食の歴史 by 新谷隆史ー人類史を作った食の革命

脳と食を愛する生物学者の新谷隆史です。本ブログでは人類史の礎となった様々な食の革命について考察していきます。

東インド会社の誕生-イギリス・オランダの躍進(3)

2021-06-22 22:58:07 | 第四章 近世の食の革命
東インド会社の誕生-イギリス・オランダの躍進(3)
東インド会社」は中学の歴史の授業でも習う重要な項目です。世界史の年表では必ず出てくるようです。

東インド会社は言葉の響き自体は覚えやすいのですが、私は「東インド」で作られた「会社」って何だろうと疑問に思いながら、授業をしっかり聞いていなかったのもあって、十分に理解しないまま大人になりました。

実際、東インド会社はヨーロッパの各国に設立され、国によって内容や歴史も異なるし、時代とともにその様相も変化することから、一まとめにして説明するのは難しいものです。

そこで今回は、17世紀の初めに設立されたイギリスとオランダの東インド会社の誕生の様子を見て行きたいと思います。なお、話を分かりやすくするために、東インド会社が設立される前のポルトガルによる東インドでの貿易から話を始めます。

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1497年7月にポルトガルのリスボンを出港したヴァスコ・ダ・ガマの艦隊は喜望峰を越えて、翌年の5月にインド西部のカリカットの港に到着した。


ヴァスコ・ダ・ガマ

ポルトガル人にとっては初めてのインドだったが、現地の人々にとって外国人は珍しくなかった。と言うのも、インド洋は古くから異なる民族同士が入り混じって商取引を行う交易の海だったからだ。そこでは誰でも航海可能であり、港も金さえ払えば誰でも利用できるという取り決めがあった。そして各地の支配者は商取引に税をかけることで収入を得ていた。

しかし、ガマたちは商人ではなかったため取引できる荷も少なく、現地のルールも知らなかったため人々から不審に思われたらしい。一方のガマたちも敵対していたイスラム教徒の姿を見て、彼らのせいで交渉がうまく進まないと思い込んだという。

やがてガマたちが決まり通りの商取引を行わないことにしびれを切らした役人が、ガマの乗組員を拘束した。それに対してガマも人質を取って対抗し、乗組員を奪還すると追いかけてくる船を銃や大砲で撃退しながら何とかポルトガルに帰還した。

しかし、ガマが持ち帰った香辛料が莫大な富を生み出したため、ポルトガルはインドとの貿易を継続することにする。ガマが持ち帰った情報から、インド洋では銃や大砲などの火砲が威力を発揮することは明らかだった。そこでポルトガルは、武力を用いてインド洋の交易を支配することに決めた。特に香辛料貿易についてはポルトガルによる独占を目指した。

最初の頃はポルトガルの想定通りに物事は進んだ。ポルトガル船はインド洋沿岸の主要な港を攻撃し、1515年頃までに次々と支配下に置いて行ったのだ。港にはポルトガルの要塞が築かれ、ポルトガル人が駐留するようになった。そして、カルタスと呼ばれる船の通行証を発行し、安全を保障する代わりに取引のたびに要塞で税を支払うように命じた。一方、カルタスを持っていない船からは物資をすべて没収したという。

さらにポルトガル人はインドより東に進み、マレー半島を越えて東南アジア方面に進出した。そして、クローブが採れるマルク諸島や、ナツメグが採れるバンダ諸島を見つけた。



また、南シナ海や東シナ海にも船を向け、中国(明)沿岸や琉球王国、日本、朝鮮半島までたどり着いた。ちなみに日本への上陸は、1541年に現在の大分県に漂着したのが最初と言われている。そして1543年に種子島へポルトガル商人が漂着し、鉄砲が伝えられた。

さて、ここで「東インド」について説明しておこう。大航海時代の東インドとは、喜望峰を回って東に進んだところにある海岸地帯全体のことを指していた。このため、東アフリカも東インドに入るし、インド洋沿岸はもちろん、中国も日本もアメリカ大陸の西海岸も東インドとみなされていた。

一方、西インドとは、ヨーロッパから西に向かったときに出会う大陸であるアメリカ大陸の東海岸のすべてのことを指す。南北アメリカにはさまれたカリブ海の群島を「西インド諸島(West Indies)」と呼ぶのはこのためだ。
話をポルトガルのインド洋支配に戻そう。

ポルトガルは大きな国ではない。このため、インド洋を支配するために大量の船や人を送り込むことは難しい。また、要塞を維持するための資材もポルトガル本国から送るしかない。その結果、ポルトガルのインド洋支配に穴が生まれたのだ。つまり、ポルトガルの監視の目を逃れて香辛料がヨーロッパに運ばれるルートが出現したのである。

それは、ペルシア湾や紅海の港から陸路を通ってオスマン帝国に入り、そこからさらに地中海に至る経路だ。こうして16世紀半ばになると、ポルトガルが船で運んできた香辛料も、陸路を通って地中海に入ってきた香辛料も値段は変わらなくなったという。

1581年にはイングランドがオスマン帝国と貿易を行う「レヴァント会社」を設立し、香辛料などを購入する一方で、自国の毛織物を販売することで利益を上げるようになった。このレヴァント会社がのちの「イギリス東インド会社」の前身となる。

一方のオランダ(ネーデルラント)は、スペインから独立するために長く戦っていた。オランダは貿易で栄えていたが、カトリック国のスペインと敵対したことから、ポルトガルが運んでくる香辛料の取引には参加できなくなった。そこで彼らが考えたことが、「自分たちでインドに行ってみよう」だった。こうして1595年4月に4隻の船がオランダのアムステルダムを出港した。

苦難の末、翌年の夏にオランダ人たちはインドネシアのジャワ島に到達した。そこで香辛料などを購入し、オランダには1597年8月に帰還する。乗組員は約三分の一まで減っていたが、この航海によって東インドとの貿易が可能であることが実証されたのである。

その後は船団が次々とオランダを出発し、東インドから香辛料などを持ち帰った。このような動きに対してポルトガルは何もできなかった。1580年にスペインに併合されたポルトガルには、オランダをはねのける力は無かったのである。

このようなオランダの成功を見て、イギリスのレヴァント会社の幹部たちは自分たちも東インドに船を送ることにした。やり方としては、新しい会社を設立し、一回の航海のたびに出資者を募って、集めた金で船と乗組員や物資を準備して航海を行い、持ち帰った物品を売って得た利益を出資額に応じて分配するものだった。この新しい会社が「イギリス東インド会社」である。

東インド会社は、1601年に東インドとの貿易を独占する特許をエリザベス1世から交付された。そして同じ年の3月に、4隻の船が東インドに向けて旅立った。船団は東南アジアで香辛料を手に入れ、1603年9月に無事に帰国した。これを皮切りに、イギリスも東インドとの貿易を本格化させたのである。

一方、先んじていたオランダには一つの悩みがあった。オランダでは複数の会社がそれぞれ独自に船団を東インドに派遣して貿易を行っており、会社同士の競争が激しくなっていたのだ。このまま競争を続けると共倒れになる可能性があったため、政府が主導して1つの会社にまとめ上げた。これが「オランダ東インド会社」だ。

1602年に設立されたオランダ東インド会社には、政府から特権が与えられた。すなわち、東インドとの独占的な貿易を行う権利に加えて、オランダの名のもとに要塞を建設する権利、総督を任命する権利、軍隊を組織する権利、そして現地の政府と条約を結ぶ権利である。

オランダには武力でもってポルトガルを追い出し、自分たちの海洋帝国を作る野望があった。それを任されたのがオランダ東インド会社だったのだ。  (つづく)


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