坐花酔月 徒然日記

 「花咲く処に腰を下ろし 月を眺めて酒を楽しむ」 この一年、どんな年になるのか。

清海上人からモリ供養まで

2017-08-20 21:10:14 | 古文書、郷土史他

古文書「温故の会」の例会。
今回は小池氏による「清海上人ゆかりの地を訪ねて」という講義でした。
小池氏の地元にある2つの「湯殿山碑(供養塔)」。五十川俣の碑は鉄門(海)上人、東目口の碑は清海(上人)とあり、清海について調べた講義でした。
清海が、カミさんの実家のある集落出身だったということに驚き、俄然興味がわいた。
今度ゆくときは、気を付けて見入ることにしようと改めて感じた。なかなか素晴らしい内容でした。


そして講義は、「モリ供養」の話まで広がった。
ちょうど本日、菩提寺で森供養の法要が行われている。
その案内文を参考までに載せます。

森供養について
 皆さんは、亡くなった方の「お骨」を、骨箱とは別に「歯骨箱」が用意され、他の骨とは別に葉を分けて入れられているのを見たことはないでしょうか。見たことがある方は庄内のお葬式に参列されたことがある方です。通常、お骨は全て一緒に入れます。「歯骨箱」として分けるのは庄内だけなのです。(ちなみに骨箱も通常ではお墓が合祀では無いため骨壷になります) それは庄内の習俗である「森供養」に関連しているからです。
 現在、庄内地方各地でモリ供養は行われれているようですが、古来からの形態で行われている「モリ供養」は鶴岡市の清水の森や庄内町三ケ沢の森であり、鶴岡市清水の三森山を「西の森」、庄内町三ケ沢白狐山の森の山を「東の森」といわれています。庄内では「歯骨箱」をモリ供養の際に森山に収めるという風習があります。
 「森供養」は、2000年12月に国の「記録作成等の措置を講ずべき無形の民俗文化財」に指定されました。庄内地方に伝わる送り盆の独特の習俗です。庄内地方では盆で送られた霊や、未だ清まらない霊は「森」と呼ばれる里山などに一定期間とどまり、そこで供養され、やがては月山や鳥海山などさらに高い山々に行き昇天するといわれています。「お盆」が終わった数日前の8月20日頃から、人々が「森」に花や供物などを持って訪れ、有縁無縁の死者の供養を行うことを「森供養」、「森詣り」といいます。私達子孫が「森詣り」することで先祖や亡くなった人たちの徳を積むこととなり、あの世で更に良いところに行けるために行う古来からの習俗です。
 「モリ供養」は一説には1000年以上も前から行われてきたとされます。この行事が仏教伝来以前から存在していたのではないかという見方がなされています。つまり古の時代、この庄内に暮らす人に育まれてきた死生観が「森供養」を生んだとされます。
 「モリ」は小高い丘や山中で行うもの「森供養」、平地で行うものを「モリ供養」または「亡利供養」と表記するという説もあり、一方では「亡霊」がなまって「モリ」になったという説もあります。(諸説あります)
 ちなみに泉流院では「森供養」となります。昭和55年以前、二才山(標高112m)にて森供養をしていたためです。大山町内の五ヶ寺(泉流寺・慶雲寺・耕田院・祐性院・宝昌寺)で行っていました。しかし、山頂付近で山崩れが起こって危険な状態になったため、それ以降は各寺院で行われるようになりました。檀家さんの中には森供養で、二才山参道に並び施餓鬼供養のため参詣人達から米・お菓子などの施しを受ける「やっこ」を子どもの頃にしたことがある方もいるのではないでしょうか。二才山で森供養をはじめた由来として伝えられているのが、明治15年と同19年の夏に庄内全域にわたり、コレラが大流行し、その時大山で亡くなった人たちを供養するために、はじめたともいわれています。旧地にあった萬霊塔と地蔵様が、現在は泉流院本堂前にあります。皆様是非、森供養に参列し、一緒にご先祖様をお祈りしましょう。
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