太鼓台文化・研究ノート ~太鼓台文化圏に生きる~

<探求テーマ>①伝統文化・太鼓台の謎を解明すること。②人口減少&超高齢者社会下での太鼓台文化の活用について考えること。

積み重ねた蒲団が〝上ほど大きくなる〟カタチを、解き明かしたい。‥蒲団部斜め化の考察

2021年07月31日 | 研究

先祖代々、豪華で大きな蒲団型太鼓台を間近にしてきた文化圏各地の人々からは、〝上ほど大きくなっている蒲団のカタチは、昔からそうであったし、ごく当たり前。殊更、何を好き好んで探求などする必要などがあるのか〟とお叱りを受けそうだが、実は私には、探求する相応の理由がある。このブログでも、各種さまざまな太鼓台を紹介したり、昔の太鼓台の絵画史料などを相当数眺めてきたが、現在でも各地の蒲団型太鼓台の中には、〝同じ大きさの蒲団を積み重ねたカタチ〟がかなりの数存在していて、決して〝上ほど大きくなった蒲団・逆台形状の蒲団・蒲団部の斜め化〟のカタチが、この文化圏における蒲団型太鼓台の、単一の形態や専売特許ではないのである。

このように蒲団型太鼓台の積み重ねられた蒲団には、〝上下が同じ大きさと、上が大きく下が小さいカタチ〟の2形態があるのを、私たちはどう捉えたらよいのだろうか。冒頭に述べた、先人からの言い伝えを額面通りに受け取らず、客観的な太鼓台文化そのものを、史実に基づいて〝真摯に見つめ直す必要がある〟ということなのだと思う。現在に比べると、明治以前には、各地の太鼓台事情を知ることにさまざまな決定的制約があったと考えられることから、文化圏各地の先人たちは、他地方の状況など知るすべもなかった。従って、自地方以外の太鼓台事情を知ることなく、自分たちの体験や知識だけが思考構築の全てであった。そのようなことから、初期の蒲団型太鼓台の〝蒲団部が上下・同サイズ〟から、〝上が大きく下が小さく、逆台形の、斜め化した蒲団部〟へと変化・発展していったのが〝客観的な史実〟ととらえることができなかったのではないだろか。未だ太鼓台が十分に発展していなかった時代には、〝同じ大きさの蒲団を複数畳積み重ねていたのが、ごく一般的な姿であった〟というのが、素朴から比較的発展した各地の太鼓台を実見してきた私自身の客観的推論である。同時に、上下が同じサイズから、今日の逆台形状の蒲団のカタチへと変化・移行は、〝決して自然に移行したのではなく、必然的な要因があったからこそ、変化・発展したものである〟と考えている。従って、上にいくほど大きくなっている蒲団部が〝自然の変化・発展ではなかった〟からこそ、その理由について私は、深く掘り下げて納得できる解明を期す必要があると考えた。即ち、①いつ頃 ②主として誰が ③どのような目的の為に ④どこを発祥地として、変化・発展し広まって行ったのだろうか、といった諸点を解明していかなければならない

(1)の絵画史料は、このブログ「〝雲板〟について‥考察⑶‥最終」の末尾・小論で紹介した、蒲団部が現在同様、〝下が狭く、上になるほど幅広となっている〟過去の確実な絵画史料である。約200年以上前の絵師たちによって描かれた各地の蒲団型太鼓台は、既に今日的〝逆台形状〟の姿を、私たちに見せてくれている。しかしながら、〝描かれている太鼓台は、なぜ、逆台形状の蒲団部に変わったのか〟に対する答え(上記の、①いつ頃 ②主として誰が ③どのような目的の為に ④どこを発祥地として、変化・発展して広まって行ったのか等)は、これらの絵画史料からは知ることはできない。それを解くヒントは、現在も各地に流布している簡素で素朴な蒲団型太鼓台の諸事情を理解し、絵画史料等との比較検討を行い、更には各種の蒲団部構造を各地から学び、それらを総合的に結び付けていく作業の中から、或いは絵画史料以外の信頼のおける文献をも援用し、推論を交え、解明してことに潜んでいると考えている。

(1)〝下が狭く、上になるほど幅広となっている〟蒲団が採用されている蒲団型太鼓台

   

絵画史料で確認できる各地の太鼓台を時系列で紹介。(左から、1798寛政10年頃の『摂津名所図会』、1812文化9年頃の小豆島池田祭の「奉納絵馬」、1820文政3年頃の加古川市「神吉八幡神社御神事絵図絵巻」の2台、1827文政10年頃のシーボルトの『日本』に紹介された長崎コッコデショ、1835天保6年頃の『西条祭祭礼絵巻』2012福原敏男著で紹介された西条市のみこし)‥画像が描かれたこれらの時代には、重ねられた蒲団の畳数は今よりも少ないが、太鼓台は、全て〝上になるほど大きくなった蒲団〟となっている。

次に紹介するのも各地の絵画史料に描かれた蒲団型太鼓台であるが、こちらは、蒲団の上下において、ほとんど規模(大きさ・幅・厚み)に差のないカタチに描かれている。これらの史料の中には、確かな制作年代の不明なものも多々あるが、ご了承願いたい。(順不同に紹介)

(2)〝上下の蒲団が、同一の大きさ〟に描かれた蒲団型太鼓台

 

〝上下の大きさが、ほぼ同じ〟に描かれている絵画史料として、左から、嘉永元年1848姫路市の八幡神社絵馬、同じ神社の明治14年1881の絵馬、播磨町の阿閇(あへ)神社の神輿と太鼓台(年代不詳)、宇和島市和霊神社の四つ太鼓(描かれたのは19世紀初め、高畠華宵・画、2016刊『愛媛の祭りと芸能』参照)、安政5年1858の加古川市・上荘神社の絵馬、万延元年1860たつの市富島神社絵馬(蒲団の下に庇がついている。よく見れば、蒲団部もわずかに逆台形状と見えなくもない) 

また絵画史料としてではなく、上下の蒲団の大きさがほぼ同じとして存在している現役の蒲団型太鼓台を、以下に紹介する。これらの太鼓台の始期については、一部を除きほとんどが不明である。

(3)〝上下の蒲団の大きさがほぼ同じ〟の、現役の蒲団型太鼓台

 

左から、愛媛県愛南町深浦〝やぐら〟(本物蒲団型)、三重県熊野市〝よいや〟(鉢巻蒲団型)‥太鼓台の始期は文政~天保期(1818-1844)と推定、愛媛県伊方町川之浜及び三机〝四つ太鼓〟(鉢巻蒲団型)、京都府京丹後市平及び此代〝だんじり〟(鉢巻蒲団型)、熊本県苓北町富岡〝コッコレショ〟(上下の蒲団が同じ大きさの旧と、上が大きくなった現在のカタチ)、徳島県三好市中西〝ちょうさ〟(枠蒲団型。上下の蒲団幅がほとんど同じ=明治時代前期のものと推定)

ここまで、蒲団型太鼓台の蒲団部が〝逆台形状となっているか、そうではない同じ座蒲団状の蒲団を積んでいるか〟について、確実な史料及び現役の蒲団型太鼓台等により眺めてきた。そこからは、以下のことが推測されてくる。

❶遺されている絵画史料から、逆台形状の蒲団型太鼓台は〝18世紀半ば以降に、主として大坂やその近郊で誕生した〟と考えてよい。強いて言えば〝逆台形状・蒲団部の発信地は、大坂〟であった、と考えている。では、大坂の誰が〝太鼓台に蒲団を積み重ねること〟を思いつき、なお且つ〝どのような外的及び内的要因により、斜め蒲団化〟の採用に至ったのか。

❷それまでの簡素な太鼓台に〝蒲団を積み重ねることを思いつき、蒲団型太鼓台を創出した〟のは、大坂の呉服商人たちであったと考えられる。その理由としては、蒲団そのものが大変高価なものであり、大坂の後背地は、綿作の一大産地であったこと。蒲団を世に普及さすことで大きな利潤が期待できるため、各地の神事に蒲団型太鼓台を登場させ、蒲団販売の〝広告宣伝塔的存在〟として利用したことが想像できる。(庶民が高嶺の花の蒲団を、神様が夜間就寝のため用いると考えた。そのためか、夜になると蒲団を下す太鼓台は、各地でかなりの数見ることができる)

❸斜め蒲団化に至った要因については、高利潤が得られる太鼓台の〝大型化・華美・堅牢化〟が、急速に進んだことと深い関連があると考えられる。蒲団型太鼓台は、当初は本物蒲団を積み重ねる型であったが、やがて容易に積み重ねられる枠蒲団型に変化・発展していく。この枠蒲団型に変化したことにより、蒲団型太鼓台は更に美しく堅牢なものとなり、大型化も推進される。(本物蒲団から枠蒲団型に変わっても、呉服商人たちの販売戦略は変わることなく、むしろ装飾面での豪華さ<彫刻・刺繍>に重点を移し、更に高額で豪華・堅牢な太鼓台の販路を各地に広げて行ったものと思われる)

❹斜め蒲団化のサンプルは、どのようなアイデアを元に得られたか。〝神様が就寝用に用いる蒲団は、折り畳んだ時にきれいな方形である〟と当初は考えていたと思われるが、蒲団型太鼓台が変化・発展していく中で本物蒲団型から鉢巻蒲団型へと発展し、太鼓台はそれなりに華美となって各地の祭礼供奉に従っていた。しかし、太鼓台の購入は高額である。文化圏の人々は、購入額に見合うだけの満足を欲したのだと思う。売り・買い双方からは、何か、太鼓台に〝箔〟を付けることができないかと考えたものと思う。この〝箔をつけること〟が、売り手側の呉服商人たちのアイデアの発揮どころであり、買い手側である文化圏の人々が欲した非の打ちどころのない〝箔〟捜しが行われたものと思う。

蒲団型太鼓台の蒲団部の原型ではないかと推理している伊勢神宮・外宮(豊受大神宮)の秘紋〝刺車錦御被(さしぐるまにしきのみふすま)〟の〝箱輿(はここし)〟。(1970光琳社・刊『日本の文様2 車』から複写・引用)

❺村々には伊勢講があり、籤引きで参詣する〝代参〟も盛んに行われていた。江戸期には、御師の存在もあってか、伊勢信仰の影響力は絶大であった。お伊勢さん(伊勢神宮)の神宝を調べ、そこから外宮(豊受大神宮)の〝刺車錦御被〟に施されている〝箱輿〟と呼ばれる神紋を探し当てたものと考える。刺車錦御被は神様が就寝する際に用いる上蒲団のようなものである。呉服商人たちが箱輿にたどり着くことは、彼らの有する専門知識や情報ネットワークを駆使すれば、案外容易であったのではないかと推測する。御被は、言わば〝上蒲団・大蒲団〟である。そこに蒲団型太鼓台の蒲団部に酷似する箱輿がある。その箱輿をチャッカリ使わせていただくことで、〝お伊勢さんと同等に、太鼓台に箔をつけることができた〟のだと思う。(因みに箱輿の中身は神様への神饌が入っているらしく、蒲団を積み重ねたものではない) また、箱輿は上が大きく下が小さいカタチとなっているが、それまでの蒲団型太鼓台(上下が同じ大きさの蒲団を積み重ねたカタチ)が、この箱輿と無関係であるとは言えない。太鼓台側は、神様の就寝用として積まれた蒲団であり、影響力を与えたと推理される外宮の神宝も、御被(上蒲団に比定)であるから、双方とも蒲団がらみである以上、各地の蒲団型太鼓台は、外宮の刺車錦御被の箱輿から大いに影響を受けていると考えてよい。

❻太鼓台伝播地に多い、船乗りや漁師など、海に生きる人々からの視点も考えてみたい。先学の伊勢神宮研究からは、「太一=北極星=天照大神=内宮」、「太一の乗る車=北斗七星=豊受大神=外宮」と比定されている。闇夜に微動だにしない北極星は、真北を指し示す星として、海の民からは大変に崇められている。北極星を周回する北斗七星は、その位置を容易に知るための目安となる星である。この関係を、太鼓台伝播地の村々の祭礼にあてはめて考えると、「氏神=北極星=内宮に通じる」、「太鼓台=北斗七星=外宮に通じる」の図式が浮かび上がってくる。〝板子一枚、下は地獄〟の海の民にとっては、それまでの民間信仰の北極星や北斗七星を通して、知らずの内に伊勢神宮の〝お蔭を頂いていることになる。高い教養を有した村役人たちであれば、伊勢神宮とつながることによって「氏神に箔がつく太鼓台導入」を、他村と競争してでもやりたかったものと思う。

❼外宮の秘紋・刺車錦御被に施されている箱輿は、七段重ね(に見える)で、〝上の箱ほど幅広〟となっていて、やがてこのスタイルが蒲団型太鼓台・蒲団部の主流となって行ったことともつながってくる。蒲団部が三畳から五畳へ、そして七畳へと変化・発展していったことに関しては、箱輿からの直接的影響もかなり大きかったのではなかろうか。

以上のように、ⓐ蒲団型太鼓台の蒲団部には〝同じ大きさの蒲団を重ねているか、逆台形状となっているか〟の二形態があること。ⓑ同じ蒲団を積み重ねた方が、逆台形状よりも時代的には古いこと。Ⓒその変化は、〝自然な変化・発展ではなかった〟こと。ⓓその要因を深掘りした結果、伊勢信仰(外宮の刺車錦御被の箱輿)にたどり着いたこと。その結果、蒲団型太鼓台の流布には、ⓔこの上ないお伊勢さんがらみの〝箔を付ける〟ことができたこと。ⓕ蒲団型太鼓台の販売・流布に際しては、大阪・呉服商人(売り手)側は、文化圏の人々(買い手)に対し、伊勢信仰との関係性を訴求することで、強力に販路を広げて行ったものと想像する。絶大な影響力のあった伊勢信仰と、新興の伝統文化・蒲団型太鼓台とを〝結びつける〟ことで、その後の蒲団型太鼓台は順調な発展を繰り返し、今日の隆盛があるのだと思う。(各地太鼓台の音頭に〝伊勢音頭〟が広く用いられているのも、当時の流行だけではなく、伊勢信仰が深く関係していたものと想像する)

※積み重ねられた逆台形状の蒲団部は、〝①いつ頃 ②主として誰が ③どのような目的の為に ④どこを発祥地として、変化・発展して広まって行ったのか〟に関する解明点は、以上で概ね達成されたのではないかと思う。ただ、逆台形状の蒲団部以前のカタチとしては、同じ大きさの蒲団を積み重ねたカタチであったので、「蒲団型太鼓台の蒲団部誕生」について考察を加えないと、蒲団型太鼓台の誕生から発展に至る客観的理解を得ることは難しいのではないかと思う。この「蒲団型太鼓台の蒲団部誕生」については、別途の機会に改めて解明に取り組みたいと思う。下図は、各種太鼓台の〝発展想定図〟(参考)

※参考資料/「太鼓台文化の共通理解を深める-蒲団構造に関する一考察」(2015観音寺太鼓台研究グループ刊『地歌舞伎衣裳と太鼓台文化』72~107㌻)

 

(終)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする