太鼓台文化・研究ノート ~太鼓台文化圏に生きる~

<探求テーマ>①伝統文化・太鼓台の謎を解明すること。②人口減少&超高齢者社会下での太鼓台文化の活用について考えること。

〝雲板〟について‥考察⑴

2021年06月02日 | 研究

〝雲板〟とは

太鼓台における装飾部材の一つに〝雲板〟と呼ばれる部位がある。この文化圏で最も数多く分布する蒲団型の太鼓台では、重ねられた蒲団部の下に、それはある。通常、雲板は四本柱上端の外側部分に若干張り出すようなカタチをしており、張り出した下側には、豪華な龍や鳳凰などをはじめ様々な瑞祥彫刻等が施されている。また構造上、何段にも積み重ねて重くなった蒲団部全体を支える〝置き台〟としての役割も、雲板にはある。雲板そのもののカタチに注目すると、現在の大方の蒲団型太鼓台では、その真ん中部分に人がよじ登れる四角の開口部があるのが一般的である。このように雲板は、豪華彫刻で装飾していることとと併せ、組立時や運行の際の作業スペースとなる蒲団部への〝登り口〟としての開口部を備えた〝ロの字型〟のカタチとなっている。(以下の写真は、現在を遡り幕末期頃までの、四国における蒲団型太鼓台の〝雲板部分・変遷〟の一例である)

雲板が最も発展した地方の一つとなっている四国側の大型の蒲団型太鼓台。その雲板・発展例として、私たちが身近に見てきた〝現在の豪華なもの~幕末期・明治初期頃にかけて見られていた比較的簡素な雲板〟へと順次時代を遡り、その足跡を振り返ってみた。左から、ⓐ蒲団部と蒲団台(蒲団部下の逆台形彫刻部分。上方ではこの部分への彫刻が顕著に発展している)下の雲板彫刻(観音寺市、1枚) ⓑ土庄町豊島の甲生太鼓台(雲板彫刻部分と目には見えない内側、太鼓胴内の墨書に明治13年と記載、カラー写真化された在りし日の太鼓台=甲生自治会提供、4枚) Ⓒ西条市こどもの国展示中の雲板(制作年不詳、1枚) ⓓ観音寺市大野原町田野々の雲板等(江戸末期~明治のもの、モノクロ3枚) 

上掲の各地の雲板写真からは、現今の豪華な雲板が、幕末期の標準的な〝雲形の彫刻〟だけの雲板から、豪華に発展してきた過程が推測できるのではないかと思う。この振り返りからは、豪華な彫刻で埋め尽くされた現今の雲板も、150年ほど前には、まさしくその名の通り〝雲を彫刻しただけの(雲)板〟であったことが理解されてくる。約150年と言えば、太鼓台の拵え直しの周期では、3~5世代に相当する。その間に、各地の蒲団型太鼓台の雲板彫刻は、雲の彫刻だけが主流であったカタチから、現今の豪華な彫刻に移行したものと推測される。

次に、実際の雲板周辺の構造や部材等について、丸亀市内の蒲団型太鼓台の一連の組立作業から、順を追って確認しておきたい。

   

画像の中ほどの四角の開口部のある枠板が〝雲板〟であり、四方に雲形の彫刻が彫られている。雲板は四本柱先端部分より若干外に出っ張り、その上に枠蒲団の最下段が載り、蒲団部全体を下から支えている。(より豪華となった太鼓台の地方では、蒲団部と雲板との間に、上述した〝蒲団台〟と称する豪華な彫刻飾りを採用している場合もある) 1枚目の四角の枠木は、四本柱の揺らぎを防止する役目の〝平桁〟と思われる。重量と容積を増した蒲団部等を載せるため、四本柱上部間での組物を幾重にも重ね、堅固な構造に組み立てている。

次回では、〝雲形彫刻以前の雲板〟について、その類型を訪ね、理解を深めたいと考えている。さまざまな各地の平天井型太鼓台以降の、主として蒲団型太鼓台における、各地太鼓台の雲板同士の関係性を追ってみたい。その作業の中で、できるだけ〝雲板の発生〟に繋がる事象が出てくるとよいと思う。

(終)


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