タカ要求された。確かにチキンも魚も大きかったが、普通だったら80タカもしないくらいだ。しかも普通の汚いローカルレストランだ。あほか、と思い、70タカくらいをテーブルに置いて店を出た。おやじが俺のザックを掴んだ。なかなか店の外に出してくれなかったが、強引に外に出た。おやじは僕のザックを離さず、ついにポリスにところにいくことでお互い合意。ポリスは店のおやじの言い分を聞いて、最初は僕に550タカ払えといった(おやじ、どんな説明したんだ)。次に僕が食べたものを説明すると、300タカになった。周囲は既にものすごい人だかりだ。僕は更に文句を言った。結局最後のポリスの一言で150タカになった。おやじはものすごく不服そうだった。ここまで食い下がられるとは思っていなかったのだろう。しかし150タカでもおおいに不満だ。不愉快な気分になる。
ついでにバスターミナルもどろだらけで最悪だった。すでに5時近くになっていた。全く。泥だらけの足でバスに乗る。北へ。夕日が奇麗だった。8時過ぎ、モディプールに到着。誰かが迎えに来てくれることになっていたので、バスを降り、辺りを探す。いた。シャランシンだ。彼は2002年のディナチプール・ワークキャンプの参加者だ。FUNNYな奴で、キャンプ中みんなの人気者だった。彼もガロ族で、現在はワールドヴィジョンというNGOで働いている。みはるは彼のことををずっと木梨(憲武)だと言っていた。うーん、確かに、そうかも。リキシャ&バンに別れて乗り、エディルプールへ向かう。辺りは一面たんぼである。家もほとんどない。沢山の蛍がいた。その中をリキシャは進む。きれいなところだ。40分ほどでエディルプールYMCAに到着。総主事シャゴルが待っていた。再会を喜ぶ。彼は2003年のビリシリワークキャンプの参加者だ。僕と同い年である。結婚したとの知らせに驚く。これは奥さんに会わないとなあ。YMCAでご飯を用意してくれていた。すでに10時過ぎ。シャランシン・シャゴルと食べながらいろいろ話す。みはるは2人とも初対面である。近くに宿も用意してくれていた。ある孤児院のゲストルームである。良い部屋だ。ちょっと竜馬を読み、その後快適に眠った。明日が楽しみだ。
(写真はリーガン家に行く途中の水路)
朝、洗濯大会。バケツを借りてきて屋上にあがる。やっていること、ワークキャンプとなんら変わりなし。その後、ワークキャンプに参加していた友人達のお宅を訪問した。まずはウットン家。みはるがホームステイをした家だ。大雨の影響でいたるところ水と泥だらけなので、家に着くまでに随分道を迂回する。ウットンパパ&ママ、とても良い人である。
今日はウットン家でお昼をご馳走になることになっているが、まだ時間があるので、散歩に出た。バン(3輪車の後ろに荷台の板をのっけたもの)に乗り、僕らがトイレを作ったエリアへ向かう。僕はリキシャよりもバンの方が好きだ。昨日発見できなかったゴパルゴンジ・デートコースを発見。道の両脇に木が植えられ、その隙間から奇麗な田園風景が見える。現地若者のデートスポットとか(本当か?)。でも確かにデートにはいいところだ。途中でバンを降りて歩く。なんて奇麗なんだろう。みはるも僕も写真を取りまくる。水の中にそびえたつ我らがゴパルゴンジ隊作のパイカナ発見。
次は、リーガン家。ウットンも一緒に来る。ちなみにウットンとリーガンはとても仲が良い。2人でしょっちゅうからかいあっている。リーガンは現在YMCAのコンピューター教室の先生をしている。リーガン家は現在陸の孤島になっており、家の近くから小船を使った。沼を超えると、小さな水路に入る。船は本当に小さくて、縁も低いので、ちょっとでも揺れると恐い。リーガン漕ぐの上手。慣れてるね。家に着くとリーガンが「ここまで水が来たんだよ」と、外壁の地上から50cmくらいのところを指さした。確かにそこに水の跡がついている。リーガンの家も、ウットンの家も土間である。リーガンが家の近くの木に上ってココナッツを取ってきてくれた。みんなでココナッツジュースを飲む。実がでかく、中のジュースも相当な量だった。ココナッツってすごいな、と単純に感心する。
ウットン家に戻り、昼食。トルカリ、うまい。ママ料理上手。昼食後、しばし休息。そしてリキシャに乗ってマーケットへ。みはるはチュリという腕輪をお土産に買っていた。バングラに来るとみんな買うやつだ。僕は石鹸がきれかかっていたので、石鹸とあかすりスポンジを買った。なんだ、この差は?その後、キャンプ中もお世話になっていたアイスクリーム屋でアイスを食べて帰る。女の子の日記みたいだが、幸せを感じる。
3軒目、オシム家。オシム家は大きかった。ウットンから「オシムはガールフレンドが沢山いる」との指摘が入り、写真チェック。確かに女の子と沢山写っている。横にいるウットンから「この娘もオシムが好きなんだよ」と解説が入る。オシムはやはり女たらしということで一同納得。でも真面目なクリスチャンなんだよ。/雨が振り出したので、近くのデューク家にすばやく移動。既に外は暗い。デューク家もでかい。2階のデューク部屋へ。ギターのチューニングがおかしかったので、直していたら弦が切れた。ごめん。夕ご飯をご馳走になる。デザート(あれはパエシ?)、クープモジャ(最高にうまい)。
今日は「おもてなし」されまくりの一日だった。幸せでございました。アマールボンドウー、ドンノバット(ありがとう)。
朝、洗濯大会。バケツを借りてきて屋上にあがる。やっていること、ワークキャンプとなんら変わりなし。その後、ワークキャンプに参加していた友人達のお宅を訪問した。まずはウットン家。みはるがホームステイをした家だ。大雨の影響でいたるところ水と泥だらけなので、家に着くまでに随分道を迂回する。ウットンパパ&ママ、とても良い人である。
今日はウットン家でお昼をご馳走になることになっているが、まだ時間があるので、散歩に出た。バン(3輪車の後ろに荷台の板をのっけたもの)に乗り、僕らがトイレを作ったエリアへ向かう。僕はリキシャよりもバンの方が好きだ。昨日発見できなかったゴパルゴンジ・デートコースを発見。道の両脇に木が植えられ、その隙間から奇麗な田園風景が見える。現地若者のデートスポットとか(本当か?)。でも確かにデートにはいいところだ。途中でバンを降りて歩く。なんて奇麗なんだろう。みはるも僕も写真を取りまくる。水の中にそびえたつ我らがゴパルゴンジ隊作のパイカナ発見。
次は、リーガン家。ウットンも一緒に来る。ちなみにウットンとリーガンはとても仲が良い。2人でしょっちゅうからかいあっている。リーガンは現在YMCAのコンピューター教室の先生をしている。リーガン家は現在陸の孤島になっており、家の近くから小船を使った。沼を超えると、小さな水路に入る。船は本当に小さくて、縁も低いので、ちょっとでも揺れると恐い。リーガン漕ぐの上手。慣れてるね。家に着くとリーガンが「ここまで水が来たんだよ」と、外壁の地上から50cmくらいのところを指さした。確かにそこに水の跡がついている。リーガンの家も、ウットンの家も土間である。リーガンが家の近くの木に上ってココナッツを取ってきてくれた。みんなでココナッツジュースを飲む。実がでかく、中のジュースも相当な量だった。ココナッツってすごいな、と単純に感心する。
ウットン家に戻り、昼食。トルカリ、うまい。ママ料理上手。昼食後、しばし休息。そしてリキシャに乗ってマーケットへ。みはるはチュリという腕輪をお土産に買っていた。バングラに来るとみんな買うやつだ。僕は石鹸がきれかかっていたので、石鹸とあかすりスポンジを買った。なんだ、この差は?その後、キャンプ中もお世話になっていたアイスクリーム屋でアイスを食べて帰る。女の子の日記みたいだが、幸せを感じる。
3軒目、オシム家。オシム家は大きかった。ウットンから「オシムはガールフレンドが沢山いる」との指摘が入り、写真チェック。確かに女の子と沢山写っている。横にいるウットンから「この娘もオシムが好きなんだよ」と解説が入る。オシムはやはり女たらしということで一同納得。でも真面目なクリスチャンなんだよ。/雨が振り出したので、近くのデューク家にすばやく移動。既に外は暗い。デューク家もでかい。2階のデューク部屋へ。ギターのチューニングがおかしかったので、直していたら弦が切れた。ごめん。夕ご飯をご馳走になる。デザート(あれはパエシ?)、クープモジャ(最高にうまい)。
今日は「おもてなし」されまくりの一日だった。幸せでございました。アマールボンドウー、ドンノバット(ありがとう)。
9.20 ゴパルゴンジ (写真左:モニカ、右:ママ)
トイレは探すのに少し時間がかかった。暑い中何度も道を行ったり戻ったりした。始めに発見したパイカナ(トイレ)は、便器面まで水が来ていて、使えない状態になっていた。ボンナ(洪水)恐るべし。ワークキャンプ中は、全体を5つのグループに分けてトイレを作ったのだが、このトイレは僕のグループが作ったトイレで、家の人達も僕のことを覚えていた。ドアに書いたメッセージやサインも残っていた。
2つ目も水没していた。水たまりの中から、トタンの四角フェンスが顔を出していた。トイレは穴を堀り、そこにコンクリート製のドーナツ型リングを4つ入れる。その上にセメント製の便器を乗せる。便器はいわゆる和式に近い形だ。そして竹の支柱を立て、トタンのフェンスと屋根を釘で打ちつける。最後にドアをつけて完成。トイレ自体は割に丈夫なので、リングの中をきれいにすれば長く使える。溜まった汚物を別に掘った穴に埋めたりして、使用していく。彼らは汚物に対してケガレの概念が強いため、肥料にするようなことはしないようだ。でも洪水で中に水が入ったら、当然中のものは出てくるわけで、自然に肥料配布になってしまうのだろう。ちなみに洪水は、地域と規模にもよるのだが、大地に肥沃な土地を運んでくるという利点がある。だから人々は水がひくのをおとなしく待つのだそうだ。
ちなみにビリシリでもワークキャンプ(2003春)で作ったトイレを見たが、フェンスがトタンではなく、竹を編んだもので出来ているので、多くのフェンスは壊れていた。それでも新しく自分達でフェンスを作ってトイレを使っていた。嬉しいものである。
Yに帰るとママとモニカが来ていた。2人はワークキャンプ中に僕たちの食事を作ってくれていた人達である。みんなに愛されていた2人だ。夜のプログラムが始まる前に、チャイを作ってくれるようにモニカに頼んでおくのが僕の日課であった。キャンプの終わり頃は、僕が日本語で何かしゃべってもモニカが察して分かってくれるようになっていた。夜のプログラムも終盤にさしかかる頃、廊下から段々ボリュームアップして聞こえてくるモニカの「チャーチャーチャーチャーチャー」を思い出した。その後モニカとママの家に行く。モニカの妹達がモニカそっくりにバイタリティの塊で笑った。とにもかくにも嬉しい再会であった。ママが元気で何よりだった。ママがあんなにしゃべるなんてね。
この辺はどうも話が内輪っぽくなってしまうなあ。ご勘弁を。興味があったら、来年の春のキャンプに参加してみて下さい。
トイレは探すのに少し時間がかかった。暑い中何度も道を行ったり戻ったりした。始めに発見したパイカナ(トイレ)は、便器面まで水が来ていて、使えない状態になっていた。ボンナ(洪水)恐るべし。ワークキャンプ中は、全体を5つのグループに分けてトイレを作ったのだが、このトイレは僕のグループが作ったトイレで、家の人達も僕のことを覚えていた。ドアに書いたメッセージやサインも残っていた。
2つ目も水没していた。水たまりの中から、トタンの四角フェンスが顔を出していた。トイレは穴を堀り、そこにコンクリート製のドーナツ型リングを4つ入れる。その上にセメント製の便器を乗せる。便器はいわゆる和式に近い形だ。そして竹の支柱を立て、トタンのフェンスと屋根を釘で打ちつける。最後にドアをつけて完成。トイレ自体は割に丈夫なので、リングの中をきれいにすれば長く使える。溜まった汚物を別に掘った穴に埋めたりして、使用していく。彼らは汚物に対してケガレの概念が強いため、肥料にするようなことはしないようだ。でも洪水で中に水が入ったら、当然中のものは出てくるわけで、自然に肥料配布になってしまうのだろう。ちなみに洪水は、地域と規模にもよるのだが、大地に肥沃な土地を運んでくるという利点がある。だから人々は水がひくのをおとなしく待つのだそうだ。
ちなみにビリシリでもワークキャンプ(2003春)で作ったトイレを見たが、フェンスがトタンではなく、竹を編んだもので出来ているので、多くのフェンスは壊れていた。それでも新しく自分達でフェンスを作ってトイレを使っていた。嬉しいものである。
Yに帰るとママとモニカが来ていた。2人はワークキャンプ中に僕たちの食事を作ってくれていた人達である。みんなに愛されていた2人だ。夜のプログラムが始まる前に、チャイを作ってくれるようにモニカに頼んでおくのが僕の日課であった。キャンプの終わり頃は、僕が日本語で何かしゃべってもモニカが察して分かってくれるようになっていた。夜のプログラムも終盤にさしかかる頃、廊下から段々ボリュームアップして聞こえてくるモニカの「チャーチャーチャーチャーチャー」を思い出した。その後モニカとママの家に行く。モニカの妹達がモニカそっくりにバイタリティの塊で笑った。とにもかくにも嬉しい再会であった。ママが元気で何よりだった。ママがあんなにしゃべるなんてね。
この辺はどうも話が内輪っぽくなってしまうなあ。ご勘弁を。興味があったら、来年の春のキャンプに参加してみて下さい。
昨日はついにベンガルさんとお会いした。ベンガルさんは「ダッカから - from Dhaka」というBLOGを持っており、僕がバングラの洪水関係のことを書いていた時にトラックバックをもらったのがきっかけだった。メールにあった携帯番号に電話を掛け、待ち合わせ場所を決めた。顔も分からない人に会うのはどきどきする。お宅にお邪魔して、夕ご飯をごちそうになった。ベンガルさんは青年海外協力隊の隊員さんだが、僕は協力隊に興味があるので、いろいろな質問をした。その他ベンガル人について、ネパール人やインド人と比較したベンガル人論についても語った。バングラ生活についても聞かせてもらった。素敵な時間とおいしいご飯&ビール、ごちそうさまでした。
この旅は、本当に様々な人と会う旅だ。幸せな旅だと思う。インターネットは強力な武器だ。ネットがなかったら、会わなかった人、一緒に旅をしなかった人もいる。旅中、様々な人がくれるメールや、自分のBLOGに対するリアクションにも元気つけられる。旅をしながらも沢山の人とつながっている。まさにネット(ワーク)。10年前にはありえなかったであろう旅のスタイルだ。ネットが変えていったもは大きいと、旅をしていて改めて実感した。
ベンガルさんから「ショナール・バングラ(黄金のベンガル)」というバングラ協力隊員の文集をお借りした。これがむちゃくちゃ面白い。隊員アンケート「停電の時何をしていますか?」「ベンガル人のここが好き」「サロワカ・ルンギ、何枚持っていますか?」「ベンガル人の言い訳で感心したこと」ETC・・。バングラに行ったことがある人なら目がくぎづけになること間違いなし。ウットラ近くの日本人宿に置かれるらしいので、これからバングラに行く人は見てみてください。
昨日今日はグルシャン1-2辺りをぶらつく。外国人が多いエリアで、きれいなレストランやショッピングモールも沢山ある。本当はチッタゴンやコックスバザールに行こうかとも思ったが、どうにも腰が重かった。疲れもある。そういう時はこういうエリアに来ると気持ちが落ち着く。グルシャン1のショッピングコンプレックスの最上階にあるきれいなカフェに入り、コーヒーを飲みながら、流れる洋楽を聞いていると、「ここは新宿ルミネか?」と錯覚してしまう。はっきりいってネパールのカトマンズなんて目じゃない。ちなみに貧国ランキングでは、ネパールの方が上である(いつの資料か忘れたが、ネパールは最貧国ランキング4位だった)。この10年くらいで逆転したらしい。でもそのカフェのあるビルまではリキシャ(おじさんがペダルをこぐ人力3輪車)でいくんだけどね。
今日は筆の勢いに任せて与太話で貫き通すが、リキシャは本当に安くて便利な乗り物だ。日本にもあったらいいな。外は暑いし(リキシャは日除け雨除けがついている)、料金も安いので、リキシャには結構乗っている。最近気になるのは値段とリキシャワラー(運転手さん)おじさんについて。だいたいの料金の相場は分かるのだが、目的地に着き、相場と思われる額を渡すと(始めに料金交渉はしない)、たいていのリキシャワラーは「外国人なのにこれだけ?」みたいな顔をする。「もっとくれ!」と言ってくるのもいるし、がっかりしてあきらめてるもいる。そんな顔を見るのが嫌で、ちょっと相場に色をつけて渡したり、相場のお金を渡してさっさと立ち去るようにしている。なので、乗る前にリキシャワラーをよく見る癖がついた。ものすごい顔と勢いで「ボンドウー(友達)!」と声を掛けてくるリキシャワラーは避ける。嫌な思いはしたくない。リキシャにワラーに限らず、外国人及び金持ちは高く払うべきだと思っている商売人は多い。これについては彼らの気持ちを想像すると分からなくもない。その他、勢いであまりにもぼろいリキシャに乗ってしまうと、「はずした!」などと思ったりする。ま、最初だけの気分的な問題で、乗ってしまえば一緒なのだけど。ひどいでこぼこ道はどんなリキシャでもひどい。
リキシャ及びリキシャワラーについてはまだまだ書けそうな気がする。リキシャに乗っていると、前でペダルを漕ぐおじさんの体臭や汗の臭いが漂ってくる。安いたばこで一服するリキシャワラー、リキシャの中で居眠りするリキシャワラーなど、様々なリキシャワラーで路上はあふれかえっている。それを見ていると、そこに沢山の人生があることを思う。
HelloBondoo!<>Nikkiのページより情報ゲットしました。バングラグッズのオンラインショップ、開店です。
baharee.net
バングラデシュの雑貨・衣料・アクセサリー・本・CD・VCD等を集めたお店です。
http://cart02.lolipop.jp/LA06107553/
この旅は、本当に様々な人と会う旅だ。幸せな旅だと思う。インターネットは強力な武器だ。ネットがなかったら、会わなかった人、一緒に旅をしなかった人もいる。旅中、様々な人がくれるメールや、自分のBLOGに対するリアクションにも元気つけられる。旅をしながらも沢山の人とつながっている。まさにネット(ワーク)。10年前にはありえなかったであろう旅のスタイルだ。ネットが変えていったもは大きいと、旅をしていて改めて実感した。
ベンガルさんから「ショナール・バングラ(黄金のベンガル)」というバングラ協力隊員の文集をお借りした。これがむちゃくちゃ面白い。隊員アンケート「停電の時何をしていますか?」「ベンガル人のここが好き」「サロワカ・ルンギ、何枚持っていますか?」「ベンガル人の言い訳で感心したこと」ETC・・。バングラに行ったことがある人なら目がくぎづけになること間違いなし。ウットラ近くの日本人宿に置かれるらしいので、これからバングラに行く人は見てみてください。
昨日今日はグルシャン1-2辺りをぶらつく。外国人が多いエリアで、きれいなレストランやショッピングモールも沢山ある。本当はチッタゴンやコックスバザールに行こうかとも思ったが、どうにも腰が重かった。疲れもある。そういう時はこういうエリアに来ると気持ちが落ち着く。グルシャン1のショッピングコンプレックスの最上階にあるきれいなカフェに入り、コーヒーを飲みながら、流れる洋楽を聞いていると、「ここは新宿ルミネか?」と錯覚してしまう。はっきりいってネパールのカトマンズなんて目じゃない。ちなみに貧国ランキングでは、ネパールの方が上である(いつの資料か忘れたが、ネパールは最貧国ランキング4位だった)。この10年くらいで逆転したらしい。でもそのカフェのあるビルまではリキシャ(おじさんがペダルをこぐ人力3輪車)でいくんだけどね。
今日は筆の勢いに任せて与太話で貫き通すが、リキシャは本当に安くて便利な乗り物だ。日本にもあったらいいな。外は暑いし(リキシャは日除け雨除けがついている)、料金も安いので、リキシャには結構乗っている。最近気になるのは値段とリキシャワラー(運転手さん)おじさんについて。だいたいの料金の相場は分かるのだが、目的地に着き、相場と思われる額を渡すと(始めに料金交渉はしない)、たいていのリキシャワラーは「外国人なのにこれだけ?」みたいな顔をする。「もっとくれ!」と言ってくるのもいるし、がっかりしてあきらめてるもいる。そんな顔を見るのが嫌で、ちょっと相場に色をつけて渡したり、相場のお金を渡してさっさと立ち去るようにしている。なので、乗る前にリキシャワラーをよく見る癖がついた。ものすごい顔と勢いで「ボンドウー(友達)!」と声を掛けてくるリキシャワラーは避ける。嫌な思いはしたくない。リキシャにワラーに限らず、外国人及び金持ちは高く払うべきだと思っている商売人は多い。これについては彼らの気持ちを想像すると分からなくもない。その他、勢いであまりにもぼろいリキシャに乗ってしまうと、「はずした!」などと思ったりする。ま、最初だけの気分的な問題で、乗ってしまえば一緒なのだけど。ひどいでこぼこ道はどんなリキシャでもひどい。
リキシャ及びリキシャワラーについてはまだまだ書けそうな気がする。リキシャに乗っていると、前でペダルを漕ぐおじさんの体臭や汗の臭いが漂ってくる。安いたばこで一服するリキシャワラー、リキシャの中で居眠りするリキシャワラーなど、様々なリキシャワラーで路上はあふれかえっている。それを見ていると、そこに沢山の人生があることを思う。
HelloBondoo!<>Nikkiのページより情報ゲットしました。バングラグッズのオンラインショップ、開店です。
baharee.net
バングラデシュの雑貨・衣料・アクセサリー・本・CD・VCD等を集めたお店です。
http://cart02.lolipop.jp/LA06107553/
昨日、ビリシリからマイメンシンまで戻ってきた。ビリシリからの道は橋・道が数箇所壊れており、途中までは今回ステイさせてもらった友人オロックのバイクを使った。オロックとは2002年にディナチプールでワークキャンプをした時に出会った。彼もベンガル人ではなく、ガロという少数民族で、僕がダッカでステイしていたレマ姉弟(ベリー・プロック)の兄弟で る。3人ともワークキャンプ参加経験が る。今は雨季の終わりだが、しばらくこの状態が続くだろう。ちなみに雨季に川となっているところも、乾季には水が消えたりする。川が生まれたり消えたりするというわけだ。ビリシリのさらに先、デュルガプールという街が るのだが、前回乾季に来た時は歩いて渡れた所が、今回は巨大な川となっていた。橋が建設中だが、オロックの話ではすくなくても と3年はかかるという。僕は5年だと思う。
バングラに入ってから日記がすぐに書けない。 まりにも日々が濃密すぎて、起こったことをすぐに文章にすることができない。もしそれを無理矢理文章にすれば、僕の体験そのものが薄っぺらいものになってしまう気がする。時間をおいて、ちょっとずつ書くことにする。
今、マイメンシンからダッカに向かう電車の中で、これを書いている。バングラトレイン、バスより全然良い。インド電車と同レベルで る。2等指定はわずか60タカ(約125円)。チャイ売りやお菓子売りがきて賑やか。やっぱり電車旅はいいな 。
ということで、またね。これからダッカ・レマ家に戻ります。僕は元気に旅をしています。