『スポーツの杜 100年後の君達へ』というスポーツコラムで、スポーツライターの藤井利香氏が執筆されている
箕島高校野球部 尾藤元監督さんの記事を目にして、先日、池田高校野球部 蔦元監督さんの映画を観て
感じた事と通ずるものが多くあり、記事の末尾に「この記事が気に入ったらシェアして下さい」と
メッセージがあったのでご紹介したいなと思います。
箕島高校の戦歴や、尾藤監督さんの凄さは多くは語らなくても高校野球をよく知る方々はご存知だと思いますが、
記事を拝見して、蔦監督さんの映画を観て感じた「名将」と言われる監督さんの野球や選手に対する奥深い想いが
ハッ!とするくらい共通されておられて、こういう監督さんと出逢えた選手たちは一生の宝を得たのだろうなと感じました。
尾藤監督さんと言えば「スマイル」
そのスマイルは選手の一言から生まれたもの。
日々グラウンドで子供たちと正面からぶつかり合い挑む中で、自分が教えたではなく、
子供たちに教えられたと尾藤監督さんは仰る。
「笑顔は信頼を生む。そして笑顔は努力を支えてくれる。私の指導の支柱になりました」と。
試合の中で選手たちの言葉行動に教えられ、選手と一緒に勝って流した涙に言葉は要らない。
「こんないい試合をありがとう。同時に、この子たちと気持ちが通じたな、心が通い合ったな」
「本当に全てを出し切った時。やりきった時。言葉などいらない」
こういう尾藤監督さんの選手へかけるお気持ちが選手を成長させるのだと。
ありのままの自分を見せることで選手との信頼関係を生み
ご自分の信念を貫く野球をするということは、蔦監督さんの野球に対しての信念「続けること」と通ずる部分を感じました。
初めてご自分が野球に出会われた時の純粋なお気持ちのまま、ご指導をされておられたのだろうと・・・
そして、指導者としての引き際まで、キーワード「ノックが打てなくなった時・・・」も共通している。
1度にビールケースを空けてしまうくらいお酒が大好きだった蔦監督さんのように、
尾藤監督さんもお酒がお好きだったか?は知るよしもないが・・・。
5章からなるコラムで少し長いですが、読み終えた時には、先日私が蔦監督さんの映画を観終わって感じたように
きっと「心満たされる」お気持ちになって戴けるように思います。
良ければ、ぜひ最後までご覧下さいね。
箕島高校 尾藤公監督 1 ~甲子園で選手の能力を100%出す秘訣~
田舎の公立高校をトップレベルに引き上げて、春夏連覇を含む、四度の全国優勝。
記憶に刻み込まれる数々の名勝負と
あの尾藤スマイルを懐かしむファンはいまだ多い。
日々のグラウンドには、自分の全てをさらけ出し
子どもと常に正面からぶつかり合う、挑みがあった。
” 教えたではなく、教えられた ”
高校野球の名将は、そう言ってはばからない。
尾藤監督は昭和17年、地元和歌山県生まれ。高校は、後に監督になる箕島高校(和歌山県)その後近畿大学に進む。
現役時代のポジションはキャッチャー。
昭和41年より箕島の監督となり平成7年8月の退任まで甲子園出場14回。
春3回。夏1回の全国優勝を果たす。
春22勝5敗。夏13勝5敗という輝かしい戦績。
高校野球ファンなら誰でも知っている球史に残る名監督である。
JR紀勢本線の箕島駅。
小さな駅舎の待合には、両手を高々と上げて選手に胴上げされる尾藤監督のモノクロ写真が飾られていた。
もう何年も前の事なのに、往年の高校野球ファンにとっては永遠に色あせることのない懐かしき姿である。
だが尾藤監督は、かつての功績は「すべて選手のしたこと」と他人事のように口にして
過去へのこだわりを見事なくらい感じさせない。
尾藤スマイルが誕生した理由
甲子園大会の公式ガイドブックに「甲子園の思い出」と題したインタビュー記事が掲載され、
テレビ解説や講演活動があったりと、甲子園出場14回、通算成績35勝10敗という輝かしい成績を残した名将の周辺は、
勇退後も賑やかさを失わない。
日本高野連の常任理事(技術振興委員)を務めていた関係から、現役の指導者を前にして経験談を語る機会も多い。
その取っ掛かりの話題になるのが「尾藤スマイル」だ。
それは2度目の甲子園だった昭和45年春、選手のさりげないひと言がきっかけだった。
「内野手でやたら緊張する生徒がいましてね。エラーするやろうと思っていたら、本当にやった。
あと3つはやるなと笑ったら、周りの子どもがね、そんな風に監督がニコニコしていてくれたらリラックスして力が出せる。
そう言うんですわ。選手におだてられたんですわ」
この出来事がセンバツ初優勝を呼び込んで、さらには春夏連覇を含む4度の全国優勝を導き出した。
「笑顔は信頼を生む。そして笑顔は努力を支えてくれる。私の指導の支柱になりました。」
甲子園という大舞台で選手の持つポテンシャルを100%発揮させたのは尾藤監督の笑顔だったのだ。
箕島高校 尾藤公監督 2 ~星稜との死闘と涙のミーティング~
甲子園通算35勝という輝かしい戦績を残した尾藤監督。
なかでも我々の脳裏から焼きついて離れないのが星稜高校(石川県)との延長18回の死闘だろう。
今回は、この星稜戦のエピソードに焦点をあててみたい。
昭和54年、第61回夏の甲子園大会。対星稜(石川県)戦は延長18回の死闘は、いまだもって高い話題性を誇る一戦だ。
「田舎のチーム同士の、人間味あふれる試合だったからでしょうね。」と尾藤監督が振り返るように、
一つひとつのプレーにドラマがあった。
試合は箕島・石井毅(元西武)と、星稜・堅田外司昭投手の、淡々と、しかし力強い投げ合いで進み、
1-1の投手戦のまま延長戦へともつれ込む。
試合が動いたのは12回の攻防だ。
主将の上野山善久(二塁手)は前日に40度近い熱を出すアクシデントに見舞われ、
鼻血を出しながら辛抱のプレーを続けていたものの、この回、ついにタイムリーエラーを犯してしまう。
1-2と星稜リードとなって、12回裏の箕島の攻撃も2アウトランナーなし。
ここで次打者は嶋田宗彦(捕手・元阪神)だったが、入りかけた打席からベンチに戻り、尾藤監督に一言、名文句を言う。
「ホームラン、狙ってもいいですか!?」
「監督である私自身が、この時点で負けを覚悟していた。それが以心伝心、
ベンチ全体が暗くなっていることに嶋田が気づき、喝を入れてくれたのです。
彼の気迫に圧倒された感もありましたが、ハッっと我に返って、
よーし!狙ったれ!!と言いました。恥ずかしながら、子どもに教えられました。」
そのとおり、嶋田は見事にレフトラッキーゾーンにホームランを放って試合を再び振り出しに戻す。
日が落ちて球場全体をカクテル光線が照らす中、14回に今度は箕島がサヨナラのチャンスを迎える。
ところが、サードランナーの森川康弘(中堅手)が予期せぬ隠し玉にあってチャンスは一瞬にして消えてしまうのだった。
そして16回、再び星稜が勝ち越して2-3。
12回同様、箕島の攻撃もあと一人になる。打席に入ったのは、先に隠し球にあった森川。
汚名返上とばかりに初球から思い切って振っていったバットも、一塁フェンス際へのファウルフライとなって、万事休す。
が、星稜の一塁手・加藤直樹が、なんと転んでそのボールを捕り損ねるのである。
なぜ転んだかについては、不運にも照明が目に入ったことと、足元の芝生の境目、
ないしは、微妙にくぼんだ穴に足を取られたためなどと言われているが、
いずれにしても捕れば試合終了となったはずのボールは無情にもグラウンドに転がり落ちた。
命拾いをした森川は、そのあとの4球目に、再びの奇跡を呼び込む左中間スタンドへの同点ホームランを放つ。
当時まだ2年生。それまで公式戦はあろか、練習試合でも1本もホームランを打ったことがなかった選手の神がかり的な一発だった。
こうして息詰まる攻防の決着は、引き分け再試合となる寸前の18回裏、箕島1死一、二塁から
上野敬三(遊撃手・元巨人)が左中間ヒットを放ち、劇的なサヨナラで幕を閉じる。
試合時間3時間50分。終了のサイレンが鳴ったのは、まもなく午後8時という時刻だった。
『涙のミーティング』
「懐かしいですね。自分が監督としてこのような試合にかかわることが出来たことに、心から感謝しています。
でも試合は押されっぱなしで、やっている時は胸が押しつぶされそうな、めちゃくちゃ苦しい思いをしました。
春優勝したといっても決して力のあるチームではなかったので、連覇など一切口にせず、
子どもたちも勝ちにこだわるというよりは負けて早く帰りたいと平気で言うような連中でしてね。
それが終わってみれば、宝物のような試合になって・・・・。
宿舎に戻ったあとのミーティングがまた思い出です。
座敷で選手が正座をして待っていて、円陣を組んだその真ん中に私が座りました。
いつもの習慣で、右手から一人ひとりの顔を見回していくのですが、どの子も涙を浮かべ、
ポロポロと頬を伝わせている子もいる。
何かを喋らなくてはと思ったものの、最後のひとりを見終わったとき、自分も涙が止まらなくなってしまい、
しばらくはお互い見つめ合いながら泣いていました。」
勝って流した涙です。
持っている全てを出し切って戦いが終わったという満足感。
「こんないい試合をありがとう。同時に、この子たちと気持ちが通じたな、
心が通い合ったなと、そんな充実感をも味わうことができました」
この一戦は、後に ” 神様がつくった試合 ” ” 最高試合 ” などと形容され、今なお語り続かれている。
本当に全てを出し切った時。やりきった時。言葉などいらない。
お互いの涙で連帯感が生まれ、子どもたちは、また成長していったのである。
尾藤監督と共に。
箕島高校 尾藤公監督 3 ~思い出の試合と信念~
試合では笑顔でリラックスさせ、選手の持つポテンシャルを100%発揮させるよう導いていく。
そして、伝説となった延長18回の星稜(石川)戦では、試合後のミーティングで選手と言葉ではなく、
涙でコミュニケーションをとった尾藤監督。
喜怒哀楽をあえて出し、ありのままの自分をさらけ出すことで選手の信頼を勝ち取る。
尾藤監督によれば、星稜戦ともうひと試合、忘れられない試合があるという。
星稜との激闘に勝ち、順当に勝ち星を重ねて迎えた決勝戦。
浪商(大阪)との戦いである。
浪商といえばエース・牛島和彦(中日~ロッテ)と、ドカベンこと香川伸行(南海~ダイエー)のバッテリー。
逆転逆転のシーソーゲームの末に、箕島が8-7で勝利している。
勝負を決めた8回の攻防で、サイクルヒットがかかっていた主砲の北野敏文(一塁手)が
バッターボックスに入り、ドカベン香川に向かって「勝負せい!」とけしかけた。
浪商ベンチのサインは敬遠であったが、牛島・香川のバッテリーは勝負に出た。
お互いに逃げない―――。
試合後、「力と力でぶつかり合った、すがすがしいゲームだった」と、尾藤監督は振り返る。
(北野選手は史上初のサイクル安打を達成した)
箕島ベンチに顔を向け、尾藤監督に向かってにっこり笑った香川の姿に
愛されるべき豊かな人間性を感じ、それも印象に残ると言っていた。
白熱の試合を制した箕島はセンバツ優勝を遂げ、続く夏も制して春夏連覇を果たした。
「春夏連覇は考えもしなかったので感慨深いことです。でも本当に感激したのでは、やはり初出場の時ですよ。
一番最初に甲子園の舞台に立てた時の、言葉にならないほどの感激は忘れられません」
『名門・平安高校との練習試合に奔走』
初出場、昭和43年センバツでいきなりのベスト4入りを果たしたのだが、その原動力となったのが東尾修(西武)だ。
実は東尾投手ら3人の選手は、当初平安(京都)に行く予定だった。
なんとか地元でやって欲しいと説得し、それから箕島の歴史が変わることになった。
ある時選手たちに「どこと練習試合がしたい?」と聞いたところ、「平安」と答えが返って来た。
「よっしゃ! 任せろ!」と言ったのはいいが、当時の箕島は全くの無名校。
予想どおり、電話ではまったく相手にしてくれない。
そこで尾藤監督が直接学校まで出向いたのだが、監督も部長も会うことすらしてくれなかった。
どうしようかと頭を抱えていたところ、野球部とは全く関係ない先生が「夜、この店に行けば部長に会えるかも知れませんよ」
と教えてくれた。
尾藤監督はそこへ行き、やっと生徒たちの願いである「平安高校戦」を現実のものにできたのだった。
「でも来たのは、2軍のチームでしたけどね」
悔しさを心の奥にしまい込み、それから無我夢中でノックバットを振り続けた尾藤監督。
駆け出しの初々しい指導者の頭の中にあったのは、
名門高校といわれるチームの2倍、3倍の練習量をこなさなければ勝てない。この信念だけだった。
甲子園での笑顔とは裏腹に、グラウンドは「戦いの場」をとことん実践した指導者でもあった。
寝食を忘れて信念を貫けば、夢はいつか実現となる。
箕島高校 尾藤公監督 4 ~ 明確なビジョンと分析~
尾藤監督は、全くの無名校から全国区の強豪校に上り詰めていった。
そこには「強い信念」があった。
名門校に負けない練習量。考え方は単純だった。
尾藤監督には、こんなチームにしたいという明確なビジョンがあった。
■広島商業のような「緻密で堅実な野球」
■松山商業・徳島商業・高知商業・高松商業の「力強い野球」
■大阪の代表校のような「抜け目のない〝がめつい〟野球」
この3つをミックスすれば、絶対にいいチームができると信じていた。
練習方法は、あくまでノック中心。
ハンパな数ではない。
ただひたすらノックを打ち、選手は必死にボールを追っていた。
尾藤監督は、金属バットでノックをしていた。
当時ノックは木のバットでするのが普通であった。
だが監督は、「選手は金属で打つのにノックだけ木製というのはおかしい。
ノックも金属で打って打球に慣れるべきだ」と考えていた。
ちなみに伝説の試合相手・星稜の山下監督は木のノックバットを特注で作らせていた。
マイ・ノックバットである。
山下監督のノックも右へ左へ流れるようなノックで芸術的と言われたが、
尾藤監督も負けてはいない。
ライト線、レフト戦ギリギリなど、狙いを定めて確実にそこへ選手を走らせた。
試合でありうる、ありとあらゆる打球を打てて初めて本物のノッカーとなる。
ノックの時点で、箕島VS星稜の戦いは始まっていたのかもしれない。
『尾藤監督のユニークな選手の分析方法』
これはのちによく知られる話となったが、
箕島が黄金期のチームを、尾藤監督が分析。
すると、親の生き様が子ども達にも現れていることがわかった。
投手の石井毅(西武)の家は、みかん農家。
1年間、細やかなことに気を配りながら、辛抱強く作物を育てていく。
それがピッチングにもよく現れていたという。
捕手の嶋田宗彦(阪神)は漁師の家。「板子一枚下は地獄」ということわざもあるように、
命がけの仕事である。船を出すべきか否か瞬時の判断も、必要となる。
嶋田選手にはその判断の素早さに長けていて、行動も漁師そのもの、豪快だった。
副将でサードコーチャーの中本康幸は、性格がど真面目だったとか。
毎日の練習方法などをノートいっぱいに書いてきて、ボールをいくつ紛失したかまで報告してくる。
「ノートをみなあかん、こっちの身にもなってほしいわな」と、
当時の様子を振り返りながら、尾藤監督が大笑いしていた。
その中本選手は、3年間で1回しか打席に入っていない。守備についたことも1度もないが
サードコーチャーという自分の持ち場を黙々とやっていた。
試合には出なかったが副将として立派に職務をまっとうした。
いろいろな選手が、あのチームをつくりあげた。
明確なビジョンを持ち、詳細な分析をする事で目的は成し遂げられる。
箕島高校 尾藤公監督 5 ~和歌山県の高校野球で強豪校に育てた男~
試合中に笑顔を絶やさず選手の能力を100%引き出し
甲子園35勝をあげた、まさに名将。
生徒達への教育方針が少しずつ変わっていく。
そして監督を引退の時がやってくる。
尾藤監督が29年間の監督生活を振り返ったとき、指導方法や感じ方について
大きく前半と後半に分けられるという。
前半の選手は、漁師町である土地柄そのままに奔放でたくましい選手が多かった。
しかし、後半に入ると子ども達の気質は一変した。
「前半の指導では、太鼓でいうならば、弱く叩けば弱く響く。そして、強く叩けばドーンと響く。
ところが後半は、弱く叩く分には大丈夫だったが、強く叩くと太鼓が破けてしまうのです。
これにはとても驚きました」
「前半では、選手に対して求めるものがメチャクチャ多かった。有無をも言わさず、全員ここまでやるんだぞ。と。
だが後半では、できないことは求めない。そのかわり、持てる力を出し切って欲しい。そんなふうに変わりました」
春夏連覇の後、尾藤監督はベンチ入りのメンバーを選手たちに決めさせてきた。
どうしても最後の2~3人が選べずに悩んでいた末に
当時の都立東大和高校・佐藤道輔監督(夏の都大会で2度準優勝)に学んだ手法だ。
あるとき、いつものように選手に投票させたところ、ボーダーラインの選手が自分の名前を書かずに出した。
「書けばベンチ入りできるかもしれないのに、書かんのです。
その子は、自分のことを殺してでもチームのことを最優先で考えた。
私はずっと言っていたんです。自信を持て。主張していいんだ。
優しさも必要だが、強さも同じくらいなければならない。
半分ずついるんだぞと繰り返し話をしてきましたが、嬉しいような悲しいような複雑な思いだったのを覚えています」
複雑さを好まないストレートな人柄は、どんな選手にも最後まで自分をさらけ出し、体当たりで指導した。
自分が思ったことを格好つけずに表現し、怒るときには怒り、笑うときにはとことん笑う。
「野球だけがすべてではないんだ。いろいろなことに興味を持て」
それが口癖で、流行りの歌やマンガの話、恋愛の話などざっくばらんに選手と会話した。
尾藤監督は、泣くときは選手以上に泣いた。
年とともにその機会は増え、毎夏の終わりには監督の専売特許のようになっていた。
3年生を前に一人ひとりねぎらいの声をかけながら、こらえようと必死にしている選手をよけい泣かせてしまうこともしばしばだった。
時には自分も一緒に終わってしまいたいと思うほどの虚脱感に襲われ、それに負けそうになったことは数え切れない。
『引退の理由はノックができなくなったから』
そんな彼らを前にして、「鬼の尾藤がホトケの尾藤」になっていく。
そして、まだまだこれからというとき、一人引退を決めた。
理由は明快だ。
「ノックが満足にできなくなったから」
選手と一緒に汗を流し、ノックを通じて心のやり取りをし、一緒に喜びや悔しさを分かち合ってきた。
選手とともに歩むことのできる監督でありたいと思っていたので、それができなくなったらきっぱり辞めるしかない。
潔い決断だった。
――もし、もう一度ユニフォームを着て指導するなら。
尾藤監督に尋ねると、甲子園で見せたあの尾藤スマイルそのままに、こうひと言返ってきた。
「当時と変わらず、すべてをさらけ出しながらの指導。そのことに、なんら変わりはないでしょうね」
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藤井 利香氏
東京都生まれ。日本大学卒。
高校時代は(弱小)ソフトボール部の主将・投手・4番として活躍。
大学では、体育会ラグビー部の紅一点マネージャー。
関東大学リーグ戦グループ・学生連盟の役員としても活動。
卒業後は商社に勤務するも、スポーツとのかかわりが捨てがたく、ラグビー月刊誌の編集に転職。
5年の勤務のあと、フリーライターとして独立。高校野球を皮切りに、プロ野球、ラグビー、バレーボールなどのスポーツ取材を長く行う。
現在は、スポーツのほかに人物インタビューを得意とし、また以前から興味のあった福祉関係の取材等も行っている。
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・・・尾藤監督さんも凄くて素敵な監督さんですよね。
蔦監督さんが凄くて素敵なように・・・。