太鼓台文化・研究ノート ~太鼓台文化圏に生きる~

<探求テーマ>①伝統文化・太鼓台の謎を解明すること。②人口減少&超高齢者社会下での太鼓台文化の活用について考えること。

昼提灯・余話(2)

2019年09月18日 | 見学・取材等

◆初めに

今回の投稿は、太鼓台装飾刺繍の分野で先駆的で著名な縫師工房の「松里庵」のサインが、外からは見えない昼提灯の筒内部等に書かれていた前回の昼提灯・余話(1)(明治13年の三豊市山本町・大辻太鼓台の昼提灯)‥に続く投稿となる。今回は前回とは異なり、完成作品の図柄が酷似する徳島県三好市内・2地区の昼提灯及び昼雪洞(ひる-ぼんぼり。昼提灯に同じ)についての発信となる。2地区への何度かの取材行で得られた解明事項を、それらを制作した職人(縫師)たちの想いや人間模様を中心に、今日の太鼓台刺繍発展に繋がるエピソードを探り、発信したいと思う。

昼提灯・余話(1)でも触れているが、豪華な昼提灯は、四国の太鼓台では残念ながら過去のものになってしまった感がある。ただ、地区名などを入れた簡単な刺繍飾りの丸い小形の提灯や、規模的には小さくなるが胴長の簡素な飾り提灯ならば、中讃地域をはじめ広範囲で今も見ることはできる。余話(1)の大辻太鼓台の昼提灯及び今回紹介する大月太鼓台(三好市山城町大月)の昼提灯や、西山太鼓台(三好市池田町西山)の昼雪洞(ひる・ぼんぼり)は、簡素なそれらのものよりも、遥かに豪華な刺繍飾りの昼提灯である。

大月太鼓台の昼提灯

西山太鼓台の昼雪洞

西山と大月太鼓台の昼提灯・昼雪洞比較(2013.7.20~9.1観音寺市「太鼓台文化の歴史展」にて)

◆最初に出会った、大月太鼓台の昼提灯

198510月、徳島県山城町大月・四所神社(新田神社、相殿)の祭礼見学で、初めて四国山間地の太鼓台に出会った。当時の取材ノートを読み返すと「盛んであった時の神社祭礼(大月祭)では、吉野川支流の銅山川の谷筋別に5台の太鼓台が出ていた」と書いている。(脇・瀬貝・柴川、大月、大野・信正、小川谷・茂地、佐連・大谷の地区毎に)その内の神社地元の1台が大月太鼓台として、今も奉納を続け伝統を守っている。

なお大月祭に太鼓台が奉納された始期に関しては、後述する山城町郷土資料室(当時の山城中学校の空き教室が充てられていた)に保管されていた年号入りの保管箱に、江戸末期から明治時代のものがあったことや、大月太鼓台の形態が近年の西讃・東予(宇摩地方)地方のものと同形であること、取材で明らかになった昼提灯の購入先が明治中期の観音寺であったこと等から、少なくとも明治期の早い時期に、讃岐や伊予から受け入れられたものではないかと想像している。

さて大月太鼓台では、蒲団部最上段(8畳目に相当する。この蒲団状の部分は、7畳蒲団の蒲団押えや蒲団蓋として採用され、それが厚みのあるカタチとして発達したものだろうか。現在の西条〝みこし〟には8畳の蒲団を重ねたものがある)に巻きつけて飾る「雲形・古刺繍」が遺されている。その裏側には「安政五年午(1858)」と墨書されていた。また、同地区には「明治十五年午年(1882)蒲団〆并水引入」の保管箱があった。但し、こちらの使用中の蒲団〆と水引幕が、保管箱に書かれた年代に作られたかどうかは確認が取れない。水引幕は相当な年代物と思われ明治15年作成の可能性が大であるが、蒲団〆に関してはそれほどでもないようにも思えた。もしかすると、5地区から出されていた5台の太鼓台のうち、先に示した廃絶した4地区太鼓台から、大月太鼓台への良品転用があったのかも知れない。

そして、今回のテーマである龍が刺繍された昼提灯。こちらも保管箱はあるが、箱自体はかなり新しく、制作年や制作者等は無記入であった。ところが地域の伝承として、余話(1)で述べたように、明治23(1890)16歳で新若入りした方が、「長老に連れられ観音寺まで険しい山越えの道を行き、地域の宝物である昼提灯を貰い受けて帰った」との確かな言い伝えがある。ここでは、大月昼提灯を制作した縫師(職人)についての特定は、他の昼提灯作品と見比べて行なうこととし、「購入年が明治23年、購入先が観音寺」であったことだけを記憶に留めておきたい。

※前述の山城中学校の山城町郷土資料室へは2000年に再び訪れ、各地区で使われなくなった太鼓台部品や装飾刺繍及び保管箱等が一堂に集められていたのを確認している。しかし後年、山城町の太鼓台調査を更に継続したく思い、郷土資料室の所在を含め、太鼓台装飾品や保管箱等の行方を探索したが、残念ながら全ての所在が分からなくなってしまっていた。心残りで仕方がない。

◆図柄酷似のもう一つの昼提灯…西山太鼓台の昼雪洞(ひる・ぼんぼり)

琴平町出身のT・Yさんから、「三好市池田町の池田ダム湖から狭い山道を車で登った西山地区に、太鼓台が存在していた」という情報が届いたのは2011年頃のことであった。西山地区は標高480mと高い位置にあるため、既に過疎化や少子化が進み、2012年からは小学校も休校となっていた。太鼓台も出されなくなって久しいと聞いた。休校の年の9月に、観音寺太鼓台研究グループの28(当日の地元参加者を含めると40名ほどになった)が調査に訪れた際には、太鼓台は、奉納されていた鎌神社の保管倉庫で眠ったままであった。

ところで、東予・西讃地方で高木縫師と共に著名な山下縫師の初代・川人茂太郎縫師(山下茂太郎縫師の旧姓は川人-かわひと-氏)は、ここ「阿波国三好郡箸蔵(はしくら)村大字西山村」の出身であることが、その調査の際、道具箱の墨書により、私たちは初めて知ることとなった。茂太郎縫師は、元服祝いに金毘羅芝居の煌びやかな歌舞伎衣裳を見て、その道の職人を志したと言われている。西山太鼓台の装飾刺繍類は「間違いなく往時には見事であった」と、参加した誰もが認める出来栄えのもので、明治23(1890)から24年にかけて新調されていた。

23年に茂太郎縫師が「裁縫人」の肩書きで「昼雪洞」と「蒲団〆」を、その1年後には、当時既に著名であった松里庵・髙木定七縫師(工房)が「水引幕」と「掛蒲団」を、それぞれ分担して制作している。(しかし、水引幕や掛蒲団の保管箱には定七縫師のサインは書かれて無く、西山地区への納品が、形式的には茂太郎縫師からの単独納品のカタチとなっている)

文久元年(1861)生れの茂太郎縫師は、京都での長い修行の時代を経て、30歳前後の時に故郷・西山村へ太鼓台の新調刺繍を携えて〝錦を飾った〟ものと思われる。ただ合点がいかないのは、茂太郎縫師の故郷の太鼓台を、なぜ松里庵・高木定七縫師と共同で拵えることとなったのだろうか、という点である。地元の強い期待を受け、地元出身の茂太郎縫師が中心となって、終始一貫して拵え納めるのが通常ではなかっただろうか。他の縫師が共同制作する余地は無かったように思うが如何だろうか。その謎解きをしてみたいと思う。

山城町大月太鼓台での昼提灯が、「一体どこから購入されたか」を思い起こしていただきたい。「明治23年当時、観音寺から購入してきた」ことが、客観的なものとして特定できている。また、大月昼提灯は誰によって作られたかについては、他の刺繍作品と見比べることによって特定すると先送りしていたが、双方とも茂太郎縫師が制作した可能性が非常に高いことが、次のような比較検討結果から裏付けられた。

まず大月・西山の双方昼提灯と昼雪洞は、図柄的には全く酷似(同一と言ってよい)していた。また、各刺繍の<龍頭の比較>からも、茂太郎縫師が関わり制作したものであることが導かれた。個別具体的には、①大月昼提灯と、制作者が茂太郎縫師と判明した西山昼雪洞の龍頭比較、②大月昼提灯・龍頭と、同じく茂太郎縫師作の西山・蒲団〆の龍頭比較、或いは③茂太郎縫師を初めとする山下一門の縫師たちの制作した龍頭との比較、そして、④定七縫師が率いる松里庵制作の龍頭との違いなどを比較検討した。

その結果、双方の昼提灯・昼雪洞の制作が、茂太郎縫師であることに疑う余地がなくなった。疑う余地がないため、余話(1)で、古老が大月から貰い受けに行った観音寺には、そこに「茂太郎縫師が居た」と客観的にも言えるのではなかろうか。私は、「西山太鼓台の刺繍飾りの品々は、観音寺で作られた」と判断している。

これは、どういう事情を意味するのだろうか。西山太鼓台の昼雪洞も大月の昼提灯も、制作年は明治23年で同じ。そして西山も大月も、「観音寺」との関連が見え隠れしていた。茂太郎縫師が錦を飾った西山太鼓台新調が、松里庵・髙木家との共同作業であったこと。大月太鼓台では、昼提灯を観音寺まで貰い受けに行っていた。松里庵・髙木家の琴平から観音寺への移転は、役所への正式届は明治35年であった。ただ、大月・昼提灯の「観音寺で購入」の言い伝えから、明治23年の時点では、既に観音寺を主要制作拠点として、工房本体の大部分を琴平から移していたはずである。

◆酷似する昼提灯・昼雪洞は〝兄弟提灯〟

二つの酷似する昼提灯・昼雪洞は、作品同士の比較検討の結果や、制作者が茂太郎縫師であったことから〝兄弟提灯〟といえる作品であった。茂太郎縫師は明治23年の時点で観音寺に居た。髙木家も、その時点で主たる工房を観音寺に移していたものとしてもおかしくはない。私は、定七縫師と茂太郎縫師が、観音寺の松里庵・髙木工房で互いに切磋琢磨していたと考えている。先代の髙木一彦縫師(観音寺での松里庵・三代目)からの聞き取りでは、「昔は腕のある職人が、風呂敷包一つを持ってよく訪ねて来ていた」と話されていた。

京都での修行を終えた茂太郎縫師が、故郷に錦を飾った西山太鼓台。見事な昼雪洞や際立つ立体感を表現した龍・蒲団〆を目の当りにすると、松里庵の縫師たちの伝統的な技法とは一味異なる「立体化や革新的な刺繍表現」を発揮・推進したように思う。茂太郎縫師が西山と大月の昼提灯を制作したとする客観理由に、提灯の筒部分の構造に共通点が見られることも挙げておきたい。それは、祭礼提灯のように、竹ひごで丸みを形作り和紙を貼った構造となっており、余話(1)の松里庵で作られた大辻太鼓台のように、板貼りではなかった。もし仮に、大月の昼提灯を茂太郎縫師ではなく「観音寺で定七縫師が作った」ものだとするならば、十年前の大辻・昼提灯を意識して、板貼りにしたのではないだろうか。

茂太郎縫師と定七縫師の、明治23年の時点における関係について、私は、修行地の京都から四国へ帰ってきた茂太郎縫師が、当時まだ縫師として独立していなかったものと考えている。観音寺に拠点工房を構えていた松里庵・髙木定七縫師の元で、互いが一目を置く存在として、また定七縫師の片腕的存在として、更には良きライバルとしての関係を維持しながら、茂太郎縫師独立前の数年間、定七縫師の元で太鼓台縫師としての工房経営のノウハウを学んでいたものと推測する。西山太鼓台の保管箱にサインされた茂太郎縫師自らの肩書きに、縫師や縫箔師とは書かず「裁縫人」と記したのが、定七縫師に対する一種の遠慮感が働いているのではないかと想像する。

◆定七縫師と茂太郎縫師の〝強い関係性〟

髙木縫師と山下縫師との繋がりの強さを知る他の事象として、同一太鼓台の阿吽の龍蒲団〆の前後と左右を、それぞれが別々に制作している事例があることを、新居浜市のC・Oさんは「古刺繍コレクションへの思い」(2013『太鼓台文化の歴史』所収、96)の中で、珍しい事例として取り上げられている。(豊浜町・雲岡太鼓台の蒲団〆) 掲載された写真を比較すれば、全く同じ下絵が使われていたことが理解できる。この事例などは、太鼓台の新調・流行ラッシュ時の多忙なときに、互いに心を許せる職人同士が、分担して事に当たった強い絆さえ感じられるものではないかと思う。


◆西条にもあった昼提灯…下喜多川みこしのこと

西条市のH・Sさんからも、「西条にも、よく似た昼提灯があった」と、豪華であった下喜多川みこしの写真を添えて、情報提供していただいた。(「西条祭の古写真との比較から」-2013『太鼓台文化の歴史』所収、353645残念ながら現物の昼提灯は既になく、笛を吹きながらみこしに付き従う現在の〝笛吹き少女〟たちの背中の刺繍飾りに、当時の面影を伝えている。


「知りたい…髙木縫師と山下縫師より以前の縫屋・縫師事情…全く不明

髙木定七縫師の完成作品の確実な最初の事跡は、余話(1)の明治13(1880)大辻太鼓台に辿り着く。若干遅く世に出た山下茂太郎縫師は、故郷・西山太鼓台や大月昼提灯の明治23(1890)に辿り着く。西山太鼓台では、互いに信頼し合える縫師として共同にて1台の太鼓台を仕上げている。明治23年頃の時代背景は、西讃・東予各地で太鼓台の新調や導入が大いに進展した時代であった。この頃を境に、この地方の太鼓台の大型化や装飾刺繍の豪華への変化が各地で多く認められている。大月の昼提灯が作られたのは観音寺、それを制作した茂太郎縫師もまた、定七縫師の近くにいたことが確実となった。東予地方への海上交通の便の良い観音寺を拠点にして、松里庵・髙木縫師と、後に独立する山下縫師とが、強力なタッグを組んで北四国の太鼓台文化発展に尽すこととなる。中心となるこの両人の縫師の存在こそが、北四国太鼓台発展の原動力であったと言っても過言ではない。

ただ、残念なことに今に至るまで、彼等(特に定七縫師)以前の縫屋・縫師の状況が全く判明していない。定七・茂太郎縫師以降の縫師たちの活躍状況や太鼓台の発展などについては、比較的に時代が近いこともあり、今後の調査・研究で更に明らかになってくるものと考えている。しかしこの地方の太鼓台の更に古い時代のことを知ろうとするならば、明治初期以前の琴平での縫屋や縫師の状況を究める必要がある。太鼓台文化を探究している私たちにとっては、難しい探究テーマであるが、決して避けて通ることはできない重要事でもある。

◆まとめ(2022.10.26追加)

上記のように中・西讃~東予~西阿(せいあ‥徳島県西部・西阿波の略称)にかけての太鼓台装飾刺繍の発展については、明治中期(23~24年1890頃)に大きな転換期を迎え、髙木・山下両縫師がその先鞭をつけたと言っても過言ではない。両者の存在がなければ、恐らくこの地方の今日の豪華・大型への発展・変化は無かったのではなかろうか。その関係性の結晶が西山太鼓台の存在である。その意味で、現在〝朽ちていくままの西山太鼓台の姿〟をそのまま放置して置くことは、これらの地方の伝統文化・太鼓台にとって極めて大きな損失である。何とかして後世へ伝承していく方策を考え、公的機関等での保存等が出来ないものだろうか。遺していてくれさえすれば、後世の私たちが理解できることが多々ある。巨大で豪華な太鼓台装飾品だけが、この地方の〝宝物・遺産〟では無いはずだ。

そう言う私たちには、明治中期の西山太鼓台以前簡素・小型・素朴であったと思われる太鼓台装飾刺繡についての、更なる探究が求められている。幕末から明治初期の太鼓台装飾事情を客観的に知り、西山太鼓台の刺繍飾りへ至る〝私たちがまだ知らない装飾刺繡の道程〟を明らかにしていかなければならない。その意味でも今回の小論は、「それ以前はどうであったか」を想起させ、更なる探求心を芽生えさせてくれるものとなった。

本稿の末尾に、高木縫師と山下縫師の関係性を考察した「髙木・山下両縫師の時代と太鼓台発展について」を、参考添付した。(元資料名は「初期の太鼓台刺繡工房について」で、「北四国における太鼓台刺繡のターニングポイント」(2013.3観音寺太鼓台研究グループ刊『地歌舞伎衣裳と太鼓台文化』所収)

(終)


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