他者に向かった愛欲が実らない経験の蓄積が、自己愛へと向かう不幸なナルシズム。それは自己尊重や自己尊厳などではなく、得られないものを自らで解消しようとする不健康な自己愛である。
「誰からも愛されないのならば、私が私自身を愛そう」というナルシズムな自己愛こそが、フェミリベラルの行動原理だ。しかし、当然のことだが性愛的(リビドー)な欲求は自己完結するものではない。他者との触れあいがあり、他者との感情の交流があり、そのうえで満たされるものだ。それゆえに、フェミリベラルの自己憐憫的自己愛は、永遠に満たされることはない。自己へのリビドーが実ることはない。その鬱屈とした感情のはけ口として、彼らは社会を攻撃する。社会を攻撃することで、完成しない自己を完成させようとしているのだ。彼らの攻撃性は際限がなく、社会に対する攻撃は止むことはない理由は、彼らの愛欲が満たされることが無いためなのだ。
彼らの特徴として、「既存の価値観を認めない」「標準的社会価値観を否定する」「標準的社会理解の外側にいたい」という思考がある。既存の価値観のなかで認められない自分は、自分の価値が低いのではなく、既存の価値観がおかしいからだという立ち位置で社会をみている。だから彼らは、LGBTの味方のふりをする,共産主義に理解を示す,フェミニズムになる,左派リベラルを自称する,陰謀論に加担する,反ワクチンになるのだ。
また、フェミリベラルたちは、いわゆるオタク類に対して強い憎悪と嫌悪を抱いている。オタクと言われる人種の持つ「幼稚な自己愛」をみるとき、フェミリベラルはオタクのなかに自分自身の汚点をみる。非常に似通っている2つの集団だが、社会性の乏しさから自己完結できるオタク的自己愛と、社会に対する欲求の強いフェミリベラルの自己愛が、相互受容することはないだろう。2つの集団の僅かな相違のために、フェミリベラルはオタク類よりも優位に立とうとし、オタク類を排除しようとする。もしくは、屈服させ、支配しようとする。
つまり、フェミリベラルは「幼稚な自己愛に溢れるオタク層」をみることで、自己嫌悪に陥りそうになるがゆえに、オタク層を視界から消し去ろうとするのだ。結果的に「幼稚な自己愛をもつオタク層」は、フェミリベラルの攻撃性を増幅させている。
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