太鼓台文化・研究ノート ~太鼓台文化圏に生きる~

<探求テーマ>①伝統文化・太鼓台の謎を解明すること。②人口減少&超高齢者社会下での太鼓台文化の活用について考えること。

蒲団部構造(2)紀伊半島・熊野市の「よいや」

2020年10月03日 | 研究

蒲団部構造を各地の太鼓台に訪ねる今回のシリーズは、普段何気なく見上げてきた太鼓台上部の蒲団部に対し、その構造を今一度見つめ直して、蒲団型太鼓台の奥深さや蒲団部の発展過程を追体験することを目的としている。伊吹島に続く2回目の今回は、三重県熊野市の蒲団型太鼓台「よいや」(担ぐ際の掛声「ヨイヤー」から名付けられている)を訪ねた。

現時点、この太鼓台が伊吹島太鼓台に続く年代確かな古い時代の太鼓台だからと言って、蒲団部の発展度合いが伊吹島よりも発展を遂げているということではない。むしろ伊吹島太鼓台よりも以前に登場したのではないかと想像できるカタチの蒲団型太鼓台なのである。時代が先だから古い簡素なカタチだとか、時代が後だから発展を遂げているというような単純な話ではない。太鼓台や蒲団部の発展度合いは、その太鼓台がどこに存在しているか、太鼓台が競争相手の多い盛んな土地柄かそうでないかによっても、大いに変わってくる。かっての熊野市の場合は、太鼓台供給地の大坂などからかなり遠隔の地にあって、なお且つ近隣には交流や影響をし合う太鼓台が存在していない。そのようなほぼ単独で存在する太鼓台の場合には、伝播してきた当時のカタチを余り変化させることなく、今日まで連綿と受け継がれているように感じる。熊野市の太鼓台「よいや」は、当時としてはかなり豪華な部類であったと推測するが、同時に伝播当時の面影を色濃く残している稀有な太鼓台でもあると思う。

太鼓台は西日本、特に瀬戸内を中心に広まっているが、紀伊半島の海岸部にも日高川周辺(和歌山県御坊市・日高郡)、"梅干し・南高梅"のみなべ町、そして今回紹介する三重県熊野市に伝播している。半島の海岸総延長距離からすると分布地が少ないと感じる。上方と江戸の間を帆走する当時の廻船は、江戸までの日数短縮が求められた航海であったため、海岸近くを航行するのではなく直線的な沖乗りが主であった。そのため、行く先々の湊々で売り買いしながらが主体の瀬戸内に比べ、必然的に上方・江戸航路は寄港地も少なかった。往来する人・物の過多が太鼓台の伝播にも関係しているのではなかろうか。

日高川周辺の比較的濃密な太鼓台分布は、この地方が江戸期の菱垣廻船や樽廻船の船と乗組員の供給地として、太鼓台文化が盛んであった上方とつながっていた関係からであると考えられる。長い航路の途中、故郷への立ち寄りを心待ちにしていた船乗りたちによって、太鼓台が伝えられたと推測する。この地域の太鼓台は「四つ太鼓」と称され、蒲団部を積まない平らな天井を備えた簡素な形状をしている。(「四つ太鼓」の名称由来は、太鼓打ちの子供が4人乗り組むことから。「四つ太鼓」と称しているのは、この日高川河口周辺と、愛媛県南予地方一帯だけ)また、みなべ町・芝崎「ふとん太鼓」は、近代になってのかなり新しい時代の上方からの受け入れと聞く。

日高川周辺と南予各地の「四つ太鼓」

上写真は和歌山県御坊市の「四つ太鼓」で、右はその骨組み。格天井の部分は"障子"と称している。下写真は南予各地の「四つ太鼓」で、左から宇和島市日振島=地元の方からの提供・広見町小倉(おぐら)・柏村=丸みのある屋根を載せている・城辺町深浦2枚=本物の蒲団を重ね積む・最後は保内町雨井=別稿を設け、詳しくはそこで紹介(南予各地は旧市町村名。南予地方の太鼓台天部の格天井は、和歌山県日高川河口域の御坊市・四つ太鼓と同様、〝障子と呼ぶ地方が多い)

熊野市の「よいや」は導入の年代がほぼ明らかとなっている。「奉納屋台(=よいや)改造札」(『神社棟札』=熊野市の神社の棟札を集めた本に記載、熊野市出身川崎市在住、S・K氏資料提供)によると、大正7年(1918)に、それまであった屋台を改造している。それが明治7年(1874)製のもので、明治7年の「よいや」も、それまであった「よいや」を"改造"した屋台とある。このように明治7年以前には既に屋台が存在していた。このことから、熊野市「よいや」の最初の導入は、明治7年より40~50年位前ではないか(文政~天保期頃 1818~1844)と推測する。(更にそれより40~50年位前の導入とするには、各地の太鼓台事情からは少し早いように考えている。文政~天保期が「よいや」の始期ではないかと思う)

それでは、本論の太鼓台「よいや」の蒲団部の構造を眺めてみたい。

①蒲団に見える部分は、藁でかたどった丸太棒状と90度に曲げて作った四隅部分を紐で縛って枠状に拵える。②連結された柔らかい枠それぞれに赤と白の布を巻き付け、2つの蒲団枠に仕立てる。(左から1~2の写真=保存会の作成資料より転載及び3の写真。3番目の写真は蒲団部四隅の角となるため、藁やかんな屑を固く固めて剛性を高めている)③次に、方形の竹籠の開口部を下にして蒲団台に載せ、下から赤枠・白枠の順に籠の周りにはめ込む。3段目の黒色の蒲団は、本物蒲団であり枠型ではない。黒蒲団は竹籠と枠全体に覆い被せるため、出来上がり状態はさも本物の蒲団を積み重ねたようで、全体としては存在感のある大きさとなる。最後は、白帯の蒲団〆を蒲団部全体の真ん中で十字に留めて、蒲団部は完成する。(左から4枚目以降の写真)

竹籠について

太鼓台「よいや」の蒲団部を形作る部材として特に注目しなければならないのは、「竹籠の存在」である。既に総集編の中で奈良市・南北三条太鼓台で見たように、大きな木箱を蒲団部の中央に潜ませ、四方から積み上げられた蒲団枠(主として葦と藁にて形作つた"丸太棒")の型崩れを防いでいたことを、私たちは理解している。実は、これら木箱や竹籠の近似形を採用している太鼓台が、各地には点在している。その内の竹籠を有する代表的な太鼓台としては愛媛県保内町雨井の「四つ太鼓」があるが、雨井については別稿で詳しく紹介している。以下では、それ以外の何か所かの太鼓台を簡潔に紹介したい。

「よいや」と酷似する蒲団部構造(木箱や竹籠)を持つ太鼓台

・愛媛県佐田岬半島・川之浜「四つ太鼓」

木枠は熊野市「よいや」の竹籠と同じような使われ方をしている。輪に作った蒲団は鉢巻のようである。これが鉢巻型蒲団太鼓台の呼称の由来である。鉢巻に拵える以前の蒲団形態は、明石の穂蓼八幡神社の屋台や奈良の南北三条太鼓台のような、丸太棒状のものではなかったかと想像する。真ん中に木箱や竹籠を潜ますことで、出来上がりが格段に安定し体裁もよくなる。

・丹後半島「だんじり」

丹後半島のだんじりは蒲団部がこんもりと盛り上がっているものが多い。此代(このしろ)地区では、細い袋に籾殻を詰め、蒲団台に乗せた木箱の周りを巡らす。袋の両端を糸などで留めたりはせず、片方の端を潜り込まして形を整える。天部が丸く盛り上がっているのは、藁を入れて盛り上げているためである。(左5枚の写真) 最後の写真は平(へい)地区のだんじりであるが、蒲団部の中には、木箱と丸い竹籠を伏せて潜ませている。

・兵庫県新宮町千本「屋台」

蒲団は両端を縫い合わせている。台にしている木箱は使われなくなった先代の木箱で、丸い膨らみの中には、丸い竹籠が収められている。蒲団部の内部には、木箱を台にして丸い竹籠が伏せられている。

・奈良市・南北三条太鼓台

総集編の中で紹介した木箱(木箱というよりも木枠と呼んだ方が適切?)で、この太鼓台では蒲団は四辺バラバラで、まだ鉢巻状にはなっていない。

・姫路市・林田八幡神社絵馬(嘉永元年1848と明治14年1881)

左の写真には平蒲団型の太鼓台が描かれている。本物蒲団を積み重ねたようにも見えるがどうだろうか? 右の写真には、神輿屋根型太鼓台と並んで、天部の真ん中がこんもりと盛り上がった蒲団型の太鼓台が見える。同じ神社の絵馬でも、ほんの30年余で奉納する太鼓台が様変わりしている。播州地方に数多く分布する反り蒲団型太鼓台は、蒲団天部をこんもりと盛り上がらせたカタチから、だんだんと発展したものではないかと推理している。

実は、反り蒲団型太鼓台についても別稿で詳しく見ていくことにしている。明治31年頃の京都府木津川市の小寺御輿太鼓である。ここでは蒲団の外観のみを紹介しておきたい。

(終)


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