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しまなみ 大三島。  呉 大和ミュージアム

2005-09-26 | 旅行
日曜日にふらっと一人ドライブに行ってきました。
ふらっと行く予定が、ロングドライブに

大三島まで、しまなみを通ってそのまま尾道に行く予定だったのですが、呉の
大和ミュージアムに行きたくなったので大三島からフェリーで竹原へ。



大三島の盛ー大久野島(毒ガス工場があった場所。)ー忠海(竹原らへん)を結ぶフェリーなんですよ。
大久野島は去年の終戦記念日に行ってきました。




大久野島の発電所跡。今でも貯蔵庫跡とか、毒ガス工場跡があるんです。
今は、レジャー施設がたくさんあるんですけどね。


後は、ジー太でずっと海岸沿いを走って呉へ。

呉は海猿のロケ地にもなりましたよね。今は海上自衛隊駐屯地があるし、
工業の町です。



呉港。  海洋艦が海の上にたくさん並んでます。

大和ミュージアムへ。 日本人なら一回は見るべし。



戦艦大和の1:10スケールの模型が飾っていました。
かっこよすぎぎ。。

航空機優勢だった終戦間近に、日本の当時の英知を集めて作られた大和。
日本の誇りやねえ。。  

ミュージアムには戦艦大和にまつわる遺品や、他の軍艦の展示。
太平洋戦争の時系列が詳しく展示してありました。

当時大和に乗って散っていった人たちの遺書
が並んでいましたが、日本の行く末を考えてなくなった人のことを
思うと、涙が止まらなくなりました。


故郷、親、日本を案じ、若くして亡くなった人たち。その人たちの犠牲の下に
今の自分があるんだよね。
いつもは馬鹿ばっかりしてるので、なんか申し訳ない気分になってしまいます。。


特攻隊だった松尾 巧さんが残した遺書があったのでひとつ付け加えます。
プライバシー等御指摘いただけましたらすぐに消去します。


謹啓 御両親様には、相変わらず御壮健にて御暮しのことと拝察致します。小生もいらい至極元気にて軍務に精励いたしております。
 今までの御無沙汰致したことをお詫び致します。本日をもって私もふたたび特攻隊員に編成され出撃致します。出撃の寸前の暇をみて一筆走らせています。
 この世に生をうけていらい十有余年の間の御礼を申し上げます。
 沖縄の敵空母にみごと体当りし、君恩に報ずる覚悟であります。男子の本懐これにすぎるものが他にありましょうか。護国の花と立派に散華致します。私は二十歳をもって君子身命をささげます。
 お父さん、お母さん泣かないで、決して泣いてはいやです。ほめてやって下さい。 家内そろって何時までもいつまでも御幸福に暮して下さい。生前の御礼を申上げます。 私の小使いが少しありますから他人に頼んで御送り致します。何かの足しにでもして下さい。近所の人々、親族、知人に、小学校時代の先生によろしく、妹にも......。 後はお願い致します。では靖国へまいります。
  四月六日午前十一時記す


半世紀前にはここまで国を愛した人がいたんですね。今の時代の日本人とは
違う人みたい。。彼らを否定する靖国問題ってなんやねん。って思うんですが。。
過去の教育のせいだーって左翼は頭ごなしに否定するけど、これほど立派な人が今の日本におるかなああ。

腐っていく日本文化に、いい涼風を吹かせたいものです。

ここまで愛すべき国が今ないのが非常に残念ですが、親や愛する人を大切にする気持ちは自分も負けないようにしないと。。




零式戦闘機。他にも人間魚雷回天の模型がありました。

自分の叔父は4年前に亡くなったのですが、海上特攻隊である「咬龍」(漢字ちと違うかも)の乗組員でした。 
徳山で訓練を受け、地元の倉橋島(呉の近く)で数日間保養しそのまま鹿児島に
行ったのですが、出撃待機中に終戦を迎えたそうです。
すごいラッキーやったねえ。っていつも叔父さんに言ってましたが、本当は
複雑な気持ちで戦後を送ってたみたいです。。




その後は、おじいさんの家があった倉橋島へ。
親父の実家はむちゃくちゃ田舎で、呉からずっと南下した島にあります。。
もう今は家もなくて、土地しか残っていません。。




集落に行くと、おじいさんの家もなく、駐車場になっていました。
おじいさんが持ってたみかん山も別宅もなく、ただの土地に。。><
14,5年ぶりに来たので、匂いとかすごいなつかしかったですが。

唯一救いだったのが、近所の人が自分のこと(名前まで覚えてくれてた。)を覚えててくれて、いろいろしゃべって帰りました。



帰りはしんどくて阿賀(呉)ー堀江のフェリーで帰ってきました。
このルートが一番楽かもね。