原作:戸塚たくす・作画:阿久井真による「ゼクレアトル~神マンガ戦記」の最新第2巻が発売になりました
*掲載されている 裏サンデー については以前の記事にて

フィクションの作中において、我々読者や作者のいる現実世界の意識や感覚をわざと認識させる展開をメタ要素と呼びますが、この「ゼクレアトル」は内容の根幹からメタ要素なくしては成立し得ないという異色作です
いきなり ”自分がマンガの主人公である” 事実を知らされた主人公が、序盤のお気楽な学園コメディ展開から、自分だけでなく社会や世界の存在意義までをも考えさせられるスケール感のギャップが途轍も無く魅力的なマンガです
一般的に、作中にメタ要素を登場させる場合は楽屋オチ的な一発ギャグ扱いである事が多いんですが、それというのもどのような作品でも ”作品世界” という、読者を楽しませる為に構築した世界を作者が壊したくないからです
”お約束” と言い換えてもいいかもしれませんが、作者の想像の産物でしかない ”嘘” をエンターテインメントとして成立させるにはマンガならマンガの、映画なら映画の作法や文法みたいなモノがあって、読者や観客に作品世界を楽しんで貰うためにはなるべく余計な事は考えさせずに ”没頭させる” 事に主眼が置かれます……演出によって興味を引く展開を連続させて、読者や観客にラストまで ”時の経つのを忘れさせる”事に成功すれば、それが作品にとっての成功とほぼ同義と見做す事が出来るでしょう
なので読者や観客の ”作品世界への集中力を削ぐ” 事に直結するメタ要素は、ギャグやコメディでなければなるべく忌避したい(もしくは隠喩や暗喩にして隠す)と考えるのが常識的な考えです
が、そうした一般的なエンターテインメント作品とは一線を画し、作品として成立させる一方で、鑑賞中に常に現実世界との対比や思考を求めるタイプの作品も一部には存在します
ドキュメンタリーなんかに近いカンジですが、作中でずっと読者や観客に問いを投げかけ続ける事で別の意味での ”集中力”(受動的ではなくて能動的な没頭)を要求するパターンですね……物語には付き物のご都合主義なんかを許さないタイプの作品になりがちなので、エンターテインメント作品として成立させるのが見る側にも作る側にも非常に難易度が高いと思われます

「ゼクレアトル」もそんな難易度の高い展開に敢えて挑み続けてるが故に、”挑戦を応援したい” という記事をオレも書いたわけですが、あれから4ヶ月が経過して裏サンでの連載は第4巻の序盤辺りまでが掲載されています
イロイロと大人の都合(汗)で ”全話無料掲載” は終了してしまっているんですが、これを機に現在公開されてる第5話までを読んだ方は、是非とも(未公開分収録の)第2巻を購入して、最新話(第13話)まで追いついて欲しいんですよねえ……4ヶ月前も書きましたが、メタ要素を最大限活かしてる構成上、リアルタイムで連載を読む行為そのものにこのマンガの面白さの核心が詰まってると思うんです
未読の人にはちょっと伝わりにくいんですが、何が凄いかって ”読者” をも作品の一部に取り込んじゃってるんですよこのマンガ(゜д゜;)
裏サンにはリアルタイムで読者コメントやランキングが反映されるシステムがあるんですが、ここでその回の反響を読者間で共有させる事で感じさせる ”一体感” がまずあって、
”作中作の「主人公カン太」の打ち切り=「ゼクレアトル」の打ち切り”
という図式を暗に示す事で、裏サンの他作品とはまるで違う意味合いをシステムに持たせてるんですね
そして多分に哲学的な考え方になって来ますが、「ゼクレアトル」は作中の ”主人公のいる世界” と ”もう一人の主人公であるゼクレアトルのいる仙界” の両方を見せる事で、我々読者に対しても現実世界よりも更に高位の次元の存在を意識させるように誘導する構造になっています……つまり、作中のメタ要素の描写によって集中力が途切れたと思わされても、実はそう思ってること自体が作品世界への集中をより補完してる事実に他ならない~という仕組みに読者が気づいた時からが、このマンガの面白さの本当の始まりです(マンガを読み慣れてる人ならばほとんど無意識でしょうが)
作品と読者の距離感を限りなくゼロに近づけようとしてるんじゃないかというのはオレの私見ですが、WEBマンガというメディアだけでなくて、ツイッターやらニコ生やらブロマガやらで情報を過度に発信し続けてる原作者の姿を見るにつけても確信は深まる一方です
マンガの最終的な生殺与奪の権利は果たして作者にあるのか、出版社(出資者)にあるのか、読者(消費者)にあるのか、それとも……人によって答えは違うでしょうが、この作品のまだ見ぬ着地点でおそらくは見せられるその答えを見届ける為にもオレは応援し続けるつもりです