
第三章 怒りの爆発
夕子が朝霧に来て、一ヶ月が過ぎようとしている。。
桜の季節が過ぎ、新緑で山が緑に包まれ、うっとうしい梅雨の季節が近付いて来たが、夕子の病に進展は見られなかった……和久とダイスケに見せる笑顔を他の者に見せる事は無く、驚くほどの従順さだけを残して、時だけが空しく過ぎ去って行く。
何時しか、夕子に関する報道も無くなり、浮き沈みの激しい芸能界で、夕子の存在も忘れ去られようとしていた。
怒りを取り戻す為の糸口さえ見付けられない和久は、小川の側でダイスケと戯れる夕子をじっと見守っている。
温かさを増して来た爽やかな風が、夕子の黒髪を撫でて木々を揺らしていた。
「夕子、武さんの所に行くけど、一緒に行くか?」
ダイスケと遊んでいる夕子に、声を掛けた和久。
「いいよ和さん、ダイちゃんと遊んでいるから……」
珍しく、和久の誘いを夕子が断った。
「そうか、そんなら行って来るわ! 直ぐに帰るからダイと遊んでいてなっ」
「はーい和さん、行ってらっしゃい!」
大きな声で返事をし、和久を見送った夕子は、ダイスケと走り回っている。
昼休みの診療所に着いた和久を、武夫妻が迎えてくれた……台所の椅子に座り、出された茶を一口飲んだ和久は、大きな溜め息を吐いた。
「和さん、どうした? 溜め息など吐いて……それより、夕子君はどうだ?」
和久の悩みを察っした武は、元気付ける様に問い掛ける。
「うん、夕子は元気や! ダイスケと遊んどるよ……だがなぁ武さん、如何したら良いのか見当も付かんのやっ! 如何したら良いのかなぁ……」
ほとほと困り果てた様に問い掛ける和久。
「うん、如何したら良いのかなぁ……」
名案も浮かばずに、考え込んでいる武と和久。
「和さん、夕子さんの身の上なんか聞いた事が有りますか?」
傍らで黙って聞いていた加代が、さり気無く問い掛けて来た。
「いや、聞いた事は無いわ! 今までの事は嫌な思い出として、持っているやろと思っていたから……」
加代の問い掛けに答えながら、少しだけ糸口を見出した様に感じた和久。
「そうか! 加代! 良い所に気が付いた……和さん、其処の所に何か糸口が有るかも知れんぞ!」
少し興奮した様に言った武。
「うん、そうやなっ! そうして見るか! 加代さん、おおきに!」
此れと言った糸口が見えない中で、加代と武の言葉に、僅かな光明を見た和久である……少しの期待を抱いた和久は、診療所を出て朝霧に帰って来た。
河原で遊んでいるダイスケを、笑いながら見ている夕子は、和久が帰って来た事に気付いていない……夕子の背にそっと近付き、驚かせる和久。
「わっ!」
「きゃー……」
驚いて大声を上げた夕子は、和久を見て和久の胸に抱き付いた。
「あっはっはっ、ごめんごめん……驚いたか? 夕子……」
「もう、和さんは! 心臓が止まるかと思った!」
少し膨れっ面を見せた夕子だが、目は優しげに微笑んでいる……そして、河原で遊んでいたダイスケは、夕子の悲鳴を聞いて土手を掛け上がって来た……駆け上がって足に纏わり付いているダイスケを抱き上げる和久。
「夕子、支度をしてキャンプするか?」
和久は夕子の過去が、少しでも解ればと言う思いで誘った。
「うん、何処でするの? 和さん」
「山頂の山小屋やっ! 星が綺麗やでぇ……今日は天気が良いから、綺麗な星空が見えるわ!」
「わー嬉しい! 山小屋で寝るの?」
「そうや、囲炉裏に火を熾して、餅や椎茸を焼いて食べるのや! 美味いでぇ夕子」
「わー良いな良いなっ! 和さん、早く行こう!」
子供の様に喜び、はしゃぐ夕子。
「よっしゃ、行くでぇ……わしは美味しい酒を持って行くのや!」
「わー和さん、私もお酒飲みたい!」
「うん、分かっとるよ夕子! そんなら支度をして来るから、もうちょっとだけダイスケと遊んでいてなっ……」
「はい! ダイちゃん行くよ!」
喜んだ夕子は、嬉しそうにダイスケを連れて山女の所に行き、山女に吠えるダイスケを見て笑っている。
急いでキャンプの支度を整えた和久は、山女の所で遊んでいる夕子とダイスケを呼んだ。
「ダイスケと風呂に行って来いやっ! 風呂から出たら出発や!……夜はまだ冷えるから、厚手の物を持って行く方がええでっ」
夕子とダイスケが家風呂に行くのを見て、和久も家族風呂に行く……先に風呂から出た和久は、囲炉裏の火を消して夕子とダイスケを待っている。
灯が沈むまでには、まだ時間が有る……暫く待っていると、ダイスケと一緒に夕子が風呂から戻って来た……夕子は待っている和久に微笑み、着替えを取りに部屋に行った。
着替えを済ませて、部屋から出て来た夕子……夕子は笑みを浮かべて和久の前に来た。
「和さん、お待たせ!」
和久に挨拶をして、にっこり微笑んだ顔は、人を引き付けて和ませた天才、茜 夕子の笑顔であった……和久は、夕子の笑顔に見入っている。
「和さん、どうかした? 私の顔に何か付いている?」
自分の顔に見入ってる和久を見て、問い掛けた夕子。
夕子の問い掛けに、ふっと我に返った和久。
「あっ、いやっ……あんまり夕子が綺麗やから、見惚れ取ったのや!」
咄嗟に本音を漏らした和久。
夕子は少し頬を赤らめた。
「またまた和さんは!……お世辞を言っても何も出ませんよ!」
照れながらも、微笑みながら言った夕子。
「何や、何も出んのかい!……褒めて損したわ……」
和久は、本音を気取られない様に惚けた。
「もー和さんは、素直じゃないのだから……」
頬を赤らめて、恥ずかしそうに言った夕子……だが、少しの冗談が言える様に成っただけでも、多少は進展しているのかと思う和久である。
「そうやっ! 大好きな夕子に見惚れていたのや!……さあ、ぼちぼち出掛けようか夕子!」
恥らいながらも、茶化した様に本音を漏らした和久……夕子は和久の言葉に頬を赤らめている。
荷物を持って家を出る和久と夕子……ダイスケは一足先に出て山女と遊び、通り過ぎる二人を見て、慌てて追い掛けて来た。