僕のつぶやき

服や音楽が好きな、現代の夢見るフリーターsanboさんがお送りする戯言やイラストなどなどです。

自殺する人

2005年03月07日 12時45分51秒 | つぶやき

 ついこの前、県内の「竜頭の滝」っていうところの駐車場で車の中で練炭を炊いて自殺するという事件が起こりました。その竜頭の滝というのは、僕も去年の冬くらいに観光で訪れたことのあるところで、見たことのある景色がテレビに映ったので、とても驚きました。なぜかとても身近に感じる事件でした。

 幸いというか、なんというか今まで自分の周りの人が自殺したという話は聞きません。おばあちゃんとかが死んだという場面には立ち会ったことはあるけど、友達の死に立ち会ったことはありません。友達の遺影の前に座るのはどんな心境なんでしょうか。寂しいのかな?悲しいのかな?僕はそれもあるし、怒りもあると思う。その怒りは、自殺した友達にも向けられるだろうし、それをとめられなかった自分にも向けられると思う。

 自分の無力感。友達が死にたいと思うほど考えているのに、それに気づいてあげられない自分の無力感。それが親友だったなら、自分を責めても責めても報われないだろう。きっと一生その親友を、死を背負って歩いていくんだ。普段は忘れていてもときどき思い出して、とてもつらい思いをする。悲しいとかそういう感情じゃなくて、いろんなものが混じって不協和音のように心の中を乱すんだ。どれだけ時間を重ねても、埋められることない思いが一番重いんだよね。きっと。

 でも、自分が死ぬ立場に立ったなら、きっと親友にはいいたくないだろうし。正直なところ、残される人のことまで考える余裕はないだろうね。自分の道を死ぬことに限定するんだから、人の顔色を窺ってる場合じゃない。その理由は分からないけど、きっと必死なんだ。

 親友が死ぬほど悩んで、苦しんでいるのに、僕に何ができるんだろうか。ただ「死ぬな」っていうのは簡単だけど、それだけじゃあまりにも無責任だろう。その苦しみを一緒に背負ってあげられるくらいの勇気が必要なんだ。生きるって、死ぬより大変で、悩むし、苦しみもたくさんあると思う。その分喜びもあるはずなんだけど。足元ばかり見て歩くことがときどき楽になってないかなぁ?前をみてあることをやめてるときがないかなぁ?自分自身に聞いてみてください。僕はあると思うよ。どんな人だって。

 僕の親友R、そのほかの人だって、君が死を選ぶことが間違った道だとは言わないけど、その前に僕に話を聞かせてくれよ。何もできないかもしれないけど、君のそばで何かを分けてもらうから。それでダメで、君がその道を行くとしても僕は止められないかもしれない。でも、僕は君の痛みを抱えて、僕は一生生きていくよ。君の影と思いと共に。だから、お別れは言わないよ。ずっとそばにいるから。

 死ぬことが逃げることとか言わないで。僕だって自殺を勧めるわけじゃないけど、どうしようもないときだってあると思うよ。人なんだから、いろいろ考える。所詮、他の人なんて他人なんだから、最後を決めるのは自分でいいと思う。でも、悲しいだろうな。つらいだろうな。君が死んだなら。だから、もう少し生きてください。僕も生きるから。


時間の流れについて

2005年03月07日 12時23分27秒 | つぶやき

 時間は過ぎてみれば早いもので、この専門学校に入ってもう二年が経とうとしている。高校を卒業して、また二年学校に通うのか、と少し憂鬱になったこともあったが、なんやかんやであっという間にここまできてしまった。終わってみれば、もっとこうしてればよかった、こうすればよかった…なんてものがたくさん浮かんでくるが、それをしなかったのも、できなかったのも自分だし、それが僕の歩んできた道だから受け入れるしかないでしょう。

 きっとどんな道を選んだとしても、結局後悔するんだと思うよ。高校に入った時だって、なんでこんなとこきちゃったんだろうとか思ったし、専門に入った時だって、違うことやりたかったと思ったりもした。でも、違うことやってたらこの専門にいきたかったなぁとか思うわけでしょ。

 僕がここにいるから、出会えた人もたくさんいるし、経験できたこともたくさんあると思う。まぁ、それが自分にとって最高の選択だったかなんて、わかんないけどね。もう一度やり直してはじめて気づけることだろうし。後悔はどうしたってついてくるんだよね

 あと10日で卒業です。うれしいという感覚はまるで無い。やっぱりこの場所、学校にいたいと思う。それは留年してもっと勉強したいということではなくて、ここにい続けたいということで。友達と話して、遊んで、ときどき勉強して…そんな生活をしていたい。ずっとここにいたい。働くようになれば、そう遊んでばかりもいられないから、子供の理由ですよ。そう、ただのわがままです。

 12日には、クラスのメンバーと旅行に行こうという話になりました。正直、はじめは行く気なかったんですよ。人数も10人以上で、たくさんなんで面倒じゃないですか…そういう大人数の団体行動とか好きじゃないんです。でも結局行くことにしたんですけど。それには理由がありましてね。この二年、この専門学校で一番仲のいい、親友(こう思ってるのは自分だけで、相手はいやいやかもしれないけど…)が、僕が行きたくないみたいな話しをしたら「一緒に行こう」って言ってくれたんですよ。とてもうれしかった。その親友Rも僕も不器用で、恥ずかしがりやなんでなかなか面と向かって話せなかったりするんだけど… 卒業したらまたしばらくあえなくなっちゃうだろうからね。この旅行でいろいろ話せたらいいと思う。 でも、一緒に行こうって言われて、僕もすぐに「いいよ」とは言わなかったんだよね。条件を出したんだ「これが最後にしない。卒業してもずっと友達でいること」ってね。今、振り返るとくさいせりふだけど、きっと自分の正直な気持ちだったんだと思う。というわけで、12日から一泊で、みんなで鬼怒川に行ってきます。

 時間は早い。過ぎてしまえばあっという間で、あったことの半分も覚えていないでしょ??大切なことだっていつか忘れてしまうんです。でも、今の気持ちだけは大切にしたい。


生きるということ

2005年03月07日 11時48分45秒 | つぶやき

 最近、みんなのコメントがないのでとっても寂しいです。感想とか、こんなの見たいとか、文句とかなんでもいいんで、聞かせてください。

 さて。僕はおとといくらいにぼぉ~とテレビを見ていました。テレビは毎日見てるんですけどね。たまたま見ていたテレビ(タイトルは忘れてしまいましたが…NH●だったかな?)では、人が生きることについて話をしていました。

 僕たちが生きているだけで、たくさんの命を犠牲にしている。今、あなたが牛肉を食べたとする。それだけで一つの命が消えたことになるわけですが、その牛が育つのにはたくさんの命を使っているわけです。植物だって、小動物だって、みんな命があるんです。毎日毎日、そんな命をたくさん犠牲にして生きているんです。でも、それが自然の摂理だと言ってしまえばそれまでなんですけど。他のものを犠牲にして生きることが、罪になることはないと思います。

 でも、ときどきそう考えると自分はそこまでして生き延びる価値があるのなかぁと思う。やっぱり僕たちが生まれた、生きている意味はわからないまま。どうして命が生まれたんだろうか。その根源は科学の世界でも解明されてなくて、原始の地球ではたんぱく質が突然変異的に、複合したことからはじまったみたいな感じの仮説があるけれど、証拠もないし。まだまだ考えることはたくさんある。